大菩薩峠紀行 3
大長編小説『大菩薩峠』は、「甲源一刀流の巻」から始まる。武州御嶽神社の奉納試合で宇津木文之丞を討った机龍之助と、文之丞に離縁されたお浜のふたりは試合の晩、山中から逐電する。
ふたりが次に登場するのは、芝新銭座の長屋、ということになっている。伊豆韮山の反射炉で名高い江川太郎左衛門ゆかりの砲術訓練所があり、その邸内の若者の剣術の指南をするという名目で住み込んでいるらしい。奉納試合から4年の時が流れふたりの間には郁太郎という男の子がいるが、侘しい日影者暮らしの様子である。
芝新銭座町という地名は、鳴海兵庫なる人物がかつてこの地で寛永通宝を鋳造していたことに由来するのだそうだ。浜松町、文化放送の建物の北200mほどに位置する港区エコプラザ」前に「福沢 近藤 両翁学塾跡」という石碑がある。曰く、福沢諭吉の家塾が築地からこの地へ移転し、その跡地に近藤真琴が攻玉社を経営した、と刻まれている。砲術訓練所の跡地だとする説もあるが、港区観光協会hpの記事では「イタリア公園」がその地だと紹介する。また、浜松町駅近辺の街区案内板の地図には、アクティ汐留の敷地内に「江川氏調練場跡」の文字がある。いずれの地を訪ねても、江川砲術訓練所の痕跡はなく、龍之助とお浜の侘び住まいの地を特定することはできない。山手線の内側は雑多な商店や住宅、マンションなど建て込んでおり、まあ生活臭の漂う一帯ではある。ふたりがつましく佇んでいる姿を想像するのも面白い。今に残る新銭座の名は、イタリア公園の前へ抜ける、JR線の新銭座ガードであろう。この隧道も、古く、狭く、侘しさが味わえる。
お浜という人物の出自について、小説では「甲州八幡村のさる家柄の娘」とされ、またお浜自身のセリフに「差出の磯はわたしの故郷八幡村から日下部へかかる笛吹川の岸にありまする」とある。“差出の磯”という歌枕にはこれまでも一度ならず出会ってきたろうが、てっきり海のことと思い込んでいた。現在の山梨市に位置するそれは、笛吹川に臨んだ小高い岩山なのであった。さらに物語の進展の中で、とあるエピソードにて、お浜の実家が、八幡村の江曽原という集落の小泉という家だと語られる。笛吹川フルーツ公園の北麓に広がるこの土地には、やぐら造りと呼ばれる堂々とした養蚕農家が今も残る。歴史的建造物群である。おそらく、小泉家もこうした豊かな集落にあったのであろう。
芝新銭座町に住まううちに龍之助は新徴組と関わり合うようになり、近藤勇、芹沢鴨、土方歳三らも、この物語の序盤に頻繁に登場する。浪士たちは、裏切り者の清河八郎(作中では清川八郎)を討とうと、夜道、駕籠を襲うが、乗っていた島田虎之助にさんざんに斬られてしまう。この剣戟の場面も映画で好んで描かれたようだが、作中その舞台は鶯谷の新坂、JR鶯谷駅南口から上野の山へ続く坂とされる。背後に鬱蒼とした山を負っての惨劇はまさに絵になる構図であろう。ただ、残念ながら、この「新坂」は、“明治になって新しくつくられた坂”なのでこう命名されたそうだ。浪士組の時代にはまだ存在していなかったわけで、まあ、しかし時空を平気で超越する、スケール超常のわが『大菩薩峠』である、こだわることはない。
ある時龍之助は芹沢鴨から、宇津木文之丞の弟、宇津木兵馬が兄の仇を討つべく修行を重ねつつ、龍之助の行方を追っていると聞かされる。この兵馬に、近藤、土方が助太刀をすると言う。後日、果たし状が届けられ、指定された場所は赤羽橋辻。都営大江戸線赤羽橋駅で地上に出ると、東京タワーが大きく目に飛び込んでくる。広い交差点の向こうには芝公園の森、おそらく物語の時代には増上寺が森閑とひろがっていたであろう。今となっては首都高に蓋をされてしまっているが、当時は古川もゆったりと流れていたであろう。
さて、この決闘の前夜、龍之助に兵馬が討たれることの不憫さにいたたまれず、お浜は寝ている龍之助に斬りかかるのだ。あわや、刃をかわした龍之助、カっと逆上、逃げ出すお浜を追い、ついに増上寺、御成門に追い詰めるのである。上述の新銭座ガードから西へまっすぐに行くとまさに御成門の交差点に行きつく。江戸時代に御成門はこの交差点の位置にあったのだが、明治半ばに現在の場所に移設されたそうだ。
翌朝、龍之助は赤羽橋辻に現れず、そのまま上方へ姿をくらましてしまう。お浜は果敢なく落命するが、物語の中ではこの後もしばしば龍之助に取り憑き心乱させる。まだまだお浜の役まわりは続くのである。
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