「出られない部屋」の殺人


 ある日、策間一利が目を覚ますと、そこは『セックスしないと出られない部屋』だった。おぞましいことに彼は、身元不明の焼死体と一緒にその部屋へと閉じ込められていたのだ。
 しかし、目覚めたばかりの彼はそんなことは露知らない。彼がパニックに陥るのはもう少し後の話だ。掛け布団の不在にむずかりつつ、意識がゆっくり覚醒していく。
「……えっ、何だここ……」
 いつも暮らしている慎ましいアパートの一室とは全く違う、広々とした白い部屋の床で、策間は穏やかに目を覚ました。
 『見知らぬ天井だ』と思いながらも対応が遅れたのは、偏に彼が探偵助手という因果な仕事に就いているからである。傍若無人な探偵の手によって、どこかもわからぬ魔境に連れて行かれるのを生業にしている分、こういう不穏さには鈍感になってしまうのだ。
 ぼんやりした頭のまま、策間はとりあえず辺りを見渡した。助手の傍には探偵がいるものだ。探偵がいなかったら助手もいない。卵が無ければ鶏も無い? ともあれ、そういう関係なのだ。
 けれど、策間の雇い主である探偵は見当たらなかった。珍妙なシチュエーションの似合うお祭り野郎の癖に、知らない天井の部屋にいないなんて生意気だな、と策間は思った。そうなると、本当にここは何処だろう?
 広さは十二畳くらいだろうか。ちょっと豪華な洋室だ。いいとこの女子中学生が初めて与えられる部屋みたいな。床も壁も真っ白な所為で、天井に備え付けられた照明が過剰なほど明るい。一見して実験室みたいな印象を受ける部屋だった。そして、その素直な印象はとても正しい。
 部屋に置いてある家具は殆ど無い。ベッドと冷蔵庫、控えめに置かれたベッド脇のミニテーブル、その上に置かれたホテル仕立てのティッシュボックス! そのくらいだ。
 こうして見ると、そこは風変わりなホテルの一室のようでもあった。むしろ、普段利用するビジネスホテルなんかよりはずっと上等な部屋だ。ベッドは豪華なダブルベッドだし、敷かれたタイルカーペットは一枚一枚がふんわりと毛羽立っている。宿泊料金に換算すれば、きっとそれなりのお値段になるだろう。だからこそ、策間は一層恐ろしくなった。こんな部屋を、自分は素面では選ばない。
「どういうことだ、いやわかんない、まだわかんないって。こんなことあるはずないし、こんなこと……っていうか、仕事は、今、えっと、あの人……」
 訳の分からないことを呟きながら、策間はとりあえず強烈な存在感を放つベッドに吸い寄せられた。ギラギラとした化繊のカーテンが、威圧感のある天蓋から下りている。見るからに豪奢なそれは、見ていてちょっと面白い。
人間、不安な時はいつでもふわふわなものに惹かれるものである。その点、大容量サイズのベッドは今の不安を受け止めるのに適しているように見えた。何せ物凄く暖かそうだし。
 あと数秒遅かったら、策間はベッドにダイブして夢の続きを見ていたことだろう。そうならなかったのは、純粋に運が良かったか勘が良かったかのどちらかだ。全体重をベッドに預ける直前で、策間はシーツの上の先客に気が付いたのだった。
「あ……?」
 始めはなんだったのかよくわからなかった。波打つ白いシーツの上で、それはあまりに色の濃い物体だった。それに、人間として見るにはやけに細い。余計なものを削ぎ落した肉体、と呼べば聞こえがいいようだけど、ベッドの上のそれは、何だかずっと大切なものを失っているように見えた。黒く落ち窪んだ目。長い影のように見える肉体。
 その正体に気が付いた時、策間は絶叫しながら床に転がった。
 ベッドの上にあったのは、見紛うことなき焼死体だった。名探偵の助手をやっている彼でさえも、数回しか見たことのない死体である。酷い有様になっているというのに、その死体は恭しくベッドに寝かされているのだ。そのアンバランスさが、一層気持ち悪かった。
 震えて床を這いずりながらも、策間の絶叫は止まらなかった。見知らぬ部屋、綺麗な調度品、そして焼死体。個々の要素だけでも十分に受け入れがたいものなのに、それらが一気に策間のことを襲っている。耐えられるはずがなかった。
 それでも素直に叫ぶことで、少しだけ気分が落ち着いた。ここまでくると悪夢か猟奇事件のどちらかである。不可解な状況に物騒な要素が投げ込まれたら、それは単なる殺人事件だ。ここに自分の雇い主がいたら、冷静に部屋を分析するだろう。そう思って、もう一度部屋に目を凝らす。
 すると、わかりやすいところに更なるヒントがあった。最早ヒントとも呼べないかもしれない。殆ど明快な答えだ。壁の一面を使って、『それ』はこの部屋が何であるかを的確に示してくれていた。

『セックスしないと出られない部屋』

 優雅な明朝体で書かれたその言葉に、策間は素直に面食らった。出られない部屋、まではわかる。実際にこの部屋には出口が見当たらない。セックスの意味も一応わかる。策間だってれっきとした成人男性だ。でも、その二つが組み合わさると、もうどうしていいかわからない。セックスしないと出られない部屋。出られない部屋!
 さっきと同じくらいの声量で、策間は絶叫した。セックスしないと出られない部屋に、自分が閉じ込められている!
 正直、察しの悪い方ではない。ベッドに密室、寝かされた誰かとくれば、求められたことは分かる。ただ一つ度し難いのは、ベッドに寝かされているのがどう見ても死体であることだった。その一点が、事態を地獄に変えている。
 求められていることも、置かれている状況も理解した。けれど、それを実行出来るかと言われれば無理だと言わざるを得ない。……どんなパターンを想定しても出来ないだろう。悪夢のような状況に眩暈がした。
 どういう言葉で着飾ったとしても、怖くてたまらない。素直に怖い。泣いてもどうにもならないと理解しているのに、また涙が出てきてしまった。
 それでもどうにか落ち着けたのは、彼が探偵助手という奇特な職業に就いているからだった。彼は今までに人里離れた里の奇祭に巻き込まれたり、孤島での連続殺人に巻き込まれたり、その他諸々の人間の悪意に触れてきたのだ。少しばかり不条理な展開も、少しばかり凄惨な展開も、呑み込めない道理はない。
 無理矢理精神の安寧を計った策間は、とりあえず自分の所持品を確認することにした。RPGでは定番の行動である。とはいっても、目立つ荷物は無い。殆ど着の身着のまま連れてこられた状態なのだ。冬を越すのに頼もしい厚手のジャケットに、若干てかてかしてきた安物のスラックス。
 ジャケットの胸ポケットに入っていたのは、武器になりそうもないシャーペンとモレスキンの小洒落た手帳だけだ。そして、スラックスのポケットには、スマートフォンと携帯充電器。小銭も十六円ばかり入っている。
纏めると、策間の装備はスマートフォンとシャープペンシルと紙束だった。何かの手立てにするにはあまりにも寂しいラインナップである。探偵の助手をやるにはこれだけで十分なのだ。策間は思う。あーあ! 山岳救助隊とかやってればよかった!
 ともあれ、スマートフォンがあるのは不幸中の幸いだった。現代においての魔法の道具、今の策間の命綱だ。
 ホームボタンを押して、バッテリーを確認する。六十三もあれば十分だ。
 時刻は午前四時二分。誰かに電話するには非常識な時間だと思う。こんな時間に電話を掛ければ、十中八九、相手の平和で記号的な眠りを邪魔することになるだろう。
けれど、そんなことを構っている場合じゃない。二秒でコールボタンを押して、目当ての君が出るのを待つ。一回目は繋がらなかった。諦めない。もう一度鳴らす。午前四時のコールを無視するのは難しいはずだ。ワン切りを巧みに織り交ぜながら、再度コールを繰り返す。
 五分ほど経ってようやく、名探偵が引きずり出されてきた。
『…………あ? ……んだよ』
「つ、繋がった!」
『は? …………お前さ、』
「北崎さん!」
 藁にも縋るような声で呼びかける。まだ何も解決していないのに、聞き慣れたその声だけで安心した。閉塞したこの部屋で、外界と繋がれる奇跡! 今度何かあったら、尊敬している相手の欄に、グラハム・ベルを据えることにしよう。彼は密かにそう思う。
「北崎さっ、ちょっ北崎さん! 北崎さん助けてください!」
『ちょっと何だよ……お前今何時だと……き』
「すいません! すいません! でも今凄くヤバくて! 今世紀最大級にまずいんですよ! ここ十年で最悪と呼ばれた海吊村の奇祭事件を上回る出来のヤバさで!」
『……ボジョレーヌーボーかよ、……策間』
 寝起きだからか、北崎はいつもより数倍機嫌が悪そうで、なおかつぶっきらぼうな口調をしていた。馴染みの雇い主の知られざる一面を見てしまったようで、何だか少しだけ心許ない気分になる。午前四時は他人の時間だ。
『で、何。ショボい要件だったら切るよ』
「ショボくないんですよ! 俺、今閉じ込められてて」
『何処に?』
「それがわかれば苦労しませんよ……白くて広い……八畳くらいの普通の部屋です。ダブルベッドと小さめの冷蔵庫がありまして、他はティッシュとか……あ、テレビとか電話とかそういったものは一つもありません。でも、俺の荷物はそのまま残ってるので、こうして北崎さんに連絡が取れてるわけですが」
 しどろもどろになりながらも、策間はどうにか事情を説明する。幸い相手はこういう妙なシチュエーションに対するプロだ。要領を得ない会話でも、一応事態は掴めたらしい。ややあって、北崎が口を開く。
『妙な監禁だね。何か犯人の目的がわかればとっかかりになるかもしれないんだけど……』
 北崎の言葉を受けて、策間は思わず壁にでかでかと書かれた文字に目をやってしまった。要求ならストレートにそこにある。隠し立てすることもなく! ただ、それを淡々と読み上げるだけの勇気は無かった。保健体育で照れるような段階はとうに過ぎたけれど、そういう問題じゃない。
「北崎さん、絶対やめてくださいよ」
『えっ、いきなり何だ?』
「犯人からの要求はわかってるんですけど、それを言ったら多分北崎さん馬鹿にすると思うんで……」
『私はそんなに人でなしじゃないよ。だって、探偵だし。どんな荒唐無稽な話でも真面目くさって受け止めてあげるポテンシャルがなくちゃ探偵じゃないでしょ』
「絶対笑わないでくださいよ」
『勿論さ。このハイムリック北崎にお任せあれ!』
「ここ、セックスしないと出られない部屋なんですよ……」
 策間が囁くようにそう言った瞬間、いきなり電話が切れた。あまりに素直な緊急脱出だ。インターバルを赦さない策間は、即座にリダイヤルを敢行する。一秒、二秒……しばらく経ってようやく、北崎が電話を受けた。
『ごめん、なんか電波悪くてさ』
「嘘吐かないでください。完ッ全に電話切って向こうで笑ってたでしょう」
『笑うはずないじゃないか。助手の危機なんだから』
 そう言った北崎の声は隠しようもなく震えていたし、ついでに言うなら息も妙に荒かった。笑ってんじゃねえか。さっきまでシリアスな監禁事件であったはずの舞台が、セックスの一言で下世話なコメディになってしまったのが悲しい。連綿と続いていた生殖活動を茶化さないで欲しい。けれど、逆の立場だったら策間も爆笑していたに違いない案件なのだ。
『で? というかかなり良いシチュエーションなんじゃないか? ラッキーハプニングでしょ。吹雪の山荘と濡れた洋服って感じじゃん。それを口実に、そこにいる女の子と懇ろになることが出来るわけじゃん。やったね』
「それだったらさっさとここから出てラブストーリーに洒落込んでますよ」
『あー……別に私は相手が男でもいいと思うけどな。うん』
「そういうことでもなくて」
『動物はなー……まあ、動物可哀想だしな……』
「一つ一つ可能性を潰していくのやめてくれませんか」
 正直な話、何がしかの動物と閉じ込められていた方がマシだった。変態の方向性、性癖の向かうところが大変はっきりしているからだ。無修正のアニマル・ビデオが堪能出来るのがメリットということで片が付く。けれど今回の場合は、人間の可能性が想像の範疇を超え過ぎているのだ。
『じゃあ相手ってどんな子なの? そもそも人間? 機械とかそういうの? スライムだと雄雌わかんないよね』
 嫌なところまで知識の幅を広げてきた北崎が、無邪気に可能性を潰していく。リスクの無い間違え推理はさぞかし楽しいことだろう、だってそれ、ほぼ大喜利だし。
「いやまあ確かに、男か女かもよくわかんなくて……正直あんまり直視出来ないっていうか……」
『男でも女でもない? 急になぞなぞめいてきたな。これでヒヨコだから雌雄の判別がつきません! とかだったら怒るぞ』
「いや、本当にわからないんです。極めてシンプルな理由で」
『なんで?』
「焼死体なので……」
 策間がやっとのことで告げたその言葉を聞いて、北崎は数秒だけ黙り込んだ。稀代の有能探偵が、電話の向こうで息を呑むのがわかる。ややあって、北崎が静かに言った。
『正直なこと言っていい?』
「嫌です!」
『不謹慎だけどめっちゃ面白い』
「嫌だって言ったのに!」
 笑っちゃいけない場面こそ笑っちゃう心理ってあるよねー、と言いながら、北崎がげらげら笑う。蚊帳の外にいるのは楽しい。ホラー映画なんて観客でいるからこそ観られるものなのだ。
「いいから早く脱出方法を考えてくださいよ!」
『脱出方法も何も、セックスしないと出られないんだろうさ。看板に偽り無し、セックスだけが唯一策間を救ってくれるんだろう。だとすれば、君の陥っている地獄に垂らされた唯一の蜘蛛の糸がそれなのかもしれない』
「この蜘蛛の糸炎上してるんですけど!」
『かといって、額面通りに受け取るのも馬鹿らしい』
「どういうことですか?」
『つまり、これは犯人との知恵比べなんだよ。いかにしてその部屋で、『セックス』を偽装出来るか? のゲームだ』
 朗々と告げる北崎の声は聞き慣れたものだった。事件現場で好き放題断罪をしてみせる時の声だ。
『無理難題なのは相手方も重々承知しているだろう。だからこそ、君は正攻法でない部屋の攻略を求められてるに違いない。君が何をするか、それを見たいんだろうね。彼らは』
「……それを見たい……」
 そう考えると、これはある種の思考実験のようなものなのかもしれない。絶対に不可能な条件、不可能な部屋の開錠で、果たしてどんな頓智をひねり出せるのか。それはもしかすると、その時点で既に、ある種のエンターテインメントなのかもしれない。
「本当にそうですか?」
『まあ、単に焼死体とのセックスが見たい感じの性癖なのかもしれないけど……』
「ちょっと!」
『大丈夫、だって君は有能探偵ハイムリック北崎の助手じゃないか』
 正直、それはキラーワードだった。それを言われると、なんだかこの場を上手く切り抜けることが出来るような気分になって、ついでに涙腺が緩む。
「北崎さん……」
 泣いたってどうにもならないことはわかっている。それでも、策間は泣きそうになった。結構甘やかされて育った彼は、タオルケットに包まれたり、母親に背中を撫でてもらうのが好きだったのだ。
 この部屋にはどちらも無い。柔らかタオルケットどころか、ベッドすら死体に占拠されている。
『今の私じゃ君を助けてあげることは出来ない。何せ私はそこにいないんだからね。私の安楽椅子はその部屋の外だ。君が君を救うしかないんだよ。君が探偵になるんだ。探偵は多くの責任を伴うものだが、今回は自分で自分の責任を取るだけでいいんだ。ある意味とても気楽じゃないか』
「は? 気楽なわけないじゃないですか」
『いやうん、それは確かにごめん』
 天下のハイムリック北崎の方も、かなりペースを乱されているようだった。傍若無人の名探偵の癖に、割と殊勝な態度でいる。
「でも、北崎さんに期待した俺が馬鹿でした」
『ちょっと、いきなり酷いじゃないか』
「だって、仮に北崎さんがここにいても正直何の役にも立たなくないですか」
『えー』
「だってほら、正直ハイムリック北崎でどうにかなるもんじゃないですよ。ここはマジでセックスが全てのルール、セックスこそ至上の世界なんですよ。それとも何ですか。北崎さんがここにいたら、名探偵ライクな脱法セックスでこの場を切り抜けてくれるんですか? すげえー! やっぱり名探偵ってすげえや!」
『私に八つ当たりするのはやめてくれないかな』
 その時、ふわあと電話の向こうで北崎が欠伸をする声が聞こえた。まだ時間は明け方である。こんな時間に起きるのは相当な早起きさんだろう。
『もう一旦寝れば? 私も眠いし』
「嫌ですよ! 何で死体のある部屋で寝なくちゃいけないんですか!」
『地球上どこでも人くらい死んでるよ。私の通ってた大学とかタワーから飛び降り自殺したやつとかヒグマに食い殺されたやつとかいたもん。人間は死体の山の中で生きてるんだよ』
「北崎さん平然と嘘吐くから嫌なんですよ! それ本当ですか!? この前『新宿駅の地下には非常用の潜水艦があるんだよ』って言ってましたけど本当ですか?」
『新宿駅はやりすぎコージーかなんかで見た』
「マジで寝かしませんからね! ここから俺が出られる日まで! 絶対に!」
『……マジかよー……じゃあ、部屋の様子とか、なんかわかんないの? 扉とか本当に無い?』
「無いです。あるのは冷蔵庫とベッドと……焼死体くらいで」
『そうだった、冷蔵庫あるんだっけ。ちょっと中身漁ってみなよ。そこの備蓄次第で策間の寿命も変わってくるでしょ』
「そういう言い方本当にやめてくださいよ」
 怠そうな声で告げられた指示に、素直に従う。思えば、冷蔵庫が置いてあるのに中身を確認していなかった。
 冷蔵庫に入っているのは、ご丁寧にラベルの剥がされた五百ミリリットルのミネラルウォーターが四本だけだった。水分補給を大切にしよう、という監禁場所らしからぬ気遣いが見える。
「冷蔵庫に入ってるのは水だけですね……五百ミリが四本。食べ物は入ってないみたいです」
『不親切だね』
「全くです」
『それじゃあ、今度は焼死体の方を見てみようか』
「……はい」
 本当に淡々と、北崎がそう言った。この部屋にある家具は冷蔵庫とベッドのみ。そして、この部屋に居るのは策間と焼死体のみなのだ。気が進まないものの、策間はベッドに向かう。
 描写の詳細は省く。何故なら、観測者であるはずの策間が、もう既にちょっと耐えられなくなってしまっているからだった。匿名性が強い死体を見ていると、段々そこにいるのが自分ではないのか、という嫌な妄想に憑りつかれそうになる。アイデンティティーをすっかり焼かれたその死体は、本当は自分なんじゃないかと思いそうになる。本当の意味で気が狂いそうだった。
 まがりなりにも探偵助手だ。死体なら一般人よりも多く見てきたはずだ。けれど、今最も間近で見ているこの死体は、記憶の中のそれらとはまるで違っている。焼け焦げた皮膚。物言わぬ肉体。それがベッドの上に丁寧に寝かされている。
 死んでしまっているが故に全く推し量れないが、目の前の死体はどんな気持ちでいるのだろか。最後に見たのは何だったのだろう?
 ここから出られたら、もう少しまともに事件に向き合うのもいいかもしれない。北崎さんだけに任せずに、自分でもちゃんと観察力を磨くのだ。策間は現実逃避気味にそう思った。目を閉じて静かに冥福を祈りつつ、策間は死体に背を向けた。
「何の変哲もありませんよ。普通の死体です。……普通のって言うのもアレですけど」
『ふうん。他に何か気になるものはある?』
「さっきも言った通り、ベッド脇にティッシュがあります。ちなみに観葉植物は無いですね」
『そんなものか……』
 北崎が一瞬だけ押し黙った。そして、ややあって口を開く。
『まあ残念ながら策間はこのままだと死亡する可能性が高いね』
「でしょうね」
 一聴すれば冷たく聞こえる言葉だったけれど、その態度にむしろ安心した。下手な慰めよりも、そういった言葉の方が信頼出来る。
『かといって、下手な行動でその部屋の監督者の不況を買えば、それはそれで殺されるかもしれないね。毒ガスでも流されて一巻の終わりかもしれないし、もしくは何らかの方法でベッドの上の死体と同じ目に遭うかもしれない』
「……嫌な話をするじゃありませんか」
『でも、そんな馬鹿げた部屋でまんまと餓死するくらいなら、しっちゃかめっちゃかにしてやりたくないか?』
 電話の向こうで北崎が呟く。小さく響く笑い声が憎い。面白がっているからこそ、むしろ真剣な声だった。明け方に味わう助手のピンチは愉快だろう。そうじゃないと起きてなんかいられない。有能探偵は忙しいのだ。
「……しっちゃかめっちゃかにしてやりたいっていうのは……ま、それは確かにそうですね」
『私は常々、どうしようもない理不尽が嫌いなんだ。その部屋は殆ど理不尽のメタファーだね。だったら、全部ぶち壊してやろうじゃないか』
 北崎が最後に言ったその言葉だけは、なんだかとても熱っぽかった。果たしてどんなことを念頭に置いているのだろうか。置かれている状況より、何故かそちらの方が気にかかる。
『さて、いくつかまだ聞きたいことがある。その部屋には扉は本当に無いんだね?』
「いやもうさっぱり無いです」
『……まあ、策間なら見落としたりしないだろうな。それじゃあ床はどうだ?』
「床ですか? 別に……普通のタイルカーペットですけど」
『タイルカーペット? へえ、冷たい床じゃなくてよかったね』
「全くです。目が覚めたら床の上だったんですから、カーペット無しでなんか我慢出来ませんよ」
『なかなかしっかりしているね』
「どっこがですか。監獄の方がまだマシですよ」
『タイルカーペットのタイルの大きさは?』
 どうしてそんなことが気になるんだろうか? これじゃあまるで、ホテルの視察のようにすら見える。もしや、このユニークな拷問部屋に興味がお有りで? と思うと暗澹たる気持ちになった。しかし、北崎は笑うことなく、真面目に策間の答えを待っている。溜息を吐きながら、策間はカーペットの一枚の大きさを計った。巻き尺なんてあるはずもないから、身体を使っての原始的な測量である。
「計りました。一枚の……縦辺が大体俺の身長よりやや小さいくらい、横辺がその半分くらいです」
『長方形なんだ。それに結構大きい』
「そうですね。ちなみにそんなに手触りは良くないです」
『そう。じゃあ次だけど、ベッドは何枚のタイルカーペットの上に載っている?』
「え、またベッドに近寄んなきゃいけないんですか」
『いいから』
 有無を言わさない口調だった。渋々ベッドに戻って、下を覗く。斧男すらいない空っぽの空間には、タイルカーペットが四枚並んでいた。
「四枚です」
『よし、最後の確認だけど、ベッドの脚は各タイルの中央にある?』
「いよいよ何なんですか」
『最後なんだからいいでしょ。どっかに寄ったりしてないんじゃない?』
 北崎の言う通りだった。ベッドの脚は綺麗に中央を踏んでいる。元々整然とした部屋ではあるけれど、ここまで綺麗に並んでいると少し気持ちが悪い。壁にくっつけての配置の方がまだ人間味を感じるだろう。奇妙に距離を取ったその采配は、どこか偏執的で恐ろしかった。
『まあそんなところかな。大体わかったよ。それじゃあ、脱出しようか』
 一体何がわかったというのだろう。けれど、北崎のその言葉で安心したのも確かだった。策間は小さく頷く。何しろ彼は稀代の有能探偵の助手である。完全解決がよく似合う。
『その部屋にコンセントはある?』
「あります。二口」
『それならまず、携帯のバッテリーを充電するといい。今の君にとっては私との電話がライフラインだろう? それを失うのは避けたい。なるべくギリギリまで充電しておくんだ』
 ギリギリって何のギリギリなんだろうか? と思いながらとりあえず言う通りに電源を取る。幸い、コンセントは使われた形跡すらなさそうな綺麗なものだった。携帯バッテリーを差し込めば、問題なく充電が出来た。
 こうしたビジネスホテル染みた設備には、どうにも熱が籠っていない。それが実のところ酷く不気味だった。虫やモルモットを入れる籠のようですらある。セックスなんて書くとちょっとポップに感じるけれど、先方の要求は結局のところ観察だ。
 もしかすると、この部屋を作ったのは他の星から来た宇宙人で、これはちょっと変わったサイエンスフィクションなのかもしれない。そう思った方が納得のいく展開だった。宇宙人は焼けてる人間と焼けてない人間の差がよくわからないのだろう。ミディアムとウェルダンの肉を食べわけられない人間と同じだ。そして、そんな人間は沢山いる。
『策間? 私の言う通りにしたか?』
「あ、いや、なんか……すいません。ちょっとステーキについて思いを馳せてて……」
『えっ、焼死体見ての連想としては割と最悪だな。どれだけ食い意地張ってるんだよ』
 電話の向こうの北崎がわかりやすく引いていたが、訂正するのも面倒なのでそのままにしておくことにした。
『よし、視覚から行こう』
「了解しました、やっていきましょう」
 そう言いながら、策間は手の中のペットボトルを思いきり天井の照明に向かって投げつけた。ガシャン! とあまり嬉しくない音がして、部屋が暗闇に包まれる。
 この部屋には照明のスイッチが無かった。「電気……消して……」の慎ましいお願いを撥ね退ける、ハードな虫籠である。真っ暗になったら出歯亀の妨げになるという、至って合理的な配慮だろう。
 だから、この部屋の照明をオフにするにはそのものを破壊するしかないのだ。果たして天井に光っていたあれが蛍光灯なのか、LEDだったのかはわからないが、割れてくれてよかった。これで、部屋は暗闇に包まれた。非常灯のようなものは無いらしく、数秒待っても部屋の明かりは復旧しない。
 辛うじて部屋を照らすのは策間の持っているスマートフォンだけだった。あまりにも頼りない光だ。これなら本来の目的なんか果たせやしないだろう。策間はこの部屋に閉じ込められてから、初めて達成感を覚えた。この理不尽に一矢報いてやった気分!
「やった! やりましたよ北崎さん!」
『やった! やったな! これで一矢報いたぞ!』
 そう言って、二人は束の間の勝利に酔った。無事にペットボトルが命中した時の爽快感といったら筆舌に尽くし難いものがあった。もしこれが野球小説であったなら、あそこがハイライトだろう。
 だが、これは野球小説ではなかった。むしろジャンルとしてはシュールレアリスムに近い。結構えげつないタイプの現実である。奇跡の一投で何もかもが解決するわけじゃないことを、二人は数分後にようやく理解したのだった。
『……策間、何か変化あった?』
「…………無いですね。本気で無いです。何も無い。明かりも無い」
『視覚につながるものを破壊したのに、監禁は終わらないみたいだね。意地でも君のセックスを望んでいるらしい』
「ちょっと! この状況で暗いとか最悪の極みなんですけど! 誰だよ『暗くなったら出してもらえるさ。だって暗かったらセックス見れないじゃん』って言ったの!」
『そう思ったんだけどね。もしくは、セックスの判定はもしかすると視覚で行っていないのかもしれない』
「死ね! 無能!」
『失礼な。私は有能探偵ハイムリック北崎だよ』
 それからしばらく策間は北崎を罵っていたけれど、無慈悲に電話を切られてからはやけに大人しくリダイヤルを押し続けた。暗闇の中で放り出される恐怖といったら無い。もしかすると、この為に北崎は照明を破壊したのでは? と疑ってしまう程だった。
『反省したかい』
「しました」
『それじゃあ続けようか』
 十数回のコールの後にようやく出た北崎は、しれっとそう言った。
『……視覚でセックスを判定していないんだとしたら……あとは聴覚とかだろうね。眼が駄目なら聴覚。簡単な推理だ』
「それ推理ですか?」
『消去法は立派な推理だよ。それじゃあ策間、視覚は封じた。となると打てる一手がある』
「嫌ですよ!」
『ちょっとこう、それっぽい声で、セ』
「嫌だっつったのに!」
 その後の展開については語るべくもない。見知らぬ観客の聴覚に訴えかける為に、策間は渾身の演技力を振り絞った。最大の失態は、その間も電話を繋いでしまっていた点だろう。……どれくらい独演会を続けただろうか。電話口に戻った策間は、重苦しい沈黙に迎えられた。
『ベッド揺らそう。振動センサーなのかもしれない』
「さっきやらせたことに対するフォローは無いのかよハイムリック!」
『それは私が悪かったけど……いや、ごめん。私が悪かったよ……』
 うって変わって小さな声で北崎が言う。けれど、ここで北崎を責めても仕方がなかった。やけくそになりながら、策間は躊躇わず天蓋付きのベッドを揺らす。ヒステリックに鳴るベッドに合わせて、暗闇の中の死体も揺れていることだろう。というか、わざわざ喘がなくてもこの音で良かっただろ! と、策間は今更思った。
「なんっも起きないですけど! 暗闇の中でベッド揺すっただけじゃん!!!」
『さっきのに比べたら全然マシだな。最悪を味わった人間は強い』
「ていうか、監視者がこの会話を聞いてたんだとしたら……そもそも俺たちの浅知恵を看破してるってことじゃないですか。……そんなところでセックスを偽装するなんて無理でしょう、無理です」
『……それもそうなのかもしれないな』
 北崎は静かにそう言うと、少しの間押し黙った。
『それじゃあさくっと最後の手段かな』
「そんな本命があるなら、それこそ最初に教えてくれたらよかったじゃないですか」
『最後に言わなきゃ最後の手段じゃないって。それに――』
「それに?」
『……まあいいや。それじゃ策間、さっきのコンセントのところに戻ってくれる? ティッシュ箱も持って』
 釈然としない気持ちのまま、策間はその通りにした。ティッシュは策間も知っている有名な銘柄のものだった。尤も、柔らかい紙質を謳っているその商品を買ったことはない。このティッシュは、確かそこそこ高いのだ。指先で少しだけ触ってみる。しっとりとしていて、確かに柔らかい。肌に良さそうだ。
『コンセントの前まで行ったら、充電器の具合だけ確かめてくれる? 溜まった? 溜まってなかったら溜まるまで待ってくれ』
「いや、携帯充電器の充電は……意外と、溜まってますね」
『よかった。これが私と君を繋ぐ唯一のものだから』
 念を押すように言う北崎の声に合わせて、策間はなるべく丁寧に充電器を抜いた。生暖かい充電器は、暗闇の中でなんだかとても安心する。
「そもそも何で充電させたんですか? 何かこれからスマートフォンを沢山使う予定でも?」
『いや、これからコンセントが使えなくなるからね。その前に充電しておいた方が安心だろ?』
「は?」
 聞き捨てならない言葉だった。折角相手方の恩情で設置してもらっているコンセントなのに、これが使えなくなるって一体どういうことだろう? 策間の疑問を無視しながら、北崎は淡々と指示を続けた。
『予めティッシュを五、六枚くらい重ねておいて。多分お高めのティッシュの方がいいんだけど』
「その点は大丈夫そうです。俺が一度も買ったことのないようなお高めなものですから」
 そう言って策間が銘柄を伝えると、北崎は満足そうに『事務所で使っているものと同じだから、問題ないだろうと思うよ』と言った。なかなかに殺意の沸く発言だったが、今は噛みついていられない。言う通りにする。
「……出来ましたよ。本当にやらかいですね、これ。平べったいハムスターを手に載せてるみたい」
『それじゃあ、確かポケットにシャーペンあるって言ってただろ? それに紙も』
「探偵助手の七つの神器の手帳ですけど」
『死んだら七つ道具も何も無いからね。それじゃあ、なるべく慎重に、シャーペンの芯をコンセントに差し込んでくれるかい。一穴に一本、平行にね』
「そんなことして大丈夫なんですか?」
『大丈夫なわけがないだろ。だから今しかやらないでくれよ。事務所で小火でも起こされたら、それこそ君を解雇しなくちゃいけなくなる』
 電話口の向こうで北崎が笑う。火だけは苦手なんだ、貴重な紙の資料が沢山あるものだから、と他人事のように言うその言葉が憎らしい。でも言う通りにするしかなかった。メモ用のシャーペンからシャー芯を取り出すと、言われた通りにした。小火、というワードに不吉なものを感じたけれど、見たところまだ変化は無い。
「変化無いですけど」
『ここからだよ。その二本のシャー芯に橋を架けるように、シャー芯を配置するんだ。その時、さっきのティッシュを手に巻いておいてくれ』
「日曜の工作みたいですね」
『こんな危ない工作があって堪るか? 苦情が来るぞ』
 どういう意味か聞くより早く結果が出た。橋を渡した瞬間、派手な音がして火花が舞う。断続的に散る火花は暗闇の中でよく目立った。勢いよく弾けるそれが容赦なく策間を襲い、うっかりスマートフォンを落としてしまう。
「あっつ! 何だよこれ!」
『いいから早くティッシュに火を移してくれるかな? 原始人だってやったことだ。君にも出来る』
 床に転がったスマートフォンから、北崎の冷静な声がする。
「はあ?」
『というか君、スマートフォン落としただろ。通話中の相手が端末を落とすとなかなか耳に響くんだな。さ、早くやらないとコンセントの方が焦げ付くぞ』
 床から聞こえる声に導かれながら、策間は散る火花へとティッシュを近づけていく。原始人でも出来るという煽りは正しかったようで、火花はいとも容易く火種になって辺りを照らした。自分から暗くした部屋に松明を用意してやる道理は無い。だからこれは、別の目的に使うものだろう。……多分、もっと頭の悪い目的に。
「出来ましたよ、北崎さん。こうしてみるとやっぱり炎って綺麗ですね」
『そうか。それじゃあそれを紙に移して、なんでもいいから部屋に火を点けるんだ』
「……北崎さんって炎が全部を解決してくれると思っているタイプですか?」
『本当は連続殺人が起きた館にだって火を点けたいよ、私は』
 物騒な発言だった。名探偵にあるまじき発言だ。本質的に彼は名探偵なんか嫌いなんじゃないかと思うような発言!
「君が煙草を吸う人間だったらもう少し話は簡単だったんだけどね」
「……これから吸いましょうか?」
『困るな。事務所は禁煙なんだ。吸い始めるなら引退してからにしてくれ』
「生憎もう就活はごめんなんです。意地でもやめません」
 正直な話、火を点けられそうなものなんて一つしかなかった。象徴的に寝かされているそれが、この結末への布石だったとは思いたくはない。彼は一応探偵助手なのだからもう少し相応しい結末があるはずだ。
「……マジでやるんですよね? 出入口、本当に無いんですよ?」
『火種自体そんなに長く保たないだろうから、一気にやるんだ。大丈夫。そこまで怖くないよ』
 そんなことはない。洗脳染みたその言葉と、今の異常な状況が感覚を麻痺させているだけで、本当は言葉にならないくらい恐ろしかった。
『相手は君を殺したいわけじゃないんだ。だから、みすみす死ぬような目には遭わせたりしないよ』
「そうですか? 面倒だから死んでもらうってあると思いますよ」
『そんじょそこらの人間ならそうだろうさ。でも、君はハイムリック北崎の助手じゃないか』
 低い笑い声と共に告げられたその言葉に合わせて、策間は自分でも驚くくらい簡単に、ベッドへと火を点けた。
 火が安っぽいカーテンに燃え移り、嫌な煙が出る。照明の無い部屋で、天蓋を焼く炎はやたら目立った。安物の化繊はよく燃える。ラブホテルらしい仕様だな、と思ってから訂正する。ここはそんなに牧歌的な場所じゃない。
「なんか、予想以上に燃えてるんですけど、本当にこれ大丈夫ですか?」
『さあね。あと君に出来ることは、なるべく身を低くすることだね』
「え? 逆でしょう。煙は下に溜まるんですよ!」
『良いから言う通りにするんだ』
 火事場の常識を無視する指示に従うと、予想よりもずっと酷い息苦しさに襲われた。
 もしかして、ベッドに寝かされていた焼死体はこういう馬鹿騒ぎを起こした人間の末路なんじゃないのか? 恐ろしいことに、火を点けるまで思い至らなかった可能性だった。火と焼死体なんて、これ以上にわかりやすい連想ゲームなんて無いのに!
 煙に捲かれながら、策間は更に小さく身を屈めた。他ならぬハイムリック北崎の指示だし、何よりストレスに一番耐え得る姿勢だから仕方がない。何だかんだで策間の精神は限界に近かった。炎に負けず劣らず熱いスマートフォンに向かって、どうにか叫ぶ。
「これで死んだらマジで化けて出ますからね!」
『生憎、幽霊なんか存在しないよ。出た試しがない』
 やけに冷ややかな北崎の声が響く。その時だった。
 文字通り天地がひっくり返った。重力に従って身体が落下していく。暗闇から蹴り出されたかのように、眩しい光が目を焼いた。
 咄嗟に受け身を取れたのは、彼が優秀な助手だからだ。スマートフォンから手を離さずにいられたのは、よすががそれしかないからだ。衝撃に息を詰まらせながらも、どうにか態勢を整える。
 さっきまで自分の身を苛んでいた炎も煙もどこにも無い。嘘みたいに静かな部屋だ。
『策間? 聞こえるか?』
「……き、聞こえますけど……」
『出られたか?』
 『出られた』という単語と今の状況が結びつかなくて、すぐには答えられなかった。確かに移動はしたけれど、それが『出られた』に該当するのかがわからない。けれど、少なくとも眼前の脅威からは逃れられたようだった。
「……移動はしました、けど」
『そうだろう。私の予想通りだ』
「予想通り? 何が予想通りですか!」
『セックスしなくちゃ出られない部屋なんだから、出口くらいはあるはずだろう。ルール違反になる。それに、あの部屋のルールは『セックスしないと出られない』だけだったんだろ? 君が何をしようと生命の保証くらいはしてもらわないと』
「そんなの相手の匙加減次第じゃないですか! 本当に出入り口が無い部屋だったのかもしれないですよ! そうしたらマジで俺焼け死んでましたからね!」
『いや、出入り口はある。それは確信があった』
「なんでっすか!」
『馬鹿も程々にしなよ。そもそも出入り口が無いなら、策間のことをどうやって部屋に入れたの』
「…………いや、それは」
 確かにその通りではあった。入口があれば出口がある。出口があるならば入口もある? 完全なる密室は存在しないというのは、常々ハイムリック北崎が話していたことだ。確かにそうなんだろうけれど。ねえ。
『それじゃあ私が眠くなるまでと、君が落ち着くまでの間、少しだけお話をしてあげよう』
「何寝ようとしてるんですか。やめてくださいよ」
 策間の制止もむなしく、北崎はゆっくりと語り出した。
『タイルカーペットっていうのは、一枚一枚が剥がせるようになっているから、汚れてもそこだけを剥がして取り換えることが出来るんだよ。それが利点なのに、そのタイルカーペットは一枚一枚が大きすぎる。それじゃあ普通のカーペットと変わらないじゃないか。そこが第一の違和感かな』
 北崎の言う通り、さっきの部屋に敷かれていたタイルカーペットはある意味非効率的だった。小回りが利いて取り換えるのが容易いのが利点なら、策間の身長ほどもあるカーペットはなんとなくちぐはぐだ。
『だとすれば、そのタイルカーペットは何かを隠したくて設置されていたものだと考えられる』
「何か?」
『床にあっただろう継ぎ目だよ。さっき君がいた部屋は、床が開くようになっていたんだ。そこが出入り口だったのさ』
「床が……床⁉」
『だから、普通のカーペットを敷くわけにはいかなかった。開閉の邪魔になるからね。かといって剥き出しのままにしておけば、そこが出入り口だと気づかれてしまう。そこでタイルカーペットだ。タイルカーペットは元より継ぎ目があるんだから、その下にあるものに気づきにくいだろう?』
 策間が『落下した』理由も、それで説明がついた。暗闇の所為でわからなかったけれど、あの時、煙に塗れた部屋の中で、あの床は確かに開いたのだ。そして、煙に捲かれた策間をこの部屋に移動させたのだろう。多少荒っぽい移動法だけれど、策間がやったことを考えればお相子だろう。
「それで床が開くって気づいたんですか?」
『そうだね。ダメ押しはベッドの位置だけれど』
「ベッドの脚がタイルのどこにあるかって話ですか?」
『正解だ。流石、この有能探偵の助手なだけはある。普通ならベッドは壁際に置かれるべきだろう? それなのに、ベッドは壁からやや間隔の空いたところに置かれていた。それは、あの部屋独特の搬入方法をされたからだ』
 北崎はそこで一旦言葉を切った。ややあって、続ける。
『恐らく、さっきまでいた部屋の家具も、上階の床を開けて下の階の部屋にクレーンか何かで搬入したんだろう。出入口が天井であるならば、壁に沿って置くのは逆に難しい。ベッドは吊り下げながら下の階に移動されたんだろうし、だったら開いたタイルの中心点に置いた方が楽だろう』
 その言葉を聞きながら、策間はクレーンか何かによって吊り下げられたベッドと、それに合わせて揺れる焼死体を想像した。確かに、そうやって搬入されたのなら、ベッドが壁に沿っていないのも頷ける。振り子のように揺れる焼死体は絵面的に最悪ではあるけれど!
「だから北崎さんはベッドの脚を気にしてたんですね……」
『まあ、扉が壁に無いなら、どうしたって出入り口は上下になると思ってたし、タイルカーペットって聞いた時点で〝開く〟のかな? とは思ってたけど。だから、脱出口が無くて策間がみすみす焼け死ぬなんてことは無いと思ってたんだ』
「正直、ちょっと北崎さんのこと見直しました。何だかんだ言って北崎さんは有能なんですよね……まさか本当に脱出出来るとは……」
『今更だな。私の活躍を間近で見ておいて』
「だって、一時はどうなることかと――」
 そこまで言って、策間はふと寒気を覚えた。確かに脱出はした。あの忌々しい部屋からは解放された。ハイムリック北崎の目論見通り、一応脱出は果たしたことになるだろう。
 けれど、それならここはどこだ?
 この悪趣味な部屋が落とし穴式で続いているのなら、この部屋はさっきの場所より下の地獄なのでは? フォトジェニックなパフェのように、連なる部屋は塔のように成っているのでは? 策間が行くべきは下じゃなくて上なんじゃないか? 蜘蛛の糸の寓話! そこで、殊更最悪な疑問が頭を過った。そもそも、上に行けば外に出られるなんて保証は?
『策間? ところで、下の部屋はどうなっているんだ? 策間?』
 北崎の声を流し聞きながら、策間はゆっくりと部屋の中を見渡した。床にはタイルカーペット、……ホテルのようなふわふわベッド。けれど、その上には誰も寝かされていなかった。当然、焼死体も無い。さっきよりマシだけれど、これじゃあ何も変わっていない。脳を直接揺さぶられたような衝撃が策間を襲う。これは何だ? これは、どういうことだ?
『策間、とりあえず返事だけでもしてくれ。どうなったんだ?』
 熱くなったスマートフォンから、少しだけ焦ったような声がした。震える声のまま、策間はそれに応じる。
「……北崎さん、これ、さっきとは、違う部屋で、」
『ああ、そうだろうな。それで? 違いは?』
「……誰も、何もいないんです。さっきと似たような部屋なのに」
『それなら、そこはさっきの部屋とは違うタイプの部屋なんじゃないか? 出口は?』
「……扉は見当たらないです。ていうか、普通に喉が渇いて……冷蔵庫は……」
 そう言いながら、策間はふらふらと部屋の隅の冷蔵庫に手を伸ばした。もし策間が正常な状態だったら、その冷蔵庫がさっきより一回りも二回りも大きいことに気が付いたかもしれない。けれど、そんな余裕は無かった。耳に当てたスマートフォンも、転がり落ちた時に火照った身体も、何もかも熱い。冷ましてくれる何かを求めて、彼は躊躇いなく取っ手を引いた。
 内容物は殆ど変わらなかった。五百ミリリットルのペットボトルが四本。さっきよりも大きな冷蔵庫だというのに、水の総量は変わっていない。融通が利かないラインナップ! 相変わらず食べ物は見当たらない。その代わりと言わんばかりに、一つだけさっきと違ったものが入っている。
 冷蔵庫の中では、冷えた女の生首が策間を見つめていた。
「えっ……」
『策間、どうした?』
 北崎が呑気に尋ねてくる。喉の渇きと北崎の声が徐々に遠くなる。策間は救いを求めるように壁を見た。そこに書かれていることを、まるで前世から知っていたような気分だ。おかえり、お早いお戻りで!
 そこには『セックスしないと出られない部屋』の文字が、さっきよりも派手なゴシック体で記されていた。

(了)


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