里 歩 記  竹内啓のこと

 以前からとても気になる場所があった、栃木に。おそらく写真を見たのであろう。山の中腹に清水の舞台さながら懸崖造りのお堂があり、そのふもとに美しい水をたたえた池が広がる。いつか行ってみたいと思っていた。名を出流原という。
 栃木の地図を広げドライブルートを考えてみた。どう行こうか。県西部をざっと眺めまわしていたところ、とある文字に目が留まった。出流山。おや、自分が探しているのはここかな。いや違う、出流原は佐野市。出流山は栃木市。名は似ていても別の場所だ。けれどこれも何かの縁であろう、そちら方面に出かけるならついでにはしごするのも悪くない。
 ちょっと調べてみようか、ほう、坂東三十三所霊場、十七番札所出流観音か。ん? 出流山事件? 幕末~明治初期に起きた騒動のひとつだな、筑波山事件は水戸天狗党、加波山事件は自由民権運動だったはずだか、さて出流山事件は?
 さらに調べて、ここで私は仰天をした。とても近しくよく知っていたつもりの名前に思いがけず出会ったのである。竹内啓、たけのうちひらく、と読む。広くは知られていないであろう。私が十代後半を過ごした土地から出た、幕末に生きた尊王志士なのである。竹内村(現坂戸市)の名主にして医者であり国学者でもあった。武力による討幕を果たしたい薩摩藩の招請に応じ、同志を率い兵を挙げたが、志を果たせずして幕府方に捕えられ斬首された人である。
 …という人があったことを中学生の頃に知り、身近にも“草莽の志士”がいたのかと奮い立ち、さらにその一族の人々が今も市内で医業を生業としていることに時の流れの連続性を感じ、「竹内啓」という名を我が心に刻んだのであった。非業の死を遂げたという松戸へ、墓所を訪ねて出かけたこともある。しかし何より重要な、挙兵の地を失念していた。そうか出流山か、これは何としても行かずばなるまい。
 出流山満願寺への道を進むにつれ、周囲の風景が何となく白っ茶けた粉っぽい印象に変わっていく。大きなトラックがしきりに行き来する。そうか、葛生の背後に広がるこの山々は、我が国有数の石灰石の一大産地なのだった。東武佐野線自体がそもそも石灰石搬出のために敷設された鉄道で、渡良瀬川から舟運にて帝都東京へ送られていたという。葛生の奥へも貨物専用鉄道が幾筋も敷かれていたそうな。石灰石の採掘に伴って動物、人骨等化石の出土も多く、「葛生原人」なる“昭和の記憶”も懐かしい。
 満願寺門前には、蕎麦を振舞う店が軒を連ねる。参拝の善男善女が数多く訪れてきたのであろう。こんなに山深い土地まで古より信仰の歩みが引きも切らずに続いていることが想われる。
 ここ満願寺に竹内啓らが決起したのが慶応3年11月29日朝のことだったという。本堂の前に三旒の旗を掲げ一同整列し、誓文、さらに檄文が朗々と読み上げられた。今に残る堂々とした山門、対峙する一対の金剛力士像、薬師堂、本堂、これらの伽藍諸堂はみな、尊王志士たちの姿を見つめていたに違いない。時利あらずして、逸早い幕府方の捕り方からの攻撃に、太平山、岩船山方面へ本拠を移そうとするが、間断のない銃での攻撃に志士たちはやがて四散し敗れ去ることとなる。捕縛されたものの多くは、佐野を流れる秋山川の天明河原で斬首されたという。隊長竹内啓は中田宿(古河市)で幕吏の包囲強襲を受け捕縛され江戸へ護送される途中、松戸で処刑された。
 出流山満願寺に詣でその地の空気を吸い、漠然としか知らないでいた竹内啓の戦いの跡を見、150余年前当時の世相に思いを馳せた栃木であった。
 
 今回のドライブのそもそものきっかけとなった、出流原弁天池、ここはあまりに美しいところであった。豊かな湧水のなかを悠々と泳ぐ見事な鯉たちの姿が、あたかも宙空に舞っているかの如く思われた。ここはおすすめ。
 
参考 長谷川伸『相楽総三とその同志』

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