月曜日が好きだと君は言うけれど(後編)

「ところで、スマートフォンは胸ポケットの中に入っているだろ? 財布は?」
 ロンから出た後、小鳩はそう言って振り返った。脈絡の無い言葉だった。
「何だ? カツアゲか? 駄目だぞ」
「駄目だぞときたか。いや、そうじゃないよ。教えて欲しくて」
 どういう意図かわからないまま、俊月は素直に答える。
「ジャケットのポケットに入っている」
「へー、本当に?」
 小鳩が、用心深くポケットを叩く。そして、俊月が嘘を吐いていないことを確認すると、満足そうに笑った。嘘吐くなんて思ってなかったけどさあ、という声は妙に浮かれていた。
「瀬越のそういうとこ、結構好きだよ。困るな」
 そう言うと、小鳩は鮮やかな手管で俊月の鞄を奪い取った。時間にしたら二秒もかかっていないだろう。奪い去られた鞄は勢いのままに外濠に投げ込まれる。ぼちゃん、という重い水音が遅れて響いた。流石に予想していない展開だった。俊月の認識が正しければ、他人の鞄は勝手に水の中に放り込んでいいものじゃないはずである。
「……録音機器があるとまずいからね。別に瀬越のことを芯から疑ってるわけじゃないんだけどさ。念の為だよ」
 他人の鞄を水の中に投げ込んで、小鳩は晴れやかに言った。
 なるほど、合理的な話ではあった。さっきの会話はともすれば自白と捉えられかねない。勿論そんなことはしていないけれど、小鳩が危ぶむのも無理はない話だった。
「なるほどな。理由が分かった」
「分かるでしょ」
「理由が分からなかったら、お前を川に投げているところだった」
「おっと、いい感じに危機回避出来てよかった。嬉しいな」
 分かりやすい理由付けではあった。ただ、この行為自体が何か別の意味を孕んでいる気もした。水の中に投げ捨てられた鞄で、小鳩は何かを計っている。別に腹も立たなかった。否、腹は立ったけれど、それは日常と地続きの怒りだ。一回の腹パンで赦せてしまいそうな怒りだ。
 このくらいでは、まだ菱崖小鳩を殺そうとは思えなかった。
「それで? あの鞄何入ってたの?」
「……本だ。あると落ち着く。どんな事態に陥っても暇潰しが出来るだろう」
「意外と読書家だよね、そういうとこ好きだな」
 そう言って、小鳩は自分の鞄をまさぐる。そして、中から数枚の一万円札を取り出した。それを俊月の手に押し付けながら、彼は眉一つ動かさない。
「それで鞄も本も買い直してよ」
 突き返してやるつもりにもならなかった。これで小鳩の気が済むならそれでいい、と思う。手の中の一万円札はどういうわけだか全部ピン札だった。それをやる気なく捲りながら、俊月が言った。
「……本以外にも入っていたものがあったんだが」
「手持ちそれしかないんだけど足りない? どうかな。それだけあって買え直せないものなんてあんまりないよね?」
 ややあって、俊月は言った。
「いや、家の鍵が」
「いやもうそれは本当にごめん」

 当然のことながら鍵の交換費用も小鳩が払うことになり、二人で鍵屋の到着を待った。扉にもたれかかる様は置いてきぼりにされた子供のようだった。事実、そう変わらない。
 鍵屋を待ちながら、小鳩はいつも通り他愛ない話をした。映画の話、料理の話、歳華の話、大学の話。そこにはもうスナッフフィルムも殺人も悲しい過去も何も出てこなかった。
 日が暮れるより先に鍵屋がやって来て、俊月の家の鍵を最新式のものに変える。ピッキングが出来ないという最新鋭の鍵は、慎ましいアパートの扉には不釣り合いだった。新しい鍵はずっしり重い。
「それじゃあ僕はこれで」
 そう言って、小鳩が立ち去ろうとした。普段と何一つ変わらない態度だった。映画を観終わった後のようだ。そんな小鳩に、今度は俊月の方が手の中のものを押し付ける。
「何? 開けろってこと? 自分でやりなよ」
「そうじゃない」
 さっきの札束の意趣返しのように、もう一度手の中の鍵を押し付けてやった。自分には不釣り合いな代物だったけれど、小鳩にならそれは存外似合う。セキュリティーの高さを示す複雑な模様が、光を浴びて銀色に光っていた。
「それはお前にやる」
「そんなパピコの半分みたいなノリで渡されても」
「一本は俺、一本は歳華、そしてもう一本はお前だ」
 鍵屋は全部で三本の鍵を寄越した。その鍵の数に、何かしら感じるところがあった。この割り当てで、全てが収まるべきところに収まるのだろうと思ったのだ。
「…………そんなもの渡しちゃって。寝てる間に忍び込まれて殺されるかもしれないよ」
「そうだな。だからくれてやるんだ」
 ある意味では宣戦布告でもあった。小鳩がどんな人間かはもう知った。その上で、敢えて鍵を渡すのだ。その意味が、聡い小鳩に分からないはずがない。今こそお前なんか怖くもなんともないと、証明してやらなくちゃいけなかった。何しろ目の前にいるのは見境の無い殺人鬼なんかじゃない。たった一人の小鳩の親友なのだから。
 小鳩は何か言いたげだったけれど、結局はその合鍵を受け取った。面倒臭い矜持を抱えたこの男のことだ。受け取る確信はあったけれど、少なからず安心した。まずはこれが第一歩だ。
「それじゃあ瀬越、またね」
「……ああ、また」
「これで二時間後くらいに何食わぬ顔で合鍵使いに来たら面白くない?」
「俺はお前のそういうところが本当に嫌いだ」
「そんな一語一句噛みしめるように言わなくても」
 俊月は、小鳩の姿が見えなくなるまでずっと戸口の前に立っていた。影すら見えなくなってから、ようやく中に入って扉を閉める。
 その瞬間、扉に凭れかかるように崩れ落ちた。心臓が早鐘を打つ。大丈夫だっただろうか。自分は何も失敗していないだろうか。自分の判断は間違ってはいなかっただろうか。正解を教えてくれる人間なんか誰もいない。
 ロンを出てからの小鳩は、いつもの小鳩と変わらなかった。鞄を外濠に投げ捨てた時ですら、小鳩は小鳩であり続けた。だからこそ怖くなった。
 以前と同じように小鳩と他愛無い会話を交わしていることの方が恐ろしかった。いつかこの『雑談』が抱えた事情に追いつかなくなり、全てのことが茶番になってしまうんじゃないだろうか? そう思わずには居られなかった。そして、その時が恐らく、自分たちの終わりだ。
「……歳華、」
 奮い立たせるように、その名前を口にする。歳華。まずは歳華だ。でも、具体的にどうすればいいのかまるで分からなかった。……いや、正解なんて分かっている。歳華のことを一番に思うのなら、俊月は小鳩を切り捨てなくちゃいけなかった。けれど、それが出来なかった。歳華の為の最善を選ぶなら、あの男を遠ざけなくちゃいけなかったのに。その時点で既に茶番だ。
 歳華にもうここに来ないように言うか。少なくとも、小鳩とは鉢合わせないように取り計らうか。その考えはすぐに消えた。聡い歳華のことだ。すぐに何かを察することだろう。けれど、菱崖小鳩の裏にあるものを、小学生の歳華に伝えるわけにもいかない。
 完全なるダブルバインドだ。大切なものが一つだけであればよかった。ただでさえ人間が下手なのに、両手に掛かるものが重い。小鳩が歳華に手を出さない保証なんてないのだ。
 震えながら、あの時の手の冷たさを思い出す。小鳩はあの時、歳華を守ったのだ。それだけは嘘じゃない。
 気づけばすっかり夜になっていた。這いずるようにベッドに向かう。食事を取る気にもなれなかった。
 暗い部屋の中で、改めて思う。小鳩はいつでも俊月を殺しに来ることが出来るだろう。合鍵とはそういうものなのだ。尤も、それをそんな風に見たことなんてなかったけれど。合鍵と生殺与奪が絡んでいるなんて冗談にもならない! 人間関係のハードルがあまりにも高過ぎて眩暈がした。一緒に暮らす人間達は、相手に殺されるかもしれないという危機感と隣り合わせで暮らしているのだ。本当に信じられない。
 本当に小鳩が殺しに来た時の為に枕元に包丁を置いて寝ようかとも思ったのだけれど、結局やめた。本当に殺すつもりなら、きっと小鳩は上手くやるだろう。
 夜を怖がる自分があまりにも可哀想なので、うっかり笑ってしまった。その夜は、小鳩の言っていた映画の夢を見た。『プレイタイム』なる古い映画の夢だ。小鳩の孤独を救い、人生を導いた――あるいは狂わせた運命の映画。
 夢の中の『プレイタイム』には、大量の恐竜が出てきた。恐竜たちが楽しそうに遊び、思うがままに人を喰らっていた。如何せん、俊月の映画知識には酷い偏りがあるのである。

「びゃあー! お兄ちゃぁーん! 小鳩が私のメロンパン食べたぁー!」
「あっ瀬越に助けを求めるのはずるいぞ。困るな。絶ッ対歳ちーの味方するじゃん。あっ、瀬越違うんだよ。僕が先にメロンパンに手つけたんだもん! 大体歳ちーはクリームパンにするって言ってたでしょ。言動をころころ変えるのはどうなのかな?」
「……小鳩、歳華に謝れ」
「はあー? だから嫌だったんだよ。こういう時、瀬越は絶対実の妹の味方をするだろ? 全く以て不利だな」
「いや、そこじゃないだろう。相手は小学生だぞ」
「見ておけよ歳ちー。来世は僕が妹で君が親友に生まれ変わるんだ。そうしたら妹の立場を利用して散々甘やかされてやるからね」
「びゃあー!」
「歳華、ほら。クリームパンも美味しいぞ。そんな奴に構うな」
 あの衝撃の告白から何が変わったかといえば、驚くことなかれ、何も変わらなかった。小鳩は何事も無かったかのように俊月の家に遊びに来て、歳華を構ったり構わなかったりして愉快に過ごしていた。二人は精神のレベルが大体同じくらいなので、こうしてよくぶつかっていた。
 それを見ながら『殺人犯もメロンパン食べるんだな……』と妙な感慨を覚える。以前の小鳩と何ら変わらないのだから、そんな驚きを覚えること自体がおかしいのだが、そう思った。
 何だか全てが夢だったかのようだった。パソコンを開けばあの動画を観ることが出来るけれど、ここに居る小鳩は単体としてみれば何の後ろ暗さも無い普通の大学生だった。生きている彼を前にするだけでは、スナッフフィルム、という言葉は結び付かない。
 そんなことを考えていると、不意に小鳩と目が合った。柔和で人の良さそうな目だ。愛され上手の犬の目だった。俊月とはまるで違う目だ。その目が黙ってこちらを見てくるので、なるべくぶっきらぼうに「なんだ」と返す。
「瀬越ってさ、メロンパンのことをメロンブレッドって言い換えたりはしないんだね」
「何を言ってるんだ。不自然だろう」
「人の理解を完璧に打ち砕いてくる姿勢! ていうか、君目つき悪いからさあ、余計に怖いんだよ。前髪上げて目見せれば?」
「検討しておく」
「そういうこと言う奴、絶対やんないからね。困るな」
 そう言って、小鳩はけらけらと笑った。

 何も変わらない。何も起こらない日々だった。

 小鳩があれから、同じように誰かに手を掛けたかどうかも分からなかった。尋ねたい気持ちはあった。四作目が生み出されたのかどうか、誰かが作品の礎になったのかを。けれど、食卓を囲みながら『どうだ? 最近は人間を拷問してるのか?』と聞くだけの勇気はなかった。上手いオブラートの包み方すら知らない! 拷問の部分を解体、甚振りに変えても駄目だった。
 小鳩の過去の『作品』を探す勇気も出なかった。検索ワードは分かっている。それが〝在る〟世界を知ってしまえば、探すのは容易なのだ。
 俊月は何も出来なかった。不器用ながらも正義感と行動力があったはずの自分は何処にいったのだろう? 改心をさせるのだと思っていた自分は何処に行ったのだろう?

 時間はただただ過ぎて行った。それから二人は数本の映画を一緒に観た。俊月は得意料理を数品作ってやった。何も動かなかった。以前とは恐ろしく違ってしまったのに、彼らの間には何も起こらなかった。
 むしろ、動きがあったのは俊月から距離のある世界、インターネットの方だった。
 小鳩が作ったスナッフフィルムのコメント欄で、被害者の〝塚本勝〟という名前が晒されたのだ。

 それだけじゃない。彼の個人情報から当日の足取り、荒唐無稽な推理なんかが燃え盛る炎のようにコメント欄を舐めていた。
 リストに入れている動画――小鳩のスナッフフィルム、に動きがあると通知がくるように設定していた。なのに、通知が来た瞬間驚いてしまった。動きがあるとすれば、この動画が削除されるかどうにかするかの時だろうと思っていたからだ。色々な意味で、予想外の展開だった。
 息を殺しながら、コメント欄で露にされたプライベートを覗き見た。
 それによると塚本は事件当日、有給を取っていたのだという。真面目なはずの彼は、有給が明けても会社には戻って来なかった。彼のことを心配する同僚たち。そして上げられたこの動画――。
 塚本の勤め先は、そこそこの大企業だった。社員は千人を超えている。その中に居る節操の無い誰かが塚本の個人情報を流したのだろう。酷い話だ。けれど、そのくらい悪趣味な方があの動画には相応しい。相応しい、エンターテインメント性だ。
 身体を切り刻まれ、個人情報を撒かれ、骨の髄までエンターテインメントの奴隷になった塚本が哀れでならなかった。小鳩の残虐と、人々の悪意とが組み合わさって作品として昇華するグロテスク! それでも、この男は歳華を襲おうとした男なのだ。その罪が影として伸びる。
 その時、心の奥で線が震えた。その線の先には何かが結びつけられている気がするのだけれど、俊月にはその先のものが何か分からない。何となく、傘、と思う。塚本勝の鞄の脇に置かれていたビニール傘。……何だ?

 その時、インターホンが鳴った。慌てて玄関に向かう。扉を開けると、満面の笑顔の歳華が立っていた。
「合鍵渡しただろう」
「でも、鳴らすとお兄ちゃんが来てくれるから嬉しいんだもん」
 そう言って、もう一度花が咲いたように笑う。長く伸びた髪がそれに合わせてさらさらと揺れた。それを見ただけで、じんわりと胸が詰まる。
 歳華はあれ以来ツインテールをやめていた。入院してから、綺麗に髪を結ぶことの面倒さに気づいてしまったのだという。頭の上で揺れる髪の毛が好きだったので、少し残念ではあった。けれど、髪を下ろした歳華は、それはそれでとても可愛かった。黒い髪を綺麗に垂らした歳華は、ぐっと大人っぽく見えた。歳華は成長していくのだ、と心の中で思う。
「今日は小鳩いないんだね。あたしが来たのに」
 いつぞやの声真似のような言葉だった。
「そんなに四六時中居ても困るだろう」
「でも、お兄ちゃんと小鳩はいつも一緒って感じだったから。ねえ、……もしかして何かあった?」
 歳華は察しが良かった。そして、一瞬で表情を曇らせる。
「……小鳩、口では気にしてないって言ってたけど、もしかして……その、嫌になっちゃったかな。……だって、小鳩あの時、酷い怪我して」
「違う。そうじゃない。そうじゃないんだ」
 俊月は殆ど食い気味にそう言った。小鳩は歳華を恨んではいない。憎むことだってないはずだ。あれだけ残酷なことをしてはいても、小鳩にはまだ映画を慈しむ心があるし、〝本当の〟小鳩はそんな人間じゃない。歳華を守ろうという気持ちが、小鳩にはちゃんとあったのだ。
「……そっかあ、そうだよね。小鳩はそういうの気にするタイプには見えないよね。うん、だったら何処かで野垂れ死んでたりした方がまだしっくりくるよね!」
「お前の小鳩へのイメージはそんな感じなんだな……」
「だからお兄ちゃんも気にしないで。きっとふらっとまた来るよ」
 まるで猫を語る時にような口振りで、歳華はふにゃりと顔を綻ばせた。それを見た瞬間、言葉が口を衝いて出た。
「……小鳩のことは好きか?」
「えっ、な、なんでそんないきなり」
 好きという言葉に過剰反応したのか、歳華の顔が一瞬で赤くなる。けれど、それを揶揄う兄でもないと判断したのだろう。少しだけ控え目に、それでもはっきりと歳華が言った。
「まあ、そりゃあ……好きだよ。なんていうか、大人げないけど、一緒にいて楽しいし。小鳩と一緒にいる時のお兄ちゃんは楽しそうだし」
「もし、小鳩が悪い人でも好きか?」
「や、どう見ても良い人ではないよね」
「それはそうなんだけどな……」
 苦笑いをしながらそう返す。全く、元より害悪な人間はやりづらい。歳華だって小鳩がそれほどいい人間じゃないことを知っている。その濃度の違いで、どうしたってすれ違う。ややあって、俊月はもう一度口を開いた。
「なあ、歳華」
「なーに?」
「世の中というのは、きっとあんまり優しくないんだ。悲しいことの方が、もしかすると多いかもしれない。……小鳩がもし、お前を襲った人間と同じくらい悪かったら、お前はどうする?」
「えー……そんなのわかんないよ」
「……そうだよな、わからないだろう」
 その言葉を聞いて、俊月は少しだけ安心した。歳華も分からないのだ。そうだ、こんなことが容易に分かっていいはずがない。けれど、その安心を追い越すように、歳華はこう続けた。
「でも、考えるよ。考え続けると思う。小鳩のこと。その時は、どんなに大変でも、私が考えるよ」
 歳華はまっすぐに俊月のことを見据えていた。その場凌ぎの言葉じゃない、瀬越歳華の解答だった。何と返していいか分からなかった。その解答に値するものを、俊月は持っていないのだ。
 勝てない、と心の中で思う。妹相手にそんな感慨を抱くことすら間違いなのかもしれないが、痛切に思った。勝てない。人間なんか、上手くはならない。こんな風には出来ない。
「……お前は凄いな」
 どうにかそれだけ言った。得も言われぬ敗北感が胸を焼く。それを受けて、歳華がもう一度口を開いた。
「さっきの答えに、ちょっと付け足す」
「何だ?」
「小鳩がびっくりするくらい悪い人だったら、小鳩を題材に小説を書こうかな。リアリティーが大事って、小鳩も言ってたもんね」
 そう言って、歳華は晴れやかに笑った。それを見て、俊月は改めて思う。――敵わない。これから先何が起ころうと、真の意味で瀬越歳華を翳らせる人間なんか存在しないんじゃないだろうか。そう思わせるような笑顔だった。瀬越歳華は人間が上手い。そして、きっと人生も上手いのだ。軽やかに世界を渡るその手管が、俊月には本当に愛しい。
「……あ、そうだ。小説、今度小鳩に見てもらおうと思うの。ほら、クラスの子に見せたら、長いし読みづらいって言われて……っていうかそうだよね。小説書いてクラスの子に見せるの、ちょっと変だよね……」
「いいや、何にも変じゃない。お前は小説を書き続けるんだ。そんなこ気にしてられないだろう」
「あはは、ありがとうお兄ちゃん。大丈夫だよ、私にはお兄ちゃんと小鳩がいるんだもん。それだけでいいよ」
 それから二人は少しだけ雑談を交わした。映画のこと、小説のこと、パンのこと、小鳩のこと。そうして、暗くなる前に帰るのだ。
 俊月は、歳華と一緒に駅まで歩いた。家賃の手頃さに比例する距離は、手を繋いで歩くには最高の距離だ。雨続きだったあの日々が嘘のように、外は麗しい夕焼けだった。
「もう大丈夫だよ。小鳩も大丈夫だって言ってたもん。だから、そんなに心配しないで」
「……そうだな。暗くなるしな、このままだと」
 電車を二本見送ってから、ようやく俊月は手を離した。細くて小さな手がぱたぱたと揺れる。そして、歳華がぽつりと言った。
「……お兄ちゃんから借りてた傘が持って行かれちゃったのが一番悲しかったなぁ」
「あんなの何処にでもあるような傘だろう。気にすることはない」
「それでも、何だかお兄ちゃんに守ってもらってるみたいで安心したんだよ」
 奇しくもそれは、俊月が託していた願いだった。結局、直接的に守ってやることは出来なかった。けれど、その言葉で救われたような気分になった。
「傘無くて困らない? お兄ちゃんあの傘しか持ってなかったでしょ?」
「貸してから必要になった場面が無いからな。もしかすると、お前に傘を貸すと雨に降られないのかもしれん。大したご加護だな」
「……また、傘貸してくれる?」
「……ああ。いいぞ。今度はお前が持っても映える、可愛い色の傘を買おう。そうしていつでも貸してやるんだ」
「ねえその場合、お兄ちゃんが可愛い色の傘を差さなくちゃいけないって問題があるんだけど……」
 懸念の言葉を封じるように、歳華の頭を撫でる。ツインテールを止めた彼女の頭は、なかなかどうして撫でやすいのだ。夕焼けと共に、歳華が手を振って去っていく。一人きりになったホームで、俊月はしばらく赤い夕焼けを眺めていた。この分なら明日も晴れるだろうし、しばらくは、新しい傘を買わなくても大丈夫だろう。
 歳華はああ言ったけれど、今度は彼女にも似合う傘を買おうと決めていた。水色とかなら、ギリギリ自分が差してもいいかもしれない。強面の自分が水色の傘を差しているところを想像する。小鳩は笑うかもしれないが、二人で使うならそっちの方がいい。歳華への祈りを託した、あの、傘。

 そこで思った。何かがおかしい。

 引っ掛かりを覚えた瞬間、背中に嫌な汗を掻いた。論理的に説明することは出来ない。彼は名探偵じゃないのだ。けれど、何かがおかしい。無意識が悲鳴を上げて、俊月を追い立てる。傘。そうだ、傘だ。そこに何かおかしい部分がある。
 俊月は脱兎のごとく駅を飛び出し、家へ駆け戻った。この時点ですら、まだまともに把握が出来ていなかった。でも、歳華が教えてくれた! 歳華の言葉が『何か』の糸口になったのだ。
 パソコンを立ち上げ、検索ワードを打ち込む。しばらく見ない内に、動画の件数は更に増えていた。複製を繰り返された動画は随分画質が荒くなっていたが、そちらの方がむしろ合っているような気がした。菱崖小鳩の『作品』に相応しい熟成だ。
 もう二度と観ないと決めていた動画を、恐る恐るクリックする。目当ては解体シーンじゃない。冒頭の演出だ。男の荷物を写す場面だけを繰り返し再生する。そこでようやく、全てが繋がった。違和感がゆっくりと形を結ぶ。
「……傘だ」
 知らず知らず口に出していた。この動画の中には二本の傘が映っている。塚本のビニール傘と、俊月が貸した黒い傘だ。
 この動画に、小鳩の傘は映っていない。当然だ。小鳩が歳華のところに向かった時――下校時刻には、もう雨は降っていなかったのだから。歳華が傘を持っていたのは、朝の登校時に雨が降っていたからだ。そこは不自然じゃない。
 それでも、何かがおかしい。俊月はゆっくりと考えを巡らせる。映像の奥、ビジネスバッグが映ったところで映像を止める。再生。少し戻ってリピート。そして再生。あの時は不自然にも思わなかった場面だ。ここだ、と思う。

 どうして傘は二本あるのだろうか? 何故塚本のビニール傘がここにあるのだろうか?

 歳華が傘を持っているのは分かる。朝の時点ではまだ雨が降っていたから、それは何ら不自然じゃない。歳華はちゃんと学校に行ったのだろう。素晴らしいことだ、本当に!
 対する塚本もまた、ビニール傘を持っていた。――これはどういうことだろうか? 変わりやすい天気に備えたのだろうか? そうかもしれない。でも、そうじゃないかもしれない。
 〝単に傘が必要なだけだった〟のかもしれない。つまりは、塚本が外に出た時、雨が降っていたのかもしれない。昼過ぎには雨が止んでいた。だとすれば、傘を持参していた塚本は放課後を狙って行ったわけじゃない。それなら、傘なんて持っていかなかったはずだ。人間一人を攫おうとしていたのだ。邪魔になるものは無い方がいい。
 それでも、スナッフフィルムの中には塚本の傘が映っていた。『塚本は傘を持って拉致された』のだ。そうでなければ、塚本の傘を手に入れる術は無い。
 それならば、塚本は雨の降る朝から小学校の近くに居たのだろうか? そうとは考えにくい。放課後までの数時間をあそこで過ごす理由がない。考えれば考えるほど息苦しくなる。心臓が狂ったように鳴って、俊月を苛んだ。それでも、思考が止められない。朝から潜んでいたとは考えにくい。午後から向かったのなら傘は要らない。

 考えられる可能性はまだあった。例えば、前日なんかは終日雨が降っていた。ビニール傘を差すに相応しい天気だった。

 果たして、塚本勝が拉致されたのは、事件が起こる前日だったんじゃないだろうか? もしくは、事件当日の朝だ。間違っても歳華を襲った瞬間じゃない。そうでなければ傘は無い。
 思考が追いついてしまえばもう止められない。前日なんじゃないか、と俊月は思う。そちらの方が、ずっと自然だからだ。
 次の日の有給を取った塚本勝は、ビジネスバッグを手に、ビニール傘を差しながら雨の中を帰宅する。――いや、帰宅出来なかったのだ! 塚本が拉致されたのは、きっとこの時だ。
 よくよく考えれば、有休を取ったはずの塚本は、何故ビジネスバッグを手に犯行に及ぼうとしたのだろう? 俊月は自分を責めた。馬鹿だ、本当に馬鹿だ! 使い慣れたものを犯罪の現場に持って行くなんて無い!
 あの暗い部屋の中で、小鳩が笑っている。後頭部が熱くなる。舌の先が痺れた。塚本勝を捕獲した小鳩は、彼を殺さなかった。

 何故なら、次の日に歳華を襲わせなくちゃいけないからだ。

 正しい筋書きがわからない。小鳩はもしかすると、言葉巧みに塚本を引き込んだのかもしれない。その上で歳華を襲わせたのかもしれない。あるいは脅したのだろうか? 歳華を襲えと指示したのだろうか? そちらの可能性はあまりに残酷だった。嘘だろ、と思う。
 何にせよ、塚本は小鳩のふざけたストーリーテリングに嵌った。歳華を襲った塚本は、けしかけただろう小鳩の手によって地獄へ叩き戻された。全部茶番だ。あの『監督』が作ったフィクションだ。それでも、そのフィクションは限りなく現実に近い。何せ、人一人の人生を芯材に使ったものなのだから!
 考えれば分かる。分かってしまう。現場には車の類が乗り捨てられていることもなかった。塚本は歳華にスタンガンを押し当ててから連れ去ろうとしていたはずなのに。
 俊月は脳内で勝手に、それらの処理まで小鳩がやったんだと思っていた。けれど、こうなってくると、こう考えた方が自然に思えてくる。――塚本と、塚本を拉致した人間達が乗っていた車は同じものだ。

 事件が起こる前に、雨が降った前日に、塚本はもう既に小鳩の手の内に居たのだ。

 それなのに、小鳩は、偶然、歳華を救って、偶然、塚本から庇って、然る後に、塚本を殺してみせたような振りをしたのだ。
 知らず知らずの内に涙が出てきた。怒りじゃない。心底恐ろしかった。血塗れの小鳩の冷たい手を思い出す。相当な傷だった。躊躇いなんか欠片も無かった。痛かっただろうと素直に思う。
 勇敢で、健気な、菱崖小鳩、を作る為に、彼は甘んじて暴力を受けたのだ。普通の人間は躊躇するようなことだろうに。徹底したリアリティー! 尊敬すらしてしまう。「顔を殴れ」と指示する小鳩の穏やかな笑顔! 失明すら厭わなかったかもしれない。そのくらいじゃないとリアリティーに欠けるでしょう? と、麗しく彼が笑う。
 想像の中の彼は雄弁だった。俊月の脳内で、彼の存在はあまりに大きすぎるのだ。
 あの日の小鳩の言葉が蘇る。一語一句に至るまで、どうにも綺麗に思い出せた。俊月は記憶力が良い。それはもう、絶望的なまでに。

 ――『いや、これは全然無関係な暴力だから。歳ちーの件とは全然関係ない人間に死ぬほどボコボコにされただけだよ。困るな』
 ――『壮大な計画だよ。それこそ、瀬越には教えてやれないような過激で不敵なやつでね』
 ――『僕は僕の為にやっただけだよ。お礼を言われることなんて何もない。嫌だな』

 嘘を吐くと言っていたのに。どうしてここで嘘を吐いてくれなかったのか。露悪的なまでに正直だったじゃないか。えげつないほどの精神的露出だ。乱暴に拭っているのに涙が止まらない。そして、行き当たった言葉で、とうとう折れた。

――『君の為だ。骨くらい折るさ』

 それら全てが俊月の為だったと言うのだろうか。
どうして気づかなかったのだろう。あれは歳華の為じゃない。俊月の為だ。俊月の為に、小鳩は骨を折ったのだ。あそこまでするとは思わなかったから、俊月はすっかり騙されてしまった。
 一体何を是としたのか。何が自分の為なのか。菱崖小鳩のことが分からない。そもそも、菱崖小鳩を理解出来ることなんかあるのだろうか? あれはもう人間じゃないのだ。人間の形を取った害悪だ。周りにいるもの全てを殺す恐ろしい毒だ。
 どうして改心させられると思ったのだろう。爪の先まで人間と相容れないような人間に。心の所在すら危うい。だからか、と俊月は思う。
 だからこそ、小鳩だけが俊月を見つけてくれたのだ。自分は人間じゃないのだ。それにすらなれない何かだ。だから、菱崖小鳩に見初められたのだ。
 ただ、それだけの話だ。

 『プレイタイム』のあらすじを、俊月はようやく調べた。
 簡単に言えば『プレイタイム』はドタバタコメディ映画だった。近未来都市で、就職面接にやって来た男とアメリカ人観光客バーバラがすれ違ったり惹かれ合ったりする映画なんだそうだ。生きるのが下手そうなキャラクターたちの造形に、少しだけ思うところがなくもない。
 『小鳩が好みそうな映画だな』という感想と『小鳩がこれを好きと言うのか』という感想を同時に抱いた。結局のところどっちにも振れるくらい、俊月は小鳩のことをよく知らない。ここまで得体が知れずとも、抱く感情は異常な熱度を誇るのだから不思議だ。
 この映画については面白いエピソードが一つあった。何でも、この映画の近未来的なセットは、監督が私財を投じて実際にパリの東に作ったものなのだという。映画に出てくる奇妙なビルも、凝った内装も窓から見える風景も、全てが掛け値なしの本物なのだ。
 結局、この映画を作ったジャック・タチはこの映画が原因で破産してしまった。まさしく人生を懸けた映画だった。そのエピソードが小鳩の口から語られるところを想像する。彼はきっと、こういう話が好きだし、夢の『タチ・ビル』に憧れたはずだ。
 この映画が小鳩を狂わせ、救った映画なのだ。このエピソードのことを知っているだろうか。知らないはずがない。小鳩は一体、いつこのエピソードを知ったのだろう?

 重い身体を引きずるようにして、地図に表示された場所へ向かう。地図を読むのは得意だった。行く先が示されているということへの安心感は筆舌に尽くし難いものがある。
 細い通りを進むと、目当ての場所はすぐに見つかった。時代に取り残されたようなレトロな外観。それでいて、威風堂々と今もそこに在り続ける存在感。
 下北沢・パラダイス座の前で、俊月は小さく息を呑んだ。
 この期に及んで自分は何を期待しているのだろう。菱崖小鳩の身体に残った人間性の欠片のようなものが、その映画の中に留まっているとでも思っているのだろうか? この思い出の場所で『プレイタイム』さえ観せられたら、害悪の殻が裂けて可能性が見えるとでも思ったのだろうか。甘すぎる話だ。ハッピーエンドと言い換えてもいい。
 観音開きの扉を開けると、鈍く淡い光に迎えられた。年季の入った赤絨毯の床を踏んで、辺りを見回す。ショッピングモールに入っているシネマ・コンプレックスとは違って、本当に映画の為だけに誂えられた空間だ。壁に貼られた色とりどりのポスターに、漂う独特の匂いは過度に閉鎖的ですらあった。
 でも、それが心地よかった。この場所なら、という期待で胸が焼けそうだった。
 奥まったカウンターの中に、あからさまに一人だけ齢を取った男がいた。何百年も前からこの映画館に居たかのような雰囲気の男だった。これからも数百年をこの映画館で過ごしそうな男だ。この人がこの映画館の主だろう、と確信する。
「あの、すいません。……少し、お尋ねしたいことがあるんですが」
「うん? どうかしましたかね」
 胸元には『パラダイス座支配人 常川』という金文字の入った名札が付いていた。支配人。それならきっと、数年前からここにいるはずだ。
「あの、常川さんは……数年前もここにいらっしゃいましたか?」
「そうですね。数年前と言わずとも、結構な昔から」
 そう言って、常川は楽しそうに笑った。この場所に居るだけで幸福で仕方がないように見える。常川の背後には『復刻映画祭 リバイバル上映のご相談承ります』という張り紙が貼ってあった。心臓が高鳴る。年代的に小鳩が観たのは、このリバイバル上映だろう。なるべく平静を装いながら尋ねる。
「このリバイバル上映のリクエストって……どんなものでも大丈夫なんでしょうか?」
「ええ、ええ。相談には乗りますよ。自宅にはニトレートフィルムが多くあってね。自慢じゃないが大抵のものは揃えているという自負があります。ご相談には乗りますよ」
「『プレイタイム』って映画があるでしょう」
 そのタイトルを口にした瞬間、常川の表情がパッと明るくなる。
「『プレイタイム』! そのタイトルが君みたいな若い人から出るとはねえ! 君、映画が好きなのか」
「……はい。好きです」
 本当に映画好きなのは、隣にいた人間だ。映画を好きなのか、あの時間が好きだったのかは判断出来ない。ジュラシック・パークを楽しめただけで映画好きを名乗れるだろうか? インスタントな愛情! 隣で蘊蓄を語る小鳩の言葉を、俊月は半分以上聞き流してしまった。
「……『プレイタイム』、フィルムありますよね?」
「そりゃあねえ。フランス映画を語るならジャック・タチは外せない。実を言うと、私もあの映画が好きでね。とにかく構図が綺麗だろう。私が持っているのはアナログフィルムだから、退色はあるけれど、それでも美しいよ」
「あれをもう一度流してもらうことは出来ませんか。あの映画が、どうしてもここで観たいんです」
 語り足りなさそうな常川を遮るようにして言う。リバイバル上映というものがどういう仕組みで行われるのかはわからないが、見たところパラダイス座は個人経営の映画館のようだし、恐らく決定権はこの常川という支配人にあるはずだ。
 果たして、常川は言った。
「いや、私も一度流したいと思っていたんだ。所蔵数が多いとどうしてもフィルムを眠らせることになる。一度も陽の目を見ないものも少なくない。君のような映画好きが機会を与えてくれるのは、こちらとしても願っても無い話だ」
「……ほ、本当ですか!」
「そんなに喜ばれるとは、こちらも冥利に尽きる」
 いきなり光が差したようだった。あの時と同じパラダイス座で、あの時と同じ『プレイタイム』を観る。具体的なプランは何も無かった。奇跡任せの計画だ! けれど、何故だかそれで全てがよくなるように思えたのだ。映画に狂わされ――あるいは救われ――そうして一人で生きてきた菱崖小鳩を、もう一度映画で救う。
 それはとても映画的なハッピーエンドだった。かくあるべきだ、と勝手に思う。何の為に一緒に映画を観てきたかって、ハッピーエンドを学ぶ為なのだ! 少しばかり泣きそうになっている俊月の前で、常川が言う。
「検討するよ。いや、きっと流そう。これも何かの縁だろう。私はね、映画というものはそれ自体が不思議な縁を宿しているものだと思うんだ」
「ええ、俺も、そう思います」
 予想以上に好意的な言葉を受けて、俊月は久しぶりに安堵の笑みを浮かべた。こんなに自然に笑顔が出てきたのは久しぶりだった。何処に居るかもわからない小鳩のことを思う。『プレイタイム』が再上映されると聞いたら、あいつはどんな顔をするだろう。そう思った、その時だった。
「これを機に、ジャック・タチ特集で組んでみてもいいかもしれないな。何せ、彼の作品はどれもまだ流したことが無いからね」
 常川がうっとりとした口調で言う。それを聞いた瞬間、スッと血の気が引いた。そして、聞き間違えを願うように、震える声で言う。
「……待ってください。ジャック・タチ監督の作品は一度も上映されたことがないんですか?」
「ああ。名作が多いんだが、なかなか機会が無くてね。タチ監督といえば『ぼくの伯父さん』が有名だが、私はやはり『パラード』が好きで――」
「あの、『プレイタイム』は。数年前にここで上映していたはずなんです。リバイバルだと思うんですけど……観た人間が居るんです」
 殆ど縋るような気持ちだった。目の前の男の思い違いであってくれれば、と祈る。でも、こうして話していたからこそ分かる。常川がパラダイス座のことを、そこで流した映画のことを忘れるはずがない。
 「おかしいな」という五文字の死刑宣告が響く。いよいよ立っていられなくなりそうだった。小さく首を傾げながら、常川が言う。
「ここで『プレイタイム』を流したことはないはずだが」
 その言葉を聞いた瞬間、目の前が暗くなった。あまりの残酷さに身が凍るようだった。
 知ってしまった。告げられてしまった。
 あの時『プレイタイム』は上映していなかった。
 小鳩の運命を変えた映画なんて無かった。
 小鳩の心を狂わせた運命なんて無かった。
 菱崖小鳩に理由なんて無かった。

 歳華を巻き込んだフィクションに比べて、なんて脆弱なんだろう。こうして俊月がパラダイス座に出向いたらすぐにバレてしまうような虚構だ。それでも、小鳩は淀みなく語ってみせた。それらしい物語を。俊月の為だけの理由を。敵わない、と思った。なんて人間が上手いのだろう。アドリブにしては完璧に近い。
「ありがとうございました。また、伺います」
 俊月はしっかりと礼をすると、一度も振り返ることなくパラダイス座を後にした。一度でも振り返れば、もう二度と歩き出せないような気がしたのだ。
 そうして家に帰ったのは真夜中だった。方々を回ったはずなのに、ぼんやりとして上手く思い出せない。現実味を欠いたまま、俊月は鍋に火をかけた。殆どルーチンワークになった作業だ。
 息をするように、俊月は料理を始める。『調理』は明け方までかかった。
 それが終わると、俊月は長らく使っていた調理器具を全て捨ててしまった。丁寧に分類し、万が一にも咎められないようにする。長らく愛用していたものだ。愛着が無いといえば嘘になる。けれど、捨てるより他が無かった。決別だ、と俊月は思う。料理をするのは、もしかするとこれが最後かもしれない。
 出来上がったものを鞄に入れて、俊月は深い眠りに落ちた。夢は見なかった。あまりにその内訳が虚ろなので、本当に眠ったのかすら分からないくらいだった。

「ちょっと、君今何してるの。ちょっと話聞かせてくれる?」
「……構いませんが」
 翌日、公園で小鳩を待っている時に職務質問を受けた。三十代後半と思しき警官は、俊月を見てあからさまに訝し気な目を向けていた。時刻は午後十一時半を過ぎた辺りだ。職務質問を受けるに相応しい、適度にいかがわしい時間である。けれど、人間は成長する。職務質問なら、これまで三十回以上受けてきた。対処の方法だって慣れたものだ。「友人を待っていただけです」と言いながら学生証を取り出す。こういうのは言われるより先に出した方がずっと効果が高い。英知大学の名前を見た警官が、少しだけ警戒のレベルを下げた。
「鞄の中身も見ますか? 大したものは入っていませんけど」
 言われるがままに、警官が鞄の中を漁る。この時点で主導権は俊月に移った。けれど、警官自身はそのことに気づいてもいないだろう。簡単なことだ、と俊月は思う。そして、こういう形の調整を、あの男はもっと上手くやってのけるのだ。
 鞄の中には大したものを入れていない。家の鍵と財布とスマートフォンは各々のポケットの中だ。いきなり濠に投げ込まれることを想定して最低限のものだけを入れている。読みかけの『大聖堂』に無印のペンケース、そして、昨日作ったマドレーヌくらいだ。
「このマドレーヌは彼女からのもの?」
 綺麗にラッピングされたそれを見て警官が尋ねる。俊月は何も言わずに頷いた。恋人がいると聞いたことで、相手の警戒のレベルが更に下がる。有名大学に通っていて、然るべき恋人がいる。そのパッケージングがどれだけ自分を真っ当に見せるかを、俊月はようやく覚えた。
 目の前の男は、そのマドレーヌが俊月の作ったものだとは想像もしていないだろう。きっと言ったって信じないはずだ。けれど、それで良かった。理解してくれる相手は二人だけで良かった。俊月の料理の上手さなんて、他の誰にも知られなくていい。
「……そんじゃあ、夜気を付けて。この辺りも物騒だから。ね、あんまり出歩かないで」
 まるで心配しているかのような口振りで、警官は俊月を解放した。去っていく彼に向って、俊月は頭まで下げてみせる。その瞬間、計ったようにスマートフォンが鳴った。菱崖小鳩、の名前が夜の中に光る。
『やあ、もう居る? 話がある、なんて言うからドキドキしちゃったよ。困るな。まるでロンでの時みたいで』
「ああ。お前が遅いから、職質を受ける余裕まであったよ」
『え、また受けたの? いやあ、そろそろ警察の全員が君の顔を覚えてもいい頃じゃない? 嫌だね』
 電話の向こうの小鳩がからからと笑う。夜の中で、その声は空から降ってくるようだった。スマートフォンを握り直しながら、俊月がそれに応える。
「このところ更に酷い。少しでも遅い時間に出歩くとこうだ。折角前髪を上げたのに」
『あ、そうなんだ。それ、僕が言ったから? 嬉しいな』
「そうだな。イメージチェンジだ」
『や、思うんだけどさ、顔がよく見えるようになったらきっと更に怖いんだよね。君』
 耐えきれなくなったのか、小鳩は遠慮なく爆笑し始めた。なるほど、通りですれ違う人間が訝し気な目を向けてくるわけだ。鬱陶しい前髪をどうにかしろという小鳩のアドバイスは的外れではなかったと思う。けれど、必ずしもそれが功を奏すわけじゃないのだ。クリアになった視界は晴れやかだけれど、周りはそうでもないらしい。
 ところで、小鳩は何処にいるのだろう? 辺りを見回しても小鳩の影は無い。電話越しの小鳩の声は近いようにも遠いようにも聞こえた。ややあって、俊月は言う。
「……誤解を受けるのには慣れている。お前だって、俺がこんな男だということは承知で付き合っているんだろう。今更だ」
『それでも瀬越は傷つくだろう、嫌だね』
「もういいんだ。……あの先輩も、もういない」
 俊月がそう言った瞬間、小鳩がもう一度小さな笑い声を立てた。揶揄したような響きは無い。むしろ、その笑い声はどうしようもない慈悲に塗れていた。どうしようもなく可哀想なものを前にして、うっかり出てしまった声だった。ややあって、小鳩が言う。
『なあ、瀬越。あの先輩の一件だけじゃないよ。困るな』
 どういう意味なのか分からなかった。俊月が返事をするより先に、小鳩は淡々と続ける。
『フットサル部での暴力沙汰、シンクタンクサークルの出禁、あるいは外国語学部の乱痴気騒ぎ、学外交流会での醜聞、色々なところに瀬越俊月の名前が出てくる。ああ、この間の哲科の飲みもそうだっけ? 君はそれ以外にも、酷い噂を立てられていた』
「……フットサルだのシンクタンクだの、俺はそんなところに関わっていないぞ」
『そうだね。でも、本当のことなんかどうでもいいんだ。暴力沙汰と君はとっても相性がいい。君は他にもやらかしたことになっていたんだ。まるで人身御供だよ。どうして君はそうなんだろうね』
 そんなことになっているなんて全く知らなかった。そもそも輪から外れていたので、当たり前といえば当たり前かもしれない。尾ひれは玉虫色に輝いて、いつの間にか随分遠くまで来てしまったようだ。彼自身すら知らない〝瀬越俊月〟が、あの大学には沢山いるのだろう。
『だから僕も興味を持った。全てを背負わせるのにこんなに適した人間は居ないと思った』
 小鳩が何を言っているのか、俊月にはよく分からなかった。雨に降られた子犬に愛着を持つような感性なんだろうか? と思ったくらいだ。この茫漠とした世界の中で溺れる人間は愉快だっただろうか。手を叩いて笑ってくれるのなら、そちらの方がきっと似合う。
 電話越しに小鳩が笑う。そして、酷く優しい声がした。
『世界が君に優しくなる日は来ない』
 まるで神様の託宣じゃないか。否定する気すら起きない。
『君はいつだって謂れの無い罪を着せられて、理不尽な不幸に見舞われるだろう。君が求めているものはこんなにもささやかなのに、世界がそれを赦さない。でも、君はそういうものだろうと受け入れるんだろうね。業火に焼かれる人間には、刺される苦しみが分からない』
「そうかもしれないな」
『ねえ、今でも月曜日は嫌い?』
 月曜日。今でも嫌いだ。ウサギ事件が起きた時、本当は登校するのが怖かった。余計なことをしたという後悔が胸を焼き、涙が溢れて止まらなかった。時間が戻せるのならそんなことはしなかった。ウサギなんか殺されてよかった。一人になるくらいなら正しさなんていらなかった。そんな自分を直視することこそが、きっと何より恐ろしい。俊月は、心を込めて呟く。
「ああ、月曜日は嫌いだ」
 何せウサギが死んだから。ウサギは俊月の見ていないところで死んだ。死体は用務員さんが片付けたらしく、結局お墓は建たなかった。残ったのは排斥だけだ。本で読んだところによると、人間にしか魂は無く、ウサギは天国に行かないのだそうだ。ウサギに魂は無い。地獄も無い。救いも無い。あの中には何もなかった、と俊月は思う。
 その時、夢から覚めるように電話が切れた。熱を持ったスマートフォンを耳から離し、通話時間を確認する。――六分二十三秒。そして、俊月はあっさりとそれを取り落とした。地面に落ちたスマートフォンが跳ねる。それを拾うより先に、俊月の方も地面に倒れ伏す。
 率直に言って最悪の気分だった。確かに世界は彼に優しくない。唯一良かったことといえば、高電圧なスタンガンは痛みより先に衝撃がくるのだと知れたことだろうか。
 やっぱりお前は害悪だよ。と、心の中で呟く。分かっていたことだった。むしろ、安心したくらいだった。
 意識を失う直前に見たのは、俊月の鞄を拾い上げる小鳩の姿だった。それが再度外濠に投げ込まれないことを祈りながら、俊月はゆっくりと暗闇に身を委ねた。

 次に目が覚めた時は、知らない部屋に居た。いや、間接的には知っている場所だった。血の臭いがしないのが不思議だと思う。何しろ、ここはあの男が解体された部屋、小鳩の作品の舞台になった部屋だ。
 身体のあちらこちらが痛い上に、まるで自由が利かない。後ろ手に縛られた腕は他人のもののようだ。壁を使って、ゆっくりと身体を起こす。
 困ったことに、俊月の首には縄が掛かっていた。天井のフックから伸びるそれは、ちょっとやそっとで外れそうなものじゃない。斬新な絞首台だった。この部屋自体がそうなのだ。
 圧迫された喉の痛みが現実を伝えてくる。けれど、俊月にはその痛みすら、体の良い比喩のように思えた。生まれてから今まで、ずっと人生が下手だった。息をするにも苦しかった。そのことを、久しぶりに思い出した。二十年近く付き合ってきたこの苦しさを、どうして忘れていたのだろう。
 けれど、何のことはない。人の形をしたその『原因』は、彼のすぐ目の前に立っていた。いつものように、優しく柔らかく、全ての正解を選び取ったような顔をして。
 ああ、そうだった。俊月は、彼のことを一番『正しく』思っている。
「ああ、起きたかな。瀬越」
「……小鳩」
「悪いね。少し苦しいだろうけど」
 何でもないような顔をして小鳩が言う。それを聞いて、俊月の方も上手いこと納得させられてしまった。この縄に他意は無い。単に俊月の抵抗を防ぐ為の措置であって、サディスティックな嗜好では無いのだろう。
 自分は菱崖小鳩の作品の一部ではない。少なくとも今は違う。それを意識した瞬間、すっと気持ちが落ち着いていくのを感じる。荒海に差した光に目を細めながら、俊月はゆっくりと口を開く。
「あまり気分がいい目覚めじゃないな」
「それでお目覚めスッキリだったら僕の方が心配になるよ。困るな」
 軽口を叩く小鳩は、どう足掻いてもいつもの小鳩だ。歳華と一緒にパンを取り合い、楽しそうに映画を観る菱崖小鳩だ。ここまで普段と変わらないと、何から切り出していいものか迷う。悩んだ末に、結局はシンプルな言葉になった。
「俺を、騙したのか」
「騙したって言っても、どこからどこまでって感じじゃない?」
 それもそうだった。一体どこから看破すればいいのか見当もつかない。差し当たって、一番手近なところからいくことにした。
「塚本勝を攫ったのは、事件の前日か」
「そうだよ。にしても、何で気づいた? もしかして傘? まさか昼過ぎに雨が上がるとはねえ……困るな。僕、少し経ってから気づいたんだよね。あの時の瀬越は慌ててたし、その後もずっと不安そうだったから、気付かないんじゃないかと思ってたのに」
 卵でも焦がしてしまったような調子で小鳩が言う。その絶妙な熱度が殊更気にくわなかった。犯人なら犯人でもっと殊勝にしていて欲しい。それを望むことすらエゴイスティックなのかもしれないが、そのくらい報いてくれてもいいだろう。
「妙な真似をするからだ。下手な小細工は止めておけばよかっただろう」
「君に教えたかったんだよ。歳ちーの敵は討ったんだって」
「それなら、最初からあの動画のタイトルを『曽野里小学校誘拐未遂事件の犯人の処刑』にしておけばよかっただろう。好きじゃないのか、そういうの」
「君だけに教えたかったんだよ。困るね」
 そうだ。塚本勝の罪を誰も知らない。あの動画の中で、塚本はただの哀れな被害者に過ぎなかった。本当のことは二人以外に誰も知らない。罪人の罪すら暴いてやらないその姿勢! それが、俊月との秘密の共有の為だけに行われているから性質が悪いのだ。秘密基地と殺人は一緒に並べやしないのに。
「……あの日の前日、お前は一体何をしたんだ」
「大したことはしてないよ。家路に着く塚本を呼び止めて、コミュニケーションを取っただけ。ああ、ある意味名探偵染みていたかもしれないね。『曽野里小学校で起こった誘拐未遂事件の犯人なんじゃないか』って言った時は、びっくりするほど狼狽えてたよ」
 雨の中で小鳩に話しかけられた塚本はどんな気持ちだっただろうか。何処に居たってそれなりに様になるこの男は、雨の中だって華やかだったはずだ。犯罪を犯す前日に、この男に話しかけられる気分は、どんなものだっただろう。
「塚本はそれを聞いて逃げ出したりしなかったのか。……俺が塚本なら怖気づくよ」
「そうかな? まあ、少なくとも塚本はそうじゃなかった」
 小鳩の言葉には、何処か挑発するような響きが伴っていた。被害妄想かもしれないが、俊月には言外の嘲りが聞こえた。――君だって、逃げ出せないだろ?
「……お前、何て言ったんだ」
「大したことじゃないよ。『僕も興味がある。通報なんかしない。だから、明日の計画は一緒にやろう』……ってね。そこまでくると、塚本の方も逃げられない状態になってたから、大人しく従ったんだよ」
「脅しただけだろう。無理矢理連れ込まれたらそうなる」
「嫌だな。確かに少しは脅したけど、あいつも妙に色めき立っててさ、大体合意だよ」
 相手が小鳩じゃなかったら、塚本は逃げられたかもしれない。でも、相手が悪かった。電車内でいきなり話しかけられても赦されるだけの特権! 塚本は、そこで小鳩を拒絶すべきだった。最適解は、恐らく殺すことだっただろう。話しかけられた時点で対処すべきだった。それをしなかったから、あんな無残に殺されたのだ。
「信じて貰えるか分からないけど、塚本は本当に犯人だったよ。証拠も見せられなくはないけど、瀬越はそういうのを望まなそうだから」
「…………そうだな。……なあ、どうしてその時点で殺さなかった? 自作自演で済ませるなら、雇った人間に襲わせれば良かっただろう。塚本にやらせる必要は無かった。どうせ、スキーゴーグルなんかはお前が用意したんだろう」
 何せ塚本は会社帰りに拉致されているはずなのだから。誘拐セット一式を持っていたはずがない。それすら、小鳩が演出したのだ。
「それは運命の話になってくるんだけどさ」
 小鳩は穏やかな調子で言う。
「あいつ、よりによって歳ちーの写真を持ってたんだよね。朱里ちゃんと一緒に居た歳ちーのことが気になってたらしい。だったらリアリティーは完璧だろう? 僕が助けたかった相手と、あれが襲いたかった相手が一緒なんだから。本物にやってもらった方がいい」
 そうして、小鳩は懐から一枚の写真を取り出した。明らかに盗撮と分かるアングルだったけれど、それさえ抜きにすれば、結構いい写真だった。柔らかそうなツインテールが風に靡いている。小さな身体に付いたそれは、まるでウサギの耳のようだった。
「持って死なれちゃ嫌だから回収させてもらったよ。よく撮れてるよね。どうかな?」
「ああ、そうだな……」
 小鳩はそれを恭しく仕舞ってみせた。本当に大切なものを扱う時の手つきだ。……小鳩がこうして先手を打っていなかったら、塚本は歳華を襲っていただろう。それが分かったからといって、一体どうすれば良かったのだろう。知りたくなんか無い話だった。本当に。
「そうして、二人で現場に行った。塚本は予定通り待ち伏せをして、歳華が現れるなり襲い掛かってスタンガンを浴びせて――小鹿みたいに抱えて僕のところまで戻って来た。あとはもう分かるだろ?」
「塚本は肉体派には見えなかったが」
「だよね。だからあれはちょっと演出過多だったかな」
 小鳩は悪びれもなくそう言った。俊月が全てを承知していることを『理解』している。こんな犯人は正統派のミステリーじゃ失格だろう。俊月も名探偵としては三流がいいところだから、お互い様なのかもしれない。
「痛かっただろう。お前は本当に馬鹿だ」
「でも、君が来てくれると思っていたのも本当だよ。地面に横たわりながら、痛みの中で待つ数十分は長かった」
 演出の為に骨まで折りながら、小鳩はどんな気持ちでいただろうか。到底理解出来ない話だった。そこまでする必要なんて無い。でも、現実に根差したフィクションだからこそ、俊月はあっさりと騙された。酷い傷跡を礎に建ったシナリオは堅牢なのだ。あの冷たい手は、嘘であって嘘じゃない。
「……ここで一つ、俺を騙したな」
「あの一件の虚実には線を引くことすら難しいだろう。明確に嘘と言えるものは、それこそ僕の物語くらいだ」
「お前の物語……」
「そう。何の後ろ盾も無い脆弱なフィクションだよ。だから、これが一番露見しやすいものだった」
「そうだな。二つ目の嘘だ。『プレイタイム』がパラダイス座で上映されたことはない」
 俊月の言葉を受けて、小鳩が大きく頷いた。
「あの映画館好きなんだ。館長が本当に映画好きだって分かるからね。でも『プレイタイム』は上映されたことが無い。ただの一度も。どうしてなんだろうね? 趣味じゃないのかな?」
「『プレイタイム』を観て立ち直ったというのが嘘なら、どこまでがフィクションだ? 他の映画館だった、他の映画だった、あるいは――」
「全部だよ」
 あっさりと小鳩が言う。
「両親が殺されたのも?」
「そうだね。母親は死んでるけど単なる病死だし、父親はまだ健在だよ。母親が死ぬときは親族一同に見守られて、僕だって納得ずくで見送った。それが僕の精神に何かしらの影響を及ぼしたとは思えない」
「……お前が天涯孤独じゃなくて良かった。そこだけは安心した」
 両親があんな風に惨殺されるなんて、あまり嬉しくない話だ。たとえ騙されたのだとしても、小鳩がそんな目に遭う事実なんて無い方がいい。けれど、小鳩は小さく舌打ちをしながら「だから脆弱な物語が嫌いなんだ。せめて父親を同じように殺しておくべきだったかな」と笑った。
「……腑に落ちないことが一つある」
 なるべく平坦な口調で、そう呟いた。
「お前は一体何の為にそんな嘘を吐いたんだ? 塚本勝との自作自演はまだ分かる。お前はあの一件で、俺と歳華の信用を勝ち取り、なおかつスナッフフィルムを作り上げた。ちゃんと理由があるわけだ」
「それだけじゃないけどね。まあ、概ね合ってるよ」
 それだけじゃないとはどういうことだろうか? あの一件には、まだ意味があるということなのだろうか? 気になると言えば気になるが、今は構っていられなかった。
「でも、お前の過去話には意味が無い。俺の同情を引くつもりだったとは思えない。お前はそんな不確かなものには頼らないだろう。きっと何かしら手を打っていたはずだ。なら、何の為の嘘だ」
「君に嫌われたくなかったって解答は?」
「……それが本当なら俺は信じる。そうじゃないなら、本当の理由を教えてくれ」
 あのエピソードが保身の為や同情を買う為のものには思えなかった。それなら別の意図があるはずだ。ただ揶揄っていただけというのも違うだろう。他のどんな可能性もしっくりこなかった。その時、小鳩が静かに言った。
「理由が好きなのは瀬越の方じゃないか」
「……どういう意味だ?」
「そういう意味だよ。だってほら、人間って大分理屈っぽいだろ。困るな」
 ここで耳を塞いでおけば、と直感が叫ぶ。けれど、止められない。珍しく、小鳩が言葉に詰まったように見えた。一拍遅れて、言葉が続く。
「君が聞いたからだよ、理由を」
 耐えきれずに息を呑んだ。首の縄が食い込む。
「理由があると受け入れやすいだろう? 『この人はこういう理由があったからこんなことをした』『菱崖小鳩はその嗜好に向かうだけのバックグラウンドがあった』『だからスナッフフィルムを愛好するようになった』ってね。理由さえあれば、理解が出来ると思ってる」
 菱崖小鳩は、淀みなくそう答えた。俊月が分からなかった部分、感情の種明かしを惜しみなく与えてくれる。けれど、それすら俊月の求めたものだ。彼が尋ねさえしなければ、小鳩はきっとこのことを明かしたりしなかっただろう。
「君があまりに途方に暮れていたから、少し魔が差したんだ。理由を得た後の君は、あからさまに安心していただろう?」
「俺が……俺の所為で、お前は嘘を吐いたのか」
 奥底の浅ましさを見透かされたようだった。聞かなければよかった、とすら思う。小鳩が作った脆弱なフィクションは、俊月をあやす為に生み出されたものだったのだ。
「そうだね。君の為だ」
 小鳩はいつも通りの穏やかな表情を浮かべていた。むしろ普段より落ち着いているくらいだ。さっき言葉に詰まっていたのは、ふんぎりがつかなかっただけなのだろう。
「スナッフフィルムを好きな理由なんか無い。強いて言うなら感性かな。美学的直感に従った結果だ。君に伝えた歴史的事実、人間の抱えるどうしようもない引力については事実だし、芸術が永遠に至る道はかくあるべきと思ってる。でも、それは君を納得させる類の理由じゃない」
 その通りだった。ただ好きだから好き、なんて茫漠とした理由では納得していなかっただろう。『両親が殺される』というパッケージングされた悲劇じゃなければ、あの場に折り合いをつけられなかった。
「……月曜日が好きな理由も、折口信夫が好きな理由も、映画が好きな理由も本当は特に無い。いいと思ったから、以上の理由は」
 それなら自分は? あの時、瀬越俊月に話しかけた理由はあるのだろうか。日の差す電車の中で、向かいに座った以上の理由は。俊月を取り巻く悪評も、あるいは同大学であるということすらも、小鳩にとっては何の理由にもなっていなかったのかもしれない。
「そうだったんだな……」
 俊月はぽつりとそう漏らした。それを口にした瞬間、ぽきりと何かが折れた気分だった。
 これで、聞きたいことは全て聞くことが出来た。解決編はこれで終わりである。俊月は少し考えてから、辺りを見回した。部屋の隅に、新しく買ったばかりの鞄が置いてある。捨てられていなくて良かった、と心から思った。
「……鞄が捨てられていなくて安心した」
「どうせ大したもの入ってないだろ?」
「開けてみろ」
 今日は本すら入れていない。だから、目当てのものはすぐに見つかるはずだった。綺麗にラッピングされたそれを手に、小鳩が不思議そうな声を上げる。
「何これ、マドレーヌ?」
「ああ。俺が焼いた」
「へえ、市販品みたいだな。君、こういうのもいけるんだね。これ、僕の為に焼いたの?」
「ああ。お前に食わせようと思ってな」
「そうなんだ。嬉しいな。もしかしてこの為に呼んだ?」
「そうだ。本当はそれが理由だった」
「ごめんね、ちょっとばかり酷い目に遭わせちゃって」
 そう言って、小鳩はゆっくりとマドレーヌの袋を開けた。歳華の写真を仕舞った時と同じくらい優しい手つきだった。つやつやと光る狐色の表面が、暗い部屋でもやけに眩しい。一瞬だけ躊躇ってから、俊月はゆっくりと口を開いた。
「食うな、小鳩」
 今まさに食べようとしていた小鳩の手が止まる。
「何その微妙な嫌がらせ。困るな」
「嫌がらせじゃない。お前の為だ。それにはリシンを入れておいた」
「リシン?」
「とある植物から抽出出来る天然由来の毒だ。食べたら確実に死ぬ」
 リシンは、トウゴマから抽出出来る毒だ。ヒマシ油を生成する時に出来る副産物なのだが、その毒性は極めて高い。その所為で、リシンを抽出する際に使った調理器具は全て処分しなくちゃいけなくなった。愛用のものすら泣く泣くそうした。そのくらい強力な毒だ。
 自分は料理が本当に上手だったんだな、と他人事のように思う。最早この為に料理に凝っていたのだし、真面目に勉強もしていたのだろう。科学に対する知識とそれなりの覚悟さえあれば、どうにかなってしまうものなのだ。
「一口でも食っていれば危なかった。リシンが体内に入るが最後、脱水から始まって全身の臓器が緩やかに死んでいく。お前が死ぬのに、恐らく三日はかからない」
「えっ、そんなヤバいものを食べさせようとしてたわけ? 嫌すぎるな」
 そう言いながら、小鳩はマドレーヌを床に落とし、思いきり踏みつけた。これでもう取り返しがつかないな、とぼんやり思う。小鳩を殺すチャンスはさっきしかなかったし、もう二度と訪れないだろう。
「こんなことしちゃってさ。殺せると思った?」
「俺の料理はなんだって美味いからな。お前は食うだろうと思っていた」
「瀬越のそういうところ嫌いじゃないよ」
 ついでに言うなら、小鳩は決して自分の作ったものを粗末には扱わないだろうとも思っていた。一体何を作ろうとも、彼はそこに敬意を持つ。困ったことに、菱崖小鳩はそういう人間なのだ。
「リシンの特徴の最たるものは、解毒剤が無いというところだ。一度口に入れさえすれば、相手を確実に殺すことが出来る」
「怖すぎるでしょ。どれだけ僕のこと嫌いだったんだよ。酷いな」
「違う。むしろ逆だ。お前が苦しんでるところを見たら、きっと俺は助けようとしてしまう。だから決心が鈍らないようにリシンを選んだ。実際はこんな様だが」
 失敗してしまったので、殊更饒舌に自白をした。本当にこんなはずじゃなかった、と心の中で思う。自分がどうしようもなく小鳩に執着していると知っているからこそ選んだ毒だったのに、それよりももっと酷いことになった。これが他の毒だったら、せめて飲ませることくらいは出来たかもしれないのに。
 対する小鳩は、何だかよく分からない表情をしていた。失敗した俊月を笑うことも、殺されかけたことに憤ることもない。いつも通りの人懐っこい笑顔すら消えていた。コミュニケーションが上手くない俊月には、その表情の意味がよく分からない。
 小鳩はいつも、とても分かりやすいコミュニケーションを取っていてくれたのだな、とどうでもいいことを考えた。
「で、本来の計画では僕を殺してどうするつもりだったわけ?」
「お前を殺して俺も死ぬ。それが一番正しいと思った」
 俊月は淡々と言った。
「別に君まで死ぬ必要ないだろ。馬鹿だな」
「人一人殺したんだ。自分の命で贖うのが筋だろう」
「それ、僕に言う? 困るな」
 命を奪うなら命で贖う。一対一の等価交換だ。積極的にやりたいものじゃなかったが、そのシンプルな計算式に従うのが正しいと思った。
 けれど、その計算式すら間違っていた。
 自分の命で賄えるほど、菱崖小鳩は安くないのだ。単なる自己肯定感の低さじゃない。もっと根底の部分で錯誤している。
「俺は俺の感情を安く見積もりすぎていたらしい」
 菱崖小鳩は害悪だった。生きていてはいけない人間だ。これから先、生かしておいて良いことなんて、きっと一つも無いだろう。この男は変わらない。いずれはまた害を為す。極めて残虐な方法で人を殺し、それを映像に収めるに違いない。だが、それだけだ。それをどうして俊月が責めてやらなくちゃいけないのだろう?
 今更気づいたことだけれど、瀬越俊月は世界のことがそんなに好きなわけではなかった。きっと善人でもなかった、と彼は思う。歳華が愛してくれた正しさなんて最初から何処にも無かったのだ。
「殺すなら殺せ、小鳩」
 あの日、運命が菱崖小鳩の形を取ってやって来た。それだけの話だ。
「お前は害悪だな。生きていちゃいけない人間だ。お前がいるだけで、俺は神というものが底抜けに無能であることを知った気がするよ」
「面と向かってそんなことを言われると困るな」
「でも、それがなんだっていうんだ? 俺はお前を殺さなかった。……最悪の失態だ。お前の所為できっと沢山の人間が不幸になるだろうし、世界は一段階悲惨になる。でも、それがどうしたっていうんだ。俺は世界がどんなに悪くなっても、お前に死んで欲しくない」
 首に食い込む縄が痛い。上手く息が出来ない。
「お前に殺されるなら本望だ。拷問の一つでもされれば恨めるだろうが、一度死ねばそこから先は単なる無だ」
「天国の存在とか信じてないの?」
「ロンで動画の話をしたことを覚えているか」
 小鳩の質問には答えずに、俊月はそう尋ねた。
「そりゃあね、ちゃんと覚えてるよ」
「あの時お前は、俺が濡れ衣を着せられると思って通報を見合わせたんだと言ったな」
「それも覚えてるよ」
「俺はあの時、そんなことを全然考えてなかった。ただ、理由を聞きに行っただけだ。小鳩、俺は馬鹿だろう。俺はただ、お前を理解したかったんだ」
 理由が与えられた時に嬉しかったのは、たった一人の親友を、理解出来ると思ったからだった。本当は、そんなものどこにもないのに。あの時抱いた酷い驕りを思うと、ぼろぼろと涙が出てきた。嗚咽の中で、懸命に言う。
「なあ、小鳩……頼みがある。俺を殺しても構わない。だから、歳華だけは助けてくれ……。歳華は何も知らないんだ。歳華もお前のことが好きだ。……俺がいなくなったら、きっとあいつは泣くだろう。お前がいなくなっても、きっと泣く。だから、歳華の傍にいてやってくれ」
「……この状況でよく歳華のことを頼めるね。嫌だな」
「そうだな……お前を信じられる要素なんて何も無いのかもしれない。それでも俺は、お前が歳華を傷つけるなんて思えないんだ……」
 こんなのは甘い期待だ。根拠も無くそんなことを言うなんて馬鹿げている。
「……お願いだ、歳華だけは……」
 それだけ言って、俊月は言葉を切った。それだけしか言えなかった。それ以上に言いたいことが見当たらなかった。あれだけのことをしておいて、これだけのことをされておいて、どうして小鳩のことを信じられるのかは分からない。俊月を殺したら、次は歳華のことを殺すのかもしれない。
 けれど確信があった。口にはしないけれど心の底から思っている。――お前、歳華のことが好きだろう?
 俊月の言葉に、小鳩は一言も返さなかった。その代わりに、小鳩がゆっくりと俊月から離れる。
 何故かはわからないが、一瞬、小鳩も泣くんじゃないかと思った。こんな状況でそんな真似をされてはたまらない。だったら、あの塚本勝のように、何もわからずに解体された方がマシだった。鉈でも何でも引き出してきて、一瞬で終わらせてくれた方が良かった。
 結論から言えば、俊月を待っていたのはそのどれでも無かった。もう一度口を開くより先に、暗闇が俊月のことを引き戻したからだ。遅れて、覚えのある衝撃が襲ってくる。

 戻された暗闇の中で、俊月は映画の夢を見た。パラダイス座と思しき古びた映画館の中で『プレイタイム』が流れる。尤も、ここで流れている『プレイタイム』は俊月の頭の中で作り出した想像の産物だ。スクリーンの中には、もう恐竜はいなかった。代わりに出てきたのは白くて柔らかそうな一匹のウサギだ。ぴょんぴょんと跳ねるその姿に、エンターテインメント性は欠片も無い。
 それでも、夢の中で俊月は泣いた。スクリーンの中に居たのは、紛れもなくあの時のウサギだったからだ。
 死んだウサギは天国には行かなかった。ここに居たのだ。嗚咽が止まらない。生き物は、死んだらスクリーンの中に行くのだ。
 俊月は人間が下手だ。生きていることさえままならない。後悔だって死ぬほどしている。それでも、これに救いを見出す程度には人間だった。

 目が覚めると見慣れた天井だった。身体が怠い。頭が重い。顔の前に手を翳して指を数える。……ちゃんと五本の指がある。生きている。
「小鳩!」
 ここが天国でもスクリーンの中でもなく、自宅であることに気づいた俊月は、起きるなりそう叫んだ。今までのことが全部夢だったんじゃないかという嫌な想像が頭に過ぎる。それを思うと血の気が引いた。布団から出て、急いでリビングへの扉を開いた。
「小鳩……おい、小鳩! いるんだろ!」
「いや、そりゃあいるけど。そんな死んだ人みたいな呼び方しなくても。困るな」
 果たして、菱崖小鳩はそこに居た。リビングのローテーブルに着きながら、待ちくたびれたような顔で俊月のことを見ている。
「君のところのキッチン用品どれもこれも凝りすぎなんだよ。困るな。コーヒーメーカーの使い方分かんないからコーヒーすら飲めなかった」
 それでも色々奮闘したのか、小鳩の手元には薄茶色に色づいた液体と固形コンソメの箱があった。ティータイムにはそぐわないように見えるが、小鳩なりの意地なのだろう。それを見た瞬間、全身から力が抜けた。座り込みそうになるのを抑えて、どうにか呟く。
「……冷蔵庫の茶を飲めばよかっただろ……」
「出来合いのもの飲んだら負けかなと思って」
「……お前の考えは、やっぱり俺にはよくわからん…………」
「さあ、じゃあ僕はこれでお暇しようかな」
 そう言って、小鳩がさっさと立ち上がる。
「俺が目覚めるのを待ってたのか」
「そうだよ。勝手にいなくなったら君また面倒臭そうだったからね」
 ローテーブルの上には、見慣れた形の鍵が載っていた。キーホルダーも何も着いていないそれは、小鳩の持っていた合鍵だろう。これで小鳩が勝手に家の中に入ってくることは無い。真夜中に殺されることもないだろう。それがどんな意思表示かは、俊月にすら察せられた。
「待て」
 気づいた時には、小鳩の襟首を掴んでいた。猫のような恰好になった小鳩が、一瞬だけよろめく。その隙を逃さずに、短く言った。
「話はまだ終わってない。食卓に着け」
「……横暴だな。君、恋人にもそういう口調なわけ?」
「言っておくが、俺が先輩を殴った時、相手の歯は六本折れたぞ」
 その言葉に、小鳩は大人しく黙った。何より効果的な言葉だ。歯は折れると大変だし、何より痛い。拷問にだってよく使われる部位だ。知っての通り! 直接的な暴力の気配に折れて、もう一度ローテーブルに戻る。
「で、引き留めてどうするつもり? 解決編はもう終わっただろ、シャーロック」
「俺がやることなんて一つしかないだろう。分からないのか」
 そう言って、俊月は呆れたように笑った。小鳩はあからさまに訝し気な顔を向けている。その顔がやけに人間らしく見えて、少しばかり浮かれそうになった。どういうこと? と言う小鳩に、俊月は短く言う。
「料理だ。決まっているだろう」

 そう言って、俊月は無言で作業を始めた。小鳩が何か言いたげだったけれど、そんなものは全部無視だ。料理の良いところは、目の前の作業に集中出来ることだ。こうなってしまえば、小鳩も殺人もスナッフフィルムも現実も、全てがどうでもいい話だ。
 トウゴマからリシンを抽出する時に使った調理器具は全部捨てる予定だったから、予め新しいものを買ってあったのだ。殆ど無意識の行為だった。小鳩を殺してからも料理をするつもりだったのか、と思ったけれど、そうじゃないのかもしれない。新しい調理器具を買っていた時点で、俊月は自分が小鳩を殺せないことを知っていたのかもしれない。買いたての器具の真新しい臭いを嗅ぎながら、俊月はそう思う。
 一時間ほど経った頃には、テーブルの上にはシンプルな野菜スープと、買ってあったフランスパンが並んでいた。冷蔵庫にあるもので出来るレシピの中では、最も自信作の料理だった。
「固形コンソメここにあるのに、どうやって作ったわけ?」
「俺が本気で作る時は、ひき肉と昆布で出汁を取るところから始めるからな。必要ない」
「そうなんだ……僕料理のことよくわかんないから、コンソメスープに出来合いのコンソメ入れないってのがまず理解出来ない……」
「いいから食え、冷めるぞ」
「あのさ、これはリシン入ってない?」
 俊月は黙ってスプーンを奪い取ると、スープを一掬いとジャガイモを一つ食べてから突き返した。「もしかして特定の具材にだけ作用する毒とかあって、ジャガイモはセーフだけどニンジン食べたら死ぬとかそういうパターンもある?」となおも小鳩がごねるので、今度はテーブルを強めに叩いて黙らせた。暴力によるコミュニケーションはあまり好きじゃないが、小鳩に対しては有効らしい。
 何とも形容しがたい顔をしながら、小鳩がスープを口に運ぶ。ここまで警戒されるならいっそ何かしら入れておいてやれば良かった、とすら思った。スープを一口飲んだ小鳩が、無言のままもう一口を啜る。そうして、薄く切られたニンジンまで食べてから、小鳩が口を開いた。
「美味しいよ。本当に君って料理上手いよね」
「当然だ。どのくらい研究したと思ってる。お前の映画と同じだ」
「……うん。本当にね。何かに打ち込んでる人間のことは好きだし、尊敬するよ。その姿勢は、否応なく美しい」
 パンを千切る小鳩を見ていると、初めて料理を食べさせた時のことを思い出した。あの時は今のようなことを想像もしていなかった。けれど、抱いている感情に大差が無いのが恐ろしい。
「ところで、リシンの毒には潜伏期間があってな。症状が出るのに個人差があるんだ。一口食べて大丈夫だったからって油断は出来ないぞ」
「何で後出しで最悪情報を出してくるんだよ。酷いな。大体君も食べたよね?」
「心中覚悟で毒見したのかもしれないだろう? そういうところが甘いな、小鳩」
「正直さあ、僕は瀬越のこと本当によくわかんないんだけど」
 苦虫を噛み潰したような顔の小鳩を見ていると、何だか無性に笑えてきてしまった。可笑しくてたまらない。ここでようやく、簡単な真理に気がついた。結局のところ、人間の心なんて他人には分からないのかもしれない。俊月の過大評価は、他人の感受性を高く見積もり過ぎていたのだ。誰の心も分からない。俊月が小鳩のことを分からないように、小鳩も俊月のことが分かりやしないのだ。
 そのことを裏付けるように、小鳩が尋ねる。
「それで? 何で君は僕にパンとスープを振舞ってるわけ?」
「パンじゃない。ブレッドだ」
「この場面でそのこだわり、殆ど呪いだろ」
 少しだけ間を置いてから、言葉が続いた。
「僕の真意はさておくとして、一旦は離れるチャンスだっただろう? なのに、君は僕を引き留めるどころか強引に座らせて、こうして料理を食べさせてる。どうして?」
 小鳩の目が自分を見ている。揶揄することもなく、その目が一心に自分を貫いている。どうして、の四文字がやけに重く響いた。理解をする為に納得が要る。それを生み出す為に理由が要る。何が相応しいだろう。何が求められているだろう。一瞬だけ考えてから、俊月はあっさりと言った。

「うるさい。理由なんか特に無い」

――お前に勧められて、初めて映画とやらを観た。面白いものだと思った。お前と会うようになってから、俺は、人生が楽しいと思った。お前がいなくなったら、俺は多分、元の生活に戻るだろう。それが、嫌だと思ってしまった。

 それらの言葉はどれらも本当だった。けれど、どれも理由じゃなかった。それらが全部絡まり合って、言葉にならない理由になった。けれど、彼らは如何せん不自由な人間だ。それを理由に出来るほど器用じゃない! 分かりやすい言葉にしなくちゃ伝わらない。だったら、いっそのこと言葉にしない方がいいと思ったのだ。
 例えば、親友が理解すら拒むほど残虐な殺人犯だとして、自分を手酷く裏切っていたとして、救いようのない害悪だったとして、――それでも嫌いになれなかったら、一体どうしたらいいのだろう?
 悩みの段階はとうに過ぎた。殺されてもいいとすら思ってしまった。そしてそれを過ぎたことで、改めて俊月は選択したのだ。目の前の男と、一緒に地獄に堕ちてやることを。
「うるさいって……思考停止過ぎない? 何かあるでしょ。困るな」
「だから、お前を突き出さなかった理由は特に無い。俺のよくわからん感情だけだ。今でも間違ってるとは思うんだが、もうどうにもならんな」
 月曜日が好きな理由も、俊月に話しかけた理由も、本当は何処にも無い。それでも、小鳩はあの日、俊月に出会ったのだ。理由なんて無いただの気まぐれでも、出会いで全てが変わってしまった。これを体よく言い換えたら運命になるかもしれないが、俊月にそんなつもりは更々無かった。理由の無い出会い、必然性の無い出会い。天災のようなものだ。避けることの出来ない災禍だ。
 けれど、それを聞いた小鳩は、それこそ豆鉄砲でも食らったような顔をしていた。そして、出会った時とまるで変わらない柔和な笑顔で笑う。その笑顔を見た瞬間、なんだか嫌な予感がした。俊月が無理矢理口を閉じさせる前に、小鳩が軽やかに言う。
「それって十分理由になるんじゃないの?」
「そんなはずないだろう。納得のいく理由っていうのは、もっと筋道だったちゃんとしたものだ。俺のこれはそうでもない」
「つまりは僕のことが滅茶苦茶好きで、だからいなくなったら困るんだろ? 照れるな」
「お前、今になって通報されたらどうするんだ」
「その時は一人じゃ終わらないよ。一蓮托生なんだろ? ちなみに、あの時殺しとけばよかったって気持ち、今何割?」
「八割五分」
「あはは、僕も割と瀬越のこと好きだよ」
 どういう変換でそうなったのかは分からないが、小鳩は果たしてそう返した。言葉のコミュニケーションは難しい。八割五分の言葉がどうやったら好意になるのか分からない俊月は、未だに人間が下手なのだ。首に掛かる縄が外れても、世界は未だ息苦しい。本当は人間なんか少しも好きじゃないし、俊月は善良な人間にはなれない。
 でも、生きている。小鳩も俊月も生きている。
 ふと窓を見ると、出会った時の電車と同じ、柔らかな日差しが差し込んでいた。綺麗だった。泣きそうなくらいに。そして、大切なことを思い出す。
「おい、お前の所為で講義に出られなかったぞ。どうしてくれるんだ」
「瀬越ってさ、そういう異常な図太さがあるっていうか……精神が細いのか太いのか分かんないよね。本当に」
 そう言って、小鳩は部屋の壁に掛けられたカレンダーに目を向けた。飾り気の無いシンプルなそれを見ながら、目を細める。そして、言った。
「――あ、今日、月曜日だったんだね。困るな」

(〝You call it splendid Monday.〟is over)

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