大菩薩峠紀行 2

 『角川日本地名大辞典』には大菩薩峠の位置が次のように説明されている。「塩山市と北都留郡小菅村の境をなす標高1,897mの鞍部。笛吹川の支流日川の源流をなす。北西2kmに大菩薩嶺(2,056m)がそびえ、南は2,000m内外の金沢山系から滝子山(1,590m)に続く。」現在の国道411号線が多摩川の源流部に沿って高度を上げているのとは違い、かつての甲州裏街道—青梅街道は丹波山村の山深い険しい登路であった。武蔵側からこの道をたどり、最も高い地点が大菩薩峠であり、これを越えると甲府盆地に到るのである。
 小説の冒頭、峠で残忍な剣を振るった魔物のような人物を机龍之助という。武州沢井の机道場の若先生という設定である。青梅市郷土博物館の資料には、「明治43年(1910)、介山は旧御岳村の清水家に逗留し、そこから遠望できる、多摩川を挟んだ対岸の旧沢井村上分名主家福田家を机龍之助の机道場に見立てている。」とあり、あわせて御嶽駅付近を遠望する写真も載せている。沢井とはいうものの、現在の青梅市御岳本町のその地には今も旧家が残る。多摩川に架かる橋が、旧家からは見下ろせる。今は御岳橋であるが江戸時代には萬年橋という名だったらしい。机道場に押し入った盗賊が逃げて行った橋である。
 さて、龍之助は近々、甲源一刀流師範の宇津木文之丞と御嶽神社での奉納試合を行うことになった。したがって、御嶽神社も物語の重要な舞台である。ケーブルカーの御岳山駅からは、舗装された参道がうねうねと続く。やがて宿坊の密集する御師集落へと入っていく。浅田次郎氏ゆかりの宿坊もある。急な上り坂を踏ん張り登って行くと、みやげ物店を抜けた、石段と鳥居の手前に広場がある。こここそ奉納剣道大会が今も開催されている広場である。つまり龍之助が文之丞を木刀で殴り果たした現場でもあるが、令和の剣道大会はきっと明るく安全に実施されていることだろう。
 鳥居をくぐり石段を登るとすぐに朱塗りの随神門である。そのかたわらに「小説 大菩薩峠記念碑」がある。碑文に曰く「ここ武州御嶽は名作発祥の地として永遠に国民の魂と共にあり」、白井喬二撰文、正宗得三郎書とある、60年前より古い碑であろう。隣に「開平三知流奉納額再興之碑」があるのだが、この「開平三知流奉納額」というのを中里介山が御嶽神社で見たことから「大菩薩峠」が着想された、とのことであった。小説での名乗りに、机龍之助相馬宗芳、あるいは宇津木文之丞藤原光次とそれぞれ称すのだが、いや面白い、碑に刻まれた数多の剣士の中にそっくりの名がいくつもあるのである。
 ところで、龍之助と文之丞の手合わせを前に、実は文之丞の妻、お浜が龍之助を訪ねている。奉納試合で手心を、との頼みであった。そんなお浜をなんと龍之助は手籠めにしてしまう。それがためにお浜は文之丞に離縁される。奉納試合の後の様子を小説から引用したい。
「随身門を入って、霧の御坂を登り、右の小径を行くと奥の宮七代の滝へ出る道標があります。」
 そう、随神門の近くに「霧の御坂」という石標があった、ここがそれか。
「立ち止まって見るとドードーと七代の滝の音が聞ゆる。」
随神門から七代の滝へ下る道はそれは過酷な径である、膝が崩壊したかとも思うような谷底への径で、だから龍之助やお浜が涼し気に七代の滝あたりに登場することに共感しがたいが、健脚な人々なのだろうと納得することにする。文之丞の弟子たちが龍之助を討ちに来ると告げたお浜は、一緒に「逃げましょう」と龍之助にすがるのであった。
 御岳山の南麓にロックガーデン岩石園という、清流に沿った風光明媚な一帯がある。四季折々美しい景観とマイナスイオン、フィトンチッドの豊富な溪谷である。その最上部に位置する綾広の滝近く、「お浜の桂」と名付けられた巨木が屹立する。見上げるに首の痛くなるような見事な霊力を感じさせる桂である。お浜の霊魂が宿っているのかもしれない。

参考・企画展 小説『大菩薩峠』甲源一刀流の巻にみる青梅の情景
                                                                                  2006年青梅市郷土博物館

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