親友が惚れ薬を飲んで三年が経った
親友が惚れ薬を飲んで三年が経った。明日は月に一度の面会日である。
親友であった頃は週二で飲んで週一でネトゲをやっていたので、空尾と俺は少し疎遠になった。不思議なものだ。
月に一度の面会日の上限は十二時間で、朝九時に集まったら夜九時には解散しなければならない。そこまで厳密に決めなくても、と思ってはいるが、自分から改定を言い出す気にはなれない。何しろ、惚れ薬を飲んだのは俺ではなく空尾の方だ。
自分は期待をさせていい側ではない。
朝九時。待ち合わせは俺の家の最寄り駅。洒落たところには行かない。以前のようにふらっと集まって、どこかに行って飯を食べて、酒も飲んで、適当に解散する。半ば儀礼のような行為を、俺はタスクのようにこなしている。
尤も、空尾にとってはこんなものでも立派なデートにカウントされるのだろうが。
それを裏付けるように、俺を見つけた空尾はパッと嬉しそうな顔をする。そして、思い直したように気まずそうな無表情を浮かべる。俺と空尾がただの親友であった時は見られなかった表情だ。
俺は空尾の元カノのことを知っている。空尾は彼女にベタ惚れで、その子に振られるまでは彼女と結婚するつもりだった。恐らく、彼女は空尾のこんな顔を見ていたんだろうなあ、と思うと、俺はするべきじゃない伏線回収をしてしまったような気分になる。
あくまで親友としての笑みを浮かべて、空尾が言った。
「洋二、久しぶり」
「久しぶりったって一ヶ月ぶりだろ。しかもいつも同じ」
「まあ、そうなんだけど……」
空尾は髪を切って、秋に相応しい柔らかそうな素材のシャツを着ていた。きっとそれは下ろしたてだ。空尾は俺と会う時はいつも必要以上に決めてくる。そんな空尾の前に立つと、俺は少しだけ自分の格好が恥ずかしくなる。三十手前になっても、休みの時の俺は変わらずパーカーを着ている。
空尾が俺をまじまじと見つめるので、こっちは空尾の眼鏡に視線をやってやり過ごす。待ち合わせで会った時の、この何とも言えない沈黙が苦手だ。親友だった時には無かったことだ。ややあって、空尾がもう一度口を開く。
「あのさ、洋二」
「何だよ」
「今日は泊まりがけで遊ぼうよ。十二時間じゃなくて二十四時間で」
表情を変えないようにするだけで精一杯だった。空尾が何気ない口調で言ったことは、俺達の取り決めをすっかり変えてしまうようなものだ。そもそも、この十二時間のルールを決めたのも空尾の方だというのに。
もしかすると空尾は、もっと踏み込んでくるつもりなんだろうか。俺は心の中で身構えながら、笑顔で返す。
「ああ、まあ……昔はそのくらい遊んでたしな。たまにはそういうのもいいかもな」
「そうだよ。俺、久しぶりに洋二の家にも行きたいし」
ここでの久しぶりは、三年のことだ。
「俺ん家ありえないくらい汚いからなぁ」
「いいじゃん。今更気にしないって」
「や、でも久しぶりだからこそお前を入れるなら──」
「今日は二十四時間遊ぶし、洋二の家にも行く」
きっぱりとした口調で空尾が言った。
惚れ薬を飲んでからの空尾が何かを強く主張することはなかった。こうなってしまった負い目があるのか、それとも好きな相手には無限に譲歩する方なのかは知らないが。ともあれ、そういうことになっていた。
だから、こんなに強い口調で言い切る空尾は久しぶりだ。俺は半ば気圧されたように頷く。空尾はふっと安心したように微笑むと、言葉を続けた。
「それで、もう洋二には二度と会わない」
柔らかくも強い口調に、俺はすぐには頷くことが出来なかった。
今城空尾が働いていたのはとある製薬会社だった。
空尾はとても頭のいい大学の、なんだかとても難しい研究室を卒業した後、研究員として働くことになった。脳だとかタンパク質だとか薬効だとかすり鉢だとか、色々な単語は思い出せるが具体的にどんなことを話されたのかは覚えていない。俺は根っからの文系で、ラテン語は得意だったがタンパク質は首尾範囲外だった。空尾の話は自分の理解のしやすいところに引き寄せなければ覚えていられない。
いつぞやの宅飲みの際に、空尾はチューハイを飲みながら言った。
「超俗っぽく言うと惚れ薬を作ってる」
「は? 惚れ薬? 惚れ薬ってあの? 飲むと惚れるやつ?」
「説明してるようで何にも説明してない説明じゃん。でも、惚れ薬ってそういうもんだよな」
「惚れ薬……」
その説明はすんなり頭に入った。何しろとても分かりやすいことだ。空尾は惚れ薬を作っている。自分の親友が、あの漫画にしか出てこないような、浮かれた発明品を真面目に作っている。そのことが面白くて、俺はゲラゲラ笑った。
でも、惚れ薬はゲラゲラと笑えるような代物じゃなくて、空尾──というか、空尾の会社は、それによって世界を変えるつもりだったようだ。
ここから先は、空尾が惚れ薬を飲んでから、後付けで説明されたことである。流石の俺もちゃんと聞いたし、メモを取った。
『惚れ薬』は誰かと誰かを繋ぐキューピッドになる為のものではなく、むしろ誰かと誰かを隔てる薄膜を張り、摩擦を防ぐ為のものだった。
もっと言ってしまえば、特定の属性に対して強い加害性を覚える人々に対して、脳の側からプロテクトを掛ける為の技術だった。
便宜上『惚れ薬』と空尾が呼んでいたものは、加害衝動に任せて犯罪を犯す者や、何度処罰されてもヘイトスピーチをやめられない人間に対し、将来的に処方を検討されているものだ。加害対象への愛情を人工的に喚起させることで、加害性を抑制するのである。
特定の人種に異常な攻撃性を示す人間にこの薬を投与し、特定の人種への愛情を喚起させれば、今までのような加害性は無くなるはずだ──そういうことだ。
実際に、動物実験では上手くいっていたらしい。特定のもの(ここではトマトだったようだ)に攻撃性を示す猿に惚れ薬を投与し、トマトと脳内の関連付けを行ったところ、猿はトマトを強く好むようになった。今までトマトを与えられると威嚇し、餌の中からも弾いていたのにもかかわらず、である。
人間の脳をそんな風に弄っていいのかという倫理的な問題と併走しながら、空尾の会社はこの技術が確立させようとしていた。空尾も熱心に研究を続け、これが実用に向かうよう心血を注いでいた。
だが、事故が起こった。
どうしてそんな事故が起こったのか、そもそも『惚れ薬』というのが飲み薬なのか注射なのか噴霧剤なのか──それとも、薬効のある物質が空尾にくっついてしまったのか──それすら分からない。会社の連中はそのことを俺に教えなかったし、空尾は空尾でその時の記憶があまりないのだ。
ともあれ、俺が知っているのはここからだ。空尾が『惚れ薬を飲んだ』という連絡を受け、俺はその会社に初めて足を踏み入れた。惚れ薬を飲んだ、なんて馬鹿げた話だと思ったものの、俺はすぐにそこに向かった。少し前から空尾と連絡が取れなくなって、俺は心底心配していたのだ。
会社に向かって馬鹿丁寧に受付をさせられると、俺は綺麗なバイオハザードみたいな真っ白い研究室に向かわされ、そこで空尾の上司から説明を受けた。
空尾が業務中の事故で惚れ薬を飲んでしまい(これは便宜上の表現)すぐさま処置を受けたが、薬の影響を受けてしまったこと──そして、惚れ薬が何に作用しているかを丹念に検査していったところ、ある特定の人物であることを告げられた。
「それがあなたです。諸貝洋二さん」
「俺……なんで俺なんですか?」
「諸貝さんを認識した時にのみ、特定部位が反応し、脳内物質が過剰分泌されることが分かったからです」
俺は特定出来た理由を尋ねたのではなく、どうして俺なのかを尋ねたのだが、上司はややズレた回答をした。それも気になってがいたが、そこじゃなかった。それとは別枠で、惚れ薬の作用ってそんな物質的な感じなんだ、とも冷静に思った。
答えを受けた俺が困惑した表情を浮かべていたからか、上司は「ああ、」と言って指を組んだ。
「何故諸貝さんなのか、ということですね」
「そうです。惚れ薬で好き……? というか、脳内物質が出るようになった相手が、どうして俺なんですか?」
「それは分かりません。本来なら惚れ薬の投与の後に誘導処理を行い、その結果愛着を持つ対象が生まれるという流れなんですが」
「原因は分からないけど、その愛着……を持つ対象が俺になったっていうことですね」
上司は物々しく頷いた。説明をちゃんと受けたのにもかかわらず、理解の範疇を超えている。
空尾の脳は薬によって一度破壊され、破壊された形に沿ってタンパク質がゆるゆると再構成された。そうして、出来上がった空尾の脳には、俺の形に穴が空いてしまった。
「それ、治るんですか」
「まだ分かりません。こちらも全力を尽くして原因の究明と対処に当たりたいと思っています。それまで、諸貝さんには彼の力になってもらえないでしょうか」
「でも、俺普通に空尾と付き合うとかは考えられませんよ? 正直、今も全然受け止めきれてないっていうか。何を……すればいいんですか?」
「今城くんは既に事態を受け止めています。その点については彼の方から説明することになるかと。今の時点で諸貝さんに求めることは、月に一度の面会くらいです。これは、今城くんの精神の安定にも、そしてこちらの経過観察にも必要なことですから」
「月に一度って……。何なら俺ら週一で会ってるくらいの勢いだったんですよ。別にそんなお願いされるようなことでも」
「まずは今城くんに会ってもらえますか」
殆ど食い気味で言われたお陰で、俺は頷くしかなかった。『惚れ薬』という、正直アホっぽい言葉の響きに対して、面会日や安定やタンパク質という言葉はあまりに深刻だった。これではまるで、空尾がもう取り返しのつかない事故に遭ってしまったみたいじゃないか、と思った。
「今城くんには、今後の経過を問わず、一生涯補助金が出ることになっています」
空尾が待っている部屋に行く前に、上司は俺にそう言い添えた。
「今城くんに支払うものに比べたら些少になってしまいますが、諸貝さんにも同じように補助金を支給することが可能です。面会日の際に一日単位でお渡しする形になりますが」
「いや、流石に……親友と会うのに金を貰うのは、俺の方が抵抗があるというか」
「そうですか」
上司はそう言って、深々と頭を下げた。そのやけに丁寧な対応と、一生涯補助金が支払われるという事実の重みが、俺の背にしっかりとのしかかってきた。
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