「詐欺師は天使の顔をして」試し読み

■第一話 超能力者の街 Star and Wirepuller

 スポットライトの下で、子規冴昼は一体の奇跡になる。
 テレビカメラの前には、二人の人間がいた。期待と好奇心、あるいは少しの不安を滲ませた顔で座る若手男性芸能人と、彼をじっと見つめる端正な顔立ちの男──霊能力者の子規冴昼だ。
 手始めに冴昼は、彼にいくつかの質問をすることで、その生い立ちを当てる。明らかになっていないプロフィールから、家族構成、あるいはちょっとした趣味までを明かす。
「……正解です。全部当たってます」
 まだテレビ慣れしていない彼が躊躇いがちにそう言うのを聞いて、会場内は一気に盛り上がる。これを皮切りに、冴昼は裏返されたカードの柄を当て、ゲストが頭の中に思い浮かべたキーワードを次々と当てる。生放送なのに、冴昼は一度もミスをしない。「インチキじゃないか?」と疑うコメンテーターの一日を言い当てると、興奮した観客が彼の名前を叫び、惜しみない拍手を送る。
 それを見て、マネージャーの呉塚要は一人ほくそ笑んでいた。
 上々だ。これなら擦り切れるほど練習させた甲斐がある。自身の優秀さを欠片も疑わない要からすれば、舞台の成功は当然だった。それでも、今回は褒めてやってもいい。何しろ今宵の子規冴昼は、要の期待以上に完璧な霊能力者だった。
 危ういところはこっそり要がアシストする予定だったが、この調子ならそんなことをせずとも、彼の話術だけで乗り切れるだろう。二人で作り上げた作品の素晴らしさに、要自身も拍手を送りたくてたまらない。
「ふざけんな! 馬鹿げてる!」
 その時、煽られ続けたコメンテーターが手元のペンを冴昼に投げつけた。台本には無い単なるアクシデントだ。けれど、冴昼は焦ること無くペンを空中で摑む。次の瞬間には、それは小さな赤い花に変わっていた。花弁に軽くキスをして、彼は優雅に笑ってみせる。
「これはこれは、ありがとうございます」
 あまりに完璧だった。熱狂が醒めやらぬまま、舞台の幕が下りる。

「よくやった、お疲れ」
 二人で楽屋に戻る道すがら、要は言った。
「ペン、借りパクしちゃった」
 投げつけられたペンを器用に回しながら、冴昼が笑う。
「あれ上手かったな。最高だった」
「あれだけ練習するとアクシデントにも対応出来るものだね。まあ、こんなのは単なる手品だけど」
 言いながら、冴昼が要にペンを投げ渡す。次の瞬間には、要の手のペンが小さな花束に変わっていた。一瞬で変わったそれを見て、冴昼が軽く息を吞む。そんな彼に対して、要は悪戯っぽく口角を吊り上げた。
「驚くなよ。単なる手品なんだろ」
 冴昼には要の出来ることの殆どを教えてある。タネの分かっている手品でそこまで驚かれてもな、と要は肩を竦めた。
「……いや、でも要は凄いよ。それどうしたの」
「スタジオからパクってきた」
 言いながら、要は花束をぽいと放り投げた。
「それだけ上手いなら、自分でやればいいんじゃない?」
「上手さだけが必要なら、お前の言う通りにしてただろうな」
 そう、ただ上手い奇術を見せるだけなら、要一人で事足りた。だが、彼が求めるものはそうじゃない。
 ステージに立った時の子規冴昼は、得も言われぬ存在感がある。ショービズの世界における存在感は、そのまま説得力に等しい。霊能力というおよそ信じられないものでさえ、冴昼を通せば現実になる。その様を見る度に、要の血は沸き立った。
「お前なら虚構の境目を飛び越えた本物の霊能力者になれる。俺はお前を通して神を見た。覚えてるだろ」
「それはもうありありと」
 それに、と前置いてから、要は続けた。
「俺の役割は現代のP・T・バーナムだ」
「バーナム? 誰それ」
「世界で一番最初にサーカスを生み出した最高の興行師にして最上の詐欺師だよ。知ってるか? バーナムはジョイス・ヘスという女性を百六十年も生きているアンドロイドだと吹聴して一財を築いた。そうしてヘスが死んだ暁には、彼女が本物の人間かどうかを確かめる公開検死ショーで更に儲けた。虚構でこれだけ出来るんだから大したもんだろ」
「それじゃあ俺はジョイス・ヘス?」
「いいや、子規冴昼は俺にとってのジェニー・リンドだ」
 ジェニー・リンドは、バーナムが一際懇意にしていた絶世の歌姫だ。彼女を舞台に上がらせ、各地で公演を行ったバーナムは、それによって一層の名声を得た。バーナムが彼女を見出した時の喜びを、要はありありと想像出来た。
「お前に俺の人生とこの世の全てをくれてやる。一緒に最高の興行をしようじゃないか」
「ああ、こちらこそ。これからも俺を、本物の霊能力者でいさせてくれ」

 要は今でもこの頃を夢に見る。
 恐らく人生で最も幸福だった頃のことを。

   1

 あれから三年が経った。
 悲愴な顔をした四十絡みの女性が、子規冴昼総合相談事務所の扉を頻りに叩いている。三年というのは相当な時間だ。なのに今もなお、子規冴昼を頼る訪問客は絶えない。
「お願いします! 主人の……主人の声を聞いてください!」
 このままでは一日中扉を叩かれかねない。呉塚要は事務所の中で長らくノックの音に耐えていたが、ようやく出る決意をした。吸いさしの煙草をコーヒーの缶に落とすと、ゆっくりと立ち上がる。
 扉が開いた瞬間、大抵の来客は喜ぶが、中から出てきたのがテレビでお馴染みだった麗しい霊能力者ではなく、ボサボサの髪をした陰気な男であることを認識した途端に怯む。要の今の見てくれは警戒を抱かせるのに十分な代物だ。目の前の来客も、例に漏れず言葉に詰まっている。その隙に要は言った。
「申し訳ありません。今はどんな案件もお引き受けしていません」
 冷たく言い放てば、半分くらいの人間はここで立ち去る。だが、今回の来客は諦めなかった。
「私は子規先生に……死んだ主人の声を聞いて欲しいんです! ほら! 遺書もあります! お願いです! 交信してください!」
 彼女は瞳に涙を溜めながら、手に持った紙を突き付けてきた。行間や文字間すら怪しいレイアウトで『不義理を働いてすまない 死のうと思う 今までありがとう 森田洋介』と書かれている。それを一瞥すると、要の顔は一層曇った。
「これ、主人が旅先から送ってきたんです……どうして自殺なんかしてしまったのか、一体何がいけなかったのか、子規先生は死んだ人間のお声が聞けるんでしょう!? 今でも極秘で要人限定の霊媒を行っているとか!」
「どうせ週刊誌かネットのゴシップでしょう。デマです」
「お願いです! 請け負ってもらえるまで諦めません!」
 ここまで思い詰めているとなるともう、普通に話しても無駄だ。正直、冴昼がいることを無邪気に信じていること自体が腹立たしい。それを望んでいるのは他ならぬ要自身だ。諦めないでいるだけで冴昼に会えるなら、自分はもっと早く報われているはずだ。そう声を荒らげてやりたかった。
 けれど、そう思ってしまうこと自体が虚しかった。目の前の客に自分を見た要は、静かに言った。
「……よければお入りになりますか」
 こういう人間には事務所の中を見せてしまうに限る。案の定この客人も、荒れ果てた事務所に一歩入った時点で息を詰まらせた。
「……あの、これは……」
「ソファーにでも掛けてください。少々散らかっていますが」
 荒れ果てた事務所の真ん中に立ち、要は笑顔でそう言った。
 室内に置かれた応接セットやデスクは一様にセンスが良い。だが、それらにも床にも大量の書類が積み上げられていた。勧めたソファーにも、先客の如く週刊誌の塔が鎮座している。全てのものに均一に埃が積もっていた。この部屋の殆どのものが、長年触れられてすらいないからだ。
 ここに来る人間の多くが、事務所に入った時点で黙る。焼け跡に石を投げる人間がそうそういないように、終わりの臭いが立ち込める部屋の中では舌を回しづらいからだ。
 そうなったところでようやく、来客が要の方を見る。この焼け跡に住んでいるのはどんな人間なんだろう? というわけだ。
 この状態になってようやくまともな会話が出来る。
 こういう客人の相手を多くしたお陰で、嫌なルーチンが出来上がり始めていた。
「子規冴昼はいません。失踪の報は本当ですし、俺も行方を知りません。この三年の間、連絡すら取れません」
 淡々と要が言うと、来客は今度こそ押し黙った。無理を言ってすいません、と彼女が小さく呟く。暗澹たる面持ちで去っていこうとする彼女を見て、要は心の中でそっと舌打ちをした。面倒な。
「一応言っておきますが、恐らくご主人は生きていますよ」
 その言葉に、来客はハッとした顔をした。そして、食い気味に言う。
「もしかして、子規先生だけではなく、あなたも霊能力者なんですか?」
「違います。その手紙ですが、よく見るとところどころに不自然な線が入っていますよね。折り目にしては波打っているので、この手紙は何枚かの紙片を千切って繫げたものなんでしょう。『不義理を働いてすまない』『死』『の』『うと思う』『今までありがとう』は第三者が作った文面だ。恐らく元の文面は『不義理を働いてすまない 俺は死んだものと思ってくれ 恨んでいるだろうと思うが~今までありがとう』みたいなものだったんじゃないでしょうか。『の』は適宜補完してください」
「で、でも……」
「破った手紙を別の紙に貼ってコピー、継ぎ目を修正液で消して更にコピー、これを繰り返してたらこのくらい継ぎ目が目立たなくなります。典型的な詐欺の手口です。要するに、ご主人の近くにいる誰かはあなたに追ってこられるのが嫌で、自殺したことにしたんでしょう。ご主人自身の文面も追われるのを嫌がってるんですから、新しい女でも出来たんじゃないですかね?」
「そ、そんな、何で分かるの? やはり、あなたも霊視を」
「あなたは何も悔やむことなんかありません。勝手にいなくなった人間なんてさっさと忘れて幸せになってください。ご主人のことは死んだと思って」
 手紙を突き返して、扉をギリギリまで狭める。名残惜しそうに見る彼女に向かって、要は薄く微笑んでみせた。
「言っておきますが、俺には霊能力はおろか生きるよすがもありません。それじゃあもうここには来ないように」
 全ての仕上げにそう言って、要は勢いよく扉を閉めた。

 霊能力者・子規冴昼の名前には、誰しも聞き覚えがあるだろう。
 テレビに出ていたあの涼やかな立ち姿を覚えている人だって多いだろうし、インターネットの海には彼の誕生日や好きな食べ物や、初恋の女の子の名前まで載っている。
 検索欄に名前を打ち込めば、トップに対談中の涼やかな横顔が表示される。長めに伸ばした髪も、物憂げに細められた目も、手首に嵌った主張の激しすぎないアクセサリーも、全部が霊能力者という肩書きを支えているかのようだ。
 ウィキペディアには、子規が霊能力者として起こした奇跡、出演した番組、解決した事件までもが載っている。それによれば、子規冴昼は千里眼を持ち、人の心を読み、果ては未来予知までしてみせるんだそうだ。景気がいい話だと思う。どれか一つでも素晴らしいのに、彼はその全てを完璧にやってのけたのだ。
 まあ、全部噓だけど、と要は一人呟く。
 かつての共犯者が座っていた椅子で、随分色褪せた天井を見上げた。そう、子規冴昼は呉塚要の共犯者だった。世間様を相手取っての壮大な詐欺を働いたパートナーだ。千里眼も読心術も持っていない彼を、皆が大好きな霊能力者に仕立て上げたのが、呉塚要だった。
 あの時もさっきも、やっていることはそう変わらない。ただ霊能力という皮を被せるかどうかの違いだ。要と冴昼は、結託していくつもの奇跡を起こした。つまりは要が奇跡を起こす為の手段を考案し、それを冴昼が完璧に演じたわけである。千里眼を使いたいならその方法を、空を飛びたいならそのトリックを、要は見事に用意してみせた。
 それだけじゃない。子規冴昼が一番魅力的に見える立ち回りを考えて演出したのも要だ。
 子規冴昼がどう振るまえば観客が喜び、どう話せば沸き立つのか。要はそこまで考えて彼をプロデュースしてみせた。勿論、冴昼も要の演出に対し十全に応えた。むしろ、要が期待した以上のものを見せてくれた。その恍惚といったらない。自分が素晴らしいと信じているものが、他の人間にも諸手を挙げて称賛される。それは自分の手でモディリアーニを世に出すような規格外の喜びだ。
 上手くいっていたはずだった。
 少なくとも、要はそう思っていた。
 二人は破綻を迎えること無く、霊能力者としての三年目を迎えた。
 何でも見通せるという冴昼の目は、当然の用途に落ち着いた。即ち、犯罪捜査に利用されるようになったのだ。
 最初は、いなくなった娘の行方を霊視して欲しいとの相談だった。いきなり舞台上に持ち込まれたそれは、言うまでも無く今までの領分を超えていた。だからこそ当たり障りの無いことを言って場を沸かせるだけに留めようとしたのに、提出された手がかりを見て、要はちょっとした事実に気がついた。そして、とある結論に行きついてしまった。
「娘さんは、別れた旦那さんの家にいます。……大丈夫です、自発的に向かったようですし、危害を加えられたりはしていないでしょう。ですが、出来れば早く話をしてください」
 大勢の観客の前で、子規冴昼は静かにそう言った。正確には、要が言わせた。
 後日、事件の真相が明らかになると、冴昼は一層称賛を受けた。
 それをきっかけに、今までのパフォーマンスに加えて、ぽつぽつと事件に関する意見を求められるようになった。これが明確な転換点だ。
 やっていることは麗しきシャーロック・ホームズと変わらない。けれど、既に出来上がった舞台で見せれば、それは魅力的な魔法に変換される。
 事件を解決すれば解決するほど、子規冴昼の名声は高まった。勿論、解決出来ないものもある。けれど、手が届くものは掬い上げるべきだと思っていた。やっていることは詐欺かもしれないが、二人は実際に事件を解決していたのだ。そこに何の罪があるだろう?
 華々しい活躍をした。今ですらそう思っている。
 そしてある日、とある連続殺人事件が俎上に載った。二人のところに持ち込まれた時点で、既に被害者が六人を超えていた。近年稀に見る重大な事件だ。
「……警察もまるで手詰まりらしい。手がかりも殆ど無い」
 要が苦々しくそう言うのに対して、冴昼は笑顔で言った。
「それでも子規冴昼なら解決するんでしょ? 霊能力者として」
「被害者が六人も出てるんだ。誰も解決出来ないなら『子規冴昼』がやるしかない」
「なら、最後まで付き合うよ。とはいえ、要と違って、俺は推理とか出来ないけど」
 そう言って笑っていた冴昼のことを覚えている。
 結論から述べると、要の執念は実った。
 殺人事件は解決され、『幸沈会』という新興宗教団体の教祖が犯人として逮捕された。
 霊能力者と新興宗教の教祖の組み合わせは傍から見ても魅力的だった。この時が霊能力者・子規冴昼のピークだったと言っていい。残虐な殺人事件の犯人を霊能力で解決! 警察は霊能力には懐疑的だったが、確固たる証拠には簡単に屈服した。要は自分の持ちうる力を全て使って事件にあたり、何かに取り憑かれたかのように証拠を求めた。
 だからこそ、解決した時は誇らしかった。記者会見で謙虚に事件を語り、ただただ称賛を受ける冴昼を見て、要は何より満ち足りた気持ちだった。
 ──人生という分の悪い賭けで常勝する唯一の方法は、他のプレイヤーを差し置いて胴元側に回ることだ。と、要はずっと信じている。周りの人間の反応すら支配し、自分の計画の内に組み込んでしまえば自分が負けることはない。
 今や、子規冴昼は多くの観客たちから讃えられ、その価値を認められている。冴昼が黒と言えば、白も黒になるだろう。自分が見初めた最高のカードに周りの人間が踊らされているのを見るのは、要自身が歩んできた人生の正しさを証明しているようでたまらなかった。冴昼を通し金も名誉も手に入れたが、その証明が一番大きな財産だった。
 自分は正しく、賭けに負けることはない。そう思った。
 そんな要も過去にたった一度だけ、他ならぬ冴昼相手に敗北を喫したことがあった。しかし、その彼ですら、今は自分の手の内にある。
 これが思い上がりだったのかどうか、要にはもう分からない。

 東京に初雪が降り、子規冴昼が失踪したのは、幸沈会事件の犯人が拘置所で自殺したというニュースが入って三日後のことだった。

 失踪当日、要は幸沈会事件に関するインタビューの回答を作っていた。冴昼の方は基本的に台本が出来るまですることが無い。その日も、事務所では要のキーボードの音だけが響いていた。ソファーに寝転がりながら、冴昼は小説を読んでいた。AIが同じ夏の一日を過ごし続けるという、不思議な内容のSF小説だった。
「あ、雪だ」
 ふと、冴昼が嬉しそうな声を上げた。つられて要も窓の外を見る。ちらちらと控えめな雪が降っていた。積もるかどうかも分からない弱々しい雪だった。
「初雪を見てくる」
 それが、冴昼の最後の言葉だった。
 それきり冴昼が事務所に帰ってくることは無かった。
 最後に残した言葉が「初雪を見てくる」だなんて出来すぎている。だってそんなの、あまりに詩的だ。それに対する要の「絶対滑るぞ」の素朴さと言ったら!
 結局、雪はまともに積もらなかった。

 その直後のことは殆ど覚えていない。後始末に追われたからだ。冴昼が消えて四十八時間も経つ頃には、世界が一変していた。既に決まっていたスケジュールは丸潰れだ。芸能人のプロフィールを当てることや簡単なマジックがお好みなら、要一人でも事足りた。でも、オーディエンスが求めているのはそれじゃない。
 幸いながら、子規冴昼は幸沈会事件を解決したばかりで絶頂期にあった。インチキがバレて敗走したのとは訳が違う。だから一層不可解だったし、致命的だった。壮大な事件を解決した後の失踪は、まるで美しい幕引きのようで空恐ろしい。
 ただただ切実に、ありとあらゆる手を使って行方を捜した。幸沈会事件の時よりも熱が入っていたかもしれない。けれど、子規冴昼の足取りは摑めなかった。
「煙のように消えたのは霊能力者だからだ」という馬鹿げた理由付けに、要だけが納得出来なかった。何せ、彼が偽物であることを知っているのは自分だけなのだ!
 連日失踪を報じていたテレビが、他のスキャンダルに鞍替えする。子規冴昼の物語は過去のものになっていく。
 それでも、立ち直れる気がしていた。それが酷い思い上がりだったと気づくまでに一年かかった。
 後処理を終えた後の要は、ただひたすらに怒りを燃やしていた。子規冴昼は二人で創り上げた作品だ。一方的に舞台を降りるなんて赦せない。冴昼の失踪を手酷い裏切りだと思い、すぐにあの男を忘れようとした。彼が失踪したのなら、次の子規冴昼を創ればいい。同じように魅せ方を仕込んだ、次のジェニー・リンドを探せばいい。殆ど自分に言い聞かせるようにそう唱えて、要は冴昼の代わりを探した。
 そんなものが存在するはずが無いと、この時点で気がついていたのに。
 当然ながら、要の目論見は上手く行かなかった。
 理由は至極単純だった。霊能力者として、子規冴昼があまりにも完成されすぎていたからだ。どんなに見栄えのいい人間を見繕っても無駄だった。完成度を高めれば高めるほど、観客はそこに冴昼の影を見る。そして、彼のデッドコピーとして扱うのだ。謎めいた失踪を遂げた冴昼は、皮肉なことに一層不可侵な本物になっていた。他の全てを偽物に変えてしまうほどに。
 冴昼の後釜になろうと出てきた偽物たちの群れに、要自身も一度だけ混ざったことがある。舞台での要はとても上手くやった。けれど、それはどれだけ上手かろうと冴昼には敵わず、称賛はあっても熱狂は無かった。そんな有様に、要は怒りと感嘆の混じった感慨を覚えた。
 自分の望みは周りを支配し、胴元側に回ることだ。冴昼はその為の手駒に過ぎないはずだった。けれど、冴昼が自分の手の内からいなくなったことで、完璧だった自分の計画にはあまりに大きな番狂わせが生まれた。いきなり盤上に投げ出されたようなものだ。これは冴昼相手に喫した二度目の敗北だろうか? そう思うだけで寒気がした。この思いが拭えない限り、要がここから抜け出す術はなかった。
 そうこうしているうちに怒りも収まり、要はじわじわとその不在に苦しみ始めた。必死に代わりを探したからこそ、浮き彫りになってしまった穴はあまりにも深く感じた。
 立ち直れると思っていた。あくまで自分が主体なのだから、取り返しがつかないはずがない。
 その思い込みを正して絶望に浸って、そのまま更に一年が過ぎた。
 同じことをするどころか、何をする気にもなれなかった。要はただただ事務所の中で時間を潰した。いつか冴昼が戻ってきた時の為に、自分はここで待っていなくちゃいけないと思うようになったのだ。入れ違いになったらと思うと恐ろしくて外に出られず、殆ど事務所に泊まり込む形になった。
 アルコールなどに逃げられればそれでも良かった。けれど、酩酊した中でも要は事務所の扉を気にし続けた。こんな状態でまともに酔えるはずが無い。インターホンが鳴る度に、全身の血が逆流しそうな錯覚を覚えた。言わずもがな、扉の向こうに冴昼が立っていたためしは無い。
 事務所のカウチで眠ると、決まって幸せだった頃の夢を見た。そうして目が醒めて荒れ果てた事務所を見回す度に、酷い吐き気を覚えるのだ。いっそ夢と現実の区別がつかなくなれば良かったのかもしれない。けれど、要の執着はそれすら赦さなかった。
 冴昼の帰りを待ちながら、要は子規冴昼の影を追い続けた。
 子規冴昼の名前は未だに高水準のエンターテインメントだったけれど、取り残された要にとって、それらは全て墓標でしかなかった。過去がどんなに輝かしくても、今ここにいなきゃ意味が無い!

 それはそれとして、時間は無情に過ぎていく。三年だ。気づけば活動期間と失踪期間が同じ長さになっていた。
 要は今も事務所にいた。前に比べてインターホンには期待しないし、入れ違いになる恐怖も前ほど覚えない。じわじわと侵食してくる諦念が、要の全てを鈍くする。今でも要は冴昼のことを待ち続けていた。けれど、それはあまりに苦しい日々だった。
 それに、要はそろそろ事務所を引き払うかどうかの決断もしなければいけなかった。
 ここの賃貸契約は二年刻みだ。失踪してから一年目は、迷わず更新した。あれから更に二年が経った。頭の中で声が聞こえる。──一体いつまで待つつもり? 更新すれば、もう二年はこの事務所が残る。ふらりと冴昼が帰ってくる為の場所が。でも、それはもう二年を停滞に放り込むことだ。もういい加減諦めるべきなのに、すんでのところで上手くいかない。だってここで諦めたら、二人で心血を注いだあの日々は何だったのだろう? 自分の感じた天命は?
 ペンローズの階段のように、要だけがこの場所をぐるぐると回って動けない。契約更新はその妄執を終わらせる唯一の機会だった。けれど、要はこうも思っていた。子規冴昼を諦めてしまえば、自分は一生この欠落感と生きていくことになるだろう。理由は分からないが、確信があった。そんな人生を送るのだと思うとぞっとする。
 その時、電話が鳴った。殆ど惰性でそれを取る。電話の向こうはかつて世話になっていたプロデューサーの一人だった。
 半年後の特別報道番組で、冴昼のことを大規模に特集するので、それに出演しないかという打診が来たのだ。
 それこそ冴昼が失踪したばかりの頃は似たようなオファーが大量にあった。誰もがマネージャーである要に話を聞きたがり、子規冴昼の失踪を面白おかしくスキャンダルに仕立て上げようとした。要はそれらのオファーの全てを断っていたし、今回も当然断るつもりだった。けれど、断りを入れる要に対し、プロデューサーは決定的な一言を発した。
『でも呉塚さん、薄々思っているんでしょう。子規先生はもう戻ってこないんだって。自殺か他殺かは分かりませんが、あの人はもう死んでいる。これだけ足取りが摑めないんですから、もう無理ですよ』
「……行方不明者が死亡扱いになるのは七年経ってから。まだ四年ありますが」
『それにしたって頃合いでしょう。子規先生の一番近くにいたあなたが彼を語ってくれるだけで、番組の熱は随分変わってくると思うんですが。勿論、分からないことは分からないと言ってくださっていい。でも、語るべき話も多いでしょう。呉塚さんには』
 プロデューサーの持って回った言い方に、要は一層気分が悪くなった。
 ここ三年の間に、子規冴昼の成功の後ろ楯となっていたのは他ならぬ呉塚要であるという風評も一部では囁かれていた。それは邪推でも何でもなく本当のことではあるのだが、あまり嬉しくない流れだった。冴昼が健在であった頃は、彼自身のカリスマ性によって要の存在は誰の目にも留まらなかったというのに。
「そういったことには協力するつもりはありません。失礼します」
『失踪した相手にどうしてそこまで義理立てしようとするんです。もしかして、本当に子規先生は本物だったんですか』
 何を見てたんだ、と論ってやる代わりに言った。
「ええ。子規冴昼は本物です。比肩する者はいません」
 気が変わったらお電話ください、プロデューサーはそれだけ言って電話を切った。舌打ちをして、要も受話器を置く。
 不在の時間が長くなればなるほど、かつて理想としていた子規冴昼が崩れていくかのようだった。いっそのこと、何処かで本当に冴昼の死体でも見つかれば諦めもついたのかもしれない。けれど、その最悪の結末すら要は見届けられていないのだ。
 半年後の特集番組で、華々しく冴昼が帰還するところを想像する。幾度となく思い描いたシナリオの中でも、一番夢見がちでお誂え向きの物語だ。そうしたら、さっきの不愉快なプロデューサーだって掌を返すだろう。
 けれど、そんな都合のいい話を期待出来るほど、三年は軽くなかった。
 ……子規冴昼は死んだと思って。
 その言葉を嚙み締めた瞬間、もう一度事務所の電話が鳴った。

  2

 最初はさっきのプロデューサーか、さもなくば諦めの悪い依頼人かだと思っていた。それでも無視するわけにはいかず、苛立ち混じりで受話器を取る。
「はい、こちら子規冴昼総合相談──」
『もしもし、要?』
 そうして、電話の向こうの声を聞いて、呼吸が止まった。
『聞こえてる?』
 忘れようにも忘れられない声だった。思わず、言葉が口を衝いて出る。
「──雪は、」
 色々言いたいことがあったはずなのに、何よりもまずその言葉が出た。この三年間ずっと喉の奥に溜まっていたものが、堰を切るように溢れ出す。
「雪は見れたのか。……冴昼」
『ああ、そうだった。そう言って事務所を出たんだった』
 この三年間ずっと囚われ続けていた言葉なのに、冴昼はあっけらかんとそう言った。
『いや、要が出てくれて安心した。ひやひやしたよ』
「おい、本当にお前なのか? 冴昼……お前本当に冴昼だよな? おい!」
『そこまで言われると俺の方も自信が無くなってくるけど』
 あくまで暢気に返されて、要は一層焦りを覚えた。
「おい! お前今何処にいるんだよ! クソ、とにかく場所……場所言え! あと、絶対切るなよ! 切ったら後悔させてやるからな!」
『はは、それ要が言うと洒落にならないよ』
 散らかった机の上から物を落として、無理矢理スペースを作る。情けないくらい手が震えた。三年ぶりの連絡だ。動転しない方がおかしい。
『えーっと、住所を言うからメモしてくれる? あのー、ここの住所って……ああ、どうも』
「ちょっと待て! 近くに誰かいるのか? お前今誰といるんだ!?」
『メモの準備いい? ああでも、要は記憶力が良いから大丈夫だよね』
 そうして冴昼は、とある住所を呟いた。東京都、以降は聞き覚えの無い地名だったが、言われるがままに書きとっていく。
「冴昼! なあ、お前今まで何で連絡しなかったんだよ! 俺が、俺が一体どんな気持ちで」
『ごめん、もうそろそろ切らなくちゃ駄目みたい』
 何も分からないまま、会話が終わる気配がする。
「待て! 頼む、もう少しだけ──」
『それじゃあ、またね』
 そして、そんな言葉と共に電話が切れた。
 要に残されたのは聞き慣れない住所の書かれた、ぐしゃぐしゃの紙だけだった。着信履歴を確認する。非通知、という素っ気無い文字が残っていた。
 悪戯だろうか? と一旦疑ってから思い直す。声が同じだった。喋り方も同じだ。そして何より、雪の話を知っていた。誰にも言ってない子規冴昼の言葉を。オーケイ、完璧だ。これが幻聴であっても悪戯であっても、ここまで来れば上等だった。
 コートを羽織り、万が一の時の為に鞄を持って出ようとしたところで、今度はスマートフォンの方に非通知の着信があった。慌ててそれを受ける。
「もしもし? 冴昼?」
『……事務所の裏路地に朱色の電話ボックスがある。そこから掛け直せ。子規冴昼の発信してきた番号に、』
 さっきよりも大分ざらついた音声で、電話の向こうの声が言う。
 どう聞いても冴昼の声じゃない。だが、聞き覚えのある声ではあった。しかも、内容は明らかに冴昼のさっきの電話と関連する。一体何処で聞いた声なのかを思い出そうとしながら、要は静かに言った。
「……お前は誰だ?」
 答えは無かった。
 そして、また一方的に電話が切られる。訳も分からないまま事務所を出る。冴昼からのメッセージ。そして見知らぬ誰かからの指示。とことん意味の分からない展開だった。それでも、要は言われるがままに動く。
 無視してメモの住所に行ってやろうかとも思ったのだが、結局大人しく指示に従うことにした。何故って、何せ三年ぶりだったから。あるいは理不尽だったから。
 理不尽で不可解な物事に向かい合う時に、同じ作法を踏まなければいけないと思ったことは無いだろうか? さもなければ、全てが夢から醒めるように消え失せてしまうんじゃないかと思ったことは? ようするに、要は軽いパニックを起こしていたのだ。
 事務所の裏手に回ると、電話口で言われた通り朱色の電話ボックスがあった。上部に取り付けられた小窓から、同じく朱色の電話機が見える。緑色じゃないのが珍しいな、と思ったものの、深くは考えられなかった。
 中に入ってから、冴昼が掛けてきた電話番号をプッシュする。呼び出し音が、やけに長く感じた。
 電話機の傍らには、ホテルに置いてあるようなメモパッドが置かれている。誰かがメモを取ったのか、要には分からない言語で、数行にわたるメモが残されている。それを見ていると、妙に不安な気分になった。
 その時、不意に電話が繫がった。受話器の向こう側の音がクリアになる。
「……もしもし?」
 恐る恐る声を掛けてみる。すると、受話器から静かに音楽が流れ始めた。スローテンポで始まるそのメロディは、何処かで聴いたことがある。歌詞は無い。もう少しで思い出せそうだ、と思ったところで、突然電話が切れた。
 何だよ、と口にしながら電話ボックスを出る。そもそも、一連の行動に何の意味があるのか分からない。それでも藁にも縋る思いだ。理屈が全然通っていないのに、三年の年月が全てを捻じ伏せてくる。
 だからだろうか。その違和感に気づくのが遅れた。ただ、さっきよりも更に路地が暗くなったな、と思ったくらいだ。
「……あれ」
 出てみればそこは、見覚えの無い通りだった。

 振り返ると、そこには朱色の電話ボックスの代わりに、目測三メートルはありそうな背の高い電話ボックスがあった。電話機自体も要の視線の高さに設置されており、頭上の高過ぎる位置に棚が設置されている。もう一度中に戻ってみても、さっきまであったはずのメモパッドも見当たらない。
 狐に化かされたよう、という言葉があるが、今の要は本当にその通りだった。さっきまであったはずのものが無いなんて、道理が通らない。
「どういうことだ?」
 わざわざ口に出して言ってみても、朱色の電話ボックスが戻ってくることは無かった。裏路地を抜けて、事務所に戻る。そして、絶句した。
 事務所のあるべき場所に、別の建物が建っていた。
 更新をするかどうかを悩んでいるうちに、事務所が丸ごと消えてしまった。何事も決断は早い方がいい……なんて、そんな教訓に回収していい事態だろうか?
 近くの地図で、一応住所を確認する。東京都、の後は知らない区の知らない街の名前が書かれていた。
 要は冷静に街が丸ごと入れ替わる時のパターンを考える。──看板自体が間違っているパターン。知らない間に電話ボックスごと移動させられているパターン。手間は掛かるけれど、建物のガワだけを変えているパターン。偽の超能力者との対決の数々で学んできた、偽奇跡のバリエーションだ。
 そんなものをいくら羅列したところで、全てが現実であることは疑いようが無かった。知らない建物の階段を上がって、知らないテナントを確認すれば十分だ。
 震えながら大通りに出て、人の影を探す。道行く人は何も気になっていないのか、取り乱すことも無く歩いている。街が変容したことに驚いているのは、要だけのようだった。
 そもそも、本当に街が変容したのだろうか? そこまで考えて寒気がした。周りの建物は一様に背が高く見え、妙な威圧感がある。知らない街の心細さは遠近感まで狂わせるのかもしれない。
 見て歩いているうちに喉がからからに渇いていた。そうして自販機を探して、もう一度ぎょっとする。
 自販機が五段になっていた。全長が優に三メートルを超えている。
 背伸びしても一番上の段に届かない。要の身長は百七十三センチだ。決して低いわけじゃない。なのに、一番上にある缶コーヒーが買えない。一番下の段にある乳酸菌飲料を押して、一気に飲んだ。
 この街は、何かがおかしい。街自体が変わっているのもあるが、どう見てもスケール感が違いすぎる。錯覚、と口に出したところで自販機は小さくならなかった。当たり前の話だ。

 スマートフォンが圏外であるのを見た瞬間、要の手がいよいよ震え始めた。最寄りの交番に駆け込んだものの、あいにく警察官は不在だった。そもそも、警察にどう言えばいいのかも分からない。
 熱を出した時に見る悪夢のような街だった。何が飛び出してくるか分からず、恐々と進む。この状況で灯台となるのは、冴昼から告げられた住所だけだった。他のことには目を向けず、とにかくその場所に到達することだけを目指す。
 だが、時間が時間だったのか、電車もバスもとうに終わってしまっていた。縮尺のおかしな街の中に一人で立っていると、得も言われぬ不安に襲われる。とにかく、この恐ろしい一夜を乗り切る為の宿を探さなくてはいけない。大通りをしばらく歩いて、一番最初に目についた『ニューパレスホテル』のフロントに飛び込んだ。
「すいません、今からでも泊まれますか?」
「大丈夫ですよ。少々お待ちください」
 フロントは至って普通だった。強いて言うなら、フロントの隅にあるロッカールームだけが不穏だった。入口から見えるロッカーもまた、五段の高さがある。どう見たって手の届かない場所に、平然とロッカーが鎮座している。
 三〇七号室の鍵を渡されて、エレベーターに乗る。外から見ると随分高く見えたのに、このホテルは五階建てらしい。
 三〇七号室は狭かった。それなのに、天井だけが妙に高い。
 狭い分、背の高い棚やクローゼットが収納を賄っている。当然ながら、一番上の段には手が届きそうにない。反面、天井の高さに対して、テレビやベッドは普通の位置にあった。要であろうと見やすく眠りやすい、普通の位置に。
「噓だろ……」
 思わずそう言葉にしてしまう。
 まるで巨人の街に入り込んだ小人みたいだった。けれど、歩いている人間は巨人というわけじゃない。要と同じくらいの背丈をした、普通の人間だ。同じように、天井まで届く棚には手が届きそうにない。
 酷い疲労感を覚えながら、ベッドに腰掛ける。棚の一番上に置いてあるのは、なかなか立派な加湿器だった。ホテルには付き物のサービス。けれどそれは要の遥か頭上、殆ど天井に触れるほどの高さにある。引き摺ってきた机の上にでも立てばギリギリ届きそうだが、手を滑らせれば大変なことになる。加湿器は壊れるだろうし、怪我をする危険もある。
 普通、加湿器なんて重いものはあそこには置かない。
 要の常識の中ではそうだ。加湿器はその場所じゃない。
 単なる考え無しならまだいい。けれど、今まで見てきた街のスケール感を考えると、この街の人間たちは、この位置に加湿器を置いても問題が無いのかもしれない。
 何故なら、この位置に重いものを置いても、安全に不自由無く取れるから。それは何を意味しているだろう?
 少しだけ考えてから、要はフロントに電話を入れた。数分も経たないうちに、ホテルスタッフがやってくる。背丈も自分とそう変わらない、普通の人間だ。その彼に、要は意を決して話しかけた。
「あの……あそこの加湿器、取ってもらえますか?」
「はあ、お客さんも加湿器ですか」
 もっと訝しがられるかと思ったが、スタッフは不思議そうな顔をしただけで、すぐに棚に向かった。スタッフの手と加湿器の間には少なく見積もっても百二十センチ以上の距離がある。そのままだと、到底届きそうにはない。
 本来なら、届くはずが無いのだ。
「それじゃあ渡しますから。……落とさないでくださいよ」
 それなのに、スタッフはごく自然にそう言った。
 その瞬間だった。
 棚の上段にあった加湿器がひとりでに浮いて、そのまま要の手の上まで移動してきた。
 スタッフは指一本動かさずに、要と加湿器を交互に見て「離してもいいですか?」と言った。離すも何も、スタッフは加湿器に手を触れてもいないのに! 要がどうにか頷くと、スタッフは訝しげに「あ、手で持たれますか」と呟いた。一体それ以外に何で持てと言うのだろう?
「どうぞ。お気をつけてお持ちください」
 その言葉と共に、加湿器がしっかりと要の両手に着地した。ずしりとした重みが伝わってきて、思わず取り落としそうになった。
 パニックを起こさなかったのは、偏に彼がショービジネスの世界で生きていたからだ。生放送中に取り乱すショーマンはいない。崖から突き落とされようが、目の前で加湿器が宙に浮こうが、平静でいられるくらいでなくては。
 それにしても、目の前の光景は衝撃的だった。手に持った加湿器は重い。到底浮き上がるとは思えない重量だ。
「すいません。もう一つ。……ついでに僕の鞄、一番上段に置いてくれませんか」
「はあ、構いませんが」
 その言葉に合わせて、いとも簡単に鞄が宙を浮いた。一時も目を逸らさずに見ていたのに、そこには何の仕掛けも見えなかった。ワイヤーも無ければ透明な棒も無い。おまけに、浮いたのは自分の鞄だ。トリックを仕掛ける余地は無い。
 それなのに、鞄は望み通り棚の上段に収まっていた。
「もう大丈夫ですか?」
「え、いや……ありがとうございます……」
「また何かありましたらご連絡ください」
 絶句する要を余所に、スタッフは優雅に去っていった。
 要では届かない位置に、鞄を置いて。
 結局、鞄は『椅子の上でジャンプする』という原始的な方法で回収した。ぐらつく足元は、そのまま心中の不安を表しているようでたまらない。
 外は雨が降り始めていた。
 吸い込まれるように、窓の方に近づいていく。窓からは綺麗な夜景が見えた。随分高い建物ばかりだ。眼下に見えるのは近くにあるビルの狭い屋上だけで、おまけにビニールシートが掛かっている。あまりいい眺めじゃなかった。
 突然の雨を受けて、数少ない通行人たちはみんな透明なビニール傘を差していた。正確に言うならば、頭上に浮かせていた。差しているビニール傘には持ち手の部分が無く、傘地の部分だけが天使の輪のように浮いている。それを確認した瞬間、思い切りカーテンを引いた。
 心臓の音が酷い。ただ単に、雨降る街を眺めただけなのに! 宙に浮く鞄。持ち手の無い傘。どう見ても高すぎる棚。
 あの時見た背の高い電話ボックス。普通の人間が使うには、あまりにも高い位置にある電話ボックス。全部があそこから始まっていたのだ。
 この世界の人間は、当たり前のように手を触れずに物を浮かせる能力──サイコキネシスを持っている。本物の超能力者なのだ。
 要と冴昼が創り上げたような偽物ではない、本物の。
 そこで初めて叫び声を上げた。

  
 昔の話だ。
「子規さん、一つ勝負をしましょう」
 その頃の呉塚要は大学を出たばかりだった。大学を卒業し、彼はまずかつての先輩である子規冴昼を口説きにかかった。それが英断であったかはさておくとして、あの時の要には勝算があった。一体何に? 勿論全てに!
 久しぶりに会った子規冴昼は、眠たげに目を細めながら、要のことをじっと見つめていた。定職にも就かずふらふらとしていた冴昼は、ますます浮世離れした雰囲気を纏っていた。
 要が冴昼を見初めた一番の理由は他にある。しかし、その雰囲気も重要だった。学生時代から、子規冴昼のカリスマ性は群を抜いていた。その才能が衰えていないことが、ただただ嬉しかった。
 裏返したトランプを扇状に持つ。浅く息を吐いてから、口を開いた。
「何か一つカードを指定してください。俺がそれを見事引き当てられたら、手を組んでくれませんか」
「それじゃあ、スペードのクイーンで」
 その言葉と同時に、扇状のトランプを引っ繰り返す。
 表になったトランプの全てが、スペードのクイーンだった。驚く冴昼に向かって、要はさらりと「勢い余りました」と言ってのける。
「凄いね。本当に魔法じゃないの。まさか、君は本物の魔法使いなわけ?」
「まさか。こんなものは単なる手品ですよ」
「マジで? 全然分かんなかった」
「理屈は全てにありますが、明かされなければ魔法になります。効果的な場所で効果的なものを使えば、舞台裏は見えません。例えば、目を引く容姿とカリスマ性を持った先輩と、小細工に長けた後輩が組んだりすれば」
 冴昼はスペードのクイーンを一枚抜いて、しばらく指で弄んでいた。さっきはつまらなそうに細められていた目に、今は小さな火が灯っている。ようするに、彼は退屈していたのかもしれない。あるいは、共犯者になることを持ち掛けてくる後輩に、興味を持ったのだろうか。要は、熱っぽい声で言った。
「俺たちは上手くやれますよ。世界を驚かせにいきましょう」
 こうして要は子規冴昼を手に入れた。世界を相手取ってのゲームの最初の一歩だ。
 失敗なんて絶対にしない。この世で起こせる奇跡の全てをくれてやろうと決めていた。この世に超能力なんか存在しない。予言者も霊能力者もいない。超常現象は起こり得ない。だからこそ、子規冴昼だって本物になれる。
 ところで、あの時彼がスペードのクイーンを選んだのは単なる偶然だったんだろうか? と、要は思う。破滅の象徴とされて久しいそのカードを、子規冴昼はどんな気持ちで選んだんだろう?

 翌日の朝にはパニックは収まっていた。マルコ・ポーロなら見聞録の一つも書いたかもしれないが、あいにくと要にそんな技量は無い。この異世界で、ただただ翻弄されるだけだ。歯ブラシが低い棚に置いてあったのが唯一の幸いだった。
 朝食はバイキング形式だったが、どの大皿にも一様にトングが添えられていなかった。湯気を立てるスクランブルエッグを前に途方に暮れていると、不意にそれが宙に浮いた。空を飛ぶスクランブルエッグは、そのまま近くの女性客の皿まで飛んでいき、美しく盛りつけられた。その後も、パンやソーセージがひとりでに浮いては配置されていくので、要は心の中で思う。オーケイ、そういう仕組みか。
 結局、要が手に入れられたのは、袋に入った海苔とパッケージングされたバターだけだった。海苔を食べながら紅茶を飲む。まるでストイックなダイエッターだ。パンくらいなら素手で摑んでもいいんじゃないか、という思いが頭を過ったものの、どうにも手で食べ物を摑むことへの抵抗に阻まれる。
 テーブルに着いた宿泊客たちは、もう食べ物を浮かすこと無く、普通に箸やフォークを使って朝食を摂っている。彼らにとって、超能力は手の代わりなのだろう。その使い分けが、何となく理解出来てしまう複雑さ……。
 焼き海苔の素っ気無い味が、この状況が事実だと教えてくれている。このホテルに泊まっている人間の中で、トングが必要なのは要一人なのだ。

 会計をして、とりあえずホテルを出る。一万円札が自分の持っているものと同じであることがありがたかった。超能力世界であろうと福沢諭吉の偉大さは変わらないらしい。ただし、五千円札は要の知らない〝渋澤孝雄〟なる人物が描かれていた。
 けれど、ATMに差し込んだカードは使えなかった。ここでは超能力でどうこう出来ないよう、キャッシュカードかATM本体に特殊な仕掛けを施されているらしかった。手持ちの現金を数えてから、仕方無く歩き出す。
 スマートフォンを確認したものの、相変わらず圏外を示したままだった。結局、改めて昨日の交番で道を尋ねる。冴昼に指定された住所は、ここから二駅先だった。地図を渡されて、近くの駅に向かう。駅や店の位置取りは完全に変わっていた。勿論、駅の外観もまるで違う。
 駅の構内には『キャリアを犯罪の道具にしない為に』という啓発ポスターが貼られていた。ポスターに描かれているのは警察官の姿と、『何か』によって暴力を振るわれているサラリーマンや女性の姿で、いまいちどんな内容なのかは分からない。
 キャリア。……carrier? 頭の中で英単語に変換してみる。意味は運ぶもの。運送するもの。まさか、と思いながら改札を抜けると、一気に人波に押し流された。
 どうやら、この世界であっても満員電車と縁は切れないようだ。ぎゅうぎゅうに押し込められながら、少しの辛抱だ、と唱える。
 本当は今すぐにでもこの異常な状況から抜け出したかった。超能力者が当たり前のようにいる世界は、要にとって独創的な地獄でしかない。それでも要は、元の世界に戻ることより、もう一度子規冴昼に会うことを選んだ。一人で過ごした三年間が、要をどうにか立たせてくれている。
 乗客たちは、自分の目の前にスマートフォンや本を浮かせて、ページを捲っている。次々と移り変わっていく画面や、ぱらぱらとひとりでに捲られていくそれを見てもまだ、気持ちがついていかない。
 乗客の中には、それらの代わりにハンカチや腕時計を浮かせている人もいた。どういうことだ、と思った瞬間、件のポスターを思い出す。
 あれはきっと、冤罪を防いでいるのだ。
 見えない手が誰かを傷つけていないことを、証明する為の。
 それに気づいた瞬間、何だか居心地が悪くなった。この車内で何も浮かせていない人間は要だけだった。それがどんな風に見えるのかと思うと、冷や汗が出てくる。おかしい。本当はこんなことは何でもないはずなのに!
 幸い、二駅はすぐだった。逃げるように電車を出る。
 指定された住所は、街の外れだった。進んでいくにつれ、人通りがまばらになっていく。
 この街に、あるいはこの世界において、要は完全に異邦人だった。それでも、目指すべき場所に建っているものが何かは分かった。
 世界の理が変わろうと、その建物が持つ独特の緊張感は変わらない。加えて、入口で金色に輝く印を見ればもう間違えようが無い。
 ──冴昼に指定されたその場所は、警察署だった。

 剝き出しのコンクリートの壁。床に固定されたテーブルと椅子。そして、こちら側とあちら側を隔てるアクリル製の板。
 特筆すべき点があるとすれば、椅子を囲むように透明なアクリルケースが設置されているところだろうか。
 水槽に似たそれは、人間が入って丁度良い大きさになっていた。この部屋で面会を申し込む人間は、ここに入ることが義務付けられているらしい。
 要がその中に入って椅子に座ると、留置係が外側からケースに鍵を掛けた。小さな箱に閉じ込められた形になって、若干心許ない気分になる。アクリル板で隔てられた向こう側にも、同じようなケースが設置されていた。ケースの中には、床に固定された椅子以外何も無い。
 ややあって、面会室の扉が開く。その瞬間、身体が震えた。
「やあ、来てくれたね。久しぶり、元気だった?」
 現れた男が豹変していたからじゃない。あまりに変わっていなかったからこそ恐ろしかった。勾留されているはずなのに、子規冴昼はまるで貴族染みた出で立ちでいる。彼はとにかく、優雅な生き物なのだ。
 三年前と少しも変わらない子規冴昼がそこにいた。霊能力者仕様の黒いシャツは、殺風景な面会室の中で妙に浮いている。
 言いたいことは沢山あった。それこそ、失踪した当時は殺してやりたいとまで思っていたくらいなのだ。けれど、こうしていざ目の前にすると、ただ生きて再会出来ただけで震えがくるほど嬉しかった。要からすれば不思議な話だった。自分が求めているのは単なる再会ではなく、あの舞台を再演することなはずなのに。この数秒で三年が報われたような感覚すらした。この一瞬の逢瀬だけで、きっと要はこの先数十年すら待つだろう。
 けれど、こうして再会したからにはもう二度と逃がさない、という気持ちもあった。どんな犠牲を払おうと、どんな手段を用いることになろうとも、必ず冴昼を取り戻してやるのだという覚悟。抑えきれない激情に襲われていると、冴昼の方もアクリルケースに入る。こうして向かいから見たそれは、今や棺のようにも見えた。
 いつか逮捕されるかもしれない、というのは昔よく言っていた冗談だ。馬鹿げた話だと否定していたはずなのに、目の前の状況が笑うことを赦さない。
 ややあって、冴昼が口を開く。
「このアクリルケース、見た時驚いたんだけどね、実はこれ、」
 言いながら、冴昼がケースを軽く叩いた。言葉の続きを引き取るように、要は言う。
「……面会相手に消火器でもぶつけられたら死ぬって話だろ。ここじゃそっちに手が届く。お前、消える前は首にループタイか何か巻いてたよな? それは危ないから没収されたわけだ」
「ああ、正解。流石、大分馴染んでるね。この世界のルールに」
 悪夢のような話を天使の如き笑顔でされるのだからたまらない。何が正解だ、と要は一人思う。
 いよいよ認めざるを得なかった。
 この世界に生きている人間は全員サイコキネシス──手で触れずとも物を動かす力──が使えるのだ。
 だから、面会室の隅にある消火器なんかが簡単に凶器になる。この仕切りを隔ててもなお、目の前の相手を殴り殺せるわけだ。それを防止する為のアクリルケースが、サイコキネシスを使えない自分たちを隔てている。
「『サイコキネシス。触れること無く物を動かす力。そんなものは存在しません。今から私がそのことを証明します。私は見えないものを見通し、聞こえない言葉を聞きますが、物を動かすなら手で事足ります』」
 かつて仕込んだ台本を、冴昼は淀み無く諳んじた。
「未だに覚えてるんだな」
「何回も暗唱させられたからね。ほら、雀龍院念丈との対決の時に」
 雀龍院念丈というのは、昔対決した自称超能力者のことだ。
 高名な霊能力者として振舞っていると、妙なことに他の超能力者やら霊能力者やらから勝負を挑まれることもあるのだ。まるでこの世に超自然能力者の席が一つしか無いかのように、彼らは息せき切って子規冴昼と本物の座を争おうとした。
 そういった経緯で今まで対決をしてきた超能力者の中には、サイコキネシスを持っていると主張する者もいた。子規冴昼は、それを完膚無きまでに叩き潰し、トリックを暴き、偽物であることを証明した。
 それが今は、本物のサイコキネシスと向き合っているのだから、皮肉な話だった。
「……どうして、どうして黙って消えたんだ」
「別に黙って消えたわけじゃない。雪を見に行くってちゃんと言ったよ」
「この三年、俺がどんな気持ちでいたかなんて分からないだろうな。それとも分かってて消えてみせたのか?」
 思わず感情的な声が出た。目の前にいる冴昼は三年前と変わらず平然としていた。この三年ですっかり憔悴した要とは大違いだ。それが自分たちの温度差を示しているようで苦しい。
 せめて、冴昼の方から納得のいく説明が欲しかった。けれど、冴昼は不思議そうな顔で「三年?」と呟いただけだった。
「そうだ。時間の感覚も無くしたのか? なあ、どうして今になって連絡してきたんだ。……それに二度目の電話。あれを掛けたのは誰だ?」
「二度目の電話? 少なくとも俺じゃないよ。スマートフォン使えなかったでしょ。俺のも使えなくてさ、警察署の電話借りてようやく繫がったんだ」
「お前じゃないことは分かってる。けど、俺はあの声を何処かで聞いて──」
 そこで不意に記憶が蘇ってきた。
 要があの声を聞いたのは、ここと似たような面会室の中だった。あるいは報道、ないし捜査中に聞いた。
 あの声は、拘置所で自殺した例の教祖の声だった。
「どうしたの? 急に黙って」
 冴昼が訝しげにそう尋ねてくる。確証は持てなかったし、何より冴昼に言うのは躊躇われる話だ。それに、もっと差し迫った問題がある。
「ここは何処なんだ?」
「警察署」
「もっと大まかに言うと?」
「さあ、異世界ってことになるのかな。俺にも分からない。サイコキネシスを使える人間が暮らしている、という一点を除けば、この世界は俺たちの住んでいた世界と殆ど変わらない。勿論、その重大な違いによって様々な変化は起こっているけれど。大丈夫、この世界でもちゃんとピート・ベストはビートルズをクビになってる」
「そういうことを聞きたいんじゃない」
「そういうことを聞きたいんじゃないかもしれないけれど、俺が言えるのはこのくらいだよ。『サイコキネシスを使える世界』というテーマで要が想像しうる全てのことがここでは起こる」
「……待ってくれ、お前は本当に俺の知ってる子規冴昼なのか? こっちの世界にジョン・レノンがいるなら、こっちの世界の子規冴昼もいる?」
「残念ながら、この世界に子規冴昼は俺一人みたいだ。サイコキネシスを使えないから、仲間に入れてもらえなかったみたいだね。歴史は概ね大きな流れに沿っているけれど、そのうねりを生み出すに値しないキャラクターは、共有されてないのかも」
「分かった、もう分かったって……」
 気が触れそうな状況の中で、目の前の子規だけが唯一馴染み深い。けれど、三年前と全く変わらないはずの彼は、今アクリルケースの中にいる。それが意味するものって何だろう? それを思うと口の中がからからに渇きだした。
「冴昼、お前──」
 要の言葉を遮るように、冴昼は言う。
「単刀直入に言うけど、俺はとある殺人事件の容疑者なんだ。真犯人が捕まらない限り、恐らく犯人として裁かれるのは俺になる」
 やられた、と思った。一息で言い切った冴昼は、透明な棺の中で穏やかな微笑みを浮かべている。まるで自分の出番は終わったとでも言わんばかりに! 簡単な推理だ。これだけヒントがあって、その事情に行きつかないはずが無い。行きつかないはずが無いのに、頭は理解を拒絶していた。殺人。勾留。そして冤罪。
「は? じゃあ、お前、逮捕、されて……」
「いいや。留置場にいるのは居場所が無いからだよ。逮捕されたわけじゃない。要が迎えに来てくれたから出るつもり。でも、まだ逮捕されていないだけの俺に残された時間は少ないし、それまでに事件を解決しないと」
「事件って何なんだ? 何でお前が──」
「俺が巻き込まれたのはサイコキネシスを使えない人間しか引き起こさない事件。要、この世界で俺しか被れない冤罪を晴らしてくれないかな」
 冴昼は穏やかな笑みを浮かべたまま、静かにそう言った。
 拒否権なんてあるはずが無かった。

 冴昼が語った事件の概要は、以下の通りだった。
 被害者は、殿村不動産を経営している殿村和馬。御年五十六にして、機才の利いた経営手腕を振るう経営者だ。部下からの信頼も厚く、一代で築き上げた会社の発展は、殆どが彼一人の功績によるものなのだという。
 その彼が、一週間前に突然殺された。所有していた三階建てのビルの屋上で、額を割られたのだ。彼は星を見ながらワインを飲むのが趣味だったらしく、その日も焚火台の傍らでラッチ・デ・ライムを飲んでいた。まさか、お気に入りのアウトドアチェアが、自分の棺台になるだなんて思ってもいなかっただろう。
「凶器は見つかっていないけれど、片手で持てるくらいの大振りな石が有力だね。殿村社長は額を割られて即死。なかなか帰ってこない夫を心配してやってきた今の奥さんが死んでいる殿村社長を見つけて、事件が発覚。傍らには火の点いたままの焚火台に、飲みかけの赤ワインと氷の入ったバケツが残されていた。その日は流星群がよく見えたそうでさ、なんかもう冗談みたいな話だよね」
「……何でそんなに冷静なんだよ」
「どんな舞台だって、要がいれば十全にこなせたじゃないか」
 冴昼は当たり前のことを語るかのようにそう言った。要がいればきっと何とかしてくれるだろうという無条件の信頼が変わっていないことがたまらなかった。
「問題は、そのビルが俺の泊まっていたホテルの近くだったことなんだ」
「……なるほど」
「最初はね、警察も単に話を聞きに来ただけなんだ。あの部屋からは件の屋上が見えたから、何か目撃していないかってことでね。参ったよ。まさかあのホテルに泊まっていたのが俺だけだなんて想像出来る? まあ、何も見てなかったんだけどさ」
 そこではた、と気づく。ホテルの部屋の窓から見えたビルの屋上。ブルーシートの掛かった平たい一角。塔屋だけが、細長く突き出していたあの場所。
「まさか、お前が泊まってたのってニューパレスホテル?」
「そうだけど」
「ちなみに部屋番号は?」
「三〇七」
 要の言わんとしているところを理解したのか、冴昼がにんまりと笑った。
「運命的だね」
「……加湿器」
「届くわけないよね」
 冴昼がけたけたと笑う。
 これで、あのスタッフが、妙な要求にさっさと応じた理由も分かってしまった。要するに、要の依頼は二番煎じでしかなかったわけだ。
「まあ、そうして話を聞きに来た警察は、挙動不審な俺のことが気になっちゃったみたい。そうして身分証を見せろってところから、話が酷い方向にいっちゃってね」
 無理も無い、と要は思う。何しろ自分たちは正真正銘の異邦人だ。この世界の住人じゃない。戸籍も無いだろう。
「そうして俺が不思議の国のアリスをやっているうちに、更なる情報が入ったんだ。犯人は気がついてなかったみたいだけど、屋上に続く階段のステップがさ、一ヵ所踏み抜かれてたんだよね。事件が起こる二日前に、点検で腐食が見つかったところでさ。いくら傷んでるっていってもひとりでに穴が空くはずが無いから、誰かが踏んだんだろうって」
「犯人がエレベーターを使わなかったのは、監視カメラに映りたくなかったからか?」
「ご明察。ちなみに、殿村社長がエレベーターを使ってるところはばっちり映ってた。そもそも、見て分かるくらい階段は自壊が進んでたから、普通の人間ならまず登ろうとは考えないだろうね。よっぽどの理由が無ければ、あんな危険そうなところを通らないでエレベーターを使う。つまり、階段を上がったのは犯人でしかありえないってことだよ」
 そこで冴昼は小さく息を吐いた。
「というわけで、俺が犯人ってことになっちゃったわけ。いや、動機なんかどうにでもなるものなんだね。結局は金目当てってことで決着がついて今に至るよ」
「……ちょっといいか。どうしてそれでお前が犯人ってことになるんだよ。『屋上に人が入った』と『子規冴昼が犯人』の間に相当な飛躍があるだろ」
「それが繫がっちゃうんだよ。この街ではね。いいかな、仮に殿村社長がこの街に遍く存在する誰かに殺されたとしよう。それならどうしてわざわざ屋上に上がらなくちゃいけなかったのかな?」
「話が見えてこないんだが」
 冴昼は、静かに言った。
「この街の人間は一人残らず〝キャリア〟を使えるんだ」
「キャリア」
 それは、街で何度か見かけたキーワードだった。
「キャリアは手を触れずに物を動かす能力……俺たちの知っているところでいうサイコキネシスだね。この能力の射程範囲は半径五十メートル、個人差はあるけれど、概ね個人の腕力と同等の力がある。だから自分を浮かせて空を飛ぶことは出来ない」
 キャリアの説明をちゃんと受けるのは初めてなので、素直に興味深かった。生まれた時からその力と共に生きるというのがどういうことかは想像もつかないが、想像しなくてもこの世界はそれを体現している。
「ところで要。ニューパレスホテルの屋上には行った?」
「屋上?」
「あのホテルの屋上はガーデンテラスとして開放されてるんだ。ホテル横の朱色の外階段から上がれるから、宿泊客以外でも利用出来るんだよ。屋上からは星がよく見えるよ。ついでに、件の屋上も。これが意味するところは、要なら分かるんじゃないかな」
「……キャリアを持っている人間だったら、ビルの屋上までわざわざ行く必要が無い。見えてる範囲、三十メートルくらいは、そのままキャリアの射程範囲だ。わざわざ危ない階段を上がって屋上に立ち入る必要なんて無い。自由に入れるガーデンテラスに上がればいいんだから。たとえ物盗りの犯行であっても、社長の私物を物色することすらキャリアで出来る」
「ご明察。というわけで、屋上に誰かが立ち入った以上、キャリアを持っていない子規冴昼が犯人ってことになるわけだね。屋上で優雅に酒盛りしている殿村社長を、ホテルの窓から見ていた俺が、よからぬ心を抱いて殺したってことで」
 聞いてしまえば、なるほど筆頭容疑者の理由も分かる。色々な条件が重なった末の冤罪だ。偶然には違いないけれど、こうなってくればキャリアを持っていない子規冴昼は、うってつけの犯人像だった。まるで事件が子規冴昼を呼んだようでもあり、世界が彼を主軸にしたストーリーを組み立てているかのようだった。
 そう、それこそ稀代の天才霊能力者を創り上げるように……、なんて恐ろしい直喩が要の脳をガンガンと揺さぶってくる。
「何でキャリアが使えないってことがバレたんだ?」
「何を持つにも手で持ってれば怪しまれるよね。それで、取り調べの最中に警察官が水の入ったコップを用意してきたんだ。それで『これを玉にしてみなさい』って言ってきたんだよ。いやー、あの時は困ったね。霊能力者時代だったら要が何とかしてくれたかもしれないけど。あ、何とか出来るよね?」
「トレヴィの泉ごと浮かせてやったよ」
「流石。それでこそ呉塚要。でもさ、俺が本物の霊能力者だったら、こんな冤罪掛けられなかっただろうに」
 笑えない冗談だった。改めてこの状況にぞっとする。要はただ、かつての運命を連れ戻しに来ただけだ。なのに、ここでもし失敗すれば、冴昼はこの世界に囚われ、要はあの場所に永遠に取り残されることになる。それだけは避けたかった。
「そもそも、何で殿村はそんな建物を所有してたんだ?」
「殿村社長はその建物の一階と二階を使って、新しいビジネスを始める予定だったみたいだよ。だから業者に見積もりを依頼してたわけ。殺されるんだから意味無かったんだけど」
 冴えた冗談だとでも思っているのか、冴昼は笑顔でそんなことを言った。
「というわけで、俺は結構大変なことになってるわけ。今はまだ任意ってことになってるけど、起訴されたら多分、俺は負ける」
「よくもまあ淡々と言えるな。このままだとお前、マジで犯人にされるぞ」
「要が来る前に散々そういうパートはやったからね。もう取り乱したりはしないかな」
 凪いだ表情で冴昼が言う。正直、取り乱したいのは要の方だった。まるで冴昼は自分で自分を人質にしているかのようだ。要相手には、これが一番効果的だとよく知っているのだろう。その通りだ。抗えない。
 一瞬の沈黙の後に、要は口を開く。
「……俺は何をすればいい?」
「俺たちが霊能力者だった頃、要は沢山の事件を解決したでしょ? だから、解決出来るとしたら要しかいないと思ったんだ」
「何を言ってんだよ。子規冴昼は今もまだ霊能力者だ。お前を頼って、事務所にはまだ客がやってくる。霊能力者としてのお前はまだ必要とされてるんだよ」
 その時、冴昼は初めて目を伏せた。二人で居た時には殆ど見たことが無い表情だった。
「……俺はね、要」
 そうして冴昼が何かを言おうとした瞬間、面会室の扉が開いた。同年代くらいのスーツ姿の男性が警官と一緒に入ってくる。
「こんにちは。私が子規冴昼さんの身元引受人を務めます、弁護士の木村義忠といいます」
 それを聞いた瞬間、驚くほどすっと事情が吞み込めた。この場合一番適切で当たり障りの無いものは、と考えた結果、要もビジネス用の笑顔で返す。
「どうも。俺が今回の事件の再調査依頼を承りました。子規の知己であるところの探偵、呉塚要です。事情は全て聞きました」
「事情?」
「今回の事件が、どう考えてもキャリアを持っていない人間によって起こされたものだということ。そして、子規冴昼がキャリアを持っていないが故に犯人だと見做されていることの二点です」
 はっきりと言った要に対し、木村は気圧されたように呟いた。
「それで……呉塚さんは何をしに?」
「そうですね。子規冴昼の冤罪を晴らしに」
 冤罪と言い切った要を、木村が訝しげに見る。
「では速やかに子規さんを解放してください」
 木村がそう言うのに合わせて、周りがおもむろに動き出す。「少し待ってください」と言ってから、要はもう一度冴昼に向き直った。
「お前はいつ起訴される?」
「それは要と警察のやる気次第。木村さんは良い人だよ。証拠隠滅と新たな殺人さえしなければ俺の味方だと思う」
「その間に真犯人を見つければいいんだな」
「勿論、無理だと思うなら断ってくれてもいい。でも、ここまで俺を追ってきたんだ。要だって何もしないわけにもいかないんじゃない?」
 他人事のような顔をして、冴昼が言う。まるで一連の出来事が奇妙な流れの中にあるかのように。そうとも、要は自ら選んでここに来た。……本当に? そもそも、一体この世界は何なのか。冴昼を見捨てたところで、元の世界に戻れるかどうかも分からない。アクリルケースの中から、要は振り絞るように言う。
「どんな手を使ってでも俺はお前を連れ戻す」
「そうだね。要が頑張ってくれないと、大事な子規冴昼がこんな場所で死んじゃうよ」
 警官に連れられて扉の向こうに消える瞬間に、冴昼はそう言って笑った。
 冴昼の姿が見えなくなった瞬間、殆ど崩れ落ちそうになった。
 かつて要は、冴昼を世界で唯一の本物の霊能力者として完成させた。
 それなのに、今の彼はこの世界で唯一超能力が使えない人間で、それが原因で謂れの無い罪を被せられようとしている。
 呉塚要は超能力者の街で、唯一〝普通〟の人間である子規冴昼の無罪を証明しなければいけない。
 これは一体何の皮肉で何の罰なのか。

(続)

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