正中線上のミケランジェロ

 自称天才アーティストの安藤春一の額にミケランジェロが生えてきた時、彼はまず昨日自分が何を食べたかを思い返した。そしてようやく、自分が昨日から殆ど何も食べてないことに気がついた。飢餓状態な癖に額から何かが生えてくるなんてエントロピーの法則に反しているよ、とややズレた反論を思いつく彼は、明らかにこのファンタジックな展開に向いていなかった。
 額に感じる違和感はかなり壮大なもので、目を覚ましてからすぐに彼は鏡を見に行った。朝起きてすぐに顔を洗うという健全な習慣から遠ざかって久しい春一には珍しいことだった。そこで春一は、自らの額にペットボトルサイズの人間が生えていることに気が付いたのである。
 瞬きをしているし、どうやら呼吸もしているようだった。ローブのような服装もあって、足元はよく見えない。日本人だと認識するには彫りの深すぎる顔立ちには、見覚えがなくもなかった。
「……貴方は誰ですか」
 質問文はなるべく的確に、短く。かつ、シンプルに。「何で額から生えているのか」とか、「パニックを起こしてもいいですか、なんて質問はしても意味が無い。それならまず、明解な回答を貰えるものを尋ねた方がいい。
 そちらもそちらで眠りから覚めたばかりのような顔をしていた。彼はとてもふてぶてしく答える。
「ミケランジェロだよ」
「は? ミケランジェロ? ミケランジェロってあのミケランジェロ?」
「どのミケランジェロかわかんないだろ。それを言うならお前はどの安藤春一なんだよ」
 その、一見突拍子もない名前を聞いた時、春一は何故だか酷く納得した。その立派なひげを蓄えた姿に見覚えがあったのもあるし、そして何より、今まで世界に現れ芸術家と呼ばれた人間たちの中で、最も春一が愛しているのが、彼だったからだ。
「あ、あの……ミケランジェロ先生、時にお願いがあるんですけど」
「うん、何?」
「あの、絵……絵、描いて貰えませんか」
「あのさ、私は彫刻家なんだけど」
「知ってる……いや、知ってます。知ってるんですけど」
「知ってるならこんなのは不適切だってわかるよね」
「俺の額から生えてきてる時点で世の中の大方の出来事からは不適切ですよ」
 ミケランジェロは美術に詳しくない人間には――つまり、安藤の住む街の人間の大半には画家だと思われている。ああ、ミケランジェロ。うん、知ってる。あれでしょ? 絵、描いた人。画家だっけ? 残念ながら、ミケランジェロは画家じゃなく彫刻家だ。彼がまだ生きていた時からその勘違いは幾度となくされてきた。彼の描く絵があまりにも素晴らし過ぎた所為だ。
 それを思う度、春一は結構憤慨してみせる。ミケランジェロのことを正しく認識してない癖にミケランジェロを語るんじゃねえ! と、ファン特有の面倒な愛を振りかざすのが常だった。
 そんな彼が愛しのミケランジェロにそんな不躾なことを言ってみせるのには理由がある。何せ安藤春一は元・油絵を専攻していた美大生で、今現在画家として生計を立てたいと思っている列記としたアーティスト志望で、フリーターなのだから。ちなみにアーティストネームは安藤アンバランスである。全く知られていない名前だ。

 ミケランジェロの話をしよう。と、なると結構難しい。彼はあまりに偉大な芸術家過ぎるからだ。一般的に、彼は神のごとき、とかそういう形容詞で呼ばれる。イタリア盛期ルネサンス期の彫刻家、画家、建築家、詩人。西洋美術史上のあらゆる分野に、大きな影響を与えた芸術家である。ミケランジェロ自身が本業と考えていた彫刻分野以外の作品は決して多くはないにもかかわらず、様々な分野で優れた芸術作品を残したその多才さから、レオナルド・ダ・ヴィンチと同じく、ルネサンス期の典型的な「万能人」と呼ばれることもある。(以上、Wikipedeiより引用)

 そして何より大事なことは、安藤春一がミケランジェロのことを心底敬愛しているということだった。憧れの天才芸術家を前にして、正確には額の上にして、春一は興奮していた。それ以上に彼は、のっぴきならない状況に陥っていたのだし。
「とにかく、あんたがミケランジェロ先生なら、とりあえず俺の窮地を救ってくださいよ! もう時間がないんだ」
「芸術に時間は関係ないだろ」
「麒麟ヶ丘先生に見せなくちゃいけないんだよ!」
「誰だ、キリンガオカって。顧客か? でも、お前は絵を描いて生活してるわけじゃないんだろ? 私は知ってるぞ」
「どうしてそういう情報は入ってて、麒麟ヶ丘先生の情報は入ってないんだよ! 麒麟ヶ丘先生は俺の所属してるギャラリーの先生で・・・・・・とにかく俺は一日一枚絵を描いて写真を撮って送らなくちゃいけないの!」
「何の為に?」
「トレーニング」
「それじゃあ私がやっちゃ意味がないんじゃないか?」
「ファッキン正論!」
 話がなかなか進みそうになかったので、ミケランジェロに無理矢理筆を持たせる。鏡を見ながら押し付けたのに、あやうく目を潰しそうになった。額の上は危うい距離だ。
「あんただって教皇とかに無理に壁画描かされたりしてただろ! 麒麟ヶ丘先生は俺にとって教皇みたいなもんなの! ぶっちゃけもう五日も何も送ってないんだよ!」
「はあ、そうなのか」
「このままいくと俺は破門されちゃうんだよ……どうしよう、このまま通う場所まで失くしたら、本当に俺はおしまいなんだって……」
 春一は麒麟ヶ丘という名前の有名画家のギャラリーに弟子として所属させてもらっていた。この国の若手アーティスト志望の多くが選ぶ選択肢の一つに、有名画家のギャラリーに所属し、芸術家として生きていく為のノウハウを学ぶという道がある。芸術の世界で真摯に身を立てようと思っている春一は、好きだった画家の麒麟ヶ丘のギャラリーに入門したのだった。
「麒麟ヶ丘先生は優しいけど、これ以上作品を提出しない俺を置いておいてくれるとも思えない、八方塞がりなんだよ、もう描けないんだ、助けてミケランジェロ先生!」
 藁をも掴む気持ちだった。正直な話、もう額から生えているとかホラー展開だとか見た目がグロテスクだとか、そんなことはどうでもよかった。大した成果も出していない癖にスランプだとかぬけぬけと言い放つかのような形になっている自分の状況を、春一はどうにか脱しなくちゃいけない。
 そのあまりの必死さが伝わったのか、ややあってミケランジェロが答えた。 
「……仕方ないな。どうせ私はアンバルの額から生えてるんだし」
「そうだよ。これもきっと何かの縁だよ」
「何かの縁か。これは運命かもしれないよ、アンバル」
 そう言いながら、ミケランジェロは溜息を吐く。絵の依頼を受ける時、いつでも彼は大事なものを捨ててみせたような顔をするのだ。
「描いてやるよ、アレに描けばいいんだな? 小さいけど」
「ありがとうございます!」
「というか、描きづらいことこの上ないな」
「あ、でもミケランジェロ先生、こうしたらいけるかも」
 キャンバスの前に小さな机を置き、その机に春一が突っ伏すような形で描画を進めて貰うことにした。ミケランジェロは美しい天井画を延々と上を見ながら描かされた経験もあるし、悪条件にはそれなりに強いはずだ。
「絵の具は同じ机に置いておくから。使い方はわかる?」
「まあ、それなりに」
「それじゃあ、お願いします」
「突っ伏してもらわないと描き始めらんないんだけど」
 小さな身体に抱えるようにして筆を持つミケランジェロは、正直な話無茶の権現だった。こんなのに絵が描けるはずがない、とかちょっと不遜なことまで考えてしまう。それでもやっぱり期待してしまうのは、彼が他ならぬミケランジェロだからだろう。
 机に突っ伏していると、春一は段々眠くなってきた。さっきまで自暴自棄になって眠っていて、今だって極上の悪夢を見ているような状況なのに。
 額にミケランジェロが生えていても、そのミケランジェロが絵を描いていても春一は眠れた。机に突っ伏して目に負担を掛けながら、春一は眠ったのだ。微睡みに拐かされる直前、春一はこれが夢であればいいな、と思うのと同じくらい、これがどうか現実のままであってくれと思った。額から小人サイズの人間が生えてくるなんて悪夢としてはかなり優秀だと思うのだけれど、それでも春一にとってこれは転機だった。絵の具の独特の匂いを思い切り吸い込む。噎せそうになった。
 こんなものが生えていたら、もうきっとまともに人前にも出られない。道を歩くのも大変になる。そもそも額からミケランジェロが生えていたら美術界からも怪しい研究所からも狙われて崇められたり解剖されたりするんじゃないだろうか? 流石にそれは怖いし嫌だし、そもそもこの姿じゃ個展すら開けないんじゃないだろうか? ・・・・・・けれど。
 額の上のミケランジェロがせっせと絵画に向かっているのを感じながら、春一は白紙のキャンバスを思い出す。描くべきものが何も浮かばない。描いたとしてそれが傑作になるかもわからない。精神的露出行為を延々と続けても、誰にも理解されない恐怖。もう一人で踊るのは嫌だった。
 夢と絵の具の匂いの狭間に春一はいた。ミケランジェロは制作中の姿を見られるのを最も嫌った芸術家だったという話をふと思い出す。なるほど、額から生えてきたのも頷ける。
 春一は、そのまま目を閉じた。とても満ち足りた気持ちだった。楽しい気持ちだった。

  それからどのくらい経っただろうか。
「おい、アンバル、起きろ」
  春一は、額から生えている人間に自らの額を叩かれるという稀有な体験で起こされた。寝覚めは最悪だった。身体が痛い。そして、ミケランジェロが依然として自らの額から生えていることに、何とも言えない気分になる。だって、どんな反応を返したらいいのかわからない。
 ぼんやりとした視界の中でも、きっちりと全体が埋められたキャンバスだけは目に入った。色とりどりの鮮やかなキャンバス。
「ミケランジェロ先生、どうやってこんな下の方まで描いたんですか」
「頑張った」
  さらりとミケランジェロは言う。どうやって、と言いそうになったけれど、ミケランジェロの生えている部分の周りと、体の節々がなんだかとても痛かったので、聞かないことにした。終わってしまったことなら終わってしまったことでそれでいい。
 それにしても――意識がはっきりしてきてようやくわかる。ミケランジェロが描いたのは、途方もなく美しい絵だった。中心に描かれているのは一人の女性だった。……女性だよな? と一瞬思う。ミケランジェロの描く人物は往々にして体格がしっかりしていて、筋骨隆々の場合が多い。女神だろうが男神だろうが力強い体格にしてしまうのは彼の趣味に他ならないのだろうけれど、それは本当に――素晴らしく見えた。
 これはまさしく、ミケランジェロの絵だった。春一の憧れた天才の絵だ。途端に、顔が興奮で赤くなる。はっ、と短い溜息が漏れた。
「ちょっ、ちょっとアレンジ、アレンジしてもいい!?」
「どこをアレンジする必要があるんだ?」
「このままだと完全パクリって言われちゃうでしょ!
  そう言いながら、春一はこの恐ろしく整った絵にダメージ加工を施すことにした。筆を進めていくにつれ、買い物はパソコンですればいいや。と春一は思い直す。だって、こんな麗しい冒涜なんてあるか? 今のご時世、ネットスーパーなんていくらでもある。アマゾンだってある。・・・・・・画材って、ネットで買えるんだっけ? いや、まあ買えるだろうと無理に納得して筆を走らせた。
 美しいものを損なわせるのは簡単だった。現代芸術という名の下にポップさとシュールさを塗り込めて、自分のオリジナリティらしきものを出していく。
 写真を撮る段になった時には、春一のオリジナリティという名前の泥によってその神々しさは若干薄れてしまっていた。それでも、この絵は春一が麒麟ヶ丘に見せる自分の作品の中で一番の出来だと思った。尤も、これを春一の作品とするのならの話だが。 
「終わったのか」
「うん、本当にありがとう……ミケ先生がいなかったら、本当に俺このまま終わってたと思うんだ、それで……」
「まあ、仕方がないだろ。緊急事態だったんだ」
 話し合いの結果、自分のことをフレンドリーにアンバルと呼んでくるミケランジェロのことを、対抗するように『ミケ先生』と呼ぶことに決めた。敬語を使うのが苦手だった自分のことを鑑みて、敬語も使わなくていい、と言うミケランジェロに少し抵抗もあったものの、結局敬語は使わないことにした。 敬語を使ってしまうと、実際に繋がっているということを加味しても、それでもミケランジェロとの距離を感じたからである。
  彼の絵を見てしまった春一はもう彼を手放すという選択肢をとっくに失くしてしまっていた。だから、なるべくミケランジェロとの距離の方も失くしておきたかった。
「それで、アンバル。これからどうするんだ?」
「どうするって?」
「散歩とかウインドウショッピングに行かないのか? 外の世界とか見てみたいんだよ」
 ああそうか、と思う。別時代の人間が来訪する展開では往々にしてやって来る人間に外の世界を見せてあげる展開になるんだった。でも、それはやってきた相手にちゃんと自立歩行が出来る場合の話で、今回はちょっと違うのだ。「ミケ先生がいる以上、そんなにほいほい出かけるわけにもいかないよ。流石にこの姿で外に出るわけにもいかないから……」
「どうしてだ?」
「いや、流石にこの姿は直接的にグロテスクっていうか……」
「このままずっと引きこもって暮らすのか? あんまり精神衛生によくなさそうだぞ」
「今のご時世部屋から一歩も出なくても生きていけるんだって。それよりも俺はミケ先生の方が大事なんだ。ミケ先生がいれば、世界は変わるよ。絶対に変わる。だったら、外に出れないなんてことはさしたる問題じゃないんだ。俺は純粋なアーティストだから、顔を出して有名になろうって意識もない。平気だよ」
「はあ、そうなの。私はエゴに塗れてない芸術家なんていないと思うけどね」
「ミケ先生だって純粋なアーティストだよ。見ればわかる。ミケ先生は芸術の為に生き、芸術の為に死んだんだ」
「へえ」
「そういうことなんだよ」
 春一は熱っぽくそう語った。この才能を守るためだったら、とりあえず目につくものは片っ端から犠牲に出来る程度には春一はぶち壊れていた。
「それじゃあさ、ミケ先生」
「ん?」
「次は何を描く?」
  春一は笑顔でそう言い放つ。その顔がまっすぐに直立しているミケランジェロから見えているかはわからなかった。この距離は近いようでいて、結構遠いのである。 

 
 結局、外に出たりしないという春一の決意はあっさりと破られることになる。数日後、ミケランジェロと春一が協力して描いた絵の写真を見て、麒麟ヶ丘教授から連絡が来たからだ。
「ミケ先生、どうしよう、いきなり最初の関門がやってくるとは思わなかったよ。絵の実物が見たいってさ。こんなのあんまり無いんだ。麒麟ヶ丘先生が俺の作品に目を留めてくれるなんて本当にないことなんだよ。このチャンスを逃すのはまずい、絶対にまずい」
「ふーん、困ったね」
  ミケランジェロはつまらなそうにそう呟いて、大きく身体を後ろに倒した。連日春一の絵に付き合っていた所為で流石に疲れてきたらしい。春一のボサボサの髪の毛を布団にするのはちょっと頂けなくても、額に映えている以上仕方がないのだ。
「あ、ちょっと待って。ミケ先生、それ凄くいいかもしれない」
「ん? どういうこと?」
「こういうこと!」
「ンギャーーーーーー」
  春一は不遜にもミケランジェロを覆い隠すようにジャケットを被った。 送検される容疑者のような恰好になりながら、春一は自転車に飛び乗る。絵は荷台に丁寧に括りつけた。ミケランジェロよりも丁重に扱う勢いだった。
 額から異物を生やしながらも、春一はギャラリーへ走った。そう。どんなに孤高の芸術家だって、誰かと拘わらずには生きていけない。春一は度々そのことを忘れてしまう。
 その春一の癖は、新しい才能を無理な文脈で手に入れた彼をこれから先も致命的な濃度で追い詰めることになる。御存じですか、世界は他人で溢れ返っていることを!
   ギャラリーに着いてからの行動は早かった。人目をサンタクロースよろしくしのびながら、ミケランジェロとの合作の実物を麒麟ヶ丘の部屋に置くと、春一は電話を掛け始めた。お相手は勿論、麒麟ヶ丘である。待ちメロとして設定されているゴルドベルグ変奏曲を聴きながら待つ。ややあって、電話が繋がった。
「はい、麒麟ヶ丘だけど」
「あ、安藤です! 絵は麒麟ヶ丘先生の部屋へ置かせて頂きました!」
「ああ、安藤アンバランスくん。やあ。それはどうも」
「あの、すいませんしばらくトレーニングサボっちゃって、その、あの、何て言ったらいいか……」
「ああ、大丈夫だよ。僕の指示を無視したことは頂けないけど、それ以降はちゃんと送ってくれてるし。だってアンバランスくん、この絵に熱中しちゃったんでしょ?」
「え、あ、はい! そうです!」
  どうやら麒麟ヶ丘の中ではそういうシナリオになっているようだった。あの絵は毎日提出をサボっていた五日間を捧げるに値する名作だと解釈されたらしい。その事実に気が付いた時、何だか酷く気分が落ち込んでしまった。
「それにしても、どうしたの? 電話だなんて。アンバランスくん今何処にいるの?」
「あ、あの、ギャラリーにはいるんですけど……」
  春一はちらりと額の方へ目を遣る。ジャケットを地面に投げつけて伸びをするミケランジェロの影だけは見えた。さっきの春一の行動にご立腹のミケランジェロをこれ以上隠しておけそうにはない。麒麟ヶ丘に、この姿は見せられない。
「麒麟ヶ丘先生すいません。あの、そう俺今めちゃくちゃまずい奇病に罹ってて、直接先生の前に姿を現すことが出来ないんです。無礼なのは本当に承知してるんですけど、どうかこのままで。お願いします」
「奇病? アンバランスくん、病気なの?」
「ええ。先生も額からあられもないものが生えてきたら嫌でしょう?」
「嫌っていうか、僕なら即座に切り落とすけど……何? アンバランスくん何か生えてるわけ?」
「物の例えです。とにかく症状は落ち着いているものの感染性の病気を患っている以上、先生にご迷惑はお掛け出来ません」
「そっかー」
  麒麟ヶ丘は不思議に思っているようだったが、春一が語った病の詳細があまりに気持ち悪かった所為かそれ以上何も言わなかった。んん、と軽く咳払いをすると、ずっと真剣な声で話し出した。
「君の新作を見たよ。面白いね。綺麗だし、特別だよ。特別」
「そ、そうですか、ありがとうございます!」
「これは、何を描いたのかな?」
「何を描いたのだってミケ先生」
「神」
 ミケランジェロは心底つまらなそうに答える。
「神です」
「へえ……君の描く神様はこんなにポップなんだねえ……」
  少しアレンジがきき過ぎたかと思ったけれど、そちらの方がその絵の真実がわかりづらいはずだ。尤も、この絵がミケランジェロによる代筆の結果だなんて、正気の人間なら信じようとはしないだろうけれど。
「ミケランジェロの作風に似てるね。というか、酷似している。アンバランスくんはミケランジェロが好きなんだっけ?」
「ええ、そうです」
「それでも彫刻の道に進まなかったのは絵が好きだからなんだよね?」「……そうです」
 絵が好き、ということを誰かに告げる時、春一はいつでも少しだけ恥ずかしい気持ちになる。スムーズに生きていくにあたって必要な程度の嘘は今までいくらでも吐いてきたし、そもそも今だって麒麟ヶ丘の前で彼は隠し事をしている。だからかもしれない。混じりけのない本音を口にするというのは彼にとってとても大変なことなのだ。
「何にせよ、一皮剥けたようでよかったよ。完全なオリジナルなんてないんだからね。亜流から始めて自分のスタイルを確立出来ればそれでいい」
「……はい。ありがとうございます」
「それでね。勿論話はそれだけじゃなくてね。だって、細かい講評はアンバランスくんに直接言った方がいいだろうし、私もこれからもう一度アンバランスくんの絵を見るからさ。それだけじゃなくてね。……次さ、ギャラリー内選考会があるんだけどさ、アンバランスくん、覚えてる?」
「ああはい、覚えてます・・・・・・」
「あんまりアンバランスくんは乗り気じゃなかったんだっけ?」
「別に、乗り気じゃないわけじゃないですけど・・・・・・」
「へえ、そうなのかな。まあ、参加するかどうかはアンバランスくんの自由なんだけどね。その選考会で選ばれた若手画家くんには、少々素敵な副賞が付くことになったんだよ」
「副賞・・・・・・何ですか、それ」
「手っとり早く言えばスポンサーだね。僕も勿論バックアップするよ。それで、このギャラリーの誰か一人に個展を開いてもらう」
「個展」
  春一は、思わず電話を取り落としそうになった。半年に一度のペースで行われる選考会。講評を頂くだけの品評会とは訳が違う。ギャラリーの中での優等生を決めるお粗末な遊びだ。春一はその催しが嫌いだった。何故なら、意味がない癖に闘争心と劣等感を刺激されるし、・・・・・・何より負けるからだ。だから、選考会という名前の格付けに乗り気だったことは殆どない。
 けれど、今回は訳が違った。勝者にはスポンサー。個展を開くチャンスが与えられる。それは、知られた画家への大いなる一歩だ。少なくとも、アマチュア扱いからは抜きんでることの出来る「実績」だった。
「勿論、選ばれるのは一人だけになるね。芸術という分野にお金を出そうっていう数奇者も伊達者も、今じゃそういない。でもウチのギャラリーの子たちはみんなまずはこれを目指すでしょう? だから、決めなくちゃいけないんだ」
 「あ、あの・・・・・・提出期限っていつですか」
「覚えてないの? 駄目だよ~。芸術という不安定な世界に身を投じたいなら尚更スケジュール管理はちゃんとしないと。九日後。一週間と二日後と言い換えてもいい」
「九日後・・・・・・」
「あんまり芸術に勝ち負けっていうのを付けたくはないんだけど、そういうことが求められちゃうからね。それに、ウチのギャラリーにはあの子がいるでしょう。みんながみんな不戦勝気味に彼を進ませちゃうのはよくない。彼は素晴らしい芸術家だよ。最近ますます凄い。丁度、この絵を仕上げてきた君みたいにね。でも、彼にだって張り合う相手が必要なんだ」
  麒麟ヶ丘が困ったように笑う。それは、話にでてくる「彼」のことを持て余しているわけじゃなく、笑っちゃうくらい好きだからだ。他人にそんな濃度の好意を持ってしまっていることに、麒麟ヶ丘は困っている。そんな麒麟ヶ丘に、春一は密かにげんなりした。
「・・・・・・マッキンリーくんの調子も大分良好のようですね」
「うん。潮田くんは心底絵を描くのが好きみたいだからね。好きなものこそ上手なれ、って言葉の生き証人みたいだ。もしかすると、その言葉は潮田くんの為に作られたんじゃないかなって思うよ」
「はは、麒麟ヶ丘先生は大袈裟ですね」
「うん。でもね、偉大なる画家に纏わる神話を生み出すのは、周りの大袈裟な僕達の役目なんじゃないかと思うんだ」
「偉大なる画家? 一体偉大なる画家って何なんでしょう?」
「さあね。とにかく、君だって潮田くんに負けてないんだから、選考会までに何か一つ、珠玉の作品を提出しなさい。僕は、待ってるから」
「・・・・・・はい、ありがとうございます。麒麟ヶ丘先生の期待に応えられるよう、頑張ります」
「うん。君にミケランジェロの加護がありますように」
  麒麟ヶ丘の最後の言葉に少しだけひやりとする。麒麟ヶ丘はやけに芝居がかった言い回しをする人間だから、単に洒落た言葉を投じてみただけかもしれない。けれど、いつも穏やかで何を考えているかわからない彼の言葉は時折痛いところを突く。これが致命傷にならないことを密かに祈った。
「・・・・・・さて、」
  春一は電話を切ると、まるで名探偵か何かのような言葉を発した。その言葉に反応して、待ちくたびれたらしいミケランジェロが起きあがる気配がした。
 「終わったのか、電話」 
「終わったよ」
「待ちくたびれたよ。まったく待ちくたびれた。私は制作中の人間にいつ完成するのかとピーチクパーチク喚きたてる人間が大嫌いなのだが、それにしても今回は酷い。何しろアンバルは別に芸術的活動をしているわけじゃないんだからな。それなのに待たせるなんて酷い」
「ミケ先生、残念ながらこの時代では現代アートという分野が発達していてね、芸術だって言い張れば殆ど全てのことが芸術とみなされるんだ」
  言いながら、春一はまたストールを深く被り直す。ミケランジェロが不服そうに体を揺らすがお構い無しだ。そのまま、ギャラリーの更に奥へ向かう為、歩みを進めた。
「おい、どうしたんだ。見られたくないから早く帰るんじゃなかったのか」「うん、確かに早く帰らなくちゃいけないんだけど、こればっかりは仕方ない。敵情視察だ」
「敵情視察? 戦争をしているのもお花が咲き誇ってるのもお前の頭の中だけみたいだけど」
「マッキンリーのアトリエに行くんだよ」
  その名前を口にする度、春一はいつでもグッと陰鬱な気分になる。仄暗い闘志も芽生える。目映い憧憬とも出会う。まあ、身も蓋もない言い方をしてしまえば、大嫌いな相手だった。

  マッキンリー潮田の話をしよう。麒麟ヶ丘のギャラリーに所属する人間なら知らないはずがない彼の話だ。春一の大嫌いな品評会で、いつもいつも優等生に選出されるのが彼で、一口に言ってしまえば天才だった。天才。マッキンリーに向けられたその言葉を聞く度に、春一はいつも酷く不安定になる。……天才! 天才というのはミケランジェロやレオナルド=ダ=ヴィンチのような人間のことをいうのであって、間違っても現代の、ちょっと絵の上手い男に投げかける言葉じゃない。春一はそう思っている。
  けれど、現代芸術という世界において、ましてやこのギャラリー内という狭いコミュニティの中で、マッキンリーは確かに天才だった。他の蠢く凡人たちに比べたら、相対的に天才だった。
  敬愛するとある画家に影響を受けていると語る彼の絵は、独特のタッチと奇抜なセンスで評価をされている。例えば、犬が棒で人間を容赦なくぶちのめしている絵。地球が麦茶によって煮立てられている絵。字面だけで見れば悪趣味な冗談だけれど、実際に見るそれらの絵たちにはとても説得力があった。恐らくだけれど、こんなモチーフが芸術的で美しくて愛おしいと、周りから愛されていること自体が、マッキンリーのレベルの高さを示しているのだ。
 そもそも、その不可思議で珍妙な絵の意味なんか何も考えなくても、彼の絵はただ単純に美しくてたまらないのだし。
  麒麟ヶ丘がチョイスした四季折々の美しい花々が咲き乱れる裏庭を、春一は一心に進んでいった。麒麟ヶ丘は芸術家なので、こういうところにこそ手を抜かない。裏庭は殆ど外国の少女小説に出てくる迷路だった。この庭のすぐ傍に生活の拠点を置きたくてギャラリーに籠もる弟子達も少なくない。
 「アンバル。ここは何なんだ。庭なのか森なのか。こんなところにアトリエがあるのか」
「あるんだよ。しかもあいつはどうしようもないナルシストだからね。外からギャラリーの中が覗けるようになってるんだ。こう、ガラス張りで・・・・・・」 
 紫陽花のゾーンを抜けた先に、それはあった。
 太陽の光が好きな健全きわまりないマッキンリーは、三枚の大きなガラスのはめられた窓にカーテンをつけていない。それでいて、ガラスはちゃっかりUVカットの加工を施してある。絵が日焼けするのを防ぐためだ。
  大きな窓を通して見るマッキンリーの姿は銀幕の中の登場人物みたいだった。彼はキャンバスの前に立ち、爽やかな笑顔で色を作っていた。パレットの上を、踊る絵筆。
  その姿を見た時、春一は、口にいきなり絵筆を突っ込まれてフェラチオよろしくぐっちゃぐちゃに掻き回されたかのような衝撃を受けた。マッキンリーがキャンバスに向かっているのも、絵を描いている時にとても楽しそうな顔をしているのもいつものことだ。そうじゃない。そこじゃなくて。
  注目すべきは彼の額に他ならなかった。普段は・・・・・・というか普通ならフラットなはずの額からは、見覚えのある異物が生えていた。額から生えるにふさわしいくらいの大きさまで縮小された人間だ。

  その顔には見覚えがある。主に、自画像とかで。

 「あれ・・・・・・ゴッホだ」
 「ゴッホ? 何だそれ」
「ゴッホ。まさかミケ先生、ゴッホ知らないの?」
「いや、誰だよ」
「ああそうだ・・・・・・ミケ先生はとっくに死んでるんだった・・・・・・」
 ゴッホ。フィンセント・ファン・ゴッホ。美術にさして詳しくない人間でも、名前だけは知っているだろうゴッホ。人は言う。あの、絵描いた人でしょ? ああそうだ。正解だ。彼は彫刻家ではなくまごうことなき画家で、天才だった。人は続ける。ひまわりの人だ。向日葵の人。自画像が。・・・・・・自殺したっけ?
 ポスト印象派の天才として名高いゴッホはピストル自殺をするまでに千点もの作品を残し、今でも幾度となく特別展が催されている。その美しく瑞々しい筆致や、神経に直接触れてくるような画風は多くの人間に愛されている。春一も嫌いなわけじゃなかったし、むしろ好きな方だったけれど、マッキンリーが度々このゴッホという画家を自らの最も尊敬する画家にあげているのを聞いて、素直に好きだと言いづらかった画家でもある。
  生きている間には一枚の絵しか売れなかった悲劇の天才。そのゴッホが、今をときめく先進気鋭のアーティスト、マッキンリー潮田の額から生えていたのである。
「それじゃあ、あれは……ゴッホの……」
  ゴッホの作品は、当然見たことがある。あの有名で鮮やかな向日葵だとか、渦巻く星月夜の吸い込まれそうな青とか。マッキンリーが向かうキャンバスには、確かにその片鱗が、見え隠れしていた。それでいて、マッキンリーのオリジナリティーも、作品にはちゃんと見られる。マッキンリーとゴッホの共作だったかもしれないけれど、その共同作業は春一とミケランジェロのものとはまるで違う。
  美しい絵だった。モチーフに取られているのは月だ。それに、無数の目。ここだけ抜き出すとおぞましい絵に思えるけれど、マッキンリーはそれを芸術にしてしまっている。
  星のように描かれた目の一つ一つが、覗き見をしている自分を見ているような気がして、畸形のような姿をした春一は少しだけ身を屈めた。額から得体の知れないものが生えているのは同じなのに、どうして自分だけこんな気持ちにならなくちゃいけないのかと、彼は少しだけ憤る。マッキンリーは額から生えているものを隠さずに、微笑を湛えて新しい色を作っていた。
  マッキンリーにその表情が見えるはずもないのだけれど――その様子を見るゴッホの方も、キラキラと目を輝かせている。生前に一枚の絵しか売れなかったゴッホ。殆ど理解者がいなかった孤独と悲劇の画家ゴッホ。それでも、描き続けた天才、ゴッホ。
  彼はマッキンリーの口から、死後に自分が偉大な画家となったことを知らされただろうか。それを聞いて、あんなに楽しそうにパレットを見つめているのだろうか。それとも、単に絵が好きだから、混ざる青と緑を眺めているのだろうか。
 「おい、いつまで見てるんだ。アンバル」
「……だって」
「どうしたんだ」
「負けてんじゃん! ミケランジェロはゴッホに負けてるじゃん!!!」
「うっせーよ負けてねーよ心外極まりないなお前」
「だって・・・・・・あれ・・・・・・」
「ちっとも上手くない」
  ばっさりとミケランジェロが吐き捨てる。
「嘘吐け。お前はいつだって認めないけど、お前と同じくらい、お前よりも絵が上手い人間なんているんだよ。いくらでも」
  春一はミケランジェロを傷つけてやるつもりでそう言った。そもそもミケランジェロは彫刻家で絵が本業というわけじゃないとか、このミケランジェロは安藤春一から生えているのだから春一の一部とみなされるんじゃないかとか、それってつまりは自傷か自慰のどちらかだということになっちゃうんじゃないかとか、色々気になることはあったのだけれど。
  ともあれ、前者の可能性はなさそうだった。安藤はこれまで死ぬより苦しい鬱状態になったけれど、痛いのが嫌いだから自殺を考えたこともリストカットをしたこともなかった。
  そう、春一は極度の痛がりじゃなければ、恥ずかしくて選べないような生き方をしていたのだ。多分。
 「認めないからオールオッケー」
  そんな春一の煩悶なんかちっともわかっていないような声で、ミケランジェロは答えた。歪みない。淀みない。それは彼に自信があるからだ。
  天才としての自信が。
「……ゴッホに負けてちゃ意味がないんだよ、ミケ先生を生やした意味が無い」
「お前、私が生えてきた時に全く意味がわからないみたいな態度貫いてたじゃん」
「でも、俺にミケ先生が生えてきたってことは、そういうことなんだよ。俺がアーティストとして認められて、マッキンリーにもゴッホにも勝って、麒麟ヶ丘先生に認められなくちゃいけないってこと。そうじゃなきゃ、ミケ先生がいる意味が無い」
「本当にない?」
「本当にない」
「それじゃあもっと他の用途に私を使えばいいんじゃない?」
  ミケランジェロは飄々と言ってのける。
「他の用途って何だよ」
「私に鑿を持たせて、マッキンリーの絵をぐっちゃぐちゃにしてやるとか」「は、」
  喉の奥が貼りつく感触がした。口の中に溜まった唾液を今飲み込んだら、きっと鈍い痛みがする。
  シンプルで気持ちのいい解答を引き出してきた、愛しのミケ先生の顔は見えない。彼は春一の額から動けないのだ。
「・・・・・・そんなことするくらいなら自分でやるよ。そもそも侵入するリスクは犯さなくちゃいけないし、手袋もあるし」
「あ、そうか。まあ、そうだよな」
  ミケランジェロが安藤の額の上で頷く。安藤にはミケランジェロの表情が見えない。それを今、何故かとても恐ろしく思った。ミケランジェロは、安藤の視界の外から呟く。
「それじゃあちっともスッキリしないもんな。自分の手でぐちゃぐちゃにしてやらないと」
  安藤の喉はまだ嫌な感触がしていた。何か飲まないと、と思いながらも、液体を嚥下する時に感じるであろう鈍痛を思うと何も口にする気が起きなかった。

  アパートに帰った後、春一は一頻り喚いた。ゴッホなんてずるい、ゴッホ凄い、向日葵畑に放火したい! などなど。マッケンリー潮田に対する文句も勿論言った。あんなの芸術じゃない。ずるい。だって、マッキンリーじゃなくて、凄いのはゴッホだ。彼だって天才なのだ。
  でもあのゴッホを額から生やしたのは他ならぬマッキンリーなわけで、それなら一体あの絵は誰の功績なんだろう? ゴッホとミケランジェロ、どっちを生やすことが果たして勝ちなんだろうか? ……ミケランジェロは素晴らしい。春一はそう思っている。ゴッホとの素晴らしさを比べるとなると、正直そんなところは好みの問題になってくる。春一はミケランジェロが好きなのだ。ちょっと異常なくらい、敢えて言うなら信仰くらい、彼のことを好きだ。 悪いのはミケランジェロじゃない。ミケランジェロを生かせない自分だった。マッキンリーにゴッホが生えていようがいまいが、春一はマッキンリーに勝てない。……それを思うと、悲しい。
「どうして俺には才能が無いんだろう。この一年、俺は必死にやってきたんだ。誰にも負けないくらい描いたんだ。知ってるだろ、いや知らないだろうなぁ。だって、本当、ちょっと前だもんな。ミケ先生が生えてきたの。とにかく、俺は描いてきたんだ……。マッキンリーも相当の数を描いていただろうけど、俺だって……。そうなんだよ。もう技術じゃないんだ。これは描けるかどうかの違い。俺には描けなくて、マッキンリーには描ける。そういうのって、多分才能なんだろ。酷い。羨ましい。俺だって同じように描いてみたいよ。そんなの……ずるい……」
  後半は殆ど啜り泣きだった。
  そんなことを言い出してしまったら敗色濃厚だというのに、春一はこういう弱音を吐かずにはいられない。ミケランジェロと自分は違うし、マッキンリーと自分は違う。そういうことを納得できないから苦しい。そんなのずるい。春一の頭にあるのはそれだけだった。
  世界堂に行く度に買ってしまうキャンバスはまだまだ白いままだ。ストックは沢山ある。……とにかく何か描くか、そうじゃなきゃ誰かに抱きしめてもらって頭を撫でてもらいたかった。後者は額から生えているミケランジェロには期待できない。そうなると、出来ることは一つしかなかった。
「ミケ先生、もっと描こう。俺とミケ先生のコラボレーションをもっと崇高な位置まで高めていこう」
「だから私は彫刻家であって画家じゃないんだけど。じゃあ、私が彫ってアンバルがやすり掛けすればいいじゃん。最高のコラボレーションじゃん」
「いいから描かなくちゃいけないんだよ! このままじゃニッチなAV専門の男優になるしかなくなるだろ!?」
「お前もやっぱり私のことを性器染みてると思ってたんだな?」
「それ以外の何に見えるんだよ! どう考えてもモザイク処理されそうだろうな展開だろうが!」
  それから春一とミケランジェロは一しきり罵り合った。春一にとっては完全に負け戦の口喧嘩だった。何しろ春一はミケランジェロが大好きで、ミケランジェロにとって春一は単なる寄生対象に過ぎない。
 大の男がするには相応しくないような大泣きを経て、喧嘩は一応終結した。狭い部屋の限られた壁にもたれながら白いキャンバスを見つめる。
  沈黙を破ったのはミケランジェロの方だった。不遜な態度で人を怒らせてばかりだったミケランジェロは、こういう時の仕切り直しがとても上手い。
「アンバル、私が人間の姿で生きていた時に一つなるほどと思った逸話を話してやろう」
「オーケイレッツスピーキン!」
「ある王国に三人のパンケーキ職人がいたんだ。一人目のパンケーキ職人は、王様に生クリームの載ったパンケーキを献上した。けれど、彼は首を刎ねられてしまった。二人目のパンケーキ職人は、考えた末チョコレートをふんだんに使ったパンケーキを献上した。けれど、彼は首を刎ねられてしまった。三人目のパンケーキ職人は青ざめながら必死で考えてさ、結局何もトッピングを施さないまんまのパンケーキを王様に献上したんだ。でも、彼もまた、首を刎ねられてしまった。そう、王様は実はパンケーキ自体が大っ嫌いなのでした! そういう話」
「ミケ先生、その話の教訓は?」
「パンケーキ職人は死を目前にしていてもパンケーキを作り続けるしかない。何故ならパンケーキ職人だから」
「身も蓋もねえな!」
「そうだろうか。私はこれを真理だと思ってるよ。まあ、私彫刻家なのに絵を描いてたんだけどさ」
「そもそもミケ先生の生きていた時代にそんなモダンなパンケーキの概念ってあったの?」
  ミケランジェロは答えなかった。正確に言うなら答えられなかったのだ。

 殆ど人の来ない春一の安アパートに、一人だけ頻繁に訪れる人間がいる。
 彼女はこのアパートの合鍵を持っている唯一の人間だ。
 つまり、額からミケランジェロの生えた春一が引きこもるこの部屋に、強引に分け入ることの出来る人物だということだ。
「アンバルー? アンバルいるんでしょ? 麒麟ヶ丘ギャラリーにアンバルが来たって教えてくれた子がいるんだよね! スランプ脱出したんだ! おめでとう!」
  明るい声でそう喚きたてながら、ガチャガチャと扉に鍵が差し込まれる音がする。まずい! 春一はとりあえず手近にあったシーツを被り、『彼女』の襲来に備える。絵の具の匂いを優しく掻き消す懐かしい香水の匂いがした。
「アンバル? いるんでしょ? ん?」
  限界まできらびやかに巻かれた亜麻色の巻き髪が左右に大きく揺れる。こんなアパートにいるよりは歌舞伎町にいる方がずっと似合った。高いヒールを乱雑に玄関に投げ捨てて入ってくる彼女はいつでも純然たるヒロインの顔をしていた。その額に誰も生えていないのを確認して、春一は密かに安堵する。 彼女――琴槌は安藤の古い友人だった。一度は恋人だったこともあるし、今だって酒の勢いを借りたら友人としては不適切な行為をなせるだけのポテンシャルがある。何しろ、琴槌は脱いだら色々と凄いのだ。
  琴槌という名字は、彼女のご先祖様であるとても美しい踊り子が、舞を見せた貴族に本番行為を強要されそうになってキレて、近くにあった琴を取り上げ撲殺してしまったというファッキンキュートな由来を持っている。その名字に似合う程度には、琴槌はしたたかで、可憐でキッチュな女の子だった。
 だから安藤は、琴槌のことが本当はとても苦手だった。彼女の目は、安藤を不安定にさせる。安藤アンバランスとかいう、まるでセンスの感じられない名前を彼に与えたのは何を隠そう琴槌だ。彼は不本意なはずのその名前を捨てられない。その名前を冠している時の安藤に、琴槌がグロテスクなほど優しいことを知っているからだ。
「・・・・・・久しぶり」
「うん。ねえ、それどういうこと?」
「どういうことって?」
  春一は華麗にしらばっくれた。
「シーツ被って何に怯えてるの?」
「お前にだよ。そのキラキラとかふわふわとか、俺には大分毒なんだ」
「何言ってるんだか」
  琴槌は呆れたように鼻を鳴らした。その様子を見て、春一は怒られた子供の様に身を竦ませる。
「っていうか、そう。アンバル駅前のコーヒー屋さんのバイトバックレたんだって? 仕事中に寄ったら、いきなりアンバル来なくなったっていうから。店長怒ってなかったよ? 心配してた。よくないよ、そういうの」「別に、俺がいなくたって平気だろ。チェーン店なんだし」
「アンバルのコーヒーはチェーン店のものにふさわしくないくらい美味しいと思うんだけどな」
「殆ど出来合いのものを出してるだけなのに?」
「うん。私、読み聞かせは語り手によって質が全然違うと思ってるんだ」  
 そういう問題なのか? と安藤が訝しがっている隙にひらりと琴槌は部屋の奥に入ってしまった。狭い部屋に琴槌がいるととても圧迫感がある。会う度に、琴槌は少しずつ大きくなっていくようだった。
「なるほど、絵は描いてるみたいだね。あは、何か全盛期のミケランジェロの作風に似てるね。人間の描き方とか。そうかー……アンバル、ミケランジェロ好きだったもんね」
「描いてるに決まってんだろ。俺はお前と違ってまだ芸術家なんだから」
「うーん、そもそも芸術家って何を以て芸術家なのかな。芸術芸術してたらそれはそれで芸術家なんじゃないのかな」
「うっせー! そんなので良いわけないだろ!! そんなのは負け惜しみなんだよ! 一人で壁にボール打つだけのテニスが成り立つと思ってんのか!?」「なんかそういうスポーツあったじゃん。スカッシュだっけ」
 なんかやりづらい。
 琴槌が春一の恋人じゃなくなってから、正確に言うなら琴槌が麒麟ヶ丘のギャラリーを出て、とある美術館の学芸員として就職して絵を趣味にし始めてから、そういうあたりの話は琴槌とは噛み合わなかった。二人で会って世間話に終始して、適当にベッドインすれば穏やかなのに、面倒なことに春一と琴槌が会うとどうしても絵とか芸術の話になってしまう。それは二人共が絵を愛しているからなのだけど、それは結局二人を破局に導いてしまった。
 「お前は逃げたんだろ、芸術から。そうやって絵を趣味にしてさ、そうやって……知らなかったかもしれないけど、俺は琴槌の絵が凄い好きだったんだぞ」
「それは知ってる。酔ってる時アンバルはよくそれを言ってた。私だってまだ絵、凄い好きだし、普通に今でも描いてるよ。たまにネットにのっけたりしてる」
「それじゃ駄目なんだよ。ネットで評価されてどうなる。プロになることを放棄して、個展も開かないしコンクールにも品評会にも出さないって、もうそれ何の為に描いてるんだよ」
「趣味だよ。ねえ、もしかしてアンバルは自分の生活が全て芸術で成り立ってないと気が済まないの?」
  困惑したような顔だった。それが春一には軽蔑されているかのようにも思えた。お前には縁遠い悩みかもしれない。だってお前は、趣味で美術をやっているんだからさ、そう怒鳴ってやろうかとも思った。けれど、そこじゃない、と思い直す。そもそもバイトを辞めたのは画家として絵だけで暮らす覚悟を決めたからじゃなく、額のミケランジェロを隠せないからだ。だって、カフェのバイトってシーツを被ったままじゃ出来ないんですよ? 当たり前の話だけど!
 春一は自分に生えてきた『才能』を守ることに必死だった。大いなる才能の為の貴い犠牲。そういうものに、安藤はとても酔っている。
「別に金が稼げなくてもいいんだけどさ、プロとして認められないと自分の作品を誰にも見て貰えないだろ。どんな優れた作品でも、それがプロの手掛けたものか、アマチュアが手掛けたものかで評価なんて全然違う。趣味でやってるものなんて認められない」
 「そうかなぁ」
「道端に座り込むホームレスが神様だとしたって、この街の人間は誰も気づきやしないよ。そしてすぐにキレる若者のバットの餌食になるんだ。だからそのホームレスが神様だってちゃんと知らしめておかなくちゃいけないわけ。神様だから重病人を治すとか、道路を真っ二つにするとか。何でもいいけど」
 熱弁を振るっている所為で、額のミケランジェロを隠している布が取れそうになって、慌てて春一は目深に布を掛け直した。琴槌の顔が一瞬で見えなくなる。
 「アマチュアの世界で作品を発表したとしたって、誰も認めてなんかくんないの。何かの後ろ盾が無いと、誰も見たがらないんだ。趣味の領域で優れていたって、そんなもん何になるんだよ」
「まあ、私でさえ自分の作品に名前彫っちゃったことあるし。でも、本当に優れた作品を作ってたら、なんか知らず知らずの内に名声が高まって教皇とかの方から声掛けてくれるもんだよ?」
「ミケ先生の時代と今の時代じゃ訳が違うだろ。というかミケ先生も、いや、ミケ先生だとしても認知度が高くないと、作品が軽んじられていたかもしれない……。だって、神様に見紛わんばかりの神々しいホームレスだって、いるかもしれないんじゃん……」
「私の作品に限ってそれはない」
「ありえないなんてことは存在しないらしいよ」
「アンバル、誰と喋ってるの?」
  琴槌の言葉で、春一はようやく正気に戻った。琴槌の目が怖い。とても怖い。でもまあ、実際に怖いのはあからさまに気の狂った人間を目の前にした琴槌の方だろう。
「いや、ごめん、気にしないで! もう本当、芸術的感性が素晴らしいと困るね!」
「……本当に大丈夫なの? 怖いんだけど」
「怖くないよ!」
「あんまり思いつめない方がいいよ」
「そうやって、俺をいつもいつも……」
「アンバルは絵を趣味にしちゃった私のことを疎ましく思ってるかもしれないけどさ、大丈夫。私はアンバルの味方だからさ」
  琴槌は誰が相手でもカウンセラーのような顔をする。それが安藤には気に食わなかった。彼女がなりたいのは多分聖母とかそういう類のもので、それを思う度に安藤はなんだかとても悲しい気分になった。
「それじゃあ、また暇になったらバイト復帰しなよ。働かなくちゃどうせ食べていけないんだし」
「俺は暇じゃないから」
「うん、そうだね」
  琴槌はそれだけ言ってまたひらりと帰ってしまった。あんなに香っていた琴槌の香水の匂いは、彼女がいなくなるとすっかり名残もなく消えてしまう。それを寂しく思う資格なんて欠片も無い。それでも、手前勝手に悲しくなる。せせこましいテーブルの上にちょこんと手土産のいなりずしが置いてあるのを見て、更にやるせない気持ちになった。
  ミケランジェロと二人きり。
「琴槌はああやって言ったけど、……実際のところどうなんだろう」
「それを確かめる為にも、反論してやる為にも、まず勝たなくちゃいけないんじゃないのか、選考会」
「……そうなんだよなぁ、……勝たなくちゃ、認められなくちゃ……」
  ミケランジェロが生えてきてから今までの間に描いた愛しの作品達を見渡す。認められたい。誰かを感動させたい。後者の表現を使うと、途端に春一の思いが純化されていくような気がした。
「うん、描くよ。描く。絶対ゴッホなんかに負けるか。琴槌だって見返してやる。俺の絵が認められるのを見せつけてやるんだ」
「ああ、その意気だ、アンバル」
  ミケランジェロの声が力強い。その声を聞くだけで心が躍った。
「どんな結果になっても、俺は絵を描くのが好きなんだ。……マッキンリーに負けても、俺は……」
「大丈夫。わかってる」
 ミケランジェロの優しい言葉は春一によく沁みた。
「もしこれでアンバルが勝ったら……ううん、いや、もしアンバルが負けたら……」
「賭ける対象を迷ってんじゃねーよ、俺の勝利を信じててくれ」
「ああもう、うるさいな。じゃあ前提を変えてやる。この最低最悪の祭りが終わったら、……私に鑿を持たせてくれ。『どうしてだ』なんて聞くなよ」
  その後の言葉を、アンバルは一生忘れないだろうと思った。
「私は、彫刻が好きだからだ」
 春一は、何故だか深く頷いた。その通り、ミケランジェロは彫刻が大好き。 それと同じように、春一も絵を描くのが大好き。彼は文字通り寝食を忘れて筆を走らせた。ミケランジェロはそんな春一を絵筆を持ち、あるいは言葉を発してサポートした。いくらでも描いていられると思ったのは、楽しかったからだ。春一はミケランジェロと共に、部屋の中に籠った。
  九日は瞬く間に過ぎた。その間は、琴槌が訪ねてくることもなかった。 その電話が鳴ったのは三日後の夜だった。連絡が十一時近くになったのは、審議に審議を重ねたからだろう。
  麒麟ヶ丘に提出した絵は、シンプルなものだった。春一が昔描くのが好きだった鯨をモチーフにした絵だ。ミケランジェロは力強い人物を描くのが好きだから、反対されるかもしれないと思ったけれど案外すんなりミケランジェロはそれを受け入れて、一緒に構図を模索した。
  大丈夫。負けてない。瞼の裏にはマッキンリーのあの絵達がどれも全て焼き付いていた。それでも、春一はやるだけのことをやった。残像を塗り替えるように、春一は筆を走らせた。
  手が汗ばんで、震えた。電話の向こうの声が遠く聞こえた。自分の混じりけのない全力が評価されるのは、恐ろしいことだ。
  麒麟ヶ丘が暢気な挨拶をする。地獄の時間が静かに煮立った。

「はい、そうです、安藤アンバランスです」
「え、あ、はい。そうですか」
「……マッキンリー潮田くんにもよろしく言っておいてください。ええ、はい。頑張ってくれるように……」

  電話の向こうの麒麟ヶ丘の声が少しだけ沈んでいるのを聞いて、少しだけ救われたような気分になる。でも、焼け石に水だった。
「うん、僕はさ、アンバランスくんにも期待してるから、これからも描き続けてね。また絵を見せてよ。チャンスなんていくらでもあるんだ」
「……はい…………」
  電話が切れた時に、緊張の糸も切れた。部屋の殆どはみっしりと描かれたキャンバスで埋まっていた。ぐう、と潰れた蛙のような声が漏れる。このまま埋まってしまいたかった。
「どうだった」
「どうも何も……このザマだけど」
「そうか。残念だったな」
  ミケランジェロの声は優しい。全力を出したのに、結局ゴッホとマッキンリー潮田にあっさり負けた相手に掛ける声にしては、それは割合適切だったかもしれない。
「……アンバル、私はね、別に無敗でいけと言ってるわけじゃない。私だって、そんな……」
「やめてよミケ先生。そんな勝負が全部終わってしまったみたいな言い方して。大丈夫。俺はまだ諦めてない」
「アンバル、それは……」
「よく言うだろ? 勝負は九回の裏までわからない。諦めたらそこで試合終了だよ。人生を決めるのは自分自身だ。成功の可能性は零パーセントだと言われて、諦める事ができるような、そんな軽い気持ちで夢を追いかけたわけじゃないです!」
  自己開発セミナーの講師とその生徒が好みそうな言葉を繰り返し呟きながら、春一は膨れ上がる自分の中の焦燥をゆっくりと宥める。大丈夫。安心して欲しい。すぐに助けてあげるから。
  ミケランジェロは不気味なほど静かだった。彼は春一の脳髄と繋がっている。加えて彼は、キリストの死体を手に抱くマリアの、この地上で一番の理解者だ。彼にもう少しリーチがあれば、今ここでピエタの再現をしてくれたかもしれない。春一は用意をし始めた。
  実のところ、必要なものなんて一つしかない。なんかよくわからないアーティスティックな制作用の、大振りなナイフだ。暫く砥いでいないけれど、多分それなりに実用には耐えうるだろう。琴槌あたりの悪戯だろうけど、柄の所には可愛く複雑にデザインされたハートが彫ってあった。
「アンバル」
「何」
「私がやってやろうか」
 この間と同じやり取りだった。けれど、ミケランジェロはもう指紋のことを気にしているわけじゃなさそうだった。彼は純粋に、春一の代わりにそれを請け負ってやろうか、と尋ねているのだ。
「ミケ先生はわかってないよ。……俺は絶対に勝ちたいんだ」
「私だって負けるのは嫌だけどな」
「わかってないのはそこじゃない。罪悪感とかモラルとかそういうことを気にしないでいられる程度には強い想いなんだってことをわかってないってこと」「私はお前の脳髄から生えてるのに?」
「うん、それでもわかってない。だからこれから見せてあげるよ」
  ほんの数時間前に言ったことなんか、もうこれっぽっちも頭に残っていなかった。あれは結局、実際の審判が行われる前の陶酔、彼のふざけた自己プロデュースに過ぎなかったのである。絵を描けるだけで幸せ? マッキンリーに負けてもいい? んなわけねーだろ畜生め! 春一は勢いよくアパートの扉を開けて、自転車に飛び乗った。
 額の上のミケランジェロはもう隠さない。ミケランジェロは彼の中である意味スティグマになっていた。ミケランジェロのことを思うと、心から血が滲む。失敗は赦されない。この額に、神のごとき天才を戴いている以上は。

  麒麟ヶ丘のギャラリーは基本的に二十四時間いつでも開いている。芸術におけるインスピレーションはいつ何時やってくるものかわからない、というご機嫌な理由からだ。そういう芸術家特有のわけのわからない理論でここを開けてくれている麒麟ヶ丘に、春一は心の底から感謝した。薄暗い廊下を進んでいく。
  このギャラリーに自分が住み込まない理由が、なんとなく理解出来た。ここに住んでいる人間は、誰も彼もが自分の芸術に対して心血を注いでいる。毎日毎日二十四時間夜中まで絵を描かなくちゃいけない状況に、春一は耐えられそうになかった。
  確かに絵は好きだけど、そこまでいったらもうそれは強迫観念の域に達しているんじゃないかと思ってしまう。他に人生に大切なものとか愛しいものとか、大事に出来るものがあるんじゃないか? ……ないんだろうなぁ、多分。春一は、煌々と明かりのついたままのマッキンリーのアトリエを見て思う。本人は見当たらなかったが、扉を開けるとまだ乾いていない絵の具の匂いがした。
  壁に立て掛けている絵は、この間とは違うものだった。その他にも、小さなキャンバスがいくつも無造作に置かれていたが、どれも新作らしい。マッキンリーが速筆なのか、それとも彼が長時間キャンバスに向かっているのかは判別がつかない。恐らく両方とも正解だ。
  壁に立て掛けてある大きなキャンバスに描かれているのは、向日葵でもなく、夜空でもなく、一人の男の絵だった。まだ細かく描き込まれていない所為でそうとは言い切れないが、これはマッキンリー自身じゃないだろうか、と思う。というのも、絵の中の男は一心不乱に絵を描いていたからだ。男の周りでは色々なことが起こっている。洪水。地震。火事。大きなひれをもった鯨が泳ぐ。それでも、男はキャンバスに筆を走らせ続けていた。
  この絵のタッチはあまりゴッホに似ていなかった。確かに、色彩やセンスには似通ったところがあったかもしれない。けれど、全体的な雰囲気は春一も良く知っている見慣れたマッキンリーの絵と同じだった。
  春一は吸い寄せられるようにその絵の前に立つ。近くで見ると、ますますその絵の圧倒的な迫力に飲まれそうになった。これがマッキンリーの個展の中心に据えられていたら、きっと誰もが息を飲むだろう。彼の個展が失敗するはずがないのだ。
  背後から忍び寄る気配に、春一は尋ねる。
「……マッキンリー、この絵に描かれてるのはお前なのか?」
「別に。その絵に描かれている画家はこの世全ての画家だよ。外で何が起ころうと、自分の沸き上がる気持ちを抑えきれない芸術家たちだ。災害が起こったら人は一目散に逃げ出すべきだし、自分の周りをこんなに美しい鯨が泳いでいたら誰だってそちらを追いかけたくなるのに、それでも自分の中の沸き上がる煩悶を表現せずにはいられない可哀想で尊い人間たちだ」
「へえ。そうやってある一定の人間たちの代弁者を買って出るのってとても傲慢だと思わないか? そういうのは恐ろしいよ」
「安藤には怖いものが沢山あるんだな」
「ああ、本当に沢山ある」
  例えば目の前のマッキンリーだったり、その額から生えているゴッホだったり、先の見えない自分の将来だったり、立て掛けられた美しい絵だったり。「ちなみに安藤。その手の中のものは何だ?」
  マッキンリーはいきなり激昂するでもなく、自分の絵の危機を悟って怯えるでもなく、淡々とそう尋ねた。春一は手の中のナイフをぶらぶらとさせながら、笑顔で答える。
 「これ? チョコだよー」
 「誤魔化し方が雑!」
  くつくつとマッキンリーが楽しそうに笑う。それに合わせて、額から生えたゴッホも小刻みに揺れていた。ゴッホは真っ直ぐに春一を――正確に言うなら、ミケランジェロのことを見ていた。
「わあ、まさかその額にいるのはミケランジェロ? 凄い! 僕初めてミケランジェロに会っちゃったよ! 嬉しいな!」
  年頃の女学生のように無邪気にゴッホがはしゃいだ。あれ、ゴッホってこういうキャラだっけ? と思うけれど、春一はゴッホに詳しくないのでわからなかった。興味が無いのだ。
「ミケ先生以外の名前で呼ばれるのは久しぶりだ」
  ミケランジェロは特に何の感慨もなさげにそう言った。冷淡なわけじゃなく、単純に興味がないだけだろう。
「ミケ先生! なんてこった、最高にキュートな名前じゃないか! 僕もミケ先生って呼んでいいかな?」
「マッキンリー。そのゴッホを黙らせろ」
「安藤、残念ながらゴッホは死んでるよ」
「馬鹿言うな! お前の額から生えてるだろうが!」
  マッキンリーはやれやれ、といったように肩をすくめる。芝居がかった仕草だったけれど、彼がやると腹立たしいくらいよく似合った。この男は、多分セルフプロデュースにとっても長けている。自分のことを、上手く演出すれば光るダイヤの原石だと思っていやがるのだ。
「……もういい。俺はケリをつけにきたんだ。お前に罰を与えに来たんだ」「お前、本当に大丈夫か?」
「大丈夫じゃない。だから、ここで断ち切らないと」
「断ち切る?」
「お前のゴッホ、抉り取ってやる」
  口にするだけでぞくりと背中が粟立った。そのことで、自分が興奮しているのだとわかる。
  つまりは全然気に食わない。ゴッホが無くても素晴らしい絵が描けるのに、易々と春一のアドバンテージを奪ってくるその姿勢。春一の中の陪審員は彼にとても優しいので、マッキンリーは簡単に有罪になった。
  取り出したナイフに狼狽するかと思ったのに、マッキンリーは何も言わずに春一を見返していた。彼のゴッホだけが半狂乱になるような悲鳴をあげる。それが彼の内面を反映していますように、と春一は願った。けれど、どんなに内面が動揺していたとしても、口にしなければ依然としてクールである。武士は食わねど高楊枝というのは、素晴らしいセルフプロデュースの見本なのだ。 その気取った舞台装置を崩してやりたい。才能の具現を抉り取って、全てを白紙に還すのだ。この時の春一には、自分のミケランジェロなんかちっとも見えていなかったのだ。向日葵畑を焼かないと、彼の世界は全く以て始まらない。
「選出おめでとう。個展は見に行くよ」
「開けるかどうかが怪しくなってるけど、ありがとう」
  さて、ゴッホを抉り取ったらマッキンリーは死んでしまうのだろうか、と春一は一瞬だけ思う。確か、この麗しの天才たちは宿主の脳髄から生えていたんじゃなかっただろうか。でも、それはそれで仕方がないとまで彼は思っている。とにかく今必要なのは目の前のゴッホの排除だった。とりあえず、不恰好に生えているあの根元を思い切り刈り取ればいいだろう。そこから新しく誰かが生えて来たとしても、何度でも抉り取ってやる。
 何かを攻撃する時に必要なのは、勢いである、という言説は概ね合っている。勢いがなくちゃこんなことは出来ない。命を懸けて描いた絵が選考で落ちて精神的にとてもやられている状態とかでなくては。
  でも、本当に目的を達成したいのなら勢いと一緒にある種の冷静さも兼ね備えていなくてはならない。……勢いに頭を侵された春一は、大事なことを忘れていた。
  だって、マッキンリー潮田は別に、ゴッホの付属物というわけではないのだから。
  容赦なく鳩尾に衝撃を加えられて、思わず春一はそのまま崩れ落ちた。マッキンリーは特に暴力に精通しているわけではなかったのだけれど、高く腕を振り上げて自身に向かってくる相手への対処方法くらいは容易に考えついたのだ。即ち、がら空きのボディに拳を叩き込む、なんてことは。
  完全に出鼻を挫かれた春一はそのまま床に倒れ込み、マッキンリーの浴びせかける暴力の雨に打たれた。何処かを守ろうかと思ったけれど、無駄だった。平等主義者で博愛主義者のマッキンリーは春一の全身を均等に蹂躙した。
  奇妙なことに、ミケランジェロは一発も喰らっていないようだ。まあ、当たり前かもしれない。彼は易々と殴って良いような相手じゃないのだ。「……流石に正気を失った人間に襲われるほどヤワじゃないんだけど」
 春一をボコボコにしたマッキンリーの方が大分気まずそうな表情をしていた。小さな子供を容赦なく打擲した時のような気まずさだった。殴られた側の春一は、茫然としていた。色々な結末を想定していたつもりだったけれど、まさか、こんなことになるとは思わなかった。用意してきた大振りのナイフも、いつの間にかどこかへ行ってしまった。あれは本当にナイフだったんだろうか。チョコレートじゃなくて? はからずもマッキンリーは春一を見下ろすような形になった。
 「お前、疲れてるんだよ」
「……疲れてはいるよ……? あんまり、寝てないし……ご飯も……あんまり食べてないし……」
「うん。それが原因じゃないかな。そういうのはあんまりよくないよ。アーティストっている不規則そうな職業だと余計に気をつけないと」
「……あ、はい……」
  琴槌が聖母であるように、今のマッキンリーはこの上ない名探偵だった。ご飯? そうだ、食べてないっけ? ミケ先生が来てから今まで、俺は一体何してたんだっけ?
 「別に警察とかにも言わないしさ、安心しろ。・・・・・・ただ、絵はやめてくれ。傷つけるな。もし俺の絵が傷つけられてたら、その時は真犯人が誰であろうと、俺はお前を糾弾する。いいな?」
  春一はわけもわからずに頷く。
「大丈夫だよ。安藤は何もしてない。俺が何か言ったとしても、狂言だって思われるさ、絶対。だって、最近のお前の絵は―ー」
  春一は鼓膜を爆破してしまいたくなった。額からミケランジェロを生やせたんだからそれくらい叶えてくれよ。この先の言葉は何となく予想がついた。春一が自惚れているわけじゃない。マッキンリーの目が薄暗い中でも輝いているのがはっきりとわかったからだ。ああ、どうか。もう、世界が終わってもいいから。
 「――凄く綺麗だから」
  マッキンリーはあっさりと、予想通りの言葉を発した。賛辞のバリエーションは数あれど、意味は変わらない。その言葉の持つ恐ろしさは変わらない! ぞくぞくと背中が粟立って、吐き気で全ての感覚が蹂躙される。
  やめてくれ。そんなことを言うのは。春一は痛みに耐えながら立ち上がる。これ以上マッキンリーの前にはいられなかった。どんなに身体が痛くても、もうその言葉とその目に晒されることに耐えられない。春一をここから追い立てる為に投げかけられた言葉のように思えるけれど、不幸なことに、マッキンリーのその言葉は純然たる好意でしかない。
  春一は一目散に走りだす。静かであるべきギャラリーの廊下には、ゴッホの悲鳴がまだ長々と響いていた。

  春一は、息も絶え絶えに春一は画材で占拠された安アパートに帰りついた。自転車で帰って来たとはいえ額から生えている物が目立たないはずが無かったのに、もうそんなことは気にしていられなかった。一刻も早くマッキンリーの前から逃げ出したかった。
  どうしてマッキンリーは春一のことを見逃してくれたのか。答えは簡単なことだった。要するにマッキンリーは、春一に同情したのだろう。
  客観的に見ても、彼自身の主観的に見ても、春一は負けた。マッキンリーはそこそこいいお育ちをしていたので、負け犬の口に更に塩の塊を突っ込むことは忍びなかったのだろう。ははぁ、と春一は思う。
 「ミケ先生、どうしよう。俺、失敗しちゃったよ。びっくりするほど最低な気分だ。それに、全身痛くてたまらないし。それでもマッキンリーは俺の為に手加減したんだ。……俺がまだ絵筆を持てるように」
 「そうかなぁ」
「絶対そうだ。だって、マッキンリーは絵を描くのが好きなんだもん」
  一言一言が血を吐くような言葉だった。
  怖くて痛くて悲しい。誰か助けて、誰か。神様。助けて。
  彼の神様は、今額から生えていた。
「ミケ先生、ミケ先生。助けて。……もう一度俺を助けて。やっぱり俺の力じゃ駄目なんだ。ミケ先生が俺を導いて」
「……私はね、彫刻家なんだ、アンバル」
「もうそのやり取りはいいんだよ!」
 一人と一人の寂しい部屋の中に、春一の叫び声が響く。叫ぶと一層全身が軋んだ。痛みきった髪に櫛を通したような、気持ちの悪さがする。身体が痛い。全部全部痛い。
「そうやって私が絵を描いてどうなるんだ。……私はもう過去の人間で、確立された『ブランド』なんだろう? 模倣だけじゃ、飽きられる。少しずつアンバル自身の絵を確立させていかないと」
「それはわかってるんだ。でも、結果はどうだった? ミケ先生の力を最小限に留めた俺の力作はどうなった? ゴッホ憑きのマッキンリーに負けただろうが! なあ、わかってくれよミケ先生。ゴッホとマッキンリーみたいに、二人の力を上手に合わせて、ミケ先生が描いているだなんてバレないようにして、……俺のアイデンティティも上手く出していってさぁ……」
「………………アンバルだってもう気付いてるだろう? マッキンリーとやらの作品は、もうゴッホの手を借りてはいないよ。あれは模倣じゃなくて、れっきとした――」
「ミケ先生! わかってくれ……一度でいいんだ。一回きっかけがあれば……一度、チャンスが与えられたら、俺に才能があるって、皆が認めてくれるはずなんだ……」
「やめてくれよ、アンバル」
  心底うんざりしたような声だった。
 「可哀想に、アンバルくん」
「……ミケ先生」
「君には才能が無いんだよ。私を額から生やせるだけのポテンシャルはあったかもしれないけど、それはもう絵画とは別の所の才能だよ。はは、私はアンバルのような人間は初めて見た」
「……額からミケランジェロを生やしちゃうような人間を?」
「才能の無い人間は沢山見たことがあるけど、ここまで可哀想な人間って私は初めて見たかもしれない、と思ってさ」
「・・・・・・可哀想?」
「うん、可哀想」
  そこでようやく、鏡を見た。春一がミケランジェロと目を合わせる唯一の方法だった。
「お金が稼げなくてもいいと思うよ。だって、芸術ってそんなものだからさ。でも、アンバルのやつはもうそういう問題じゃないんだよ。だって、お前の作品って誰が待ってるの? 誰が見たいの? プライドや愛情だけは一丁前かもしれないけど、お前の愛してる芸術なんて結局のところ他人から見たらゴミなんだよ。低俗で、即物的で、芸術への評価になんか一ミリも関係のないはずの金すらお前の絵は稼げないわけ。私はそれでもいいと思うよ? 自分がそうやってアーティスト活動に精を出して、そのままいつか取り返しのつかないところまでいって死んじゃっても。それはそれでいいと思うよ」
「ミケ先生。あんたは俺の味方じゃなかったのかよ」
「味方だよ。味方じゃなかったらこんなこと言わない。敵は可哀想なお前が溺れてるのを見て手を叩くよ」
  まっすぐに、自分だけへと向けられた悪意。喝采と関心に飢えた春一は、それすらも喜べるだろうか。
「ねえ、アンバル。世間から認められない作品なんて何の価値があるの? いずれ無価値なものとして焼かれるお前のその努力は、一体何に役立つわけ?」
 やめてくれ。
 俺のミケランジェロはそんなこと言わない。だって、このミケランジェロは俺の一部なんだから。何しろ彼は、額から生えてるんだから。春一は見えない誰かに向かって賢明に弁解した。今ではもう自分の額から生えているものが一体何なのかすらわからなくなってきていた。一体誰を手に入れた? 一体何を手に入れた? 白痴のように何回も「俺のミケ先生はそんなこと言わない」と泣きながら喚きたててやりたかった。小さな女の子が駄々をこねるみたいに異議を申し立てたい。
 自分の大好きなキャラクターが同人誌で好き勝手に犯されているのを見ているみたいだった。ミケランジェロはそんな風に言わない。でも、それとの違いは、崩壊したそのキャラクターにちっとも興奮出来ないところだった。
  絵を描くのが好きです。嘘じゃないです。
  嘘じゃないけど、それが何? って、そういうことなんだろうなぁ。
  春一はふと、何もかもが虚しくなった。……いや、違う。……怖くなったのだ。これからまだ何十年と続いていく自分の人生の行く末が怖くなった。もう、神様の時間はおしまいだ、と思う。彼はそのまま、部屋の隅の雑多な箱から、とあるものを取り出す。
  それを見た瞬間、ミケランジェロの目が輝くのがわかった。
「あ、鑿だ。やっぱりあったんじゃん」
「思い出したけど、一度彫刻の授業を取ったんだ。大分前だからもう錆びてるけど」
  錆びた鑿だというのに、加えて彫るものもないのに、ミケランジェロは子供のように純粋に手を伸ばした。それが自分にとっての最高の幸福を与えてくれるとでも言わんばかりの迷いのない伸ばし方だった。
「残念、これはお前にはやらないよ」
  春一は慈しむような口調でそう言った。
 そう、全ては、春一の中で完結するのだ。
 春一はそのまま鑿を自分の額のミケランジェロに向かって振り下ろした。彼を縦に寸断するかのように。
  春一の神様がゴッホのように叫び声をあげたかどうかはわからない。鑿が完全にミケランジェロの身体を寸断した時、春一は直接脳髄が引きずり出されるような痛みを味わい、自分の口から断末魔よりも濃度の濃い叫び声を、気を失うまであげ続けていたからだ。
  暗転。安藤春一は――安藤アンバランスは終わってしまった。彼の神様は死んでしまった。……おしまいだった。
  暗転。

  額を割って血を垂れ流しながら卒倒している春一を見つけたのは、やっぱりというか予定調和的というか、琴槌だった。このアパートを訪ねる物好きなんて彼女くらいしかいない。出掛けにコーヒーでも飲みたいなぁ、というとても即物的な気まぐれによって春一のアパートを訪れた琴槌は、コーヒーよりもドラマチックな液体に迎えられた。顔の大半と床の一部を染めるように流れ出した血と、その原因になったであろう鑿を見て、思わず彼女は含み笑った。最近の春一の奇行も相まって、感想は一言しかない。――なかなかやるじゃないか。
 琴槌は冷静に一一九番に電話を掛ける。現場保存のセオリーに則って、意識の無い春一に触れたり揺り起こしたりすることはしなかった。建てに琴槌というクールな名字を名乗っているわけじゃないのである。
 ツーコール以内に電話を取った救急隊員に、開口一番住所を告げた。
「頭はなんか割れたか切れてるかしてそうですけど……あ、大丈夫みたいです、生きてます。ああうん、そう。彼天才アーティストなんです」
  琴槌の舌はここ数年で一番軽やかに回った。思えばいつだってそうだ。琴槌は春一に甘い。自己顕示欲の強い彼の〝事件〟を、特別にしてやろうと必死だ。電話の向こうの声は訝しげで、それでも少し楽しそうな色を帯びているのを、琴槌は聞き逃さない。

 「助けてあげてくださいよ。だってまだ人生長いんですもん。絵筆持てれば上等ですよ」
「これも作品の一部ですかって? いやはや、そんな芸術が認められるなら道端で絡み合うそこらの不倫カップルだってアーティストですって」
「ああ、はい。まあどうにかなるんじゃないでしょうか。最近ちょっとおかしかったんですよ。製作上の悩み? そうかもしれませんね」
「何しろ彼には才能があるらしいですから」

  生きる意味。才能の有無。自分が人類の中で一体どのくらいの位置にいるのか。誰もが本当はそれを聞きたかった。でも、誰もそれを尋ねない。そんな恐ろしくて耳の痛いことを答えてもらいたい相手なんか神様くらいしかいないからだ。
  でも生憎、磔にされてでも自分を救世主だと宣ってくれるような懐の深い人間なんてしばらく現れていない。だから、安藤春一はミケランジェロにそれを求めたのかもしれない。だって、春一はミケランジェロの絵が大好きなのだ。あれは彼の信仰。彼の神様だ。
  ――・・・・・・ああでも、やっぱりミケランジェロに言われても、腹は立つんだなぁ。
  春一はミケランジェロの手で彫られた『サン・ピエトロのピエタ』の美しさを知っている。彼は骨の髄まで天才で、彫刻家だ。その単純な事実が言葉にしなくてもよくわかる、とても優れた彫刻を作る。
  それでいて安藤春一は、『最後の審判』の美しさを知っていた。これから先、春一が彼の人生を賭けて絵を描いたとしても届かないであろうあの色味を、人間を、神とかいう恐ろしくモチーフにしやすい陳腐な代物を、春一は愛していた。
  だからこそ許せない。あんな絵を描ける人間が彫刻家なんて名乗ることが赦せない。彼は紛れもなく画家だった。春一の中では画家だった。 琴槌のことだって同様に赦せなかった。
 「美味しいコーヒーを淹れられる人間がコーヒーを好きじゃないだなんて、これ以上の悲劇は多分ないよね」
  琴槌は何でもないようにそう言った。一体、あの時の琴槌は何を思っていたのだろう。美人でキュートで絵が上手くて仕事も出来る琴槌が、どうしてそんなことを言ったのだろう。きっと春一にはわからない。だって、彼は琴槌がいつの日かミケランジェロに並ぶと信じていたのだ。心の底から。

  見知らぬ天井だ。と思いながら春一は目を覚ました。知らない天井が正しいんだっけ? よく思い出せない。
  傍らには当然のように琴槌がいた。おはようからおやすみまで。彼女は昔好きだと言っていた画家の画集を捲っていた。指先には少しだけ、絵の具の滓がついていた。それを見て、何故だか途方もないくらい安心する。キラキラの巻き髪でも、錦糸町が似合うような恰好でも、まだ琴槌は絵が好きなのだ。
「……おはよう。久しぶりだねアンバル」
「琴槌…………」
 額が痛かった。割れそうなくらい、と思っていたら、実際に割れてるんだよー、とご指摘を頂く。どうやら、そうらしい。……ミケランジェロがいる気配はしなかった。ミケ先生との時間はもう終わり。
  突然現れた彼の才能は結局彼のアーティスト人生に何の爪痕も、何の成果も残さずに消えてしまった。安藤春一は元通り。それどころか、頭が割れて入院までしてしまっている。天才の奇行は箔が付くけれど、春一のそれは単なる愚行だった。今って一体何月? というか今何時? 気になることは沢山あった。けれど、まずは言わなくちゃいけないことがああった。
 「琴槌。琴槌もやっぱりコンクールに出そうよ。個展も開こう」
「……何言ってんの?」
 「見て貰わなくちゃ駄目なんだよ……」
 「……アンバル、私はさぁ」
「……と、思ってたんだよ、今まではさ。……でも、違うんだ。そういうことじゃないんだよぉ……」
  目の端に鮮やかな向日葵が映る。何の根拠もないけれど、それの贈り主はマッキンリーのような気がした。傍らに置かれている絵具は一体誰からの餞別だろう。
 「描かなくちゃ駄目なんだよ。だって、好きなんだもん。例えば、誰にも読まれない長編小説、例えば死んでいく吟遊詩人の呟く詩篇、道端のミュージシャンの掻き鳴らすギター、誰にも見られない絵画に、求められてない彫刻、そういうものを肯定するのは自分の愛なんだよ」
「愛」
「……やめないよぉー、才能が無くったって誰にも認められなくったって描くんだよ! 俺はミケランジェロに才能が無いって言われたんだからもう怖いものなんてないんだよ! あ、そうだ。琴槌、ちょっとそれ取って、ナースコール、ナースコール。一回それ押してみたかったんだ。なんかね、はは、笑える程頭が痛いんだ。天才画家だからかもしれない」
「才能がないって言ったり天才だって言ったりどっちなんだよ。あと、頭は割れてるんだって」
  そう言いながらも、琴槌は優しくてクールなので、ナースコールを楽しそうに取ってあげる。春一の震える指先がナースコールのボタンを押した。そういえば、春一が意識を取り戻したことは琴槌しか知らない。皆、意識不明の事象天才アーティストがナースコールを押したことで、恐ろしく慌てて彼の病室に現れるだろう。安藤アンバランスの絵になんかちっとも興味の無い彼らに向かって、春一は笑顔で告げるのだ。
「あの、ここって油絵禁止ですか?」  

(了)

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