パン屋初襲撃


「ところで歳華は、偉大なるハルキ・ムラカミの『パン屋再襲撃』を読んだことがあるかな」
 ショットガンを眼前にしながら、菱崖小鳩は優雅にそう尋ねた。泣く子も黙る、昼時のパン屋での話である。
 いきなり話し始めた小鳩に対し、パン屋強盗も驚いているようだった。映画に出てくるような覆面の奥の瞳が動揺している。けれど、その強盗よりも驚いているのは何といっても歳華本人だった。だって、誰がショットガンを前に世間話をする? それも、村上春樹の話を?
「こ、小鳩、お願いだから黙っててくれない?」
「その小説の中で、飢えた主人公はパン屋を襲うんだけど、店の主人は落ち着き払って、その時店にかけていたワグナーのレコードを一緒に聴き通してくれるのなら、店のパンを好きなだけ持って行っていいと言うんだ。そして、主人公一味は主人と一緒に『タンホイザー』と『さまよえるオランダ人』の序曲を聴き、パンを手に入れるわけ」
「ねえお願いそれ今言わなくていいでしょ?」
 忠告を丸々無視して、小鳩は語り続けた。整然と並ぶパンたちはさながら格好のオーディエンスだ。パン屋の中心に座りながら演説を続ける小鳩は歳華のことを一心に見つめている。
もしかすると、彼は本当にパン屋強盗のこともショットガンのことも忘れてしまったのかもしれない。だからこそ、空気を読まずに語り続けることが出来るのだ。
「おい! いい加減にしろ! 許可なく話すな!」
 その辺りで困惑していた強盗が、自分の役割を思い出したかのようにこちらを恫喝する。抑えがたい暴力の臭い!
「ひゃああああごめんなさい! 小鳩! 黙って!」
「そのイメージがついちゃったから、パン屋強盗っていうのはワグナーとセットだと思ってたんだけど、このパン屋さんってレコードはおろか店内音楽すら流れてないよね。こうなってくるとパン屋強盗はワグナーを聴く以外の方法でパンを強奪しなくちゃいけないわけで、それは結局暴っ」
 小鳩の言葉はそこでようやく切れた。いくら彼でも、喉笛に手刀を食らったら黙る。もっと早くこうしておけばよかった、と思いながら歳華は強盗に微笑みかける。強盗は小さく舌打ちをしたけれど、それきり何も言わなかった。
「よし、じゃあ動くなよ。大人しくしてれば危害は加えない」
 あれよあれよという間に、小さく呻いている小鳩の手首と歳華の手首が手錠で繋げられる。店内にいる他の客も同じように二人一組に繋げられていく。肌を滑る冷たい感触、容赦の無い金属の枷を見ると、やっぱりどうして身体が震えた。どうしてこんなことになったんだろう?
「……歳ちー、なんか今日機嫌悪くない? 嫌だな」
 普段と変わらないのは、彼女と繋がれている小鳩だけだった。ようやく痛みから復帰したのだろう。大きな目の端に涙を浮かべながらも、小鳩の顔にはいつものへらっとした笑いが戻ってきていた。緊張感がまるでない。
「ねえそれ本気で言ってる?」
「だって、旧知の相手に手刀食らわせる相手がご機嫌なわけないでしょ? 困るな」
「違うんだって、そうじゃなくて、こう、わかるじゃん……」
 歳華の切実な呟きに対しても、小鳩は小さく首を傾げるだけだった。全く以て優雅だ。鼻歌を歌い出しそうなくらい! とてもパン屋強盗に巻き込まれた男には思えない。
「まあ、相手はパン屋強盗らしいからね。殺されることはないんじゃないかな」
「さっき殺されかけたんだけど」
「だって、パン屋強盗に遭ってるのに『パン屋再襲撃』の話をしないなんて嘘だよ」
 果たして何が嘘だというのだろう。そういえば歳華は件の短編を読んだことがなかった。ワグナーを聴いた強盗団はその後どうなったんだろう? 再襲撃とあるくらいだから、もしかすると彼らは飢えてもう一度パン屋を襲ったのかもしれない。ショットガンで客を脅しつけ、手錠で繋いでしまったのかもしれない。ここから出たら、今度こそちゃんと村上春樹を読もう。歳華は一人誓った。
「ねえ、小鳩はこの状況怖くないの?」
「怖いよ。僕は顔に出ないだけ」
 いけしゃあしゃあと言う彼は、やっぱりどこか宙に浮いているようだった。彼だけが物語の枠の外にいるかのような奇妙な軽やかさがある。そこそこ付き合いが長いはずのこの男のことが、歳華は未だによくわからない。
 『あれは害悪だからな』とは親愛なるお兄様の言だ。菱崖小鳩について尋ねた時、兄である瀬越俊月は真面目腐ってそう言ったのだ。
 害悪という言葉を人間相手に使うなんて、なかなか刺激的だと思う。単なる悪じゃない。害する悪。能動的で破壊的なその烙印を十年来の親友に押された男。それが菱崖小鳩だった。
 とはいえ、そんな彼の外見は害悪とは程遠い。あからさまな危険人物にも見えなければ、黄色と黒で色分けされているわけでもない。むしろ、人の好さそうな雰囲気に人当たりのいい微笑み、少し下がった眼尻なんかはその対極にある。
 害悪っぽく見えない癖に害悪と称されるのは、余計に質が悪いのだ。外見を理由に出来ない分、プラスアルファの皺寄せは、一体どこに向かっているのか? ……歳華は襲撃されたパン屋の中で、その答えを苦々しく学んだ。こういうところだ。
「さあ! 俺達がパン屋襲撃を完遂するまで、お前らには人質になってもらうぞ! いいな!」
 ショットガンを持った強盗が声を張り上げ、その脇で相棒が袋詰めされたチョココロネを手持ちの鞄に放り込んでいく。美味しそうなチョココロネはみるみる内に棚から姿を消してしまった。
 目の前で起きる蹂躙を前に、歳華は密かに絶望していた。これが、パン屋強盗なのだ。暴力を武器にパンを奪い取っていく、悪魔の所業だ。

 パン屋強盗に遭う数時間前、歳華は闘キリン士に思いを馳せていた。
闘キリン士は、文字通りキリンと戦う戦士である。人間がキリンと戦って勝てるはずがない。かといって、武器を使うのはフェアじゃない。このジレンマを捻じ伏せ、素手でキリンと戦うのが、誇り高き戦士、闘キリン士だ。
 勿論そんな職業は存在しない。キリンは可愛いし、基本的には温厚な動物だ。つぶらな目をしていて模様がお洒落、戦う理由なんてこれっぽっちもない。闘キリン士は、あくまで歳華の書いた小説の中にしかいない。
 この設定を思いついた時、彼女は自分が天才なんじゃないかと思った。だって普通の女子高生は、キリンと人間が戦うところを想像したりしない。絶対絵面的に面白いのに! そう思うと筆が面白いほどに乗った。狙っている新人賞の締切は再来週だったけれど、もうとっくに推敲まで済ませてある。今までに無いペースであること謎の自信に拍車をかけていた。いいものが出来る時って大抵早い。
 そう思っていたものの、歳華の心は落ち着かなかった。小鳩に小説を読ませる時はいつだって落ち着かない。試し読みを依頼したのは自分なのに、逃げ出したくて堪らなかった。
最高傑作である『闘キリン士の休息』をつまらないと言われたら、一体どうすればいいんだろう?
「……ねえ、どう?」
「うん? 今、主人公闘キリン士が幼馴染に渡された石斧を投げ捨てて素手で戦うことの意義を述べるところ」
「それ凄くいいシーンだと思うんだよね」
「えー、うーん……そうかも……?」
 それきり小鳩は何も言わず、渡された原稿を静かに捲っていく。この沈黙がたまらなかった。
天才的な着想から完成までの間は疑いすらしなかったけれど、『闘キリン士の休息』は、果たして面白いのか。
前述の通り、歳華は小鳩のことをよく知らなかった。
 兄の俊月とは大学時代のお友達だと聞いている。となれば彼も同窓生。英知大学といえばお上品な校風で有名な大学だ。小鳩の雰囲気に合っている。しかし、そんな彼と兄を結ぶ線が見つからない。卒業後も長らく仲良くする理由は一体どこにあるんだろう? 歳華から見て、二人は奇妙に不釣り合いだった。
「もしかして、小鳩さんもお兄ちゃんとお揃いの無職ですか?」
「え、違うよ。ていうかストレート過ぎない? 困るな。僕は社会人だよ。それに瀬越は無職じゃなくてフリーターだし」
 小鳩と出会って一番最初に尋ねたことがそれだった。昼間から二人で酒を飲んでいた方が悪い。
 フリーターの兄と一緒に悠々と過ごしているあたり、小鳩の方もそういうふわっとした立場なんじゃないか? 歳華は疑っている。映画関係の職に就いているとかいう話も、正直真偽が怪しい。『関係』という言葉は柔軟性に富んでいて、色々な人間を残さず絡めとってくれるのだ。正直、脚本家も映画館の店員も、日雇いのエキストラでさえ映画関係の職である。
 立ち位置が気になるのは、小鳩が歳華のたった一人の読者だからだ。血縁関係の無い、親族由来の手心の無い、唯一の相手。
「瀬越から聞いたよ。歳華ちゃんて小説を書いてるんでしょ?」
 初めてその言葉を掛けてもらった時の感情をなんと表現したらいいだろうか。
「……え、あの」
「読者が欲しいなら、僕に読ませてみてくれないかな? こう見えても僕は海野十三や折口信夫が好きなんだ」
 本が売れない昨今である。活字は面倒だし、素人の小説は目に痛い。女子高生が夜な夜な書いている小説を、好き好んで読んでくれる人なんて殆どいない。辛うじてお兄ちゃんくらいのものである。
 それなのに、小鳩はそう言ったのだった。折口信夫でも海野十三でもない歳華の小説を、読んでみたいと言ってくれた。
 それから、歳華は書き上げては小鳩に小説を読んでもらっている。彼はいつだってちゃんと読んで、コメントをしてくれる。
 自称天才小説家の自我なんて生っちょろいものだ。小鳩と付き合っていくにつれ、駄目なところも嫌なところも見てきたけれど、自分の小説を読んでくれているというわけで、なんだかとても好感を持ってしまう。そんなわけで、歳華は小鳩に小説を読ませるこの瞬間が好きだった。何度目かわからないダイニングテーブルでの講評会を、少しだけ大切にしている。
 それから、更に十数分経った。小鳩の指が最後のページをなぞり、紙の束が畳まれる。心臓を掴まれたような気分になりながら、歳華は恐々と尋ねた。
「どうだった?」
「面白いと思うよ。闘キリン士っていう発想はキャッチーだし、キャッチーな割に、扱ってるテーマは伝統とアイデンティティーっていう普遍的なものだ。女子高生でこれをしっかり書けるのは凄いんじゃないかな。そもそも、コンスタントに何かを生み出そうって時点でそれは否応なく尊いとも思う」
 真面目な顔で小鳩が呟く。
「それじゃあ新人賞受賞出来る? キリンは文藝賞いける?」
「おっと、そうくるか。そうくるよねー、悩むな。……ねえ、歳華の表現したいことって何?」
 まっすぐに投げられた言葉に困った。だって、そんな。
 小説なんて、所詮はエンターテインメントだと思っている。インスタントでスマートな単なる娯楽だ。読んだ相手が少しの間楽しんでくれれば構わない。むしろその在り方が好きだ。キリンと戦う戦士の話も、ターゲットを猫に変える殺し屋も、宇宙を駆けるタクシーの話も、きっとそれなりに面白い発想なはずだ。
 そこにそんな言葉を投げられても困る。
「……そんなの必要ない。私は面白いものが書ければそれでいいし」
「えーっとね、何ていうか、一種のリアリティーっていうか、そういうものも純文学には必要なんじゃないのかな。ここでいうリアリティーは、別に地に足の着いた話を書けってことじゃなくて、歳華が書きたいものとか込めたい思いとか、そういうものが小説から伝わってくる方がいいんじゃないかと思う。だって、歳華は民族的アイデンティティーとか、そういうものを強く意識したことってないでしょ?」
「……そうだけど」
「だったら、もう少し自分の中にあるものを表現するとか、何かを投げかけるものを書くっていうところに意義があるんじゃないかと思うんだけど。参っちゃうな」
「そんな新人賞講評みたいなこと言わないで!」
「結局、純文学ってそういうものなんじゃないの? それっぽさだよ、それっぽさ」
 瀬越歳華は自分のことを天才だと思っているけれど、それでも、戦うべき相手の研究を怠ることはない。雑誌に講評が載る度に、ちゃんと求められているものを確認している。伝えたいこと、感じたこと、自分の触れた世界を、物語を通して広げていくこと。求められている小説は、どうやらそういうものであるらしい。
 けれど、その基準自体が難しい。正しい小説っていうのは、何文字で書かれたどういうものなのか。どんな風景を描いて、どんな人間を出せばいいのか。その小説に何度『美しい』という言葉を使えばいいのか。歳華にはそれがよくわからない。ちゃんと決めてくれればいいのに。
「……でも、大丈夫だよ。何にせよ歳ちーはきっといつか小説家になれる。百本送れば何処かには通るって」
 フォローするように小鳩が言った。けれど、その方向性が違う。
「そのいつかっていつなの⁉ そんなことしてる内に死んじゃうんだから! 何だよこのアドバイス!」
「キリンの部分褒めたじゃん。というか、いくら大自然の雄大さとキリンの力強さを描きたかったからとはいえキリンの美しさの描写に十ページ割くのは正直キツ過ぎる」
「はあ? マジで言ってんの?」
「終わったか?」
 その時、キッチンの奥から暢気な声が聞こえた。それに耳聡く反応した小鳩が、勢いよく反応する。
「あ、終わった終わった! 瀬越もこっち来てよ!」
「強引に話終わらせないで!」
 兄である瀬越の乱入で、今日の講評は強引に幕を下ろされてしまった。小説のことがよくわからない、と言う彼は、歳華が小鳩に小説を読ませている間、絶対にリビングに入ってこない。それが理由で、瀬越は体のいいタイマーとして利用されている。握手会の剥がしのように、小説が日常から引き剥がされる。
「昼飯にクラムチャウダーを仕込んでるんだ。そろそろ出来るぞ」
「流石。歳ちーもお腹すいたでしょ?」
「…………すいたけど」
「やー、楽しみだなー。あ、パンある?」
「ブレッドは無い。バターライスを用意したからそれだけだ」
「えー、クラムチャウダーって言ったらパンでしょ」
 小鳩がわかりやすく唇を尖らせた。ややあって、思いついたように彼が言う。
「あ、それなら歳ちー、一緒にパン屋さん行こうよ」
「……人の小説こき下ろした直後にパン屋?」
「別にこき下ろしてないよ。嫌だな」
「歳華、放っておけ。こいつの誘いに乗るとろくなことにならないぞ」
「わかってる。行かない。この間『財布忘れた』とかで私に対してたかってきた時から信用してない」
「今日はちゃんとあるって! 歳ちーってば酷い! 困るな。瀬越もなんとか言ってよ」
「歳華。ちゃんと中身があるか聞いておけ。財布があると中身があるとはイコールじゃない」
「ちょっと!」
「小鳩、中身もある?」
「君達さあ、僕のことどう思ってるの? 一応ちゃんと働いてるんだけど」
 小鳩が小さく肩を竦める。
「もし歳ちーが付いてきてくれたら、好きなパン買ってあげるから。ね? いいでしょ? 歳ちーが仮に食パン一斤を要求してきたとしても、僕は甘んじて買ってあげるよ。どうかな」
「えー……」
「それに、少しくらいアクティブに動いた方がいいよ。だって、小説っていうのは経験から生まれるものでしょ。そう思わない?」
 気にしていたとは思いたくない。
 けれど、その言葉で行く気になってしまったのも事実だった。パン屋に行ったくらいで小説家になれるとは思えない。求めているリアリティーなんてそこにはない。それでも、歳華は煮詰まっているのだ。この状況を打開できる何かを探している。
「……メロンパンでもいい?」
「慎ましいね、勿論だよ。嬉しいな」
 小鳩が楽しそうに笑った。

 そうして歳華と小鳩はパン屋さんに向かうことになった。家から徒歩十五分、少し遠い店である。
 スーパーなどと提携していない昔ながらの個人店であるその店は、端から見れば少し古くさい。レンガ造りの建物も、扉に掛かる『ウンディーネ』の看板も、今の時代からぽつりと取り残されているような感じがする。歳華の感性に倣えば、あまり入りたい店でもない。
「結構歩いて来るのがここ? 立地が不便過ぎるよ」
「でも、ここ瀬越のお気に入りなんだ。ほら、パン・・・・・・じゃなくてブレッドだっけ? を置いているお店だよ。あいつやたらパンに厳しいから、この辺りだと『ウンディーネ』のパンしか駄目なんだって」
「そんなに料理にこだわりがあるなら料理人になればいいのに」
「そういうことじゃないんだろうな。難儀だね。絵が好きだからってみんなが絵描きになるわけじゃないし、彫刻が好きだからってみんなが彫刻になるわけじゃないでしょ?」
「……私が小説家になりたいのは小説が好きだからだし、彫刻が好きな人は彫刻じゃなくて彫刻家になるの!」
 歳華は勢いよくそう言うと、飛び込むようにしてパン屋の扉を開けた。軋むドアの音が年季を感じさせる。
 正直な話、驚いた。
 店に充満する焼き立てのパンの匂い。狭い店内にひしめくように置かれているつやつやとしたパンは、見ているだけでも楽しかった。確かに建物は古くて小さいけれど、隅から隅まで丁寧にプロデュースされたパン屋である。
「へえ、なかなかいい店だね」
 小鳩が感心したようにそう呟く。その言葉に、歳華も素直に頷いた。お目当てのメロンパンも、生まれたてのパンダみたいに慎ましく並べられている。流石、兄がこだわっているだけのことはある! きっと味も美味しいに違いない。
 綺麗に整頓されたパントングとトレーが彼女を呼んでいる。幸福感に浸りながら、歳華はそれらに手を伸ばした。その時だった。
「動くな! 全員床に座れ!」
 ドアを蹴破るようにして、覆面を被った二人組が入ってくる。手には武骨なショットガンが握られていた。パン屋にはおよそ相応しくない装備だった。
 レジを打っていた初老の店長が、果敢にも強盗に飛び掛かってはあっさりと転がされる。二人組が怒鳴り、死にたいのかと叫ぶ。死にたいはずがない。だって、パン屋で人が殺されるなんてあってはならない!
 何かを考えるより先に、歳華の身体が先に降伏した。パン屋の冷たい床に座り込み、手を挙げる。店内にいた残り二人の客も、同じように手を挙げていた。空気を読まずに村上春樹の話をしていたのは小鳩だけである。
 あれよあれよという間に店内の客は全員、隣の人間と手錠で繋がれてしまった。最悪のマッチングだと思う。そして、行われたのは何か? 勿論、パンの強奪である。
 これが、歳華の巻き込まれたパン屋強盗の全容だった。シュールな現実は真摯に語ろうとすれば語ろうとするほどナンセンスになるので救えない。

 はてさて、パン屋が占拠されて十五分ほどが過ぎた。
 パン屋強盗達は、人質たちに目を光らせながら、メロンパンを貪り食べていた。見ているだけでも柔らかいのがわかる、ふっかふかのメロンパンだ。歯を立てた瞬間大袈裟に歪むシルエットが、それを証明している。いいな、と歳華は心底思った。メロンパンって強盗しないと食べれないものだっただろうか?
「歳ちー、メロンパン食べられてるけど」
 耳元で小鳩が囁く。食べられてるけど、もどうもこうもない。見ればわかる。
「実況どうも。最悪」
 メロンパンに釣られて菱崖小鳩についてきた私が馬鹿だった。と、歳華は心の底から悔やんだ。天性のトラブルメーカーは、立っているだけで災厄を呼び込む。のんびりパン屋に買い物に行ってパン屋強盗に遭う確率なんて計算するまでもない。天文学的なそれに支えられたバッドシチュエーションだ。
「いいなあ、お腹すいたよね」
「この状況でその発言が出来る小鳩が怖いんだけど」
「というか彼らの目的はパンを奪うことでしょ。じゃあマフィンは僕らに分けてくれてもいいんじゃないかな。厳密にはパンじゃなくて焼き菓子でしょ? 彼らはパンを食べる。僕らはマフィンを食べる。『パンが無ければお菓子を食べれば良いのに』みたいな?」
 菓子パンはちゃんとパンだろうが、マフィンはまだパンの範疇なんだろうか。ミルクを入れられた珈琲がどの時点までカフェオレなのだろうという命題よろしく、少しだけ考え込んでしまう。今のところ、パン屋強盗がマフィンやサンドイッチに手を出す気配はない。
「ちなみに歳ちーはマリー・アントワネット知ってる?」
「馬鹿にしてるの?」
「そりゃあそうか。あれ、マリーはさも善人のようになってるけどさ、」
「善人だったんだよ」
「それだっていい人エピソードが付け足されていい人ってことになってるだけじゃない? ちょっと前までは贅沢で国を滅ぼした悪女、みたいな感じになってたじゃん。差し当たって今の時代は彼女をキュートに消費したいだけでしょ。ちょっと無邪気で贅沢好きな女性が時代の波に乗って殺されたってだけなのに、色々物語が作られちゃうんだから困るよね。でも、事実を伴った物語には肉がある。伝記が子供向けの残酷ポルノとして優れているのはその点だね」
「小鳩ってそんなことばっかり考えて人生楽しいの?」
「人生めちゃくちゃ楽しいよ。嫌だな」
 どういう意図でこんな話をしているのだろう。意図が全く読めなかった。
「ところで歳ちー、こうしてパンが盗まれて彼らが去ったら、どういう報道がされると思う?」
「『白昼堂々パン屋強盗、大胆不敵な蹂躙劇』」
「うん、ちょっとカストリっぽいけどそれでいいや」
「は? 天才小説家志望の表題なんだからもっと崇めて」
「パンが奪われた事実があれば、大多数の人間はパン屋強盗なんて与太話が本当に起きたことだと思うだろう。いくら信じられなくったって、それが本当になる」
「何言ってんの?」
 訝しげな歳華を無視して、小鳩が続ける。
「強盗がその場でパンを食べる理由なんてないよね。襲撃に成功したんだから、さっさとパンを鞄に詰めて逃げた方がいい。いくらスマートフォンを回収されたからって、長引けば長引くほど事態の発覚のリスクは高まるよね。それなのに、彼らがここで食事をするメリットって何だろう?」
「何だろうって言われても……。お腹がすいてたんじゃないの?」
「かもね」
「ちょっと、そういう反応やめて」
 けれど、確かに言われてみればそうだった。パン屋強盗はパン屋強盗なはずだ。さっさとパンを盗み、金を払わず逃亡するだけの存在である。しかし、この状況を鑑みるに、この場合のパン屋強盗はどちらかというとパン屋テロリストとでも言わんばかりの行動をしている。人質を取って時間を稼ぎ、何かを待っているように見える。けれど、彼らが国や警察と取引をしている様子はない。パン屋強盗はパン屋を不当に占拠して、仏頂面でパンを食べている。
 これは、パン屋強盗じゃなくて物凄く迷惑な客の範疇なんじゃないだろうか?
「目的……パン屋強盗の目的って……何なんだろう……」
「目的ねえ……パンなんて買えばいいのにね。だって、ショットガン一丁で、この店のパンがいくつ買えるだろう」
 のんびりとした口調で小鳩が言う。さながらピクニックにでも来た人みたいだ。パン屋強盗は何かに憑りつかれたかのようにパンを食べ続けている。甘いものを食べたらしょっぱいものが食べたくなったのだろう。今度はソーセージの載ったパンと明太フランスが暴虐の犠牲になっていた。
 このままパン屋強盗がお送りするお食事会を見続けるんだろうか、と、思った瞬間だった。手錠で繋がれている方の手がすっと上がる。手錠で繋がれている相手が挙手をすると、必然的にこちらもプチョヘンザを余儀なくされてしまうのだ。
「パン屋強盗さん」
 すっと、菱崖小鳩が手を挙げている。歳華の手首に嵌っている手錠のことは見えなくなってしまったんだろうか。金属部分が、食い込んで痛い。
「あ? なんだよ」
「お食事中すいません。トイレ行っていいかな?」
「はあ? 駄目に決まってるだろ」
「そうおっしゃらずに。人間の尊厳がかかってるんだ」
「は? 小鳩? 何? 駄目に決まってるでしょ?」
「そう言わないでよ。大体手錠で繋がれてるんだから、一番被害を被るのは歳ちーだよ」
「死んで欲しい……」
「勿論、逃げようなんて思ってないですよ。だって僕が変な真似をしたりしたら隣の歳華が死ぬでしょ? 流石にそんなことはしないよ。ここから脱出して警察を呼んだとしたって、サイレンの音と共に自棄を起こした皆さんが彼女を殺すかもしれないでしょ? そうなるともう何も出来ないっていうか・・・・・・」
「・・・・・・まあ、確かにな」
「でしょう? トイレくらい行っても平気ですよ」
 隣にいる歳華の肩を掴みながら、小鳩はにっこりとそう微笑んだ。肩に加わる力が思いの外強い。そして痛い。端から見れば歳華は生贄に捧げられる羊のようだった。そしてそれはこの上なく正しい。
「よし、それじゃあ、変な真似をしたらこの子が死ぬからな」
 まな板の上の鯉は、包丁を入れられるまで気づかない。それと同じように、強盗がそんな言葉を言うまで、歳華は自分がセリヌンティウスになりかけていることに気づかなかった。
「それは良かった。交渉成立だね。嬉しいな」
「まっ、待って! こいつの話は信用出来ませんよ!」
「大丈夫だよ、僕が歳ちーのことを見捨てるはずないだろ」
「こいつ絶対逃げるよ!!!」
 今までのことを思い出しながら、歳華は必死に懇願した。そんな彼女を無視して強盗が手錠を外し始めたのは、偏に彼らが人間だからだろう。旧知の人間が人質になっているというのに、一人だけ逃げるなんて非道を想定していないのだ。小鳩の手首から外れた手錠が、歳華のもう片方の手首に嵌る。冗談じゃない。
一緒に強盗に遭った歳華にはわかる。本能的にわかる。小鳩は平気で自分を見捨てるだろう。ここで歳華がいくらごねても、彼らは人の善性を信じるに違いない。強盗の癖に!
「それじゃあ歳ちー、行ってくるね」
「死ね!」
 強盗に付き添われた小鳩が、ひらりと廊下の向こうへ消えていく。面倒を嫌った強盗がいっそのことあそこであの害悪を射殺してくれないだろうか。いけないことだとは思いつつも、そう願うのをやめられなかった。小鳩は彼女の葬式に出るか怪しいけれど、歳華の方は焼香くらい上げに行くつもりだ。ちゃんと悼むから、この位置を変わって頂きたい。
 残った方の強盗は、未だに目をぎらつかせながらパンを食べていた。あんなに怖い顔で明太フランスを囓る人間を見たことがない。ゆっくりとではあるものの、パンの消費量は確実に増えていく。今食べているものを含めれば、もう六個以上食べているんじゃないだろうか。成人男性であるとはいえ、結構な量だ。
 そこでふと、さっきの小鳩の言葉を思い出した。パン屋強盗は、一体どうしてここでパンを食べているんだろうか?
 お腹がすいていた、は荒唐無稽だけど理由として納得出来る。けれど、今目の前にいる強盗は、明らかにパンに食べ飽きていた。お腹もそろそろいっぱいになってきたのだろう。一口がどんどん小さくなって、今では森の可愛い子リスくらいになっている。
 それってどういうことだろう?
 少し視線をズラすと、同じように一人で拘束されている店長さんがいた。小鳩がいなくなったお陰で、弱々しい背中がよく見える。強盗に果敢に立ち向かったのに、あっさりと跳ね飛ばされてしまったこの店の主。
「店長さん」
 そんな彼の方に少しだけ寄って声を掛けると、それこそ大袈裟に体が跳ねた。
「あの、大丈夫ですか?」
「は、はい! その……お客様には本当にご迷惑をおかけして、こちらとしても申し訳ない限りで」
 強盗に遭っているというのに、店長はひたすら低姿勢だった。強盗対策までをパン屋のサービスに求めるのは酷だろうに、まるでこの状況を招いた原因が自分にあるとでも言わんばかりだった。責任感が強すぎる、と歳華は心の中で思う。
「ここのおすすめのパンって何なんですか? お兄ちゃんがここのパンが好きなんです」
「おすすめ、ですか」
 言われて初めて自分がパン屋であることに気がついたかのように、店長が小さく呟く。店の中に充満していた焼きたての匂いはもうしなかったけれど、それでもパンの一つ一つは未だに輝きを放っていた。
「そうですね……まずはクリームからこだわったチョココロネ」
「強盗に盗まれたやつですね」
「……あとは何と言っても、メロンパンにソーセージエピ」
「エピ?」
「細長い、麦の穂のようになっているパンです」
「三つ編みみたいなやつですね」
「そうですそうです。あれはバターからこだわっていて、それはもうかなりの自信作で」
「強盗に食べられたやつですね」
「…………そうですねえ」
 それきり店長は黙ってしまった。このままいけば、きっと明太フランスの名前も出てきただろう。こう思うと、強盗はなかなか良いパンの趣味をしているようだった。店のおすすめをちゃんと網羅している点だけは好感が持てる。もしかすると、強盗はこの店の常連だったのかもしれない。歳華はそんなことを思った。
「ねえ店長、もう一ついいですか?」
「……どうしました? お嬢さん」
「私の小説にこの店を登場させてもいいですか?」
「はあ、小説?」
「そうです。小説です。いいでしょう? 勿論、とーっても美味しいパン屋さんとして登場させますから。今はまだ一女子高生に過ぎませんけど、数年以内に私は天才小説家として名を馳せることになります。そうしたらこのお店には聖地巡礼と称して日夜お客さんが詰めかけるようになりますよ。お店の規模もコストコと同じくらいの規模になることでしょう。どうですか?」
 断られる前に一気にまくし立てた。普段なら恥ずかしくて到底出来ない申し出だった。けれど、今なら言える。白昼の襲撃に比べて、小説の中に店名を出すことはなんて人畜無害なんだろう。殆ど無傷だ! 小説の中でどれだけ店を爆破しようが、現実には少しも傷つかない麗しさ。
「私、もう駄目だなって思って。こんな状況を何かに生かさなかったら損なんですよ。美味しいパン屋を知れたからラッキーで終わりたいんです。この状況に絶対してやられたくねえ!」
「は、はい、大丈夫です! いくらでもいくらでも!」
「本当ですか! ありがとうございます! っしゃ! 聞いたか小鳩!」
「えっ、歳ちーこれどういう状況?」
 気づくと、歳華のメロスが優雅に立っていた。どうやら何の捻りも無くトイレから戻ってきたらしい。当然のはずなのに、なんだか妙に安心してしまう。期待値が低すぎるとボーナスが稼ぎやすいからずるい。
「正直、戻ってくると思わなかった」
「僕のことどう思ってるの? 嫌だな」
 いけしゃあしゃあと小鳩が言う。
「さあ、トイレはもう済んだんだろ? それじゃあ早く……」
 強盗がもう一度手錠を掛けようとする。その瞬間、小鳩の指がそれを制した。
「あ、手錠? その前にちょっといいかな?」
「何だ、もうトイレは無しだぞ」
「そうじゃないよ。少し話をしたいんだ。だって、パンを食べるのにも飽きただろ?」
 悪戯っ子のような顔をして、小鳩がそう言った。二人組の強盗から捕まっている客へ、そして隣の店長へ。順に視線を滑らせていくにつれ、彼の微笑みはより一層屈託の無いものになっていくようだった。それなのに、小鳩は歳華を見ていない。この語りは彼女に向けたものじゃない。
 それじゃあ、これは一体なんだろうか。
「なんだ? 何かあるのか」
「何かっていうわけじゃないんだけど……」
 言いながら、小鳩が少しだけはにかむ。そして、よく通る声で言った。
「君ら全員グルなんだろ? パン屋強盗なんて全部茶番だよ。この経営の傾いた店を救う唯一の方法、とんだ蘇生劇じゃないか、これにはザ・ブライドもびっくりだね。ときめいちゃうな」
 そう言って、小鳩はトングを順に店内のオーディエンスに突き付けていく。いつの間に懐に忍ばせていたのだろうか。手癖の悪さの割に、手に入れるものがショボすぎる。
 けれど、そんなことより歳華を動揺させたのは、さっきの小鳩の言葉だった。突き付けられなかったトングが向かっているのは、歳華を除く全員だ。それは、それって――。
「……とまあ、奇妙なパン屋強盗が成功しちゃうのも、彼らの暴虐があっさり赦されているのも、偏にこれが狂言だからだよ。この店に必要なのは『パン屋強盗が起こった』という事実と、フィナーレに至る時間だけ」
「……フィナーレって何?」
 その時初めて小鳩が歳華のことを見た。
「そこで問題なんだけど、それじゃあこのパン屋強盗のメリットを考えて欲しいんだよね。普通に考えたらパン屋にメリットは無い。パンを奪われるわけだから。でも、これがメリットになる場合もあるんじゃないかって。その極めて限定的な部分を考えてみれば簡単だよ。世に遍く狂言の六割が何の目的かって考えれば尚更そうだ」
「……どういうこと?」
「パン屋のオーブンによる火事って意外とあるんだよね」
 小鳩は、つまらなそうにそう呟いた。歳華の横で、店長が小さく声を上げる。
「バターをたっぷり含んだパンなんかをオーブンに入れっぱなしにしておいたりとかすればね。勿論、普通のパン屋さんで、火事が起こるほどパンが放置される状況なんかない。よっぽどのうっかりさんじゃなきゃね」
「…………パンが、」
「ところで、保険金の話をしようか。火災保険くらい、飲食店なら必ず加入しているよね。当然のことながら、自分で放火したら保険金は下りない。わざと事故を起こしても駄目だ。さっきみたいな自分の過失だと、認められるかは五分だね。けれど、パン屋強盗が原因だったら? 強盗に脅され身動きが取れなくなって、それが原因でオーブンの中でバターたっぷりのパンが燃え、ボヤが起こったんだとしたら? これは店長の過失じゃない。パン屋強盗が悪いよ」
 何となく、小鳩の言わんとしていることが歳華にもわかってきた。今にも潰れそうな小さな店だ。古ぼけていて、客だってまばらなんだろう。何せ、小鳩と歳華を除けば、彼らは全員エキストラだ。
 起死回生の策が無い。一回繁盛しなければ、じりじりと追い詰められていくばかりだろう。人気のお店は、人気だから人気になるのだ。場末のパン屋は這い上がれない。
 そこへパン屋強盗がやってくる。
 パン屋強盗はウンディーネの美味しいパンを奪い、結果的にボヤを起こす。保険金が下りることだろう。もしかすると、パン屋強盗の響きにあてられて、客足だって伸びるかもしれない。
「この店には保険金が下りるし、そもそも予期してさえいればそんなに甚大な被害は起こらないだろう。店長に全く過失が無い状態で、店が全焼しない程度の火が起きてくれればいい。その為の待ち時間だ。僕たちを傷つけるつもりもないんじゃないかな。ボヤが起きたらそれに乗じて僕らを逃がし、強盗達も逃げるって、そういう算段だろう。どうせそんな派手な火事にはならないだろうし」
「……そんな、そういうことだったの……?」
「そうだよ。歳ちー。どう思う?」
 どうもこうもない。歳華は自分を取り巻く状況に素直に感嘆していた。よくもまあこんな奇策を思いついたものだと思う。温かみがあるのにドラマティックだ。小説染みている!
 それなのに、何故だかそれを語る小鳩はつまらなそうな顔をしていた。
「そうだ。その通りだ名探偵」
 長い沈黙の中、強盗の一人がそう口を開いた。明太フランスを齧っていた方だ。この部屋をずっと見張っていたあたり、そちらの方がリーダーなのかもしれない、と歳華は思う。
「お、自白パートだね。往生際のいい相手は嫌いじゃないよ。色々バレてるのに取り繕うなんて、正直ちょっとみっともないもんね」
「俺達が平然としてるのは、お前に真相を看破されたところで痛くもかゆくもないからだ。わかるだろう?」
「それはそうだよね。僕らは覆面の下の君らを知らないし、そもそも店主ぐるみの犯罪だ。きっと謎めいたパン屋強盗の正体なんか明かされない」
 小鳩はそう言って意味深に笑っている。一体どういうことだろうか? 真相が明かされたのに、意味がないなんてことがあるんだろうか? 歳華が呆気にとられていることに気が付いたのか。小鳩が言う。
「考えてみなよ、歳ちー。だって『パン屋強盗がやってきて、美味しいパンを盗んだ』の方がずっと魅力的じゃないか。奇妙で可笑しい。それなのに、実は店主の狂言で保険金目当ての工作でした、なんて夢が無いし不謹慎だよ。言ったってそっちの方が信じられない。可哀そうな店主に石を投げる僕らの方が悪者になる」
「……ああ……そうか、そうなんだ……」
 溜息が出るほどアットホームな回答だった。人間味と人情に溢れている。強盗に襲われて哀れにも店が焼けてしまった相手を告発することの難しさ。パン屋の中で、この筋書きに反旗を翻すのは小鳩と歳華しかいないのだ。多数決ですら勝てない。
「その通りだ。誰が信じるって言うんだ? パン屋強盗より魅力的な話はあんまりないだろう。ネットニュースの見出しにも最適だ。何せ、面白いからな」
「その時はアフェリエイトで『パン屋再襲撃』のAmazonリンクが貼られるんだろうな。それはちょっといいね」
「お嬢ちゃんには悪いが、これしかないんです」
 さっきまで黙りこくっていた店主が、不意にそう声を上げた。全ての責任が自分にあるとでも言わんばかりの悲壮な声。けれど、何のことはない。全ての責任はこの店主にあるのだ。
「このままだと、近いうちに店は潰れます。けれど、当面の費用さえあれば、絶対に立ち直れるはずなんです。でも、時間が無い。ドンと稼げる儲け話もない。……保険金さえ入れば、必ず立ち直ります。店を畳みたくないんです。私には、この店しか……」
「店長、謝る必要なんかない。俺らが勝手に協力したんだ」
「そうだ、俺たちはウンディーネのパンが無くなったら困るんだよ!」
 強盗が口々に店長を慰める。こうして聞いてみると、強盗は普通の気のいい若者の声だった。どうして気が付かなかったんだろう。最初に店長を突き飛ばした時だって、きっとその手は優しかったはずだ。
「わかっただろ。悪気は無いんだ。……大丈夫、ボヤが起きたら二人とも必ず解放する。傷つけるつもりは全くないんだ。だから、もう少しだけ我慢して欲しい」
 懇願するかのような声で、強盗が言う。結局のところ、まだ諦めきれていないのだろう。だって計画はまだ失敗すらしていない。その前段階だ。小鳩と歳華が共犯者になってくれれば、この与太話はスムーズに現実へと変わるだろう。
 本当のところを言えば、歳華には協力しない理由が無かった。だって、こんなの魅力的だ。パン屋強盗という荒唐無稽な存在の裏側にあるのが、古ぼけた店への愛だなんて! ここは下町と呼ぶには少しばかり都会過ぎるけれど、義理人情はよく馴染む。彼女は、意外なことに優しい話が結構好きなのだ。それが小気味いいものだったら尚更いい。
「へえ、都合がいいんだね。困るな」
 ところが、小鳩はそういうわけでもないらしかった。妙に冷めたような口調で、大団円から一歩引いている。
「それで大団円か、なんかそれはそれで癪だな」
 そう呟いて、小鳩がにっこりと笑う。手の中のトングがクラッパーボードのようにカチンとなった、その瞬間だった。隣にいたはずの店長が派手に床に転げ、パン棚にぶつかった。
 店長を容赦なく蹴り倒した小鳩は、そのまま一心不乱に店長を殴り始めた。トングをまるで短刀のように持って、丸まった背中に突き立てていく。「やめ、やめて! やめてください!」という店長の叫び声が静かな店内に響く。
「トングって人を殴る為のものじゃないんだね、やりづらい」
 ややあってそう呟くと、小鳩はあっさりと手にあったトングを投げ捨ててしまった。若干の血に塗れたトングがフランスパンの山の中に消える。
「それじゃあこれからは素手で殴っちゃおうかな。ファイトクラブっぽくていいかもね。ワクワクしちゃうな」
「ひっ……!」
 状況から見れば、悪いのは全部パン屋強盗を含むウンディーネ一座の皆さんである。それなのに、人畜無害そうな店長を殴る小鳩のキラキラした目が全てを台無しにしていた。パントングというハッピーな道具だから尚更悪い。ギャップというのはいつだって死ぬほど効果的なのだ。
「小鳩!」
「おっと、止めてくれるな歳ちー、僕だってやる時はやる男なんだよ」
「絶対やっちゃいけないところなんだってば! おい! 社会人! もういい歳でしょ!」
「いや、あと数発は殴るね」
 けれど、素手を振り上げた小鳩の野望は、あっさりと阻止された。呆気に取られていた客二人が、息を合わせて小鳩に飛び掛かったのだ。手錠を掛けられた相手の俊敏な動きで、あっさりと小鳩が床に押さえつけられる。
「言っとくけど、僕は別に運動神経がいいわけじゃないからね」
「……本当にわけわかんないんだけど……」
「君らがやりたいことはわかった。それはそれとして単に癪に障っただけです。はい」
 さっきの威勢はもうどこにもなかった。床に押さえつけられて喚けるほど、人間は頑強に出来ていないのだ。
「本当にすいません。小鳩には後で言って聞かせますから」
「おっと、ここでお姉ちゃん口調か。ちょっとときめいちゃうな」
 床に押さえつけられたまま、小鳩がくつくつと笑う。
「……言い忘れてたけど、火はすっかり消したよ。君らの期待しているようなことはもう起こらない……火種になっていたバターロールも全部出してた。本当にパンって火が点くんだね。驚いちゃったな」
 さっき、小鳩が自信満々にボヤ仮説を立てていた理由が今わかる。何のことはない。彼はちゃんと事実を確認していたのだ。探偵役としてはアンフェアだけれど、足を使っての推理と言えなくもない。
「さっきトイレ行かせてもらっただろ? その時、トイレの窓から無理矢理外に出て、外から調理室の方に回ったんだ。それで窓から侵入して、煙が出てるオーブンを確認して中のもの全部ぶちまけて手当たり次第オーブンの電源切ってきたってわけ。時間にしたら五分もかかってないと思う」
 不実なメロスはそう言って笑った。結局裏切ってたのかよ! と歳華は心の中で詰る。一瞬でも信じた自分が馬鹿みたいだ。不在のトイレをノックされただけで、大変なことになったいたかもしれないのに!
「だから、君らがこの店を守りたいのなら、もう一度同じ事をするといい。僕だって別に止めやしないよ。君らの言う通り、店ぐるみの狂言放火より、パン屋強盗の方がずっと魅力的だ。みんなだってそっちを信じたいだろう。そう思わない?」
 さっきとはうって変わって、パン屋フレンドリーな言葉だった。いくら小鳩とはいえ、この状況でまだパン屋に厳しいことを言い続ける胆力はないのかもしれない。床に押さえつけられている状態はひたすら弱い。
「……わかった」
 釈然としなさそうなパン屋強盗が、それでも小さく頷く。結局のところ、パン屋強盗はこのパン屋さんを守りたいだけなのだろう。この小さな店を救う為に、これだけのことをやるくらいなのだ。
「もう一度、バターロールを窯に入れて最高火力で焼く。出火するまでは待っててもらわなくちゃいけないが、それが終わったらそこの女子高生もお前も絶対に解放する。……ボヤから一緒に逃げるんだ。それでいいな?」
「いいです! わかりました!」
 小鳩が何か言う前に、歳華の方が声を上げた。折角綺麗な方向に話がまとまろうとしているんだから、余計なことをさせるわけにはいかない。
 それに、歳華はまだこの店自慢のパンを食べていない。もしこのままこのパン屋が無くなりでもすれば、きっと寂しくなるだろう。
「あ、あの、パン屋強盗さん。一ついいですか?」
「パン屋強盗さんっていうのもな……どうしたんだ?」
「パン屋強盗さんはこの店が好きなんですか?」
 ややあって、パン屋強盗が答える。
「当たり前だろ」
「わかりました。これがリアリティーなんですね!」
 そう言うと、なんだか妙に面白くなってしまった。何がリアルで何が虚構なのだろう。パン屋強盗は単なるフィクションでしかないけれど、今からそれは現実になろうとしている。保険金でウンディーネは立ち直るかもしれないし、立ち直らないかもしれない。それでも、店の危機は救われるわけだ。まるで、フィクションが現実を救うみたいに!
 歳華が妙な陶酔感を覚えた、その時だった。

 派手な爆発音がした。

 ガシャンガシャンと何かが割れる音、大きな衝撃と振動、遅れて、質量を持った物体が叩き付けられる音がする。全ては一瞬のことだった。パン屋にはふさわしくない嫌な刺激臭が廊下の奥から漂ってくる。それは、強盗の一人が向かった方向だった。……調理室の方だ。
 店長ともう一人の強盗、それからエキストラの二人が、一斉に顔を青くする。惨劇の予感がしたのだろう。ややあって、彼らは一斉に走り出した。
 「川島! 川島!」と悲鳴のような声が聞こえる。覆面をしていたパン屋強盗が急に現実に引き戻されて、生身を与えられたみたいだった。「は、早く救急車を……救急車……川島……!」という店長の声が震えていた。殆ど泣いていたのかもしれない。むせ返るような焦げ臭さと、耐え難い血の臭いがする。
 何が起こったのかわからなかった。衝撃で床に散らばったパンが歳華の周りを囲んでいる。一体どうしたんだろう。どうなったんだろう。お店を救う為の大掛かりな茶番劇は? パン屋強盗という素敵な響きに隠された祈りは? それらは何でここで打ち止めになったんだろう?
「歳華」
 歳華を現実に引き戻したのは、もうすっかり耳に馴染んだ男の声だった。
「今の内に外に出ておこうか。たぶん警察もそろそろ来るし、救急車も来るだろうし」
 手の差し伸べ方がまるで王子様だ。どっちにしろパン屋と爆発には似合わない佇まいだと思う。それに、歳華の両手首は未だに手錠に繋がれている。その手を取るのも一苦労なのだ。
「片手じゃ駄目か。そうだよね」
 言いながら、今度は両手を差し出してくれる。その手を取ると、まるでワルツを踊るような格好になった。触った手が温い。まるで食べ頃のパンみたいだった。
 優しく微笑む小鳩を見て、何故だか全身に震えが走った。歳華を脅かすものはもう何処にも無い。パン屋強盗は終わったのだ。
「大丈夫。怖くないよ。困るな、パン屋強盗はもう終わったのに」
 小鳩が小さく呟く。そうじゃない、と口にしてしまいそうになった。そうじゃない。それが怖いんじゃないのに。

 程なくして、小鳩の言う通り警察と救急車がやって来た。ついでに消防車も駆けつけてきている。『ウンディーネ』からは火の手なんか欠片も上がっていない。起こったのは爆発だけだった。消防団員達が口々に「バックドラフトが、」「部屋の空気が」「空気の循環が、」と言っているのが聞こえた。パン屋強盗の話をしている人なんて誰もいない。
 誰もパン屋強盗の鞄に入ったチョココロネのことを気にしたりしていない。

 下手なことを聞かれる前に、二人は『ウンディーネ』を離れた。何でも、小鳩は警察とかそういうものが苦手らしい。病院や警察や税務署とは相性が悪いのだと語る小鳩は、わかりやすく社会不適合者に見える。そういう大人っぽいところは、なんか怖いのだ。
 手錠はそこらの石を拾って叩くだけで簡単に壊れた。これも本式のものじゃなかったのだろう。恐らく、ショットガンだって偽物だ。一から十まで茶番劇だった。少し過激なSMプレイの域を出ていない。
 外はすっかり夕暮れになっていて、お昼時とは口が裂けても言えない。けれど、不思議と空腹感は無かった。ずっと驚き続けていたからだろうか。歳華の足取りは今も覚束ない。
「小鳩」
 少し前を歩く彼の名前を呼ぶ。暢気な瞳が歳華を捉えて、ふんわりと細められた。
「どうしたの? お礼の言葉ならいくらでも言ってくれて構わないけど」
「……うん。まあ、感謝してる。正直な話、凄く怖かった。あんなことに巻き込まれるなんて思わなかったし、小鳩は大丈夫だって言ったけど、きっと殺されちゃうんだろうって思ってた」
「……面と向かってそう言われると照れるな。僕にとって歳ちーは大事なお友達だからね」
「とかいって一回裏切ったじゃん。トイレ行くだけだって言ってたのに、あっさり嘘吐いて」
「それはまあ……歳ちーが殺されないことを知ってたからっていうのもあるんだけど……ほら、どうせ彼らなんてパン屋ぐるみの大根役者だったわけだし……」
「いや、小鳩はそんな確信が無くても私を生贄にドナドナしてたと思う。絶対そう。万一死んでも葬式にも来ない」
「いや、葬式には行くよ。困るな」
「ちょっと、やっぱりどんな状況でもドナドナするじゃん!」
「言葉の綾!」
 小鳩がけらけらと楽しそうに笑う。その笑顔があまりに屈託がなくて、一瞬躊躇ってしまった。今から言うことがどういう意味を持ってくるのか、本当のところはよくわからない。
「あの時、何が起きたかわかんなかった。爆発とか映画の中でしか見たことなかったし、そもそもパン屋さんで爆発が起きるだなんて思わなかった」
「そんなの僕もそうだよ」
「……爆発が起きたんだよね。それで、パン屋強盗さんの一人が大怪我を負った」
 もしかしたら死んでしまったのかもしれないけれど、それを口にすることすら恐ろしかった。ここでその可能性を口にした瞬間、現実がその凄惨さに拠ってしまいそうで怖かった。
「こんなことが起こるなんて知らなかった。怖いね」
「嘘だ。小鳩が知らないはずない」
 何せ、彼は映画好きなのだ。USJのことも大好きだと聞いている。パークの年間パスポートを持っているような相手が、果たしてあの有名アトラクションを体験したことがないとでも? ご冗談を! 観ていないはずがないのだ。知らないはずがなかった。
 あんまり迂回しても仕方がない。パン屋から家までは十五分しか無いのだ。行く時はあんなに遠いと思っていたのに、解決編をやるには心許ない距離だ。軽く息を吐いてから、歳華が口を開く。
「……換気扇、小鳩が壊したの?」
「電源コード切っただけだよ。壊したって程じゃない」
「全部?」
「そうじゃないと意味がないからね」
 滔々と小鳩が言う。それを聞いて、歳華は自分の迂闊さを呪った。
 小鳩が嘘を吐いている、と気づいたのは消防隊員の言葉を聞いてからだ。遅い。本当に遅い。あまりに遅すぎる。小鳩は火なんか消していない。窯の中で火はまだ燻っていたのだろう。
 バックドラフト現象。換気のされていない、空気の閉塞した火事現場で起こる最悪のハプニング。例えば、新しい空気の入りづらい密閉された部屋なら、火の勢いはぐっと弱まる。酸素を消費し尽くしてしまうからだ。
けれど、弱まりつつも火種が残っていれば、空気の供給が起きた瞬間、部屋の中に充満した一酸化炭素と結びついて、一気に爆発が起きる。
 あの店で起きたことはそういうことだったのだ。密閉された調理室の扉を開けたことで、バックドラフトが起きてしまった。恐らく〝川島さん〟は扉ごと吹っ飛ばされたことだろう。重い扉に押しつぶされた身体がどうなるかなんて想像したくもなかった。旧知の友人があんな声を上げるくらいの有様だったのだろう。
 小鳩は窯の火を消したりなんかしていなかった。換気扇を止めて、酸素の供給を止めただけなのだ。あの長広舌は、きっとパン屋強盗と同じ目的だったのだろう。十分に場が温まる為の時間稼ぎ。罠が熟すまでのパフォーマンス。
 あの時から、小鳩の罠は始まっていたのだ。
「……小鳩はパン屋強盗の本当の目的がわかってたんだよね」
「うん」
「凄いね小鳩。賢いよ。まるで名探偵みたい」
 あの状況下の限られたピースで導き出せたのは、本当に凄いことだと思う。歳華は素直に尊敬していた。彼女一人だったら、きっと裏の目的なんか気づかず、素直にパン屋強盗をパン屋強盗として受け取っていたことだろう。今日の菱崖小鳩は冴えていた。
「歳ちー、あのさ」
「だからこそ、引いてる」
「え? どうして? 困るな」
「だって、わかってたなら、あんなことする必要なかったよね? だって、あの部屋に入るなんて小鳩も危なかった……。強盗と店長さんの目論見通り、火事が起きたら解放してもらえるはずだったのに、敢えて小鳩はあんなことをしたんだ」
 確かに褒められたことじゃないかもしれない。自分たちは少なからず恐怖に晒されたかもしれない。それでも、筋書きさえわかっていれば、怯える必要なんかなかったはずだ。これで、一つの可能性が消えてしまう。目の前のパン屋強盗に心底怯えて、仕方なく攻撃に打って出た可能性だ。
 歳華の言葉はなおも止まらない。本当はもうやめたかったけれど、ここまできたらもう止められなかった。
「わざわざ『火を消した』って言って煽ったのは、殺す気があったからなんだよね……? 火種を残したまま調理室を密室にすれば、大なり小なりバックドラフトが起こるって知って、犯人たちが傷つけばいいって思ってたんじゃないの?」
「そんなことないよ」
「そんなことあるくせに! 酷い! 最悪!」
「傷つけばいいなんて思わないよ。死ねばいいって思ってた」
 しらっと小鳩が呟く。その表情が普段とあまりに変わらないので、歳華はわかりやすく戦慄した。
「パン屋強盗の目論見がどうであれ、奴らが歳ちーと僕を脅しつけた事実は変わらないんだからね」
「……でも、人殺しになっちゃうかもしれなかったんだよ? あたし、そんなのやだ……」
「だってさ、悔しくないの? 折角美味しいパンを楽しもうと思ったのにさ、不当に拘束されて、不当に恐怖を与えられてさ。それで守られるのがあのキュートなパン屋さんなんて、ちょっと都合がよすぎるんじゃない? 奪うのは吝かじゃないけど、奪われるのはちょっとごめんかも。困るよ」
「……小鳩」
「歳ちーを不快にさせたならごめんね。でもさ、これって元はと言えばパン屋強盗が悪いでしょ」
 違う。そうじゃない。
 ……頭は悪くないはずだ。それに、人の心がまるでわからないわけでもない。今だって、歳華の気持ちを分かった上で、敢えてそんなことを言うのだろう。何せそれが本心だから。耳障りのいいものよりも、汚濁に塗れた本心の方が美しいと思っている。泥付きの野菜とコミュニケーションを同列に貴ばないで欲しい。
 嘘でもいい。全部を歳華のせいにして欲しかった。旧知の女子高生が脅され怯え、脅かされていたからにして欲しかった。思っていたよりも小鳩は歳華のことが大事で、守る為に仕方がなくあんな手段に出たのだと言って欲しかった。どんなに薄っぺらくてもいい。どんなに空々しくてもいい。……そういう筋書きだったら、小鳩はきっとヒーローだ。
 でも、小鳩はそうじゃない。勝手に利用されたことに腹を立て、死んでしまえばいいという気持ちで罠を仕掛けた。それが事実だ。
 『あれは害悪だからな』というのは親愛なるお兄様の言だけれど、今なら同じ言葉を向けられる。菱崖小鳩は害悪だった。例えば、奇妙な強盗、店を守る為に打って出た奇策に対して、致死量の復讐を仕掛けられる程度には。裏に透けているものを知っていてなお、小鳩は殺意を向けてみせた。
「……歳ちー、大丈夫?」
「あたしに対して大丈夫とか言っちゃうんだ」
「そりゃそうだよ。だって、歳ちー相手だもん」
 泣きそうというのともまた違う、奇妙な気分だった。
 誰だって自分のお友達が善人だと思いたい。……はずだ。少なくとも、歳華の場合はそうだった。そんな、復讐心に駆られて相手を殺そうとするような相手だと思いたくはない。出来れば雨の日には可哀そうな猫を拾って欲しいし、細かいお釣りは募金箱に入れて欲しい。
 それに何より、小鳩は単なる友達じゃなかった。歳華の小説を読んでくれる唯一の相手だ。大切な相手だった。
 ……出来ればいい人でいて欲しい。それが歳華の願いだった。俗っぽいけど切実な願いだ。
 それがどうして叶わないんだろう。
「歳ちー」
 長い沈黙を破ったのは小鳩の方だった。
「ねえ、このこと小説にしようよ」
「…………は?」
「そうしたらきっと面白いよ」
 その声は、昼前にリアリティーを語っていた時の声と同じだった。歳華のことを本気で考えて、彼女の小説をよりよくしようと試行錯誤していた時の声だ。得体のしれない男でも、殺意をチラつかせる悪人でもない。純粋な読者としての声だった。
「小鳩、本気で言ってんの?」
「本気だよ。だって、こんな経験二度と無いよ。パン屋強盗に遭遇することが、これから先の歳ちーの人生にあると思う?」
 答えなんか決まっている。あるはずがない。パン屋強盗もバックドラフトも、これからの人生に登場するかすらわからない。……もしこれを書いたとすれば、今までに無い小説になるだろうか。現実に即したパン屋強盗は、それこそキリンや殺し屋よりも突飛で面白くて、エンターテインメント性があるかもしれない。
 そして何より、それは救いだ。
「歳ちーの書く小説の中のパン屋強盗は酷い奴で、襲撃時にもう既に店長を殺してるんだ。居合わせた女子高生と青年は哀れ手錠に掛けられて、血だまりの中でチョココロネを齧る強盗達を見つめてる。彼らの目的はパン屋を蹂躙し、たらふくパンを食べること。店長死亡の今、ワグナーで事態は解決しない。怯える女子高生! 彼女を愛する青年は、決死の覚悟で罠を仕掛け、悪い人をやっつけるんだ。勿論、パン屋強盗に店を救うなんて裏の目的は無い」
 歳華の言葉を待たずに、小鳩が歌うようにそう呟く。隣を歩く小鳩の表情は商店街の明かりに照らされてきらきらとしていた。そんなところまで語られてしまったら困る。さっき求めていたものを掬い上げてもらっただけじゃないか。これじゃあ小説家の出番がない。
「…………それさ」
「……あ、彼女を愛するってとこに問題がある?」
「はあ? そこわざわざピックアップするの意味わかんないんだけど! 無理! 死ね!」
「まあ、そこは未来の天才小説家の手腕ってことでね」
「……天才小説家っていうのはデビューしてなくても天才であることに変わりはないんだよ。天才っていうのは職業じゃなくて属性だから」
「歳ちーもなかなか言うねえ」
「……現実を小説の為に利用するなんてどうかしてるよ」
「大丈夫、現実なんてよりよいフィクションを生み出す為の材料庫でしかないんだから」
 おこがましい言葉だと思う。そんなはずがない。そんなことを考えていいはずがない。それなのに、頷きたくって仕方がなかった。
「ただ花が枯れるのも、ただ時が過ぎるのも、ただパン屋が燃えるのも、同様に寂しいんだよ。全部が過ぎ去っていくものなら、何か残るものを信じたくない?」
「……そんなのずるいよ」
「覚えておこうよ、歳ちー。死んだかわからない強盗のことも、これから潰れるだろう可哀想な店のことも、僕らだけは覚えておこう」
 覚えておけるだろうか。何かを残せたりするんだろうか。パン屋強盗を経ても、未だにわからない。ただ一つだけわかることは、歳華が小鳩の言う通り小説を書くだろうことだけだった。
「……あーあ、瀬越の好きなパン屋、潰れちゃうな」
 小鳩は心底残念そうにそう呟いた。きっと心の底からの言葉だったのだろう。パン屋強盗もそれとグルの店主も赦せないけれど、それはそれとして、彼は『ウンディーネ』に入った時の柔らかいパンの匂いを愛している。
 歳華は、一度も口に入ることのなかったメロンパンを思う。あれを美味しそうだと思ったことだけは、嘘じゃない。

 それから歳華は一心不乱に小説を書いた。こっそり読み直した『闘キリン士の休息』は、やっぱりとても面白い小説だったけれど、これじゃないな、とも思った。この小説には祈りが無い、と歳華は今だから思う。現実に限りなく近くて、それでも現実じゃないもの。美しい虚構。その段差にあるものは、多分祈りだ。
 何だかんだ言って甘い歳華は、襲撃されたパン屋を人気店にしてしまった。古びていて小さくて目立たない店だけれど、その店はとても繁盛している。窯の中でパンを燃やさなくても、立ち行く店に成っている。
 ぬるい物語だ。……それなりに幸せな物語だとも思う。

 初冬に〆切だったその文学賞の結果は春に出た。結果と選評は雑誌に載り、大々的に発表される。
 その輝かしいページに歳華の名前は無かった。ごっりごりの本名で応募した自信作『パン屋初襲撃』は一次選考も通らずに落選したわけである。信じられなさ過ぎて四回は見た。四回分の失望をした。
 せめて本屋の時点で確認しておけばよかったのに! 自信は途方も無い罪だった。歳華はこの雑誌を、今日も変わらず家にいる件の二人の前で見る約束をしてしまっていたのである。小さな声で「無い……」と呟いた時のあの気まずさといったら……。あの小鳩ですらちょっと真顔になるくらいだったのだから、その程度が窺い知れてしまう。
「小鳩!!!! 何がリアリティーだよ!!!!」
「そこでキレられても。困るな」
「まあ、気を落とすな。こういうものは時の運もあるだろう」
「お兄ちゃんのそれが正直一番心にくる」
 入賞とはいかずとも、一次くらいは通っていてよかったんじゃないだろうか。何てったってあの小説は現実と地続きのとっておきである。瀬越が用意していたシャンパンが無言で開けられた。結論として、三人ははしゃぎすぎたのだ。
「いや、面白かったと思うよ。歳ちーの小説の中では一番良かった」
「本当に? 今だから正直に言っていいよ」
「……なんていうか、現実の面白さを超えられてないっていうか、歳ちーの小説ってめちゃくちゃ描写が退屈なんだよね」
「ファック!」
 そんなことを言われたら元も子もない! 歳華は大仰に頭を抱えた。だって、それ、努力ではどうにもならない領域の話じゃないか……。描写の面白さや文章の外連味は、一朝一夕で身につくものじゃない。雨垂れは石を穿つかもしれないけれど、現役女子高生小説家になる為にはタイムリミットがあるのだ。
「まあ、一朝一夕でどうなるものじゃないからね」
「それ今考えてたところだから!」
 果たして、小説が現実を超える日は来るのだろうか? 人知れず塗り替えられたパン屋襲撃のシナリオは、このまま人知れないままで終わるのだろうか? そんなのまるで意味が無い!
 その時、キッチンに避難していた俊月が戻ってきた。手にした大皿の上には、狐色をしたロールパンが六個も載っている。お昼時に似合う芳しい匂いだ。
「まあ、ここで一息入れよう。ほら、ブレッドを焼いてみたんだ」
「ブレッドって単なるパンじゃん! 普通にパンって呼びなよ! お兄ちゃんのそういうところがいけないんだって! 何なんだよ! 文字数稼いでんじゃねえよ!」
「『ウンディーネ』が潰れたらしいからな。もう自分で理想のパンを作るしかないわけだ」
 歳華のヒステリーを受け流しながら、俊月がさらりと言う。目の前に現れたパンを見て、小鳩はわかりやすく顔を綻ばせた。ひったくるようにそれを掴んで、歳華の手に押し付けてくる。
「ほら、歳ちーも冷める前に食べようよ。今更言っても仕方ないんだしさ」
「……う、」
 そうして齧りついたパンは、確かに素人が作ったにしては上等なものだった。今となってはもう『ウンディーネ』のパンと比べることは出来ないが、それでも今までに食べたパンの中でも上位に入るくらい美味しい。
「……お兄ちゃんはさ、パン作るの好き?」
 ロールパンを半分ほど食べてから、歳華はぽつりとそう尋ねた。どういうわけだか、自然に出てきた言葉だった。
「好きかどうかはわからないな。何せ初めて作った」
 妹の疑問に対し、彼はとても素直に答えた。
「そっか。そうなんだ」
「でも、歳ちーは小説を書くの好きでしょ?」
 満を持したように、小鳩がそう尋ねてくる。
 その時の感情を、どう表現したらいいだろうか。
 歳華は、目の前の男の所為で書かなくちゃいけなかった物語を、パン屋初襲撃の物語を思い出す。彼女が結局結末を知らない奇妙な強盗劇に、思いを馳せる。ややあって、彼女が口を開いた。
「どう答えて欲しい?」
「出来れば愛して欲しい!」
 屈託なく笑いながら、小鳩はそう答えた。けれど、歳華はそれを復唱したりなんかしない。
 これからも歳華は、ままならない現実を下地にしながら、小説を書き続けるのだろう。自分でもあた抱えたこの宿業を、スティグマのように焼き付けていくのだ。やるせない現実を適当に脚色して、自分好みの物語に仕立て上げていくに違いない。
 それが幸福なことなのかは未だによくわからなかった。目の前のパンと違って、小説の魅力ってとにかく分かりづらい。書くべき意義も、手の中でやっぱり薄らぼやけている。
 それでも、歳華の興味は次の新人賞へ向いていた。恐ろしいことに、救えないことに! 彼女は小説を、それなりに愛しているのだ。

                           (了)

サポートは脱法小説本に使います