東武東上線各駅停車 4 上福岡

 東上線のそもそもの計画は、かつての川越児玉往還に沿うように、東京から上州藤岡、さらに渋川へと延びるものであった。(「東上線」という名称もそのことに拠る)。実際、現在も都内区間を見る限り、東上線軌道と旧川越街道とは、200mと隔たらず、ほぼ並行して走っている。
 ところが埼玉県下に入ると両者の間が離れていくのだ。以前「東上線は池袋から概ね北西に伸びているが、和光市~朝霞間で大きくカーブし、朝霞付近では進路をほぼ北に向けている。」と書いたが、朝霞台~柳瀬川の区間では2kmほども隔たってしまう。線路は川越街道と新河岸川との丁度真ん中あたりを縫って川越へ向かって行くのである。
 街道沿いに建設されることを期待していた大和田町(現新座市、川越街道に大和田宿を形成していた)からは、東上線敷設工事の進展につれ志木~鶴瀬方面へ測量が行われるに至り、「東上鉄道東京川越間確定線に関し情願書」が鉄道院総裁宛てに提出される。1912年のことである。しかし訴えは取り上げられることなく、志木、鶴瀬、上福岡を経由する現在のルートで1914年に開通したのであった。
 さて、入間郡福岡村に星野仙蔵という人があった。新河岸川に面した土地に屋敷を持ち、福岡河岸で回漕問屋を営んだ福田屋の十代目の当主である。県会議員、衆議院議員も務め、剣道家として中学校正科編入にも尽力した。1910年の大水害では保有米を放出して被災した人々を救ったともいう。
 この人が、鉄道誘致にとても熱心だったのである。江戸時代後期から明治初年に最盛期を迎えた新河岸川の舟運であるが、上野~熊谷間の日本鉄道、国分寺~川越間の川越鉄道等の開通を受け、また大規模水害に伴う河川改修により衰退していく。家業と敵対するであろう鉄道敷設に並々ならぬ貢献をした星野仙蔵氏、おそらく時代の流れ、将来の地域経済の動きを見通していたのであろう。
 上福岡駅東口の駅前ロータリーの一画、橋上駅へ上がる階段の下に、星野仙蔵氏の業績を顕彰する「福岡駅碑」という古い石碑がある。上福岡駅が東上線開通と同時に開業した歴史を語っているかのようである。川越街道沿いから新河岸川寄りに進路を変え、この地に駅が造られることになった一因が垣間見られよう。
 ところで上福岡駅が位置するのは今でこそふじみ野市であるが、ここは2005年までは上福岡市であった。さらに1972年の市制施行以前は「福岡町」だったし、上福岡駅が開業した1915年の時点では「福岡村」であった。面白いことに、市制施行の際に駅名にあわせて市名に「上」の字を付けたのだという。上福岡の駅名は、もともと福岡村の中の地区名として「上福岡」が用いられておりそれに準じたらしい。駅前には飲食店も多く大変賑やかである。
 1936年、現在の市役所周辺の広大な土地に「東京第一陸軍造兵廠川越製造所」が設けられた。朝霞に陸軍予科士官学校が移転するより5年前のことになる。純農村の静かな村に日に数万発の弾薬を製造する大工場が出現したのだ。数千人が動員され福岡村の人口も数倍に増えたという。
 急行も停車しない上福岡、しかし開業から約110年、この間の人々の暮らしの変遷を思うと感慨も深い。

             ふじみ野市立福岡河岸記念館には、星野仙蔵が
             使っていた品物なども展示されている。

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