東武東上線 各駅停車 5 坂 戸

 池袋~田面沢間で開通した東武東上線が、坂戸町まで延伸したのは1916年のことであった。軽便鉄道として運用されていた川越町~田面沢間は本線に格上げされ、かつ田面沢駅は廃止、新たに入間川を越えた地点に的場(現在の霞ヶ関)駅が開業した。川越町から坂戸町まで9.1kmの新線である。
 東上線はそもそも川越児玉往還に沿って計画されていた、と以前書いた。児玉往還、現在ではあまり用いられない名称ではあるが、その道筋をたどることはできる。川越市の市役所前から西へ、札ノ辻、進路を北西に変え石原町から寺山、すなわち県道256号片柳川越線がそれにあたる。坂戸市北部、島田地内からは北へ、越辺川を越え高坂へと向かう。さらにその先、葛袋、石橋、唐子、菅谷と続いていく道である。現在の東上線とは、高坂と菅谷(現在の武蔵嵐山)とで交差するが、微妙にずれている。そう、坂戸も東松山もこの往還には含まれないのだ。
 地図上では一目瞭然であるが、児玉往還経由のルートは実に直線的だ。それに比べて現在の東上線はくねくねと蛇行している。坂戸にて進路を北へ、東松山では西へとそれぞれ直角に近いカーブを描く。上福岡同様、坂戸に鉄道を招致する力学が働いたのであろうか。坂戸市教育委員会の刊行物で探ってみよう。
 坂戸市史編纂委員のひとり、松本正治氏が1979年に次のように語っている。
 「川越から塚越、石井、島田を通り東松山へ通すのが順路だという意見も       ありまして、そちらの方に七、八割方傾いたのですが、当時の先覚者である林毎三郎さんが東武鉄道に顔が利き、その人たちが大変だとばかりに運動して現在の坂戸駅敷地と、駅から大島屋まで行く駅前道路を寄付したわけです。」*1
この林毎三郎(つねさぶろう)という人であるが、明治元年生まれの進取の気性に富む人物であったという。
 「後年、坂戸の鉄道大臣と称されたほど鉄道開設に情熱を燃やし、東上線を坂戸まで延長させるため奔走し(坂戸駅設置は大正五年一〇月二七日。その二年前の大正三年五月には川越市駅まで開通していた)、そのため東武鉄道の根津嘉一郎社長⦅万延元(一八六〇)-昭和一五(一九四〇)⦆とも知己になったという。」*2
 やはりそうなのだ。鉄道が敷かれ駅ができて、そうしてその土地の歴史が進んでいく。そういった物語がここにもあったのだ。
 松本氏の回想に「駅前道路」とあるのは、現在も「サンロード」という商店街になっている。ご多分に漏れずだいぶシャッターが目立つようにもなってしまったが、かつて「坂戸銀座」と称していたころからの老舗もいくつも営業を続け、庶民的な雰囲気が漂う。「大島屋」は今はなくなってしまったが、商店街の終点に面して建つ割烹だった。そこを南北に通るのがいわゆる日光裏街道で、八王子の千人同心が日光勤番に通った道だった。ここから北へ、坂戸小学校のあたりまでが坂戸の宿だったが現在その面影を見つけるのは難しい。坂戸小学校前に道しるべが残り「左日光道 右よしミみち」と読み取ることができる。
 駅から近い名所と言えば永源寺であろうか。坂戸の宿の中ほどを東へ折れた住宅地に位置する禅宗寺院で、「坂戸のお釈迦さま」と呼ばれる花まつりは大いに賑わう。「萬治高尾」の伝承にちなみ「おいらん道中」なども行われたりもしていた。普段は閑散とした広い境内である。旗本島田氏一族や萬治高尾の墓所など、いにしえに思いをはせながら散策するのもよかろう。

     *1 坂戸市史調査資料第4号 坂戸風土記 昭和54年12月1日発行
     *2 -郷土の人びと- 坂戸人物誌(第一集)  昭和55年3月31日発行
      ともに坂戸市教育委員会刊


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?