寅  薬  師  序論

 半世紀近く昔の話である。13才で埼玉西部の小都市に引っ越してきた。見知らぬ土地のガイドブックとして父が買ってきたのが『東武東上線各駅停車』だった。中学生の私には新たに郷土となった土地についての格好の手引書となった。駅ごとに、その地の歴史や伝説、風土など記されているのであるが、近接する鶴ヶ島駅で紹介された「寅薬師」に気を惹かれた。
 その里では寅薬師のお祭りになると奇抜な人形を薬師に供えるというのである。村の人々が、5つの班ごとに腕を揮って人形をこしらえ出来栄えを競い合う、という習わしなのだそうだ。12年に一度、寅年の行事であり、鶴ヶ島駅のページには本の出版年の直近の、1974年の写真が載せられている。ルバング島から帰還した小野田少尉がカメにまたがる人形の写真である。
 この伝統行事は寅年生まれの少年の心を強く捉えた。「寅薬師を知りたい」との衝動に駆られる。とは言え、土地勘もなく古老に知り合いも持たぬ中学生の身、思いは募れど手の施しようもない。次の寅年は13歳の少年にとっては未来永劫の果てに思える。徐々に思いは薄れ、やがて自分が年男になっても訪ねてみることはしなかった。いや長じて、鶴ヶ島駅近くに住む職場の年配の同僚に尋ねたことはあったが、聞いたことないよ、とあしらわれた。実は本文中に、「天沼新田にある寅薬師」という記述があったにもかかわらず、他所から移り住んだばかりの中学生にはその地名に目を止めることができなかったのである。ただ“鶴ヶ島駅”近くのこととしか意識していなかった。けれどこの駅は市の境界線に位置しており、敷地はむしろ川越市により多く属し、天沼という地名も川越市であり、だから鶴ヶ島市側に住む同僚も知らなかったのかもしれない。
 2010年、前回の寅年。天沼新田の集落を貫く道を通りかかったところ、集会所に白木の眩しい真新しい回向柱が立てられ、大勢の人々が集っている。当時絶好調だった石川遼選手や大河ドラマにちなんだ坂本龍馬の人形がある。おお、これか!中武蔵七十二薬師御開帳、と知る。親しくしてもらっている鶴ヶ島の善能寺へも回ってみたところ、こちらの薬師堂にも回向柱が立っている。そうなのか、一帯のお薬師様で一斉に御開帳をしているのか。一番札所が坂戸の龍福寺、訪ねてみると盛大な春の祭礼の華やかさ、戸口の囃子連が景気よく鉦太鼓、おや陽気に篠笛を吹いているのは懇意のMさんではないか。お薬師様のお堂へ行けば、あら「中武蔵七十二薬師御開帳」のガイドブックがあるぞ。買い求めてみる。
 …なるほど。これは大変だ。12年に一度、4月の限られた一週間で4市4町に点在する72カ寺を巡るという過酷なトライアルなのだ。
 よし、2022。目指してみよう。


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