「ストレンジ・ワールド」で描かれる持続可能な社会への希望と理想

ディズニー+で配信中の、「ストレンジ・ワールド/もう一つの世界」。
「ストレンジ」には変な、怪奇なといった意味以外にも、見知らぬ、未知のという意味がある。

予告を見る限りは、3世代の親子感の葛藤を交えた冒険譚。
これだけだと、ディズニー・ピクサーの映像美が無ければそこまで興味をそそられなかったのだが、とにかく見てほしいという評判が気になった。

結果、父と息子とそのまた息子の葛藤だけでなく、現実世界で私たちが直面しているエネルギーと持続可能性の問題と気候変動問題における閉塞感を優しく打破してくれるような希望を示唆する物語だった。
この世界の真実に至る大きな発見があり、冒険譚としてのお約束は網羅している、というよりは、冒険譚にはつきものという「お決まり」を再考し新たなスタンダードを打ち出すような映画でもあった。


以下、ネタバレ感想。

この映画で一番心に残った言葉は、物語の最後、孫のEthan(イーサン)が父Searcher(サーチャー)に向けて買いた手紙の一節。

“The best legacy we can leave
Is making a present worth opening tomorrow”
「僕たちが残せる最も重要なものは、開ける価値のあるプレゼント=現在を明日に残すことだ」というセリフ。

親子三代、形は違えど息子=次の世代に自分が何を遺せるか(遺したいか)という視点を同じように持っている。
三者三様の答えは現実ではそううまくかち合うことは無いけれど、映画の世界で、和解を伴う理想が映し出される。
私はいわゆるZ世代に区分される年代で、今作は個人的に、私が願うことも諦め諦観に身を委ねてしまいたくなる現実に対する理想を見せてくれた。

親世代が、人生をかけて作り上げ、維持してきた社会システム(=世界を蝕み殺しかけているエネルギー)を、世界の存続のために、自ら打ち壊し新たな社会システムを構築すること。

映画で描かれた、世界=巨大な亀を蝕む病い=パンドという植物によってもたらされる電気エネルギーは、現実世界における化石燃料や持続性に乏しいエネルギー源、および社会システムとの対比だ。
何も最初は悪気があってその形になったわけじゃないだろう。効率的なエネルギーという最適性を求め、富を求め、豊かさを求めたなかで、その大きすぎる副作用に気づいていなかっただけ。
近年、といってもここ何十年もの間、実は今まで頼ってきたエネルギーは、私たちが頼ってきた食を揺るがし、天候による災害を悪化させる危機だと分かった。

私だってできることの全てを正しくやっているとは言えない。二酸化炭素排出量の多い牛肉はどっちみち高いからと接種を控えていても帰省の際には飛行機に乗るし(最近は二酸化炭素排出量が少なめのフライトも高めの金額で売っていたりするけど)、光熱費も高騰しているので電気は節約しているけれど、それだけで地球が救えるとは思えない。
便利なスーパーやコンビニではパンでも野菜でもなんでもプラスチック包装されているし、それを取り払うには生鮮食品の輸送や出荷プロセスなど全体を変えていかなければならないのだと思う。
ある程度個人で選択し発信することはできるにしても、社会インフラを変えなければ危機を逃れるために必要な大きな是正は望めない、と感じてしまうし、それにはきっと個人のレベルでもそうであるように経済的合理性が必要なはずで、それならカーボンタックスのような法改正、に貢献できるのは投票、となるのだけど、私よりも年齢の低い女の子が国連でスピーチをしても、楽観的になれるほどの進捗は得られていないような気がする。

映画の最後で描かれるズームアウトのシーン。亀の甲羅の世界は、イーサンの言うように小さい。地球という球体全体に分布している人間として見ると、そんな小さい箱庭のような世界だから平和に生きれるのでは、と見下ろすような思考がよぎる。

でもきっと、私たちも外側の誰かから見たら、亀の甲羅の上で暮らしているのと変わらないのだろう。

イーサンとその友達が熱中しているボードゲームのゴールは、自然と矯正すること。見た目が怖いものを敵と見做し倒してしまうと、実はその敵だと思っていたものが自分たちを守る唯一の存在だった、なんてことでゲームオーバーになったり。
敵を倒さないボードゲームに父と祖父はとても困惑するが、「そんなに複雑なことじゃない」と彼らの不理解に憤る孫。

イーサンが気になっている男の子についておじいちゃんのイエーガーに話す時、内心とてもヒヤヒヤした。彼?男が好きなのか?という脳内で先走るセリフが来るのは今かまだかと注視したけれど、何もなくスルーされた。なんだなるほど、こりゃストレンジ・ワールドだ。私の知らない世界。だって私の知る世界は、今までの伏線や布石ー例えばもうすでにそういう話をしていたとかーがないと、驚きも戸惑いもなく話が続いたりしない。
けれど、今私が変に感じるそれは、もしかすると今の親や祖父母世代が日常感じていることで、少し先の未来には彼でも彼女でもTheyでもなんでも驚くことはなくなるのかもしれない。

イーサンとイエーガーおじいちゃんの「口説き指南」で、おじいちゃんはいわゆる吊り橋効果のような論法で気になってるこの命を危険の晒したところを救出して仕舞えばいいと言う。もしかするとそれは彼の成功体験に基づくものなのだろうが、イーサンは「そんなふうに関係性を始めるのはとても有害(toxic)な気がする」ときちんと自分の意見を述べる。
こうして相手と自分を分け、一線を引くのも理想的だなと思った。
息子だから、家族だからと自分と子供を同一視したり、結局は他者であるということを認識できずに自分の望みが子供の望みであると混同してしまうと、いくら尊敬したくとも自分が尊重されてないのでは反抗するしかなくなる。

ストレンジ・ワールドのようにエネルギー源がたったひとつの植物であれば、社会システムをがらりと変えるのはより簡単なのかもしれない。それに頼っていたのは25年間という、1世代程度の話だし、250年以上の産業革命以降の歴史を生きてきた自分たちに当てはめるのは不釣り合いなのかもしれない。
でもアヴァロニアの世界の人々だって、パンドの実で新たな仕事が生まれ多分だけ、数多の仕事を無くしたのだろうし、いくつもの不便や不都合に直面したはずだ。

今の世界は、まるで仲直りのない喧嘩がずっと続いているみたいだ、と思う。
映画の親子のように、生きてきた人生やそれによって築かれた価値観は違っても、根っこの願い=例えば息子の幸せや世界が平和に安定し続いていくことが同じだと共に過ごし困難を乗り越える中で理解が深まれば、違う人間でも共に過ごしていける。
私たちは同じものが見れない。同じものを見ていても、自分というフィルターを通して、どうしても異なる見え方になってしまうから。
言葉が「武器」として攻撃に使われてしまったりそう捉えられてしまったりするから、自分や自分の大事な人が健やかに生きていられるようにという願いすら共有できずに歪められてしまう。

でも、だからといって最初から諦めてしまうのなら、それこそ楽観の余地はない。
たとえ空想だと嗤われても、理想を描かなければそこを目指すこともできない。ゴールがどんなものなのか、思い描かなければ。
それを見せてくれるのがストレンジ・ワールドという作品だ。
私たちは、明日へ、どんなpresentを遺したいのかを。

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