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例えば、世界からメガネがなくなったら



赤ちゃんは自分の視界から見えなくなったものを「なくなったもの」と認識するらしい。
Instagramで、母親になった友人たちの投稿が出てくるようになった。「いないいないー」と画面越しに小さな命に声をかけ、きゃっきゃと笑う姿が、光景が愛おしい。
制服を着て同じ場所で学んでいたことが、当たり前だけどぐっと遠くなったように感じて、私は、いや皆も歳を取ったなぁと思う。

寒さが徐々に厚みを増し、ポケットから手を出しにくくなった気がする。寒さは毎年訪れるというのに、どうして人間の身体というのは寒かったことを忘れちゃうんだろう。毎度訪れる気温の差に適応するのに、少し時間がかかって、それに少し体力を使う。

最近ずっと、何かが苦しい。何が苦しいかって言葉にしにくいんだけど。

今年、大学を卒業して、社会人になった。福利厚生も、給料もそこそこに良い地元の大手企業に入った。人生に正しさなどはないと心得ているけれど、例えばいろんな女性の顔を平均化したら一般的な「美しい顔」が出てくるのと同じような感覚で、一般的に「正しい道」を選んだつもりだった。親戚も、周りの人も喜んだ。それが良いと口々に私に笑いかけた。

例えばInstagramで垣間見える「そうでない人たち」の道をちらりと覗いては、「私は正しかったのだ、少なくとも私の人生においては」と小さくつぶやく。

いつも通りYouTubeを開いて、流れてくるNIKEのCMを観た。端的に良いCMだと思った。広告っていうのは、伝えたいメッセージをそのままぶつけるものではなくて、ある一定抽象化して、わかりやすくした形で伝えるものだ。"You Can't Stop Us." "あなたは私を止めることはできない"
サッカーユニフォームを着た子どもたちが次々と真っ向から相手を抜いていく。同時に、彼らの前に立ち塞がっていた「何か」をするりと抜けていく。誰も彼らを止めることはできない。

良いCMだなと思ってYouTubeを閉じて、Twitterを開いた。トップニュースで光る文字
『ナイキジャパンCMが賛否』さっき見た広告のことだった。

「もうNIKEは買わない」「終わってる」「優良思想団体」「偏見してるのはNIKE」「印象操作」
そういう言葉がNIKEのツイートに長く長く連なっていて、あぁみんなはそう思うんだって思った。私はいいと思ったけどな。私の意見って間違っていただろうか、Twitterで「NIKEのCM、よかった」と呟こうと思ったけど辞めておこうかな。

いや、でもなぁ。
みんなって誰だろう。
正しいって何だろう。

正しさとはひどく難しいもので、立場を変えれば正しさは真っ当になるから、一概に「これは○、これは×」なんて出来ない。Twitterに連なる意見を落とし込む人たちの、おそらく全てではないけれど、それでもある一定の人たちは彼らなりの心情や「正しさ」を持っているのだと思う。

正しさは揺れ動く。正しさなんて結局のところ誰にもわからない。だから、平均化される。
その世界のあらゆる人たちの事例を重ねて、そうして生まれた顔が美しく感じるように、あらゆる人たちの事例を重ねて、そうして生まれた道が平凡だけど良い道に見えるように。
世界が平均化されて、そうして出てきたものを「正しい」と人はみなす。
それと異なったものを垣間見て、心のどこかで自分はそれよりも平均に近いことに安心して、異なったものを追い出そうとする。
それが正しいのだと、固く信じて。


正しい人間なんて、正しさなんて、ほんとうはひとつもないのだ。
そんなことはみんな、心のどこかでわかっている。
でも平均化された世界に飲み込まれてしまってからは、そうでないものがいやに煩わしく感じる。ちょうど一面丁寧に青く塗り重ねられたキャンバスの隅にちょっとだけ赤い絵の具がついていたら、それも塗りつぶしてしまいなさいと、人は言うだろう。

そうして塗り重ねてしまえば、見えなくなる。見えなくなったら無くなったと同じだと思うから、安心する。美しいと思う。ちょうどいないいないばぁをする赤子のように。

「日本人を悪者にするな」
「こんな事実はない」
塗り重ねられた青色の下に赤色が実は隠れていることを、知っているのに、知らないふりをしようとする。それも一つの正しさだから。

揺れる電車の中、いま、こうして会社に向かうのは、私にとって「正しい」ことなんだろうか。いや正しいんだろうな、少なくとも世界にとっては。

でも、今の私にとっては、
それがたまらなく苦しい。



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