溟探偵・誰川入鹿は友達が居ないけど人生が楽しい


 性格が悪い人間がそれを揶揄される時、往々にして用いられる定型文がある。それは「お前は友達がいないだろう」だ。
 けれど、この言葉以上にナンセンスなものはない。友達がいないことと性格の悪さを関連付けてどうなる? この世には俗世と交わらない聖者がおり、孤高の清貧が存在するのに? 本当に馬鹿げている!
 それはそれとして、誰川入鹿に友達がいないのは、偏に彼の性格が悪いからである。誰川にはおよそ友達がいない。でも彼は人生が楽しい。とっても楽しい!

   *

 別荘の玄関を出て最初に見ることになるのは、胸の下辺りまで伸びた長髪と、結婚式から抜け出してきたかのような白いスーツを着た姿だろう。
男にしてはやや小柄で、身長は百六十センチも無い。胸元にはいかにも高級そうなループタイが結ばれ、その手には小さなピンク色のキャリーケースが握られているはずだ。それが誰川入鹿の目印である。
 「ここはホテルじゃないぞ」と場違いな忠告をするより先に、白スーツの男がバッと顔を上げる。その顔を見れば、目の前の人間がスーツ姿の女性なんじゃないかと誰もが勘違いをするだろう。
 そのくらい、目の前の人間は少女然とした顔つきをしていた。重力に逆らって上を向く睫毛も、ヘーゼルナッツのような瞳の色も、一々小ぶりな鼻と口も、女性の持ち物と言われた方がしっくりくるのだ。
「やあやあこんにちは、アナタはこの別荘の関係者ですね?」
「……その、私は……この別荘を所有している、信山炎羅という者だが……」
「オーナーさん! 道理で恰幅よく景気の良い見た目をしていらっしゃる! こちらの別荘も資産転がしの一端で所有していたってところでしょうか! いやあ、まさかあなたも資産価値がこーんな形でガク落ちするとは思っていらっしゃらなかったのでは? やー、人生何が起こるか分かりませんね!」
 誰川がぺらぺらまくし立てるのは、まだ相手が困惑していると知っているからだ。心が揺らめいていて、突然の不審者に対応しきれていない。当然ながら、誰川が言っていることの半分も理解出来ていないだろう。なら、このボーナスタイムに言いたい放題言わないのは勿体無さすぎる。
「申し遅れました。わたくしは、そこらの二束三文とは二線を画して一線に立つ、溟探偵の誰川入鹿と申します」
 誰川は『わ』を『あ』に近い発音で口にするので、実際には「あたくし」に近い音が出る。この時点で、誰川への印象は最悪だった。この四文字のトーンだけで、誰川の誰彼構わず小馬鹿にしているような、どことない慇懃無礼さが伝導してくる。
「探偵……? 探偵なんか必要ない。じきに警察も来るんだ」
 信山炎羅は息子が死んだ後とは思えないような冷静な判断をする。彼はこの雪山の奥深くまでわざわざ警察がやって来て事態の収拾をつけてくれるのだと思っている。その通りだ。この事件は誰川が来なかろうと数時間も経てば解決する程度の事件でしかない。
 しかし、誰川は諦めない。不意に表情を曇らせ、手で口元を押さえる。そして、わざとらしいくらいの涙声で言った。
「わたくし、被害者である信山炎司くんのお友達なんです。彼に連絡が取れなくなって、心配でここまで来たんです。お願いです、わたくしに……この事件を解決させて頂けませんか?」
 信山炎羅は警察を信じる冷静な男だが、一方で友情という錦の御旗に弱い人情家であった。その弱点を衝かれたお陰で、彼は誰川を迎え入れてしまったわけである。

 二階建ての別荘の中には、信山炎羅を含めて五人の人間が居た。豪奢な暖炉の前で、一同は一様に強張った顔をしている。
「……私は信山炎羅。スイートフォトパレスというフォトスタジオを経営している。そこに居るのが社長秘書の飛山と部下の能瀬、別荘の管理をしている友本さん。息子の友人の松根くんだ」
 その紹介によると、今時珍しい七三分けのスーツ姿が飛山。四十絡みの、これまた恰幅のいい男が能瀬。髪を三つ編みにして横に垂らしているのが友本、そして、明らかにここで浮いているスカジャン姿の金髪が松根というらしい。良い具合に被らないキャラクター構成に、誰川は密かに舌なめずりをする。なるほど、ミステリー向きのラインナップじゃないか。誰川は軽く咳ばらいをしてから辺りをぐるりと見回す。
「ええっと、事件については炎羅サンにお聞きしたのですがね。被害者は信山炎司クン、二十六歳。大きな固いもので後頭部を殴られて撲殺されてしまいましたが、およそ凶器のようなものは見つからない。発見場所は誰でも入れるワインセラーだそうで」
「それで大丈夫です」
 緊張しているのか、友本が硬い表情のまま言った。
「ご安心ください皆様! このわたくしめが来たからには最早解決したも同然! 大親友である信山クンの仇はこの誰川入鹿が討たせて頂きましょう! いいですね?」
 突然の名探偵の登場に委縮しているのか、異議を唱える者はいなかった。こういうところも誰川が探偵をやっていて楽しい場面の一つである。異邦人である自分に誰も彼もが一応の尊敬を与えてくれるのは気分が良い。ここに居る人間は今のところ、一人を除いて誰川の軍門に下っている。
 そう、一人を除いて、だ。
「ちょっといいか」
 その時、冷たい声がした。訝し気に誰川を見つめる目。──誰川の軍門に下っていなさそうなたった一人。
「俺は松根竜二。……死んだ信山の親友だった」
 松根は短く刈り込んだ金髪を光らせながら、淡々と言った。
「俺を助手にしてくれ。探偵。俺も信山の事件を捜査したい」
「……あらあらまあまあ探偵助手志望とは。いいでしょう、わたくしの助手でよければ」
 誰川はキャリーケースをくるくると回しながら言った。

 普通ならばここで目くるめくミステリーが始まるところだったが、この物語の主役は誰川入鹿なのでそうはならなかった。捜査開始、となるなり誰川は松根の部屋に連れ込まれ、決定的な一言を放ったからだ。
「お前、信山の友達じゃないだろ」
 言われた瞬間、誰川の大きな目が更に見開かれる。
「そんな、そんな言い方は酷いですよ! 友達がどのラインから友達なのか一々線引きする方がいらっしゃるなんて、流石のわたくしもショックです! 常々人の心が分からないと言われてきたわたくしですが、そのわたくしにショックを与えるなんて! 本当に本当に最低です!」
「嘘吐け! 信山は金持ち私立中学に全く馴染めず不登校になり、高認を取って大学入って俺と知り合うまでマジで友達がいなかったんだぞ! っていうか信山の親父さんも馬鹿過ぎだろ、何で騙されんだよ……。おい、目的は何だ。探偵とか言っててめー何か企んでんだろ」
「あ、ふうん。信山クンってそういうタイプの方だったんですね。そりゃあ信山炎羅氏もクッソバカですね! やー、そこまで息子サンへの解像度が低いとは!」
 これ以上嘘を吐き通すのも無理だと踏んだのか、誰川があっさりと手の平を返す。からからと笑うその顔は相変わらず無垢な笑顔で、そこが一層気味が悪い。
「あ、そうですそうです。目的でしたね。目的は探偵ですよ」
「はあ?」
「なあんで探偵助手のビビッドな関係の事は知っている癖に探偵の性についてはご存じないんですか! 事件があったら関係したい、そういうだけですよ。でもご安心、わたくしはそこらの二束三文とは二線を画して一線に立つ、溟探偵の誰川入鹿です」
 勿論、報酬も何も要りません。飛び込んできたのはわたくしですから。と続けた誰川に、松根が一層困惑する。犯人に関係している人間か、あるいは愉快犯か何かなら殴ってやろうと思っていた。けれど、それにしては誰川の目的が分からなくて気持ちが悪い。そんな松根に駄目押すように、誰川が言う。
「松根クン、事件を解決したいんでしょう? なら、わたくしに頼った方がいいと思いますよ。ね、そうでしょう?」
「……信用出来るのか? そもそも、タイミングが良すぎるだろ。まるで、信山が死ぬのを知ってたみたいで……」
「ああ。それについては別に不自然なことでもなんでもありませんよ。実はわたくし、山頂のロッジで起きる予定の事件を張っていたんです」
 ひらひらと手を振って、誰川が笑う。
「事件を張っていた?」
「数日前にわたくしの事務所に依頼が来たんです。何でも登山サークルに数年前の事件を仄めかしながら皆殺しを予告する脅迫状が届いたとかで、わたくしめにその事件の予防をね、して欲しいと。まーったく、インフルエンザじゃないんですから、探偵雇えば事件が防げると思わないで欲しいですよ。そもそも、そんな脅迫状が来てるのに山に登りますか? 普通。やめない方が馬鹿です」
「ちょっ……待て」
「何ですか」
「あんた、こっちじゃなくてその事件止めなくちゃいけないんじゃないのか? ここに首突っ込んでる場合じゃないだろ! これから連続殺人が起きるかもしれないのに!」
「起きるかもしれないですけど、起きないかもしれないじゃないですか。第一、わたくしの依頼人は探偵を依頼したって吹聴しそうなタイプですから、それだけで抑止力にはなるでしょう」
「にしても、ロッジにあんたが現れなかったら依頼してる人も驚くだろ!」
「山登り初心者と言っておきましたから、適当に遭難したと思ってくれるでしょう」
「いや、だって……」
 なおも食い下がろうとする松根に対し、誰川は舌打ちで応じた。
「なあーんで分からないんですか! これから出来るかもしれない死体より、今目の前にある死体の方が重要じゃありませんか! だって目の前にあるんですよ! そっちの方が絶ッ対確実に楽しめるじゃないですか!」
「あ……?」
 二の句が継げないとはこのことだった。
 嘘を言っているようには見えなかった。ということはこれが誰川の本心なのだろう。言っていることは分かるのに、その内容が理解出来ない。糾弾すべきことを言われている気がするのに、どう咎めればいいのか分からない。
 そんな松根を置き去りにして、誰川は口を開く。
「言っておきますけど、わたくしは基本的に趣味で探偵をやっていますからね。趣味で探偵をやるっていうことがどういうことなのか、わたくしが教えてあげますよ」
 誰川が笑顔でそう告げる。教えてほしいと言ったわけでもないのに、そこには暴力的なまでの圧があった。
「さ、ワインセラーに行きましょうよ。わたくしの助手である松根クン。事件、解決出来ないよ?」

 結局松根は、誰川に言われるがままワインセラーを訪れた。そこには、別荘管理を担当している友本と、変わり果てた信山が『居た』。
 よく手入れされたセラーには、四十本ほどのワインが所蔵されている。床にはゴミ一つ染み一つない。よほど手入れされているのだろう。
「お待ちしていました、誰川探偵。それに松根さん」
「ほほう。わたくしなんかの為に出迎えご苦労様です! ここの管理も友本サンがなさっているので?」
「ワインセラーの温度管理、屋外プールの排水管理、地下のシアタールームの管理、別荘全体のセントラルヒーティングの管理、全て私が担当しています」
「プール! いいですねえ。十二月初旬ですがまだ入れます? 凍ってない?」
「水は循環させているので凍ってはいませんが、寒いでしょうね……。別荘の中は温度管理がなされていますからそう感じないでしょうが、今日は寒いですよ」
「わっかりましたー! それでは、友本サンはワインセラーを出て頂けます? これから捜査をいたしますので」
 誰川は口元を押さえながら、友本に向かって一礼をした。勢いに押されるがまま、友本がワインセラーを後にする。
 そうして二人きりになった瞬間、誰川が歓喜の声を上げた。
「やったー! 死体ですよ、死体! すごーい! 本物!」
 口元を押さえていたのは笑いを堪える為なのだろう。そのことに気がついた瞬間、松根ははっきりと怒りを覚えた。
「お前、何言ってんだよ!」
「中肉中背、男性にしては少し背が低い……なーんて言ってもわたくしより大きいですけど! 後頭部の血は凝固し変色、ふむふむ、死んでますね。わー、テンション上がっちゃうな」
「し、死体だぞ! ……何でそんな楽しそうなんだよ!」
「楽しいからですけど……。わたくし、楽しい時に斜に構えてるあまのじゃくが好きではないので」
「だから、信山が死んでるのの何が楽しいんだよ!」
「だって探偵ですもん」
 あまりにシンプルで、だからこそ隙の無い回答だった。何処から批難すればいいのか分からない。
「不謹慎だとかそういうのはやめてくださいよー、独創性無さすぎですから。好感度の話も無しですよ。松根サンは最初っからわたくしのこと滅茶苦茶嫌っているじゃないですか。だから、わたくしを止める方法は実質ありません! 残念でしたね!」
 死体を前にした誰川が勝ち誇ったように笑う。一体何故そんなに偉そうにされているのかが分からない。憎き犯人よりもずっと、目の前の誰川の方が不可解だった。目の前の男を殴りつけてやったらどれほど胸がすくだろう、とそればかりが頭に過る。
「……おい。信山のことをこれ以上馬鹿にするつもりなら、ここから叩きだすぞ」
「えっ! 何で? 溟探偵であるわたくしに頼らないと、この事件迷宮入りしてしまいますよ! いいんですか? そうなったら、アナタの責任問題ですよ! いやー、いいのかなー、死んだ信山くんもこれでは地獄で泣いてしまうのでは?」
「何で信山をさらっと地獄行きにしてるんだ」
「あ? なるほど。こちら失敬致しました! 死んだ信山くんもこれでは酒池肉林で泣いてしまうのでは?」
「俺に殴られる前に止めた方がいいぞ」
「ねえねえ何でわたくしが怒られなくちゃいけないんですか? 悪いのは信山クンを殺した人間でしょう? わたくし別に何も悪いことしてないのに、不謹慎だからって理由でアナタに説教されなくちゃいけないの、心外ですが」
「なあ、不謹慎は不謹慎だろ。あんたまがりなりにも探偵なら、もう少し人の気持ちとか分かってていいんじゃないのかよ。そんなこと言われたら、」
「そうですね、アナタが不快になるでしょうね」
 遮るように誰川が言った言葉を聞いて、松根は思わず息を呑んだ。その間にも、誰川の口は止まらない。
「わたくし生憎と霊魂の存在を信じていませんので、わたくしがこうして事件をエンジョイして不快な思いをさせる相手なんて、松根氏だけなわけです。ねえ、不謹慎とかそういう馬鹿みたいな方便やめてくださいよ。自分が不快になりたくないから黙れって言えばいいじゃないですか」
「不快だから黙れ!」
「残念! 黙りません! なーに素直に本心を曝け出したらむしろ分かってくれる! みたいなテンプレートな人物理解は! そんなわけないじゃあないですか! わたくしが探偵をやっているのは自分の為! 自分の為ですから! 松根クンの言うこととか犬の死骸よりどうでもいいです!」
 そう言い終えた瞬間、誰川の身体が飛んだ。鈍い音を立てながら、信山の死体の横に転がる。
「あ、わ、悪い……」
 人を殴ったのは殆ど初めてだった。少なくとも成人してからは無い。誰川を打った平手がじんわりと痛み、じわじわと後悔が襲ってくる。
 すぐに反撃がくると思っていたのだが、意外にも誰川は何も言わず、ただ松根のことを見つめていた。何が起こったのかが分からない、という風でもある。
「ぶった……」
 成人男性にはあるまじき語彙を吐きながら、誰川が叩かれた頬を押さえる。幸いなことにそこは赤くもなんともなっていなかったが、その姿を見ただけで松根の胸が痛んだ。
「その、悪かった。……流石に、殴るのは無い、っていうか」
「……殴られたのは初めてです」
 睫毛を震わせつつ言われた言葉には「嘘吐け」という気持ちしか抱けなかったが、松根は妙な罪悪感に襲われていた。
さっきまで淀みなく喋っていた誰川が見るからに萎れているからだろうか。ギャップというのはいついかなる時であっても効果を発揮する。それが、誰川入鹿であっても。あるいは、誰川入鹿だからこそだ。
「……痛い……」
「悪い、何か冷やすものとか持ってこようか?」
「いい……」
 そう言いながら、誰川はとぼとぼとワインセラーを出て行ってしまった。待てよ、と言う暇も無かった。ワインセラーにはもう見るべきものがないということなのか、それともただ単に酷いショックを受けたのか。どちらにせよ、松根は誰川を追いかけるしかなかった。

 ワインセラーを出た誰川が向かったのは、空き部屋になっている二階の角部屋だった。そこで誰川はカーテンに包まりながらあからさまにいじけている。時折頬に手をやって溜息を吐く様は、わざとらしいが効果的だった。
「……だから謝ってるだろ。いつまでそうしてるつもりなんだ」
「だって、わたくし……」
「そんな一回ぶたれたくらいでいじけることないだろ。何なんだよおめーはよ」
「でも、わたくしは……」
 誰川はなおもくるくるとカーテンと一緒に回っている。そして五回ほど回った後、誰川がわざとらしく声を上げた。
「あっ……」
誰川は大袈裟に目を見開くと、子供のように口元を両手で押さえた。成人男性らしからぬその仕草を見ると、誰川の姿はますますもって子供のように見える。そのまま誰川はきょろきょろと辺りを見回すと、指の隙間から器用に溜息を吐いて、首を左右に振った。
 明らかに何かに気がついたような仕草だった。それなのに、自分から言うつもりはないらしい。
「どうした、誰川探偵」
 ややあって松根がそう尋ねると、誰川は困ったように眉を寄せて、頬に手を当てる。自分は今悩んでいます、というのがありありと分かるオーバーリアクションなポーズだ。この時点で、松根の背を嫌な汗が流れた。
「……えーっと、そうですねえ……」
「何なんだよ、何かあるなら言えって」
「ええーっ、でも、少し困った事態になってしまいまして」
「何が」
 思わず松根の語気が荒くなる。そんな松根の姿を見て、誰川はいよいよ元気になっていくようだった。さっきまでの萎れた姿は何だったのか、と言いたくなるくらいだ。
「実はですね、溟探偵であるところのわたくしは、ちょーっとした事実に気がつき、推理を組み立てられそうな予感を得たのですがね。いやあ、お恥ずかしながらわたくしの情緒はまだまだ未発展ですから、その驚きとひらめきに大はしゃぎしてしまいそうな」
「そのひらめきって何なのか教えてくれよ!」
 その瞬間、誰川が小さく舌を覗かせた。小首を傾げて、人差し指を頬に当てる。
「じゃ、はしゃいで良いって言ってくださいよ」
「はあ?」
「アナタの大切な親友様の事件ではしゃいで喚いて楽しんで骨までしゃぶり尽くしていいって言ってくださいよ」
 悪魔のような進言だった。
 恐らく誰川はさっきのことを根に持っているのだろう。だからわざわざこんな踏み絵のようなことをしているのだ。松根が自分の前言を撤回し、さっきの自分を裏切るように。
 迷わなかったと言えば嘘になる。だが、親友の死の真相を知ることが出来ないかもしれないという恐れが勝った。
「……わかった、いい。はしゃいでいいから」
「本当ですか!」
 誰川はそう言いながら目を輝かせると、思い切り息を吸い込んでから一息で言った。
「はああああ! やったー! さっすがわたくし、顔がよくて頭がよくて最高―ッ! 事件楽しい! 探偵楽しい!」
「もういいだろ、ひらめきって何なのか教えてくれ!」
「わたくしのひらめきとは、犯人が分かったってことなのです」
「……あ?」
「だーから、ひらめきが何か教えてあげたでしょう?」
 誰川が言っていることに、数秒遅れて合点が言った。深く息を吐いてから、松根は言う。
「……犯人を教えてくれ」
「えー、どうしましょー、かなー?」
 たっぷりと句読点を打ちながら、誰川が身体ごと首を傾げた。その目には底意地の悪そうな光が爛々と宿っている。
「土下座してくれません?」
「は?」
「わたくし、別に誰彼構わず土下座させたい性癖の人間ではないんですけどもね。さっき松根クンに殴られたところがしくしく痛むんですよねー、自分で言うのもなんですけど、わたくし女の子のようなかわいい顔をしているでしょう。それを不躾に殴られるのって、あまり慣れていないんです」
 さっきは殴られたことがないと言っていなかったか、と松根は思う。だが、もうそれを言う気力も無かった。部屋に絨毯が敷かれているのが唯一の幸いだろうか。
 土下座の姿勢を取りながら、松根は思う。これが探偵。これが名探偵だ。事件の中にあって、彼の力はあまりにも強い。真相が分からない有象無象は、探偵の前にひれ伏すしかない。
 だが、あまりにも理不尽だ、とも松根は思う。一体どうしてこんな目に遭わなければならない? ただ相手は推理をするだけの、趣味で探偵をしているだけの、単なる部外者なのに。それを思うと、涙すら出てきそうだった。
 誰川がゆっくりと歩いてくるのが分かる。そして、スッと誰川の片足が上がった。踏まれる、と思ったのに、松根は避けることも出来ずに微かに身を竦ませる。その瞬間、くつくつと笑い声がした。
 誰川の片足が絨毯に降りる。その代わりに、誰川の顔がゆっくりと近づいて来た。
「松根クン、わたくしに踏まれると思ったでしょう。だから踏んでやらなかったんですよ」
 耳元で囁かれたその声に、殺意が湧いた。
 松根が今まで生きてきて初めての殺意だった。

 溟探偵、みなを集めてさてと言い──。というわけで、スピーディーな解決編だ。
 誰川はこの空き部屋に全員を集めると、ゆっくりと全員の顔を見回した。何も知らなければ探偵らしい仕草だと思っただろうが、今の松根にはそれが単なる悦の為のものにしか見えなかった。
「事件解決の糸口が掴めました。しかし、まだあと一歩足りません。雄恥ずかしながら皆様の協力が必要なのです」
 ややあって、誰川ははっきりとした声で続けた。
「皆様には一階ホールの床板を剥がして頂きたい」
「ゆ、床板!?」
「そうです。床板です。斧で床を割って、そこから剥がしていけば楽だと思います」
「何の為にそんなことを──」
「何の為に? 何馬鹿なことを聞いてるんですか! 今はまだそれを語るべき時ではないのですよ! わたくしの意図が犯人にバレたら、アナタ方はどう責任を取るおつもりで!? いいからわたくしの言う通りにするんですよ、ほら早く! ほらはーやーくー!」
 言いながら、誰川が子供のように地団駄を踏む。突如始まった異様な光景に、この場にいる全員が引いていた。探偵役が何か思わせぶりなことを言って、その説明を一切しないというのはままある展開ではあるけれど、その理不尽が自分達の解決編にまで食い込んでくるとは思わなかったのだろう。
その時不意に、誰川の地団駄が止んだ。不気味なほど唐突な静止の後、誰川がゆっくりと顔を上げる。耳の後ろの三つ編みが前の方に垂れてきてゆっくりと揺れた。
「信山炎司くんを殺した犯人、知りたいんでしょう?」
 これもまた探偵としてはテンプレートな台詞ではあった。それなのに、誰川が口にしただけでそれは世にも恐ろしい脅迫の言葉に響いた。
探偵というのはここまで誰かの気持ちに寄り添わない存在であっただろうか。言葉の暴力の化身のような顔をして、人に何かを強いるものであっただろうか。誰川の目には、嘲るような色が浮かんでいる。こんなことも出来ないのかと、言外に言われているのが優に分かった。
「……分かった。炎司の為だ。やろう」
 その時、沈黙を裂くように信山炎羅が重々しく言った。そのまま彼は、狐の目をした誰川の方に向き直る。その様は、まるで悪魔と取引しているかのようだった。
「これで炎司を殺した犯人が分かるんだな」
「お約束しますよ。この行為は必ずや犯人確保に繋がりましょう。やったー! わたくしかなりワクワクしてきました!」
「待ってください! 正気ですか社長!」
 この場で唯一冷静なのか、能瀬が慌てて止めに入る。けれど、社長はおろか隣にいる飛山と友本も既に決意を固めているようだった。
 けれど、松根もこの流れを止めることは出来なかった。何しろ、松根すらこの状況を歓迎していたからだ。誰川が気に食わないとか、人の別荘の床板を剥がすことへの抵抗がすっかり抜け落ちて、そうしなければいけないという無限の使命感が湧いてくる。
これが探偵と事件に巻き込まれるということなのだろうか。信山炎太郎がありったけの道具を用意するように命じ、一同が一階へ走る。松根も意気揚々とその後に続こうとした瞬間だった。
「松根クンはここに残ってください」
 水を差された、という言葉が本当に似合う声で引き留められた。奥底にあるくらい喜びが滲んで見えるほどの声色で、誰川がもう一度繰り返す。
「ここに居てください、松根クン」
「何でだ。人手が必要だろ。第一、お前も見に行くんだろ?」
「あは、見に行きはしますけれど今ではありませんよ。さあさ、わたくし少し疲れちゃいました。お茶でも飲みましょう」
 そう言って、誰川は本当に紅茶を淹れ始めた。ただし、ポットで淹れたというのにカップは一つ、即ち自分の分だけだ。ローズヒップの上品な香りが部屋に満ちて、松根はいよいよ身の置き所が無くなるようだった。階下では床板を剥がし始めているのか、並々ならぬ物音が立っている。
「おー、やってますね。別の部屋にいても、案外音でわかるものなのですね。わたくし、床板剥がしの経験はないので大変興味深いです」
「……なあ、どのくらい剥がさせるつもりなんだ。てか、これってどのくらい待つつもりなんだよ」
「そうですね。少なくとも床の四分の一は剥がしてもらいませんと。でも、この別荘生意気にも結構広いですからね。結構時間がかかるのではないでしょうか」
 誰川は柱時計を見ながらのんびりとそう言った。四分の一となれば結構な面積だ。それを剥がし終えた時、一体何が出てくるのだろう。あるいは、床板を剥がしている最中に犯人がうっかり尻尾を出すとかそういう類の話だろうか。どちらにせよ、誰川は下に行って確認するべきなのではないだろうか。そもそも、自分はどうしてあの輪に加えられず、こうして茶を飲む誰川をまじまじと観察させられているのだろうか。さまざまな疑問が浮かんでは消えていく。
 疑問と焦りで松根がすっかり消耗した後、ようやく誰川が立ち上がった。
「そろそろ階下の見学に参りましょうか」
 悠然と言ってのけるさまは遊行をしに来た貴族のようだった。それに反発を覚えている間もなかった。ミステリーを結末まで読み飛ばす気の急いた人間の気持ちが分かるようだった。何は無くとも答えが欲しい。まるで従者のように、誰川の小さな背を追っていく。
 階下では信山炎太郎も能瀬も飛山も友本までもが汗だくになって別荘の床を剥がしていた。
いや、剥がすというより、破壊している。当然ながら床は板一枚で出来ているわけではなく、そこには床板を支える根太と呼ばれる角材などがあるのだ。それの扱いに困りながらも、一同は既に角材を折り、床に大穴を空けながら進軍していた。
「誰川探偵! どうでしょう、まだやりますか!」
 大声でそう尋ねたのは、気が乗らなそうだった能瀬だった。やっている内にテンションが上がったのか、軍手を嵌めた手でめりめりと床を剥がしている。その様を見て、誰川は嬉しそうに目を細めた。
「ええ、ええ、上出来です。わたくし感動で前が見えなくなりそうです。ですが、これではまだ八分の一と言ったところ。床下の根太や大引きは放っていいので、床板に集中してくださいまし」
「分かった!」
 威勢よくそう答えながら、信山炎太郎が斧を振り下ろす。綺麗に磨かれていたフローリングが無残に破壊され、大きな裂け目が出来ていく。それを数分眺めてから、誰川はまたもくるりと踵を返した。階段を上がっていく彼を、松根はまたも追った。
階下に降りたはいいものの、一向に訳が分からなかった。あれは一体どういうことだろうか? それに誰川も誰川だ。木材を無視して板に集中させるということは、やはり床下に何かが隠されているということで、誰川はそれを調べようとしていたのだろうか。
 そうこうしている内に、二人は元の洋室に戻ってしまった。
「おい、いや、その──誰川探偵、今ので何が──」
 後ろ手に扉を閉めながら、松根は恐る恐るそう尋ねる。その瞬間だった。
 振り返った誰川の目が光っている。
 比喩ではなく本当にそう見えた。お人形染みた茶色い目が一層の光を取り込んで輝き、白い肌が上気して仄かに染まっている。興奮しているのだ、ということが見るだけで分かった。窓を背にした誰川は、逆光のお陰で禍々しい様相になっていた。それなのに、その目だけは影の中で光っている。
「どうなさいました松根クン! そんな探偵を見るような目をして!」
「その、床板、まだ足りないんすか。……俺からしたら、あれで十分だと思うんですけど……あんた、一体探してるんですか」
「探してる? ふへ、そーっですねー」
 抑えた声で言う誰川が小さく震えている。笑いを堪えているらしい、と数拍遅れて気づく。まさか、と言うよりも先に、誰川が大仰に笑い始めた。容赦の無い笑い声が部屋に響き、反り返った誰川が近くの棚にぶつかりそうになる。そのまま頭でも打って死んでほしい、と本気で思った。
「やー、本当はあと二、三回は鑑賞しに行こうと思ったのですけど、もう無理です。自分でもこんなにツボに嵌るとは思ってませんでしたよ、本当に! あー、面白い面白い、建物が訳分からない文脈で破壊されるのって最ッ高! ねー、松根クン、あれってもしかして『火を放て』って言ったらその通りになるんですかね?」
 早口でまくし立てる誰川の顔は、いよいよ美少女めいていた。目を輝かせて頬を染める表情というのは、ここまでの効果を出すものなのか。それの元が階下から響く破壊の音であると、表情だけ見れば想像も出来ないだろう。
 合わせて震えそうになる身体を押さえつけて、松根はゆっくりと尋ねた。
「…………もしかして、あれ、意味ないのか」
「そうですね。事件には直接何も」
「じゃあ、なんで」
「え、持ち主が自分の別荘の床板剥がすの、吐くほど面白くないですか?」
 笑い声混じりで誰川がそう言った瞬間、松根は全てを忘れて誰川に飛びかかって行った。けれど、それを予想していたのか、誰川はひらりと身を躱して高そうなベッドの上に着地した。ぽすんと身体が跳ねて、誰川がクッションに雪崩れ込む。
「やだもーそういうのやめてくださいよ! 暴力振るうなんてわたくし以上の最低野郎ですよ!」
「黙れこの嘘吐き! クソ外道! お前なんか死んじまえばいいんだ!」
「いえいえ、クソ外道ではあるやもしれませんが、わたくし嘘は吐いてませんて。ほーら、ちゃんと思い出してくださいよ。バックログ機能はミステリーに必須ですよ? わたくし、犯人確保に繋がるって言っただけじゃないですか」
「だから犯人確保に繋がるつっただろ!」
「繋がりますよぉ、だって、これだけ笑わせてもらって、わたくしはようやく犯人を指摘してやってもいいかって気持ちになるんですからね。わたくしをその気にさせること以上に犯人確保に繋がることなんてございませんよ。はー、楽しいー! 人生たのしー!」
 誰川はそう言いながら、ベッドの上で足をバタバタさせた。微かな埃が舞い、光に照らされる。
「わたくしは最低で、人の心を分かってなくて、ゲスなゴミムシかもしれませんけど、それでも探偵ですから。楽しんだっていいじゃないですか」
「名探偵としてのプライドは無いのかよ」
「勘違いなさっているようですが、わたくしは別に名探偵として賞賛を受けたいわけでも真実へ向かう強い意思があるわけでもないんです。松根サン、そんなのどうでもいいのですよ。わたくしは今この瞬間が楽しめれば、それでいいのです。人間は誰も彼もが自分のやっていることにプライドを持っているとでも? 遍く人間はみんな仕事に誇りと愛を持っているのでしょうか? いやあ、そういう人間もいるでしょうね。けれど、そうでない人も沢山います。趣味だって本気で取り組んでいる人はいるでしょう。けれど、エンジョイ勢だって沢山います! ここまではいい。ここまではよいのです。なら、何故探偵はエンジョイ勢ではいけないのでしょうか? 人が死んでるから? ちゃんちゃらおかしいですね! そんなものは問題の本質じゃありませええええん!」
 どこで息継ぎをしているのか全く分からない長台詞だ。一息でそれを言えてしまうのは、誰川が見せた一番探偵らしいスキルでもある。けれど、言葉が続けば続くほど、誰川の印象がおぞましい異形へと変化していく。
「わたくしからしてみれば、探偵が探偵の責任とか言い出すのは、歪んだ選民思想だと思いますよ。他人の人生がどうとか真実を暴くものの責任とか、奴らは架空の荷物を無限に大きくして気持ち良くなってるだけです! 大した重荷でもないくせに!」
 それから、誰川は巷で人気な探偵の名前を次々にあげては、一様に嗤い始めた。彼が挙げた続原とか青岸とかは、松根も何度かテレビで観たことがある。それらの探偵は誰川と違い、みんな正しくて善良な探偵のはずだ。
 しかし、誰川はそれら全ての正しさを一蹴して、笑いながら言った。
「だから、わたくしは自分の為に探偵しちゃうんですよ」
 言いながら、誰川がカーテンに手を掛ける。さっきまで誰川がくるくる包まっていたカーテンだ。そのまま、彼の手が窓をあらわにする。
「わたくしが何故この洋室に皆様を集めたと思っているんです? わたくしはね、床板のことを思いつくまで、これでこの事件を終わりにしてしまおうと思っていたのですよ。だから、このロケーションが必要だったのです」
 導かれるまま、松根も窓の外を見る。
「山の日差しは想像していたよりも強いでしょう? だから、こういうことが起こるんです。カメラのレンズが眩しかった経験は? 海で目が開けられなかった経験は? あるでしょう? 松根クン?」
 後半の言葉は殆ど聞いていなかった。何せ、聞くまでもない実例が前にある。
 水面に陽の光が反射して、プールは一枚の光の板になっていた。
「水抜いたら、プールの底に痕跡くらい残ってるんじゃないでしょうかね。水の抜けたプールに信山クンを突き落とした犯人は、止血する為に一旦プール底で死体をあちこち引きずりまわし、血を強引に拭ってからワインセラーに運んで、痕跡を隠す為にプールに水を貯めたんですよ。ご覧の通り、水を入れてしまえばプールの底も水本体も見えません。わざわざ寒い中プールに近づかなきゃ大丈夫です。犯人はこうなることを知っていた友本サンでしょう。何で運んだんですかね。わたくしなら死体ごとプールに沈めますけど。でも、どうせバレちゃいますよね。はい、おわりー」
 果たして、誰川の言う通りであった。この事件は誰川が解決しなくても解決する単純な事件であったし、プールの反射を知っていた友本が、咄嗟に行ってしまった杜撰な工作だ。
 そして、信山家所有の別荘の床板は無残に剥がされて、不動産としての価値が下落し、事件は終わった。

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