もしも魔法が弾けたなら


※「夏の終わりに君が死ねば完璧だったから」のネタバレがあります。

 都村弥子には三億円の価値があったので、問題を起こしても大抵は咎め立てられすらしない。けれど、今回ばかりは少しやりすぎた。
 都内にある某有名サナトリウムは、今回のことですっかり都村弥子に懲りてしまったそうだ。彼女の入院を継続させるわけにはいかず、一刻も早い転院先を探しているらしい。
 額面上で三億円、今後の医学の発展を考えればそれ以上の価値がある人間が放逐されるのか、と晴充は素直に驚く。
「チェスの勝負がきっかけだったらしいんだけどな」
 こんな状況にあるというのに、一籠徳光はそう言って笑っていた。

 多発性金化筋繊維異形成症、通称・金塊病に罹った人間には親戚が増える。
 天涯孤独と触れ込まれていた都村弥子も例外では無く、入院したばかりの彼女の病室に見舞い客が途絶えることはなかった。
 勿論、その全てがぎらついた野心や切実な下心を持っていたわけではないだろう。ただ彼らは、自分が抽選に参加する権利があったのか知りたかっただけなのだ。無事に都村弥子が死んだ暁には、ころっとおこぼれが貰えるのか。それを確かめに来ただけなのである。
 彼女に面会することが、彼らにとっては一種のエントリーなのだ。三億円とは言わない。ただ、死に際の彼女に会えば、あわよくば数十万が、あるいは百万円程度なら返して貰えるのじゃないかという無邪気な期待。だから、その病室を訪れた人間の大半は、自分達が悪辣である自覚すら無かった。
 最初の内、都村弥子はその全てを拒絶した。誰とも会いたくないと言い、一人で居ることを選び続けた。しかし、諦めの悪い善人どもが三ヶ月に渡って面会の申し入れをしたのを確認した後、彼女は不意にその十数人を纏めて病室に入れた。その時の都村弥子はとても落ち着いていて、薄い微笑みすら浮かべていて、とにかく大人しくてグレースな入院患者に見えた、らしい。何しろ彼女はとても演技が上手いのだ。

「君ら、私を相続したいんだろ?」

 ベッドの上で片膝を立てながら、都村弥子はそう言って笑った。挙って見舞いの言葉を口にしていた見舞い客達が押し黙る。あけすけな言い方に顔を顰める者も居た。けれど、都村弥子はわかりやすい露悪さを身に纏いながら、冷静に続ける。
「構わないよ。誰か一人でも私に勝てたら、三億円はその人にあげようじゃないか」
 そうして彼女は一枚のチェス盤と、ごく普通のチェス駒を取り出してオーバーテーブルに置いた。
「勝てばいいんだよ。簡単な話だ。私はプロってわけでもないし、チェスには完全解も無い。勝負はそれなりにフェアだと思うよ。ただし、負けたらここの窓から飛び降りてくれるかな。私が賭ける三億円っていうのはそういうものだ。この私の身体を手に入れようっていうんだ。外野に高いとは言わせない」
 その時点で半分は脱落したが、半分は残った。残った半分はどうにかその提案を冗談にしようと薄ら笑いを浮かべて貢献した。都村弥子はその中にあってもただただ挑戦を待ち、ややあって三十代半ばの男がチェス勝負に志願した。
 結果は都村弥子の勝ちだった。当然だ。彼女はチェスが好きなのだし、それなりにやってきた。棋譜だって沢山知っている。何より、彼女は切実だった。
 その時点でトラブルは始まっていたのだ。都村弥子は王を取ると同時にさっさと取り立てに入った。飛び降りを命じる声を無視した男に、彼女は猛然と掴みかかった。
「負けたけど死にたくない? じゃあ目でも抉ってくれる? あのさ、こっちは冗談のつもりで言ってるんじゃないんだよ。何しろ私は死ぬんだからな。どうせそっちは生き残るんだ。なら、片目くらい構わないだろ? あの世で視力が役に立つのか知らないんだし」
 当然ながら、本気で片目を抉ろうとした都村弥子はあっさりと取り押さえられた。恐慌状態の病室に医者も看護師も集まってきて、錯乱状態にある都村弥子を引きずっていく。身動きが出来なくなってもなお、都村弥子は燃え立つ目のまま叫び続けた。
「厚顔無恥な奴らだな! お前らに三億円の価値があるかよ! 金塊病にでも罹らなかったら人間なんて一円にもならない! お前らの命なんか塵に等しいっていい加減に分かれよ! さっさと死ね! ゴミども!」
 都村弥子には三億円の価値があるし、医学への貢献を考えればそれ以上の価値がある。けれど、人の目を抉ろうとするような人間は、その病院には居られない。そういうわけで、都村弥子は昴台サナトリウムに流されることになったのである。

 一連の流れを聞いた一籠晴充もまた、なるほどな、と思った。
 確かに都村弥子のやったことは褒められた行為じゃないかもしれないが、それでも一貫性があるのは気持ちが良い。周りの無神経さに対する直接的な暴力というのは、表立って言えないけれど爽快感がある。遠い国の英雄譚を聞くような気持ちで、晴充は都村弥子について知った。
 そこでようやく、晴充は父親がわざわざこの話をした理由を察する。
「まさか、昴台に来るの? その都村さん」
「そのまさかだ。本当は転院自体断固拒否していたんだけどな? 何と、都村さんの方から昴台サナトリウムなら転院するって言い出したんだよ」
「また何でこんなド田舎に」
「自然が好きなのかもな」
「サナトリウムの為に割とゴリゴリに開発してんのに? ほら、サナトリウム裏のわけわかんねー用水路とか、動く歩道敷こうとした跡とか、あれの所為で何か獣の数が減ったとかどうとか小暮さん怒ってたじゃん」
「コンクリートって敷く時は一瞬だからなぁ」
 一籠徳光は大仰に眉を顰めると、小さく溜息を吐いた。彼の開発計画の中には成功したものもあれば失敗して放置されたものもある。いわば一籠徳光の行いは死に体の患者に無理矢理救命装置を繋いだようなもので、やっている最中は何が幸いなのかも分かっていなかった。それでも、彼の強引な開発とサナトリウム誘致が無ければ、昴台はとっくに無くなっていただろうし、大局的に見て多くを救った父親のことを、晴充は素直に尊敬していた。多少環境が荒れて、歪なことになったとしても、生まれ故郷である昴台を救ってくれて嬉しい。
「で、何で俺にその話を?」
「いや、だからだよ。その都村さんが来るだろ」
「うん」
「提案なんだが、お前、都村さんの話し相手になってやらないか?」
「俺が?」
「だって、こんな田舎に来るんだぞ。天涯孤独の女の子が。可哀想だろ? 心細いだろうし。だから、まあお前なら歳も……まあ変わらんだろ。会いに行ってやったらいいんじゃないか?」
「なるほど」
 その時、晴充は自分の父親が心底恵まれた人間なのだと知った。
 一籠徳光は家庭環境が良く、性格が良く、行動力があり、何より金があった。彼の家は長らく続く地主の家で、飢えることも無ければ追われることも無かった。小作人達と良い関係を築き、地元でも尊敬されていた。舞台を現在に移してもそれは変わらず、彼は一向に恵まれ続けた。有り余る資産を上手に使い、人生というものを謳歌してきた。
 だから、そういう発想が出てくるのだろう。
 都村弥子のバックボーンに単なる孤独を認め、それを自分の息子を使って解消させようとしている。彼女の苦しみの背景には金塊病という訳の分からない宿業があって、三億円があって、価値というものが付随しているのに。彼女と仲良くすれば、三億円が転がり込んできてしまうかもしれないのに。そのことについて全く考えが至っていないのだ。都村弥子を、田舎に一人でやってくる単なる病人だと思っている。
 何故なら、一籠徳光には金と余裕があるから。
 そして、自分の息子もそうだと知っているから。
「お前なら初対面でも話せるだろ? 俺はな、お前なら上手くやれると思うよ。なあ、頼めないか?」
 都村弥子を三億円ではなく、ただの人間として扱う父親を前に、晴充は逡巡した。父親の想定は半分当たって半分外れている。晴充だって、正直なところ自分に与えられる三億円に興味は無い。けれど、晴充は都村弥子を普通の人間とも思えなかった。
 その話を聞いた時点で、晴充は都村弥子を金の塊だと認識していた。ややあって、彼は言う。
「や、俺はそういうのあんまり向いてないよ。年上とか何話したらいいかわかんないし」
 一籠晴充は恵まれた家庭環境にあり、性格が良く、ついでに言うなら実家に結構な財産があった。目立って鬱屈したところも無く、将来に不安も覚えていない。そんな彼が都村弥子を人として扱えなかったのは、偏に一人の幼馴染み──江都日向の存在があった。


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