玉川上水を歩く 3

 半世紀余りも昔の、小学4年生だった筆者の旧玉川上水路遡上探検は、それは刺激的なものであった。幡ヶ谷から代田橋への2km、八幡山までの7km余の歩みが、かけがえのない体験としていまだに心に残っているのである。そして当然さらに探求は続けられたのであった。そう、下村湖人『次郎物語』を手にしたのはそれより後だったろうか、作中に「筑後川上流探検」というエピソードが登場する。それは「無計画の計画」とされる主人公たちの冒険であり、筆者の実践はその足元にも及ばぬ些細なものでしかないが、子ども心に壮大な目的に向かう気概に似た興奮を抱いていた。
 ところが不思議なもので、3回目以降の探検については意外と印象が薄まっている。筆者たちは最終的には羽村の堰までたどりついたのであったが、その途中の景色については記憶がおぼろなのだ。より遠くまでいきたい、距離をかせぎたい、そんな気持ちが強まっていったせいなのか、歩きながらの風景などへの感動がいささか希薄なのだ。本稿を続けられるほどの記憶はないのだが、たまたま、当時書いたものが保存されてあったので、今回はそれを引用したい。
 第3回目の玉川上水探検は小学5年生に進級した4月○日であった。
 「一組のN山君とN原君と、玉川上水を歩いてみた。朝8時半、幡ヶ谷駅裏の二字橋を出発した。しばらく歩いたら、わきのほうにおはかのような物があった。みんながドンドン川とよんでいる笹塚のあたりを通りぬけ、代田橋の近くに来たのは9時40分ごろだった。桜上水の水道タンクの大きいのには感心した。よく、あんな大きな物が作れたと。玉川上水にふたをし、その上に公園が出来ていたのでそこを歩いて行った。もうはらがへった、などとN原君は言っていたが、環八に出たのは11時40分だった。この近くでベントウを食べ、また歩き出した。ベントウを食べてから1時間ほどで三鷹市にはいった。そして三鷹駅についたのは3時半だった。すこし歩き境浄水場を見て帰った。僕はこういう探検が大好きだ。」
 高学年時の担任に毎日の日記が課された。日々書かねばならぬことや、その提出はとても億劫だったが、今となってみれば貴重な記録である、担任に感謝である。
 「代田橋」と「環八」に触れているのは、そこが前回までのそれぞれの到達点だったからであろう。環八とはすなわち現在の中の橋交差点であり、旧水路の上を首都高4号線が通っている。当時はその建設工事が行われていたであろう。この日のわずかな記憶は、久我山付近から上流に再び流れが現れたこと、明るい日差しの中のどかな風景に心癒されたこと、徐々に耕作地の面積が増していったこと、などであろうか。とある橋のたもとの、「明星学園」と肉太の字で書かれた縦長の看板が思い出される。三鷹の駅の下を水は流れ、車の行き交うような道を境浄水場まで歩いた。
 しばらく時が流れて翌年1月○日、趣向を変えて下流方面に向かった。5年生の三学期である。
 「一組のN山君とN原君と3人で玉川上水を歩いて新宿の方へ行った。幡ヶ谷駅裏を9時30分出発、11時すぎには目的地、新宿御苑についた。昼食を中で食べたあと、池にはっている氷をとったりわったりして遊んだ。2cmくらいのあつさの氷もあった。また、木の中にはいったりのぼったりもした。帰りに四谷大木戸のところの石碑を見た。楽しかったがふくを相当よごしてしまった。」
 羽村から四谷大木戸までが玉川上水である。だから全流路を踏破するには下流にも足を延ばす必要があった。この日の印象はさらに薄い。当時京王線は、初台駅の西側から地上を走っていたのだが、玉川上水路の跡地が地下トンネルに利用されていることに驚いたことくらいしか憶えていない。新宿駅付近からは旧流路をたどることも覚束ず、この日は単に新宿御苑で遊んだだけだったのだろう。
 さて境浄水場までの8時間、15km弱を歩いた第3回探検であったが、さすがに幡ヶ谷スタートのままでは、その先に大幅に距離をかせぐことはできないであろう、小学生なりにそう考えた。そこで途中まで交通機関を利用しよう、具体的には三鷹駅から歩き出そう、と相談をした。下流踏査も数えて、第5回目の探検は、6年生に進級した4月○日に決行された。
 「第5回玉川上水探検。朝、雨が降っていたので、京王線の始発では行かれなかった。その後雨もあがったため、予定より2時間ほどおくれて出発した。8:30ごろ三鷹駅を出た。ケヤキの大木、境浄水場もすぎてまもなく千川上水についた。暗くて写真はとれなかったが、よく見てきた。今日は、バカに水量が少ないと思ったら、ここで大部分とられていた。しばらく行くと小ワンコロが6ぴき遊んでいた。ここでずいぶん遊んでしまった。そのうち、川の水の色が変なおうど色になった。工事現場で流したものだった。途中でずい分遊んだり休んだりし、また、朝もおそかったので、拝島についたのが4時すぎになってしまった。それでもがんばったが、道にまよって、羽村までいけず、牛浜どまりとなってしまった。」
 くやしそうである。拝島を過ぎてからの焦燥感は微かに思い出される。20kmを越える距離を歩いてきて、流路に沿った道が無く、土地勘のない未知の地で日も暮れて…、途方にくれたのである。
 ここに至るまでは恐らく収穫も多かったであろう。千川上水については記録されているが、野火止用水分岐点の小平水衛所(当時、現在は小平監視所)までは多量の水が送られ、かつ現役の上水施設であったこと、あるいは残堀川との交差がサイフォン方式であることなど、驚きの目で眺めたはずである。砂川付近は当時はまだ原野のような状態で物淋しい風景が広がっていた。拝島という駅は当時の筆者にとっては青梅線の駅としての認識だっただけに、玉川上水に架かる鉄橋を渡る車両の先頭に「高崎行」の標示を見て仰天したものだった。
 筆者が羽村の堰を目の当たりにするのは、なお先のこととなってしまったのであった。

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