大菩薩峠紀行 4

 長編小説『大菩薩峠』の冒頭から登場しその後も長々と活躍をする人物は、机龍之助の他にふたりある。ひとりは、切り捨てられた老巡礼と伴に旅をしてきた孫娘のお松である。突然の祖父の死に遭遇し嘆き悲しむお松を、峠に棲む猿たちが寄ってたかってからかうのを、あとから登ってきた四十年配の男が手に持った松明で追い払う。そして峠の惨状をあらため手早く老爺の屍骸を片付けると、お松を背負って武州へ向けて下っていく、これが青梅に住む七兵衛である。
 盗賊である七兵衛は、豪商や豪農から奪った金品を貧しい人々へ与えた義賊として紹介される。小説がベストセラーになるにつけ、七兵衛=義賊のイメージが浸透し、地元の人々にもそう親しまれている。今も七兵衛地蔵、七兵衛公園、七兵衛通り等々身近な存在と感じられ、七兵衛の墓所も名所のひとつである。実は「裏宿の七兵衛」という盗賊は実在したそうで、しかし「義賊」でもなんでもなく、一夜に十数里を行くほどに足が速いことも含め、あくまでも作者中里介山が創作したキャラクターのようだ。青梅の街を歩くと実在した七兵衛と物語の世界とが交錯するようで楽しくなる。
 巡礼の孫娘お松は、あれ以来七兵衛の百姓小屋(現在の七兵衛公園の地)に世話になっているが、江戸に住む伯母のところへ連れて行ってほしいと言う。お松の母の姉、お滝が本郷にいるらしい。本郷元町の土蔵構えのかなりの呉服屋、山岡屋を訪ねても、そんな娘は知らないよとすげなくされる。本郷元町という地名は今は残らないが、元町小学校、元町公園の名は伝えられている。児童数減少により小学校は閉鎖され、目下再生事業が大規模に進められている。周辺にはマンションも多いが寺院、さまざまな事業所、私立学校などが建て込んでいる。江戸の頃にも市井の暮らしの営まれる一帯だったのであろう。
 金包みで門前払いされそうになり、七兵衛は馬鹿にするな!と啖呵を切って店を後にする。それを追うように、相客となっていた切り下げ髪の女が声をかける。店先でのやりとりを耳にして、お困りなら娘を預かると言う。これがやはり、物語に長く登場するお絹という人物で、とりあえず私の家へ、と案内される。本郷元町から本郷給水所、順天堂大あたりから蔵前橋通りを東へ、作中には「妻恋坂の西に外れた裏のところ…表にかけた松月堂古流云々の看板」と描かれ、花の師匠ということになるのだが、生憎筆者はお絹がだれかに花の稽古をつけている場面に遭遇していない。わずかに折れ曲がった250mほどの坂であるが、妻恋神社がここに移転してくる以前には大超坂などと呼ばれていたらしい。坂の醸し出す風景はいかにも江戸っぽく好もしい。
 このお絹は腐れ旗本神尾主膳家と浅からぬ因縁を持っていて、やがてお松は神尾の屋敷へ奉公に出される。神尾主膳も末永く登場するアクの強い人物の一人である。神尾の屋敷は四谷伝馬町、現在の新宿区四谷1・2丁目の新宿通りに沿った辺りか。20世紀初頭のこの辺りの様子を、伊藤銀月が次のように書き残しているらしい。
「四谷の中心は、傳馬町と大横町也。馬糞臭き四谷に於ける都会は此處也。東京中最も物価の低廉なる部分にして、充分とは行かぬ迄も衣食住の日用品は一通り備はれり。此区の繁華は物価低廉的繁華也。此区の趣味は物価低廉的趣味也。」(『最新東京繁昌記』)あんまりな評ではある。四谷見附交差点に近く「しんみち通り」という雑多な飲食街が細く長く続く。ここが四谷伝馬町の雰囲気をよく残しているともいう。
 この空気を体現したような悪徳旗本神尾屋敷での奉公の破廉恥さに耐えかねて、ほどなくお松は屋敷を逃げ出すのだが、何の因果か、落ちぶれた伯母お滝に出会ってしまう。呉服屋山岡屋がとうに没落し、今は小さな屋台を出していた。頼る先とてないままにお滝の住む佐久間町の八軒長屋の空き家に落ち着いた矢先、お松は熱を出し寝込んでしまう。佐久間町とは秋葉原駅の東側、総武線に沿った辺りである。家々の密集した下町であったろう。具合の悪いお松に、こともあろうにお滝は金をせびったりするのであった。それでも、道庵という町医者を紹介してくれ、その処方でようやく元気を取り戻すのであった。
 患者から薬礼を十八文しか受け取らぬ長者町の道庵先生、いつも酔っぱらっているが腕は確かな医者である。下谷長者町の地名はなくなったが、台東区上野3丁目付近、町内会の名に今も残る。山手線にも長者町ガードはある。繁華な飲食街、活気のある家並み、いかにも道庵先生が浮かれて踊りだしそうな町である。
 しかし、なんとも業突く張りのお滝は、お松を人買いに売ってしまうのだ。お松は買われてとうとう京都に女郎として送られてしまう。

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