ルーザードッグワルツと最善の日々

 コーヒーの匂いは火薬の匂いにほんの少しだけ似ていた。
 朝はモーニングコーヒーから始めなければいけない。夕暮れに流れているのは少し気の早いノクターンでなければ。細部にこだわること、私はそれをこの生活の中で愛していて、その他は全て嫌いだった。同居人を待つ明け方は、この世で一番気怠い時間だ。
 『随分贅沢になったものだな』と私の中の何かが囁く。その通りだとも思う。ただ、人間は幸せである限りそのささやかな不満に目を向けずにはいられないのだ。……幸せ? 果たして今自分は幸せ?
 三日に一度。三につき一というのは素晴らしい割合だと思う。三拍子は穏やかなワルツのリズムだ。それにも関わらず、私はその美しいリズムに似合わない、物騒なことを引きえ受けてしまった。
 寝る場所食べる場所、私の愛しい物事をちゃんと守れる場所を与えて貰っているのだから、私に不満などあるはずもない。同居人に恨みは無いが、情も無いのだ。私の毎日と同居人の因果が噛み合ってこうならざるをえなかった。それだけだ。
 私は残しておいた同居人の左手を拾い上げる。
 美しく長く、それでも芸術品のようにはいかない単なる手だ。
 同居人の手は同居人が帰ってくる直前に消えてしまう。溶けるのでも飛散するのでもなく、瞬きをしている時に消えてしまうのだ。まるで異なる次元が急に差しこまれたかのように、手が消える。
 その手がいつ消えるのかを観察していたことがある。それも、三回もだ。それなのに、私はいつも消える瞬間を見ることが出来ない。
 つまりは、そういうことなのだろう。
 朝日が昇り、手が消える。そして、同居人は、何事も無かったかのように扉から私の目の前に現れる。寝ずの番をしていた私は、心底気怠そうにそれを迎える。……そんな目で見ないで欲しい。私の眠気に溶けた頭だと、同居人が何故だか酷く安心しているようにも見える。
「マミオさん」
 死んで生き返ってきたばかりの同居人は、記憶を引き継いでいるはずなのに、私の名前のイントネーションだけが奇妙に狂う。それが私には苛立たしくて、少し刺々しい声で返した。
「真美緒。……水沢真美緒」
「知ってるよ、そんなの」
 嘘つき、と私は思う。元よりこの同居人は呪われているのだ。二枚舌を持っていてもおかしくない。
「私を待ってたの?」
「どうして私が君を待たなくちゃいけないんだ」
「あなたが眠らずにいた理由で、その理由以上に気の利いたものが無いから」
 同居人がくつくつと楽しそうに笑う。不本意な笑顔だった。
 私は規則正しい生活を愛している。けれど、同居人との生活を滞りなく進めること以外に、私に与えられた仕事は無い。そうなれば必然的に同居人に向き合わざるをえなくなるし、その為なら睡眠リズムさえ崩す。時計は同居人が持っているのだ。ふてぶてしいこの同居人で、私の生活は輪郭を取り戻す。
「今何時?」
「……朝の四時三十四分」
「なら九時三十四分に起きよう? ……とりあえず私はそうする」
「そうか」
「ベッドまで運んでくれない? 戻ってきたばかりで身体が上手く動かないんだ」
 図々しい奴め。私は心の中で密かに舌打ちをする。小柄な彼女を抱き上げることなんて造作も無い。私は女にしては体格がいい方だし、そもそも、この運搬だって毎回のことなのだ。
「運んでくれないの?」
 沈黙は肯定だ。返事をするのが癪なので勝手に悟らせることにする。私はあたかも同居人に哀願されたかのような態度で、尊大に彼女を抱き上げた。同居人は私の肩に手なんか回さない。されるがままでいる。同居人も私も、これを当然の権利であるかのように振る舞わなくちゃいけないのだ。
 恐らくはお互いがお互いを必要なのに、恐ろしい程何の感慨も湧かない。同居人をベッドにぞんざいに投げると、小さく「ありがとう」という声がした。返事はしない。彼女は今、殆ど夢の中だ。言ったって聞こえやしないだろう。
 私はこれから九時三十四分まで正確に、夢すら見ないで眠りに落ちるだろう。同居人は何だかんだで十時過ぎまで寝ているだろう。
 そうして起きたらきっと、腹が減ったとぼやかれるので、私は自分のコーヒーを優先させてから同居人の分もブランチを作る。
 死んだように横たわる同居人のことをもう一度見る。ベッドに横たわる彼女の首元には、いつも通り紫色のボタンがついている。

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