日曜日は最悪だと世界は言うけれど(前編)


■According to Record 1

 小説を書こうと思うと途中で雑念が入り、昔好きだった小説やら漫画やらを引っ張り出して読み始めてしまうことはないだろうか? 瀬越歳華はまさにそういう人間であって、気を抜くとすぐにサボって何回も読んだ小説を捲ってしまう。この台詞好きだったなとか、こういうシーンを書いてみたいなとか、そういう邪念に囚われる。
その間一文字も原稿が進まないのだから因果なものだ。小説を書く時は独房にでも篭もっていた方がいい。小説を書くことは基本的に苦行である。魅力的なフィクションの元に、そんな苦行は消し飛んでしまう!
 バイトに向かうまであと三時間しかない。歳華の執筆スピードから計算すると、その三時間で書けるのなんて精々二千文字がいいところだ。というか何を書こうというのが決まってないから、完成するのは更に少ない文字数になることだろう。
 最悪、台詞二つだけというのもあり得る。やっぱりトリックが浮かばないのにミステリーに手を出すべきじゃないのだ。
第一、ミステリーは鍵がどうだとか死体がどうだとかで話が難し過ぎる。誰と誰が不倫をしていて、凶器が氷だったり氷じゃなかったりする物語の何が面白いのだ? ……面白いんだよなぁ、と歳華は思う。読む分にはミステリーは面白い。
 謎が解けたり解けなかったり、名探偵がそれで懊悩したり解決したりするのは、フィクションとして魅力的だし上質なのだ。だから、歳華もそれを書いてみたかった。
 ……そこまで考えて、歳華はいよいよ自分の適性の無さにも気づいてしまう。歳華は以前、名探偵の真似事をしようとして、結局小説家の道を選んでしまったことがある。いや、以前やったことは歳華の憧れるノベリストの所業とも言えない。あれはもっと短絡的で、自分のことだけを救うようなフィクションで、……だとしたら何だろう? 昔読んだ小説に、誰か一人の為に書かれた小説──片説、なるものが出てきたけれど、それに近いだろうか。
 いずれにせよ、歳華は探偵である役割を放棄し、肩書だけの探偵(ノベリスト)として世界を書き換えた経験がある。あの時の業が歳華にミステリーを書かせないのではないだろうか?
 しかし、賢明なる兄がここにいればこう言うだろう。

「お前はミステリーをそんなに読んできていないんじゃないか。ほら、名探偵コナンですら文字が多すぎて苦手だと言っていたじゃないか。そもそもミステリーを書こうというのに、まず最初に出てくるトリックが氷という時点で知識量の足りなさが出ているんじゃないか。まずは俺が古典的なものを用意してやろう。どうだ、最初に読むのはカーター・ディクスンがいいらしいぞ」

 ……なんて、真面目なことを。
 残念、お断りだ。歳華が求めているのはそんな地道な努力ではない。パッと効いてパッと書けるような即効薬だ。お兄ちゃんは真面目が故に適切なことを言うけれど、それが妹にとってどんな苦痛をもたらすかは一向に考えていない。受験勉強も出来ない妹を舐めてはいけない。今の歳華はセンターの過去問すら解かずに絶賛二浪中なのだ! そうこうしている内にセンター試験そのものが無くなりそうなのだ! 詰んでいる。
 それから歳華は台詞すら思いつかずジタバタのたうち回った。そして、禁断の方向に舵を切ってしまった。……即ち、何かの参考にしようと言って、先人のフィクションを漁る方向に。そんなものに手を出して執筆活動に戻れるはずがない。しかし、こういう時にそんなまともな思考には戻れない。何しろ執筆活動は辛いし、バイトの時間は迫っている。

 歳華はパソコンの前から逃げ出すと、兄の部屋に向かった。

 一時期は寝食を共にしていた兄は、もういない。兄はたった一人の友人を失った後、東京を離れて遙か北の地に向かってしまった。そのことを寂しく思う気持ちはあるけれど、彼は彼なりに気持ちの整理が必要だったのだろう。たまに電話をすると、兄は変わらない声で歳華の心配をしてくれる。だからもう、それ以上はいらない。
 兄は最低限の荷物だけを携えて引っ越して行った。残りのものは段ボールに詰めたままこうして実家の兄の部屋に残っている。それでも段ボール箱三つにしかならない瀬越俊月の人生について思いを馳せてしまうところではあるけれど。
 この段ボールの何処かに、兄が残していった漫画か小説かが入っているはずだ。兄は特別読書家であるというわけじゃなかったが、彼の友人が──歳華が昔好きだった男は、そういうのが好きで、俊月の家に勝手に持ち込んでいた。彼が一番好きだったのは映画だったけれど、紙のものもいくつかあった。
 菱崖小鳩の嗜好については理解出来ないことが多い。けれど、彼は常人には到底理解出来ないものを愛する一方で、誰からも愛される名作にも精通していた。
……いや、誰からも愛される名作に拘泥しすぎて、小鳩はああいう方向に向かってしまったんだっけ? ともあれ、小鳩が選んだものには外れがない。汚濁を愛する一方で、花を愛する感性を持ち合わせていた小鳩のセレクトは、大抵が面白かった。
 だから、今日はまずインプットに向かおうと思ったのである。いなくなってからもあれに影響を受けるなんて癪だけれど、いいものはいいだろう。幸いなことに、兄からは段ボール箱の中身は好きにしていいと言われている。
 長らく開封する機会を逃していたけれど、今日はそういう風が吹いていた。歳華はあのくだらない茶番を経て、ようやく色々なものに折り合いがつけられるようになったのだ。今なら、この段ボールだって開けられる。歳華は本来の原稿から逃避し、意気揚々と段ボール箱を開けた。
 そして、二つ目の段ボールを開封したところで、底に入っている血まみれのネックレスを発見したのだった。
 正直な話、嫌な予感はしていたのだ。映画のDVDとか小鳩がいかにも好きそうなミステリー小説で埋め尽くされていた上段で満足していればよかった。奥の方に押し込まれたいかにも新品らしいタオルを見て、歳華はすぐに蓋を閉めればよかったのだ。何で手に取ったのだろう。馬鹿だ。危機管理がなってなさ過ぎる。
 タオルを開くなり、鉄の臭いが鼻をついた。
『銀色の』と形容したはいいものの、実際は血に塗れて赤黒く変色しており、本来の色味は雲の隙間の晴れ間のようだ。
ネックレス自体は女物とも男物ともつかないユニセックスなもので、誰のものかは分からない。チェーンの先には、何やらドッグタグのようなプレートがついていた。
 血に塗れたネックレスで最悪の想像をしないわけにはいかない。十中八九、このネックレスの持ち主は死んでいるだろう。
 だって、これは俊月の荷物ではあるけれど、菱崖小鳩の荷物でもあるのだ。そこが繋がっている以上、この糸は簡単に惨劇をたぐり寄せてしまう。
 歳華の目の奥が痛くなり、指先が冷たくなる。件のDVDを観た時ほどの衝撃じゃないが、あんまり嬉しくない慣れだ。
 ネックレスをタオルに包み、もう一度箱に戻す。箱にはまだ三つのタオルの包みがあった。これがそういう関連のものであるなら、残りも多分……そういうことだ。
 ミステリーなんかを書いていたからだろうか。怖いし気味が悪いと思っているのに、歳華の頭には一つの疑問が浮かんでいた。
 即ち、自分の兄は何故これを取っておいたのか。という問題だ。
 このネックレスが何らかの犯罪に関わるものであるなら、処分してしまった方がずっと良かったはずだ。というか、そうしない方がおかしい。
 でも、俊月はこれを後生大事に……? 取っていて、あろうことか箱に詰めている。一体何故なんだろう? そこが気になってしまうと、もう止められなかった。やめればいいのに、歳華の手はもう一度タオルに向かった。そして、怖々とそれを取り出すと、タオル越しに持ち上げてみる。
 すると、ドッグタグの裏側に何やら文字のようなものが刻まれているのが見えた。文字というか、シンプルな数字の羅列だ。とある年の、4月25日。
 それは、菱崖小鳩の誕生日だった。

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