世界滅亡後探偵と世界諦念後怪盗


 マンカラというゲームがある。
 人類の歴史を紐解いてみても、かなり古くから存在するゲームで、二列に並んだ穴の中に、石を入れていく遊びだ。
 だが、続原はそれ以上詳しいことをを思い出すことが出来なかった。マンカラというゲームがどんなルールで、何が勝利条件なのかの大事なところが思い出せない。ついでに言うなら、マンカラに使う穴が何個なのかも忘れてしまった。ここまでくると、最早名前しか覚えてないのと同じだった。
 こうしてうろ覚えてしまった人間の文化を思うと、続原は一層悲しみを覚える。おぼろげな記憶は、手の中で枯れた花や、うっかり殺し損ねた何かしらのようで嫌だった。抱きしめた腕の中のぬくもりが失われていく様を想像して、続原は思わず目を閉じる。こんな感傷には何の意味も無い癖に。
「マンカラって何? 犬?」
 そんな続原の感傷を拭い去るように、隣に居るハツは暢気にそう言った。それでも、この声が無ければこのまま喪失の海に溺れてしまったかもしれない。ややあって、続原は呆れたように返す。
「……犬だと思うか。この名前を聞いて」
「いや、マンチカンとかマスティフとか居るんだから、あながち外れた間違いでもないと思うんだよね。犬と間違えるのは」
「そもそもお前が何か新しい遊びは無いかと聞いてきたんじゃないか。だから私は記憶の奥底からマンカラを引っ張り出してきたというのに」
「それでも、ルールが分かんないと全部意味無いよね。ルールを教えてくれる人ももういないんだから」
 ハツは何でもないようなことのようにそう言った。晴れ渡った空には強い風が吹いている。伸ばしっぱなしのハツの髪が、風に流れていった。

 世界が滅亡してから四百六十三日が経つ。続原常連は、荒廃した世界と、それにも動じず砂を弄っているハツを見ながら、小さく溜息を吐いた。復興どころか、相変わらず、人間自体が見当たらない。
 無理矢理ハツを散策に付き合わせた手前、この変わらなさは正直気まずいものだった。まさか数日前どころか数十日前とまるで変わらない風景が広がっているとは思いもしなかった。ハツの「何か外で出来る楽しいこと無いかな」の言葉に真面目に答えたのもその気まずさが理由だ。
「そもそもマンカラって外でやることじゃなくない?」
「いや、私が見た資料ではマンカラを描いた壁画が載っていたはずだ。マンカラは青空の下で遊んでいても不自然の無いものだったはずだ」
「探偵さんってそういうのも知ってなくちゃ駄目なの?」
 ハツはそう言っていつものように笑う。瓦礫の中にあっても変わらぬその表情が空恐ろしい。そういえばこの生活を始めてから、目の前の怪盗が取り乱しているところを見たことがない。続原は思う。世界の終わりにすら動じない彼を揺さぶることは出来るんだろうか? 世界に匹敵するものなんて何も残っていないこの場所で?
「続原さん」
 その声で我に返った。
「大丈夫?」
「……問題ない。お前は犬に詳しいんだな。ハツ」
「いや、よくよく考えたらマンチカンは猫だったかな。続原さんもあんまり人の言うことを鵜呑みにしちゃ駄目だね」
「お前……!」
「いいじゃない。マンチカンもマスティフももういないよ」
 ハツが笑顔でそう言うので、続原はやりきれない気分になった。続原はこう見えて犬が好きなのだ。世界が滅亡したことは持て余しても、犬が一匹もいなくなってしまったことは身近で寄り添うような悲しみだった。
「サイコロ解禁したら遊べるゲームも増えるんじゃない?」
「それは駄目だ」
 続原は苦々しくそう言った。何故か分からないが、ハツはとても運が良いのだ。サイコロが絡むゲームになった瞬間、続原の負けが決まるだろう。怪盗なんてものは一種のギャンブラーであるのかもしれないが、それにしたって世界は彼に優しい。サイコロで掃除当番を決めた時は、危うく奴隷にされるところだった。
 気味が悪いのは、その運の良さに融通が利くところだった。続原が怖い顔で「六回六の目を出してみろ」とサイコロを押し付けたら、ハツは二回目で失敗してみせるのだった。まるでその超自然を押し隠すかのように。
 それでも、彼は双六では最短距離を行くだろう。ハツは何だかんだで負けず嫌いなのだ。
 とにかく目の前の男は続原と相性が良くない。猫の皮を被った、得体の知れないものに手を舐められているような心地になる。いつか気づかない内に、続原の手は骨にされているかもしれない。あるいは骨抜きにされているかもしれない。何しろハツは怪盗なのだ。やはりそこには奪う要素が無ければ。

 世界は今日も滅亡し続けている。
 世界の終わりを生き残った幸運な一人――続原常連は名探偵である。いや、正確に言うなら名探偵であった、と表現した方が正しいかもしれない。何しろ、この荒廃した世界で解決した事件は、同居人が拵えてくれたお手製の代物だけだ。世界が滅亡すると共に、名探偵としての続原は死んでしまったのかもしれない。
 絵を描けなくなっても画家は画家だろうか? そうかもしれない。彼の人が描いた作品が残るなら。あるいは、喉を涸らした歌い手は? 小説を書けなくなった小説家は?
 それらの判断は出来なくとも、世界の終わりに立った続原は、満を持して言える。人間が滅亡した世界で探偵は探偵のままでは居られない。解決する事件が無くなった時、探偵は探偵の肩書きから放り出され、中空に投げ出されてしまう。
 名探偵であることに生きがいと誇りを持っていた続原は、世界滅亡の折に全てを失ってしまった。
 それなのに、彼の同居人である元怪盗のハツは、暢気にこう言ってのけるのだ。
「ゴッホいるでしょゴッホ。ゴッホなんかは生きている間は一枚の絵も売れなかったことで有名だけど、このゴッホはみんなに認められて死後に画家になったわけで。ゴッホが死後に誰かの評価で画家になったんだから、続原さんも死後誰かに探偵に戻してもらえるのかもしれないよ。こうなってくるとそんなに悲嘆することもないんじゃないかなって。そう思わない?」
「こんな荒野で誰が評価してくれるって言うんだ。私とお前は先が無いぞ。エデンが台無しだ」
「ほら、宇宙人とか」
「宇宙人が居るという証拠があるのか? 言っておくが、私は地球を滅亡するままに任せた宇宙人の存在なんか認めんからな。存在しているのなら、私達を助けてくれたっていいだろう。宇宙の倫理規範はどうなっているんだ。赦せん。本当に赦せん」
「続原さんって相当鬱憤溜まってるんだなぁ」
 ハツが困り顔でけたけた笑った。
 この調子だから、全てがどうにも噛み合わない。続原が焦燥を飼い慣らしたところで、ハツはその毛並みを理解してくれる側の人間じゃないのだ。
 それだけじゃない。他のところでもハツと続原は合わなかった。例えば、続原は今もなお世界滅亡の謎と生き残りを見つける為に日課の散歩を欠かさないが、ハツはそれすらせずにぐうたら眠ってばかりいる。続原の勤勉さが何の成果も出していないことを思えば、二人の立場は同等かもしれないが、それでも行動しようとしないハツのことを、続原は若干軽蔑していた。諦めてはどうにもならないというのに。
 今日も続原は朝六時に起床し、身支度を整えてからシェルターの外に出た。雲一つない空を見上げながら、そこに何かの徴が現れないかと期待している。あるいは地平線に目を向けながら、誰かの合図が無いかと祈っている。
 だが、相変わらず何も無かった。
 昨日も何も無かった。明日も何も無いだろう、と思いそうになって頭を振る。そんな諦観に囚われてはいけない。
 空から死体の一つや二つでも降ってくれば意味が生まれる、というわけでもない。そこに謎が無いならば、それはもう警察の領分だ。身体にびっちりとラテン語が書かれた首無し死体でも降ってくれば、ようやく名探偵の領分と言っていいかもしれない。雲一つない空に向かって死体を待つ。いい具合に気が触れそうだ。そもそも、探偵が死体を求めるなんて、職業的にも人間的にもアウトだろう。けれど、この世界で倫理が一体何の役に立つのだろう?
 続原は事件を待ち望むような探偵ではなかった。事件の起きそうな現場に一早く馳せ参じて『事件待ち』をするような探偵たちのことを軽蔑していた。荒廃した世界は続原常連という探偵の矜持すら削り取っていく。
 一度それを失ってしまえば、続原はもう戻れないだろう。星の果てにいる評論家が自分を再評価してくれることもない。それだけは避けたかった。今や続原の精神を支えているのは、ただただその一念だけなのだから。

 それに謎自体ならある。この世界はどうして滅亡してしまったんだろうか? と言う謎だ。自分が探偵で居る為に、続原は改めて考えを巡らせる。
 自分が知らない間に核戦争でも起きたのだろうか。世界中の指導者が一斉に狂って核を撃ち、全てが焼き払われたのかもしれない。しかし、それにしてはこの世界の地表は綺麗だった。色々なものが薙ぎ倒されてはいるが、焼けたような跡は無い。それに、倒れてはいるけれど、ビルだって溶けることなく残っている。これが起こる場合の世界滅亡とはどんなものだろう?
 つくづく探偵と世界滅亡は相性が悪い。殺人の場合ならある程度の知識があるが、地球殺しの知識は無い。凶器すら分からなければ、打つ手すら無い。元より解決編を聞いてくれるのはハツしかいないけれど、まず書き上げなければいけないのだ。
 諦めの悪い続原は、推理をする傍らで旗を立てる。生存者がここに居ると教える為の印だ。一度はハツに倒されてしまったけれど、結局こうして復旧させた。
 誰でもいい。答えを教えて欲しい。探偵らしからぬ祈りを空に放った。現役時代なら絶対にやらないことだったけれど、世界が続原に冷たいのだから、らしからぬことだってやってやる所存だった。


 今月から、シェルター生活は魚月間に入った。ハツがそろそろ豆の味に飽きたというので、魚を中心に消費することにしたのだ。数年先を見越して作られたそれは、大体がオイル漬けか塩漬けになっているが、それでも新鮮な味わいだった。
 魚系の保存食は、魚の形を保っているものも多い。缶に詰め込まれていた鰯が白い眼をしながら続原の方を見ていた。これが黒い目のまま海を泳いでいたのが三年前。缶に詰められた魚とシェルターに閉じ込められた自分は一体どれだけの違いがあるのだろう、という話だ。そんなものは無い。きっとどこにも無い。
 言い出した側のハツはとにかく嬉しそうで、いつもは面倒がっている食事の用意も積極的に行っていた。きっともう二週間もすれば魚にも飽きて別のものを求めるようになるのだろうが、一緒に暮らしている人間がやる気を出すのはいいことだった。
「やっぱり魚はいいよね。DHAを取れば取るほど頭が良くなるような気がするよ」
「ここで頭が良くなったところでどうにもならないだろう」
「そうかな? 俺、頭が悪い探偵とか絶対やだけどなー」
「……怪盗は頭が悪くていいのか」
「怪盗に必要なのはキュートさと敏捷さと取捨選択力だから」
 そう言うハツは、食べる缶詰を決められないで、鰯と鯖の二つを交互に食べている。最初は注意しようとしたのだが、どの途缶詰もそう長くは保たないので好きにさせた。前回の一件から――ハツがこの核シェルターの中で見事に怪盗行為をやってのけてから、続原はハツに対して妙に寛容になっていた。
 諦念の凪の中に居る怪盗が久しぶりに見せた手管に興奮させられたからかもしれない。あの瞬間、続原は確かに探偵だったし、ハツも確かに怪盗だった。あの余韻が残っている間は、ハツの好きにさせてやろうと思ったのだ。
 そんな続原の内心を知らずに、ハツは暢気に言った。
「まあ、続原さんが食べないなら俺が食べるからいいんだけど」
「ああ。好きにしろ。私は必要最低限の栄養を摂り、節制して生きる。そもそも、私はもうお払い箱だ」
「そうかな? むしろ逆だよ」
「逆?」
「こうして世界が滅亡したからこそ、続原さんの価値は上がったとも言える。勿論、人としての価値が上がったとかいう当たり前の話じゃなくて、名探偵としての価値の話でさ」
「……そうとは思えないが」
「いいや。そうだよ。だって、この世界では殺人の価値も急転直上なんだから」
 ハツの目がゆっくりと細められた。
「世界が滅ぶ前、この世界には約七十五億人の人間が住んでいた」
 まるで童話でも語るかのような口調で、ハツはそんなことを言った。その時代は、言うまでもなく続原も知っている時代だ。
「七十五億人ってとんでもない人数だよね。例え七十五億人の中の一人が殺されたとしても、それはただの殺人事件だ。俺にはよく分かんないんだけど、孤島の殺人とか館の連続殺人だと何人くらいが死ぬ?」
「……私が解決したものでは、最高が二十八人だ」
「うわ、酷いなー。殺人って嫌なもんだよね。でも、それでもまだ七十五億の内の二十八」
 察しの良い続原は、ハツが何を言いたいのかを悟る。彼は、続原が後生大事に抱えていたものを海に放り投げて、青をバックに呪いを解こうとしているのだ。希釈されていく命、それに絡まった密室やトリックを解いていく名探偵。それは確かに、大海に沈めば分からないものだ。その海は深すぎるし、続原の腕はあまりに短い。
「……追い詰められた犯人たちが同じような口上を並べていたな。こんなことは何でもないんだと」
「ある種俺も犯人側ではあるからね。でも、俺の言いたいところはそこじゃない」
「なら、」
「つまりは、今はもう二人きりだってこと。その中の二分の一が謙遜なき客観でどれだけインフレを起こしたかってこと。俺はそれが言いたい」
 海はもう無い。沈むべきものだってそこに無い。
「一夜にして、俺と続原さんの価値は跳ね上がったんだ。だからこそ、ここで起きる殺人事件はこの世界で最も意味のあるものになる。世界で最も意味のある殺人事件を解決する探偵は、世界で最も意味のある存在だ。即ち、世界滅亡後こそ、探偵というものは得難い意味をその手に得る」
「詭弁だ」
「そうだね。詭弁だ。でも意味がある詭弁だ」
「犯人どもが自分達の身勝手な動機を正当化する為に使うもの、それが私の中の意味ある詭弁だ」
「その意味でも意味ある詭弁かもね。だって俺は身勝手な動機を正当化して、続原さんの名探偵としての在り方を正当化してる」
 最後の言葉は殆ど叩きつけられるようだった。声を荒げられたわけでもない。表情が変わったわけでもない。それでも、有無を言わせない響きがそこにはあった。
「まあ、俺が言いたいのは、元気出してよ続原さんって話だよ」
「何だその……何にもならない励ましは」
「俺はまあ物質依存だから。虚無対決は俺の方が勝ちだと思うよ? だって盗むもんないし。予告状も続原さん専用だし」
「そのことについてはそうかもしれないが……」
「だからもう俺はドロップアウトしてるの。さながら定年後怪盗だね。いや、諦念後か」
 同音異義語のその二字熟語が、何故だか上手に変換された。続原が抱いていたハツへの印象が、その一言に尽きるからかもしれない。諦念。ハツは、続原よりもずっと、世界を諦めている。
 だからこそ何に対しても動じないし、滅亡後の世界を世界のままに見ていられるのだ。
「お前は――」
「何?」
 ハツは澄ました顔で首を傾げている。その目が少しも笑っていなくて、空恐ろしい。
 ハツが何か大事なことを隠しているんじゃないか、と思い始めたのはその翌日からだった。

 閑話休題。先述の通り、続原がハツと一緒にゲームをすると、彼は大抵負けてしまう。彼はへらへらした顔で意外と勝負強く、特に運の絡むものなら絶対に負けない。なら、運に左右されないゲームならどうだろうか? ということで将棋で勝負したこともある。
「お前、将棋は強いか?」
 厚紙で地道に作った将棋盤と駒を取り出しながら、続原はそう言った。あれは確か、ここに来て三ヶ月くらい経った日のことだ。続原が絶望するのに飽きて、ハツが諦めるのに飽きた頃のことだ。
「俺、将棋知らないんですけど、続原さんが教えてくれる?」
「嘘だろう。怪盗が将棋を知らないなんてあるのか」
「俺がやってたのは麻雀くらいだもん」
 そう笑うハツに、続原は丹念に将棋のルールを教え込んだ。ハツは漢字が苦手らしく、将棋の駒を見ただけで渋い顔をしていた。あんまりよろしくない感情だけれど、正直なところこれならハツに勝てるんではないかと思った。何しろ、続原はこういったゲームにはそこそこの適性がある。
 しかし、それでもハツに勝てるかどうかは五分五分だった。初めの二、三回は圧勝だったが、そこから先からいきなり展開が変わった。さっきまで初心者だったハツは見違えるようにキレのある一手を繰り出してくるようになり、心が乱されて悪手を指してしまうこともままあった。独創的な指し方というわけでもない。定石に則った手堅い一手というわけでもない。なのに、ハツは的確に続原の計画を潰してくるのだ。
 ――まるで、続原の心を読んでいるかのように。
 それを思うと、思わずぞっとした。手作りの将棋盤を引きちぎり、全部を無かったことにしたくなるくらいに。
「やー、でもやっぱり続原さんは強いよね」
 そんな続原の内心を見計らったかのように、ハツは明るくそう言った。
「……嫌味か。お前だってそこそこ勝っているだろう」
「ビギナーズラックだよ」
「将棋にビギナーズラックは無い。そういうゲームだ」
「なら、年の功かもしれない」
「馬鹿を言うな。お前はどう見たって私より年下じゃないか」
「そういうことじゃないよ」
 そう言って、ハツは薄く笑った。
「ほら、俺ってば名探偵である続原さんのファンだから」
 ここに入ってから三ヵ月が経った頃の話だ。続原が絶望に飽き、ハツが諦念に飽き始めた頃だった。
 続原は折に触れてあの将棋のことを思い出す。特に、こうしてハツにあらぬ疑いを抱こうとしている時は。初心者であるはずのハツは、まるで続原の心の中を読んでいるかのように的確な手を繰り出し続けていた。
 もし世界が滅亡しなかったらどうなっていただろう、と続原は恐れ混じりで思う。続原は依頼通りにちゃんとハツのことを捕まえられていただろうか? それとも、このビギナーズラックが一生続き、続原は初めての未解決事件の席にハツを座らせていただろうか?
 だとすれば、続原が世界滅亡で手に入れたものは偏にこの永遠のタイムアウトなのかもしれない。笑えない等価交換だ。

 話を戻して、ハツの秘密の件である。
 最初に疑念を抱いたのは、今朝のことだった。
「危ないよ、続原さん」
 六時に起きた後、いつものように旗のチェックに行こうとした瞬間、続原はそう呼び止められた。振り返った先には、見るからに眠そうなハツが立っている。元より彼の朝の弱さは折り紙付きだ。こんな朝早くに起きるような人間じゃない。その証拠に、ハツは今にも座って眠りこけてしまいそうだった。
「どうしたんだ。こんなに朝早く」
「俺が早く起きちゃ悪いの? いつもは俺の寝坊を咎める癖に。続原さんってそういうところあるよね。結局どっちがいいのっていう」
 寝不足で機嫌が悪いのか、ハツの言動は明らかに刺々しかった。なおのことおかしい事態だ。続原がまいあさ旗をチェックしに行くのは知っているはずだし、彼に見送りの習慣は無い。
「確かにそれは私が悪かった。謝罪しよう。少し驚いただけだ。どうして今日はこんなに早くに起きているんだ?」
「だから、危ないからだよ。俺だってこんな時間に起きたくないし。もう一回寝るんだから」
「何が危ないんだ」
 続原がそう言うなり、ハツは不機嫌な顔のまま懐中電灯を押し付けてきた。シェルターの中に備蓄されていた、手回し式の大きなものだ。
「もう冬が近くて大分暗くなってきてるから、足元が危ないと思う。懐中電灯くらい用意していった方がいいよ」
「それを渡しに来たのか?」
「そうだよ。もう寝るから。おやすみ」
 おやすみとは言ったものの、時刻は午前六時半だ。そのまま起きていればいいんじゃないかと言おうか迷って、結局やめた。のそのそと歩み去っていくハツの背中は見るからに不機嫌だった。ああいう時のハツは、正直ちょっと怖いのだ。
 シェルターを出る為のエレベーターを起動して、手元の懐中電灯を見る。朝が弱いはずのハツは、どうして今日に限って起きていたのだろう? 偶然すっきり目が醒めたというには、彼の様子は不機嫌が過ぎた。
 ハッチが開くと、まだ暗い夜空に迎えられた。冬が近づいてきているのか、この時間になってもまだ朝日が昇っていないらしい。白い息を吐き出しながら、旗を目指して歩いて行く。
 こうしてみると、確かに懐中電灯が必要な暗さだった。毎日外に出ているのは続原の方なのに、どういうわけだかハツの方が世界の変化を敏感に感じ取っているようだった。
 重い懐中電灯のスイッチを入れると、刃のような光が目の前を照らし出した。夜中の内に風でも吹いたのか、辺りには瓦礫が散らばっている。瓦礫を踏まないように、懐中電灯で照らされた道を慎重に歩いた。
 旗に辿り着く頃には、地平線の向こうに微かな朝日が見えた。程なくして、世界は明るくなっていくだろう。世界が滅亡してから日差しは一層強く感じた。まるで、太陽自体が別のものに挿げ変わってしまったかのようで、少し眩しい。けれど、その明るさは何処か安心感のあるものでもあった。
 今朝も今朝とて旗に異常は無かった。折れていないだけマシかもしれないな、と思いながら小さく笑う。こういう冗談で笑えるようになっただけ、前より精神状態は安定しているのかもしれない。懐中電灯を切って、来た道を引き返す。
 朝日に照らされると、辺りの惨状は更によく見えた。大きな瓦礫に混じって、何処から流れ着いたのかも分からない銅像の頭までが転がっている。もし懐中電灯が無かったら、何かに躓いて転んでいたかもしれない。そう思うとハツの先見の明に感謝したくなる。まるで王手への堅実な布石だ。
 一つの怪我も無くシェルターに帰り着いても、まだハツは起きていなかった。いつものことだ。ハツは天変地異が起きようと朝九時までは絶ッ対に起きてこない。
 なら、今朝は何の天変地異が起きたのだろう?
 あれがきっかけで、今朝からずっと、続原はある可能性について考えていた。この生活の根幹に関わるとある可能性だ。
 どんなに荒唐無稽な可能性でも、気づいてしまえば検討せざるを得ない。とある真実に向けて、続原の脳内はゆっくりと動き始める。
 続原は注意深く唯一の同居人を見た。心を見透かしたように話しかけてくる、自称怪盗の男。年の頃は続原より少し下の、ごく普通の男だ。どこも妙なところは見当たらない。
 懐中電灯の充電をしてから、続原はしばし考え込んだ。今まで解決してきた事件と、追い詰めてきた犯人のことを思い出す。
名探偵として犯人と相対する時、続原は手段を選ばなかった。はっきりとした証拠が出てこなかった時は、さながらコロンボのように犯人と接触していた。
 なら、ここでやることは一つだ。続原は彼がやるべきことを頭の中で演算し、ハツの方をじっと見た。
 ここからが勝負だ、と続原は密かに思う。
「何だか続原さん変だね。疲れてるんじゃない?」
「孤島に呼び出されて何日も不眠不休で事件を解決したこともある。私は疲れたりしない」
「いやいや、人間だから疲れることもあるんだよ」
 ハツは全てを知り尽くしたかのような声でそう呟く。
 そう言って、ハツは珍しく自分から倉庫に食料を取りに行くと申し出た。面倒事は出来るだけ避けようとするタイプの彼がそんなことをするのは珍しい。そうして彼が持って来たのがパンの缶詰とローストビーフの缶詰だったのは若干腹立たしかったが、ハツが嬉々として持って来たので何も言わずに卓に着く。
「今日はグリンピースのクリーム煮を持ってくるつもりだったんだが」
「あれを缶詰に詰めてシェルターに入れた奴を怒ってるよ、俺は! 言っておくけど、今日の俺はもう倉庫には行かないからね。返してこいとか言わないでよ」
「分かった」
 続原があっさりとそう言うと、ハツは拍子抜けしたような顔をした。何か言われることを覚悟していたのかもしれない。ややあって、ハツが言う。
「続原さんさ、何考えてる?」
「どういう意味だ」
 続原は淡々とそう尋ねる。
 缶詰を両手に持ったまま、ハツは何かを言いかけた。けれど、結局そこから何か言葉は続くことはなかった。こんな感情を抱いてはいけないのかもしれないが、それに少しだけ高揚する。ハツは何かしらに警戒を抱いていた。当然ながら、続原は何も妙な真似はしていない。ついでに言うなら椅子に座って動いてすらいないのだ。
 それなのに、ハツは明確な反応を示している。
「いや、別にどうってわけじゃないんだけどさ。何言おうか忘れちゃった」
「そうか」
 見え透いた嘘だったが、それ以上は何も言わなかった。その反応を引き出せただけでも十分だった。続原は普段からすれば高級すぎる昼食を摂りながら、頭の中の棋譜を参照する。まずはこれでいい。

 いいものを食べたからか、午後のハツは機嫌が良かった。昼食前に抱いていた疑念のようなものがすっかり消えて、いつものハツに戻っていた。
「やっぱり人間はお肉を食べなくちゃ駄目だよね。俺がシェルター作る側の人間になったら、保存食は肉オンリーにするよ」
「この間は魚で喜んでいただろう」
「食べたらちょっと眠くなってきたし寝ようかな。とりあえず部屋に戻るよ」
「待て」
 ひょこひょことそのまま部屋に戻ろうとするハツのことを、そう言って引き留める。
「久しぶりに将棋をしないか」
 いつぞやの時に作った紙製の将棋盤を取り出すと、ハツは何とも微妙な顔になった。
「ええー……俺、そんなに将棋好きってわけじゃないんだよね。そんなに強くもないし。なのに続原さんはやたら血気盛んだし、怖いんだもん」
「別に構わないだろ。そもそもこんな時間から寝るなと言っているだろう。この生活にあっても規則正しくだ」
「やっぱり今日の続原さんなんかおかしいよ。マンカラの話をしたから、巡り巡って将棋をやる気になったの?」
「そういう風に取られるならそれで別にいい。やるぞ」
 何が何でもという気持ちが通じたのか、ハツは渋々ダイニングテーブルに着いた。こてんと頭をテーブルに伏した彼からは、およそやる気というものが感じられない。
「おい、お前はそこそこ私とゲームをするのが好きだろう。もう少し喜んだらどうだ」
「好きだけどさ、俺がやりたいのはトランプとかなの。将棋はちょっと続原さんのフィールド過ぎるんだよねー」
 言いながら、ハツが厚紙で作った頼りない銀将を摘み上げる。およそやる気が感じられないのに律義に付き合おうとする辺り、ハツは付き合いが良い。
「始める前に一つ言っておきたいんだが」
 駒を並べ終えるなり、続原はそう言って片手を挙げた。名探偵が周りを制する時そのものの仕草のそれは、なかなか堂に入ったものだった。ややあって、ハツが訝し気に応じる。
「何?」
「この勝負、お前は私に勝て。絶対に負けるな」
「はあ?」
 意味が分からないとでも言いたげに、ハツが眉を寄せた。探偵に意図が分からない指示をされた人間は、往々にしてそういう顔をする。それでも、続原が意図を説明することはない。そういうものだ。
「もしお前が勝ったら、私は何でも一つだけお前の言うことを聞いてやる。だから、何が何でも絶対に勝て」
「ええ、無茶言うなぁ」
「どうせ勝率は五分だっただろう。私も全力でやる。お前も全力を尽くせ」
 言いながら、続原はハツの様子を窺う。背を丸めて盤上を覗き込む彼は見るからにうんざりしているようで、その素直さが何だかちょっと好ましい。
「将棋って時間が長くなるから苦手なんだよね」
「公式の将棋の持ち時間は一人当たり九時間だ。二人合わせて十八時間で、二日間に渡って戦うんだぞ。それに比べれば私達のは児戯に等しいだろう」
「児戯に等しくないよ。続原さんも結構考えるタイプだし、俺その間に眠くなっちゃうんだって」
 文句を言っていたハツも、続原が最初の一手を指すと諦めたように集中し始めた。続原も手を抜かずに最初の十数手を指す。ハツは殆ど考え込まずに、良い手を返してきた。軽やかな様は天性のセンスを感じさせる。怪盗ではなく棋士になった方がずっとその才能が発揮されたんじゃないかと思うくらいだ。
 それでもやはりハツの意識はお昼寝に引きずられているのか、後半に進んでいくにつれハツは眠たげに目をこすり始めた。いい大人であるはずなのに、ハツはかなり眠気に弱い。
 うつらうつらとした意識のまま、ハツが更に駒を進める。この状況にあっても、試合は互角だった。続原が囮に出した駒を避け、ハツの駒が合間を縫って進撃してきた。このままいけば、温存していた桂馬が取られてしまう。逃がすか突っ込ませるかの選択を前に、続原は静かに言った。
「考えていることがある」
「んー?」
「実を言うと、将棋に付き合わせているのもそれについて考えたかったからなんだ。これはシェルターの中に閉じ込められた私が出会った、久方ぶりの謎だ」
「謎って?」
「果たして、私の自由意思はどこまで続くのかということだ。私はこの桂馬を前に動かそうと考えているが、数秒後もその自由意思は続くのか?」
 端の縒れた厚紙の桂馬を持ち上げながら、続原は厳かにそう言った。
「どういうこと?」
「こうして私が『桂馬を動かす』ということを決めた時点で世界の分岐が始まるのかどうかという話だ。頭の中で想定した時点で先の一手というものは既に定まっているものなのだろうか。弦を引き、矢を放つまでに、私の自由意思は何処まで延長される?」
「眠いとこにそんなこと言われてもよく分かんないよ。俺そんなに頭良いタイプの怪盗じゃないし……」
「なら勝手に話す。私が桂馬を動かす為には自由意思の延長が必要なんだ。私はこの瞬間に桂馬を動かそうと意識するだけではいけない。その次も、それからもなお桂馬を動かそうという意思を保ち続けなくちゃいけないんだ。桂馬が動かし終わるその時まで、私は一瞬でも意識を他に移せない」
 言いながら、続原は桂馬を敵陣に飛び込ませた。これを警戒して、相手の駒の動きを少しでも牽制出来ればそれでいい。あわよくば駒の一個でも取れれば恩の字だ。
 けれど、ハツは軽く首を傾げてから、桂馬を無視して進み始めた。それが捨て鉢であることを分かっているような顔をして、確実に続原の駒を取りに来る。
 そして、ハツは続原の要請通りに勝った。長い対局だったからか、ハツの目は殆ど開いていない。ここに布団が敷いてあったらすぐにでも寝てしまいそうだ。
「勝ったな」
「そうだね」
 随分口数の少なくなったハツは、さして嬉しい風でもなくそう言った。ただじっと続原を見ては次の言葉を待っている。けれど、続原は何も言わずに手作りの将棋盤を片付け始めた。これでいい。目的は果たした、と心の中で呟く。
「それじゃあ俺、部屋に戻るね」
「夕飯はどうする?」
「続原さんったら、俺の一つ言うこと聞いてくれるんでしょ。俺、夕飯食べないで寝るから。起こさないで。正しい生活リズムとかはもういいから」
 息も絶え絶えにそう言うと、ハツはそのまま部屋に戻っていった。時刻は午後五時を過ぎたところだ。眠くなるにしてもまだ早い。それを見て、続原は小さく頷く。

 ハツが部屋に入ったのを確認すると、続原は最後の仕掛けに入ることにした。倉庫に向かって、食料保管庫とは別の部屋に入る。

 そこは、今の状況ではおよそ使いそうにないものが仕舞われていた。ハツとも、滅多なことが無い限り手を付けないように決めていたものだ。
 このシェルターを作った人間は、ここに入る時のことをどう考えていたのだろうか? 戦争からの避難? 環境汚染からの退避? あるいは、ここはしっかりと作られただけのただのモデルルームに過ぎなかったのだろうか?
 いずれにせよ、このシェルターの設計者は今回のような滅亡のパターンを想定していなかったに違いない。生きている動物が全く存在しなくなり、辺りが瓦礫に塗れるばかりのパターンを考えていたら、目の前の猟銃はリストに組み込まなかっただろう。
 倉庫には猟銃の他に、狩猟用のボウガンや大振りの鉈などがあった。いざとなったらこれで動物を狩れ、ということだったのだろうか。説明書が付属していないので、続原にはそれらに託されたメッセージが分からない。
 それらに紛れるようにして、倉庫には油紙に巻かれた拳銃も置かれていた。狩りには使えなさそうなそれには、六発分の弾が入っている。いざという時はこれを使え、というメッセージが聞こえてくるかのようだった。
 ここで殺人事件が起こるとしたら、それは世界で一番意味のあるものになる。
 ハツはそんな意味の言葉を口にしていた。であるならば、この拳銃も外の世界にあるものよりもずっと重いことになる。
 溜息を吐いて、続原はもう一度それらを見回した。狩りの道具、解体の道具、自決の道具。けれど、続原常連が生きてきた世界では、それら全てが凶器で括られた。その内の一つを選んで手に取って、倉庫を出る。ハツが起きた様子は無かった。
 手の中の凶器を見ながら、続原は今一度あの怪盗について思いを巡らせた。これから続原が行うことは、区分から言えばれっきとした殺人だ。だが、これをやらなければ続原は先に進めないのだ。軽く息を吐いて、覚悟を決める。
 それでどうなるかは分からないが、続原は真実を暴かなければならなかった。それが探偵の――ハツが予告状を寄越した名探偵の、義務だからだ。

 そうして迎えた決行時刻の三十分前から、続原はダイニングスペースで詰め将棋の問題を作っていた。ハツとの対局で将棋熱が盛り上がったという理由もあるし、そもそもここにやることが他に無いというのもある。ハツはいつも通り部屋に籠っていた。何の変哲も無い午後だ。
 獲物が罠に掛かるのを待つように、続原はその時を待っていた。頭の中で仮想の一手を走らせる。時間を確認し、ゆっくり立ち上がる。その瞬間、戸棚からまっすぐにボウガンの矢が放たれた。
「危ない!」
 そう叫びながら、部屋に居たはずのハツが飛び出してきた。視線を矢の発射方向に向けながら、身体ごと続原にぶつかってくる。そのまま、飛んできた矢は続原の左腕に深々と突き刺さった。
「ぐっ……」
 矢の刺さった左腕が強烈に痛み、思わず呻き声が出た。そのまま二人して転がると、傷から飛び散った血痕が辺りに散らばっていく。この数秒にも満たない時間がどんどん引き延ばされ、走馬燈のように辺りを駆け抜けた。
 それでも、続原は怯まない。目の前に現れた『真相』の尻尾を掴むべく、続原は早口でまくしたてた。
「さあ言え、『予知』か? 『ループ』か? お前はどっちだ」
 左腕から流れ出る血も、久しぶりに感じる壮絶な痛みも気にならなかった。ハツの驚いた目が、鬼気迫る表情の続原を飲み込んでいる。
「矢を防げなかったということは、お前が行っているのは私の心を読むことじゃない。予知かループのどちらかだ。いずれにせよ、お前の万能さには制約がある。さあ、言え。お前はもう詰んでいる」
「ちょっと待って、一体何の話してんの!?」
「やめろ! 少しだけ待て! 私に話をさせろ!」
「話ならしてるだろ! ちょっと、続原さん!」
「ああ、分かったぞ! 予知じゃない! だってお前、さっき待っていただろう! 『私が何かによって傷つくことを知っていた』から、その出所に集中しようとしていたな? だが、結局防げなかった。これを防げなかったのは、お前にも何が起きたのか分からなかったからだ。未来予知で先のビジョンが見えるにせよ、時間を巻き戻して仕掛けられる前を探ろうにも、原因が分からないから防ぎようが無い。そうだろう?」
 ハツの返答すら聞かずに、続原は自分の仮説を組み立てていく。
 こんな状況で、推理を聞いてくれる相手だって一人しかいないのに、続原は高揚していた。何の生産性も無い推理劇、シェルターの中の舞台上で、彼は自分の探偵性を取り戻している。その浅ましさについて考えるのは今は止めよう。それを糾弾してくれる相手だって、目の前のハツしかいないのだ。
 ややあって、呆けた顔のハツが、いつものような笑顔を浮かべた。その笑みには何処か引いているように見えて、それが少し可笑しい。
「……いや、凄いよ続原さん。本当に凄い。やっぱり続原常連は名探偵なんだ。この世界が終わっても、いいや、この世界が終わるまで探偵は探偵であり続けるんだな」
「それで、お前は何なんだ」
「時間の方だよ、時間。あ、ループって言った方がいい? まあいいや。時間戻せるんだ、俺」
 ちょっとした特技を披露する時の声で、ハツはそう言った。それ以上でもそれ以下でもない、フラットな声だった。

 世界が終わる前、ハツは――目の前の男は、怪盗ハニートラップとして名を馳せていた。捜査本部での識別コードはそれにちなんで八十二号、続原は名前の甘さが気に食わなかったので彼をハツと呼んでいた。内臓みたいな名前を付けてやることで、その存在のファンシーさを削ってやろうと思っていたのだ。
 なのに、本物のファンタジー要素が入ってくるとは思わなかった。それなら確かにハニートラップのノリも赦されるだろう。だって、時間が戻せるのだから! そんなの魔法だ。どう足掻いても魔法だ。
「いや本当、まさかこんなことになるとは思ってなかったよ。驚かないの?」
「……驚いてはいる。そうじゃなきゃ説明が付かないから納得しているだけだ。お前はその能力を使って怪盗をしていたのか」
「そこ責めるの? 続原さんだって推理力を使って推理してるんだから、俺のここを責めるのはちょっとお門違いな気がしない?」
「責めているわけじゃない。だが、お前にはビジネスパートナーがいたよな? それは……そことの整合性は……」
「ああ、あっちも同じ能力を持ってたんだよ。本当に、こんな稀有な能力者が二人もこんな隙間産業に取られてたんだから酷い話だよね」
「………………」
 何と言っていいか分からず、続原は思わず黙った。時間を戻せるというのも荒唐無稽だというのに、同じ能力を持った人間が揃って怪盗家業に精を出していたというのだから信じ難い。けれど、ハツは嘘を吐いているようには見えなかった。
「……まあ、そっちは結局死んじゃった。続原さんって助手は要らないタイプだったんだっけ? それがいいよ。どうしたって失った時のダメージが凄いもん」
「助手を取らないと決めているわけじゃない。そもそも探偵に助手が必要だとは全く思えないだけだ。シャーロック・ホームズに探偵像を委ね過ぎだとは思わないか?」
「ていうか続原さんって本当にこの為だけにこんなことしたの? ……本当に頭おかしいよ。俺、普通の人だから。正直こういうの触れるだけでキツい……」
 それはそれで怪盗らしからぬ発言だった。いつでも薄い膜の中に感情を置いていたハツが見せた、分かりやすい弱さに怯む。それを汲んだのか、ハツは自嘲混じりで言った。
「人間が死ぬのが苦手なんだ。悲しむところも見たくない。結局俺は車に轢かれるのが怖くて外に出られない臆病者なんだ」
 そう言うと、ハツは続原の左腕に目を遣った。そこには未だに深々と矢が刺さっており、隙間からだらだらと血が流れている。
「あのさ、本当にごめんだけど、仕掛けがあるとこまず全部話してくれない? そうしたら戻すから。俺は続原さんの左手がそんなんなってる状態でまともに話したくないよ。仕掛けを回収したら、改めて話そう」
「私の記憶は引き継がれないんだろう」
「でも、俺が仕掛けを回収に入ったら、きっと続原さんは何かを察するはずだよ。それでいいんじゃないかな。頼めるよね。俺にとっては未来で、あんたにとっては過去の続原さん」
「分かった。その依頼、この続原常連が託されよう」
「頼んだよ、名探偵」
 続原は一瞬だけ自己の連続性というものを考えた。ここで時間が戻れば、今の続原は何処に行くのだろう。そもそも、一度戻されているのは確定なのだから、今更怯える必要も無いのだろうが。
 躊躇いが無かったと言えば嘘になるが、それでも全てをハツと続原常連に託すことになった。この傷は深いし、ここではまともな治療も出来ない。なら、合理的な判断としてそうした方が良い。
 続原は冷静に、探偵としてそう判断した。

 続原が部屋で詰め将棋の問題を作っていると、ハツがのそのそと歩いてきた。珍しく沈鬱な表情を浮かべながら、続原が数日を掛けて仕掛けたものを回収していく。
 続原の方は記憶に無いが、どうやら世界の方は巻き戻ったらしい。未来の続原は、きっと上手くやったのだ。
「げー、何てエグい仕掛けしてるんだよ。マジで信じられないな。俺絶対嫌だなー、これで腕刺されたらあんな鬼気迫る様子で話せないよ。何でそういう場面でも普通に解決編が出来るの?」
「名探偵は往々にしてそういう場面があるんだ」
「俺は怪盗で本当に良かった」
 そう言って笑ってから、ハツは間髪入れずに言った。
「俺は時間を戻せるんだ。予知じゃなく、そのまま戻せるタイプの怪盗」
「ああ、やはりそうなんだな」
「ねえ、俺がループ出来るんじゃなくて予知が出来るタイプの怪盗だったとしたら、左腕はどうにもならなかったよねえ。いやほんとマジで」
「どちらかは分かってなかったが、サイコロの件があったから九割方ループであるとは思っていた」
「その結論を受け入れられるだけの頭の柔軟性があるから、続原さんには特殊設定ミステリーへの適性があるんだよね」
「無くていい」
「無くていい人間はこんなことしないって」
 ハツが不満そうにそう言ったのすら、何だか不思議な気分だった。手元にある詰め将棋の問題を見ながら、しばし続原は考え込む。
 続原がしたのは、シェルターの中に備え付けられていたボウガンを以前の事件で仕掛けられていた装置と同じように改造し、ダイニングスペースの戸棚に仕掛けたことだけだ。
 戸棚の裏には穴が開けており、仕掛けた糸によって発射と同時にボウガン自体も裏に落ちるようになっている。今から三十分後に一連の仕掛けが発動し、タイミング良く立ち上がった続原の脾臓を撃ち抜くはずだった。便宜上、続原はここでの自分を一週目の続原常連と呼ぶことにした。
 脾臓を撃ち抜かれれば出血を止めることは難しい。それを見たハツは――本当に時間を戻すなんて荒唐無稽な能力が存在し得るのだとしたら――間違いなく時間を戻すに違いない。
 そして、時間を戻したら対策を練るはずだ。澄ました顔で詰め将棋の問題を作っている二週目の続原を見て、まずは怪我をしないように庇うだろうか。だが二周目の私はどうにかして何処かに矢を受けるだろう。と、続原は思う。ここで失敗していたらそもそも計画の練り直しだ。もっと別の機会を狙って、ハツの前で死にかけなければならない。
 だからこそ、二周目は強硬に自らを傷つけようとするだろう。そしてハツが焦るのを見た二周目は、自分の推理が正しかったことを確信して、彼に詰め寄れるはずだ。そこでハツが能力について認めれば十全なのだが『それ』が正史とならなかった以上、何か時間を戻さなければいけない事態が起きたのだろう。
 大方、二周目の私の負傷が酷いものだったか、あるいはハツ自身が傷ついたかだ、と続原は推理する。二周目とハツの間にどんなやり取りがあったかは知らないが、ハツは時間を戻すことを決め、二周目はそれを了承しつつ、ハツに自白を約束させた。
 ハツはその約束を受け入れざるを得ない。真実が分かるまで、続原常連は同じことを繰り返すからだ。名探偵としての彼はそういう生き物だし、ハツはそれを重々承知している。
 それらはまだ何も起こってはいない。一連の流れを続原が構想しただけだ。けれど、今ここに居るN+1周目の続原が目的を達成しているということは、実際にそれらの想定が行われたことを示している。与り知らぬところで放たれた矢は、続原が手を離しても飛び続けたのだ。

 ハツが物騒なものを処理し終えた後も、続原の意識は続いていた。即ち、時間は戻されなかった。そもそも観測出来ない続原からすれば戻されようと戻されまいと同じなのだけれど。
 紅茶はシェルターの中では貴重品だった。そのままでも飲める水に味を付けるなんて贅沢は、この生活には似つかわしくない。けれど、兵舎にひっそり佇む少女のようなそれを、続原は今日の日の為に開けた。二人分を淹れて、ハツと向かい合う。
「で?」
「で? とは何だ」
「こんなことまでして俺の秘密を暴いたんだから、目的があるんじゃないの?」
「……目的は無い。強いて言うなら私の役割は明かすことだった。業が深い話で申し訳ないが、そういった話は終わる前の世界に置いてきた」
 少し渋くなってしまった紅茶を啜りながら、続原は淡々と言う。
「ループ能力があるって暴いたんだから、もっと他に言うことがあるんじゃないの? 続原さんってSFとかあんまり読まない人?」
「他に言うこととは何だ。火星への移住計画か? 五万年前の死体か?」
「時間を戻してもっと沢山の人を助けられないのかとか、時間を戻して世界滅亡の原因を探れないかとかだよ」
「時間を戻してもっと沢山の人を助けられないのか? そうでなくても時間を戻して世界滅亡の原因を探れないか?」
 ハツの目があまりにも素直に求めてくるので、続原はそのまま言った。『そんなことが出来るなら、お前はとっくにやっているんじゃないか』なんてくだらないことは絶対に言わなかった。
「それはね、無理なの。世界滅亡の折にうっかり俺が死んだら、もう戻れないから」
「なるほど、なら今の方がいいな。何も分かっていない状況で戻れば、一転して王手を掛けられる」
「そういうこと。今の状況だってかなり奇跡的なんだよ。俺は多分、未曽有のカタストロフィで何度か小刻みに時間を戻し、どうにか俺と続原さんでここに逃げ込んだんじゃないかな。それで定着したんだから、これが多分あの時のベスト」
 まるで他人事のような口振りだった。信頼のおける誰かからの指示に、否応なく従っているかのようだ。一年ほど前のハツの様子を思い出そうとして、はたと止まる。最初から諦めたような顔をしていたハツは、一体何処がスタート地点だったのだろう?
「続原さん嫌にならないの?」
 ハツの遍歴について考え始めた瞬間、不意にそう尋ねられた。
「何がだ。私はとっくにこの世界にもシェルターにもニシンの缶詰にも嫌気が差しているが」
「訳分かんないでしょ。時間が戻せるとか言われてさ。怪盗がどうとか世界滅亡がどうとかさ、自分の知らないところで何度も時間が巻き戻されてるのとか。考えたら嫌にならない?」
「時間がループしていることを知覚出来ないのならそれでいい。探偵は自分の目で見たものを証拠として採用する。私はお前の能力は認めたが、実際のループを味わったわけじゃない。嫌になどなるものか」
「……証言とかは自分の目で見たものじゃないんじゃないですかー」
「何とでも言え。ここには私とお前しかいないんだ」
「でも真面目な話、発狂したっておかしくないでしょ。同じ時間を繰り返していたことに自覚させられたんだからさ」
「いいや」
 手元のカップを指で擦る。すっかり中身は冷えてしまっていた。時間さえ戻せれば、火も使わずにこれを温め直すことが出来る。気づいていないだけで、続原は同じ紅茶を何度も飲み直しているのかもしれない。
「だが、私がお前の能力に気がついたのだって、これが初めてじゃないんだろう? なら覚えていなくとも今更だ」
「こんなやり方をしたのは、覚えてる限り初めてだよ。他はもっと別のきっかけだったりしたし。そうしてささいなきっかけで気づくのももう少し後だった」
「……ということは、やはりこの生活自体も繰り返しに入ってるんだな?」
「だって三年後には食糧も尽きちゃうんだもん。いやー、本当に目減りしていくだけの生活でさ。仕方ないよね? あんまり言いたくないけど、食料が尽きかけた時の続原さんと俺ってば、ねえ」
 ハツのその言葉に、一瞬だけ殴られたようなショックを覚えた。食料が尽きた後の自分がどんな醜態を晒すかではなく、その期に及んでもなお、この生活は一向によくならないと知ってしまったからだ。続原が毎朝確認しに行く旗に集ってくる人間はいない。続原は結局何も成し遂げられず、この地下で死んでいくのだ。
「……この生活は、終わりまで変わらないんだな」
「うん」
「私はそれを聞いて、何処かに向かおうとしたことがあるのか」
「うん。このまま同じ生活を続けていても仕方が無いって、俺に別れを告げて何処かに旅立った続原さんもいたよ。何にせよ俺は食料が無くなり次第、一気に時間を戻しちゃうから。続原さんの旅はそこで妨害されるんだけどさ。本当にごめんね?」
「いや……。そんな捨て鉢な気持ちで何の指針も立てずに向かう旅がいい方向に向かうはずがない。私は失敗しただろう」
「俺もそう思ったから同行しなかった。俺が死んだらおしまいだから、シェルターに即座に戻れる範囲外には行きたくないんだよ」
 ハツはそこまで言うと、ようやく紅茶に口を付けた。そのまま「俺、猫舌だからこのくらい待たないと駄目なんだよ」と、どうでもいいコメントをする。
 続原常連は長らく名探偵をやってきたので、事件解決が即ちハッピーエンドではないことを知っている。だから、自分が途方も無いくらい落ち込んでいることも、ハツの目が深い諦念に囚われ続けていることも、この結末はどうみたってバッドエンドであることも気にしてはいけない。
 沈黙が続く中、先に口を開いたのはハツの方だった。
「もうやめた方がいい?」
「……どういう意味だ」
「俺は死にたくない。凄く死にたくない。でも、だからって続原さんまで付き合わせるのってどうなのかなって。先述の通り、俺は続原さんごと時間を戻し続けてる。でも、続原さんが嫌なら、もうやめる」
「食料が尽き次第、自殺するという話か」
「こうなったら心中みたいなもんだけどね。いやあ本当にろくな人生ではなかったけれど、終わり方までろくなもんじゃないよ」
 続原は来るべき終わりについて考える。食料が尽き、双方共に死ぬことが避けられなくなっても、ハツさえいれば『延命』が出来る。時間を戻して缶詰のシチューや魚を食べれば飢えやしない。
けれど、時間を戻せばこうして真相に気がついた続原や、ハツに時間を盗まれた続原も消えてしまう。何も積み重ねられない生活を延々と繰り返し続けるのに、何の意味があるだろう?
「……一応聞くが、食料が尽きる全滅ポイントから、一年半だけ戻すというのは出来るのか?」
「一年半だけ戻すっていうのも出来るけど、何で……ああ、続原さん、実はこの間のを大切な思い出にしてるんだ」
 ハツが揶揄うようにそう言ったものの、続原は否定が出来なかった。世界が滅亡してから初めての探偵行為なのだ。あれこそが続原の精神を探偵に繋ぎ止めてくれているものの正体で、今の彼の全てだった。あれが無くなるのは想像もしたくなかったが、逆に言えばあれさえ無くならなければそれで構わなかった。
「なら、それさえ保持してくれれば──」
 死ぬ必要は無い。時間を戻すも好きにして欲しい、と続けようとしたところではた、と気がついた。ボウガンを仕込んだ時と同じような感覚だった。これから先のことを、続原は既に知っている。
「いや、いい。そんなことをする必要は無い。好きに戻せ」
「何で?」
「分かるんだ。これから死ぬまでの生活にも、きっと何かしら好ましい思い出は生まれるだろう。いずれ時間を戻して無かったことになると知っているからこそ、私は一日一日を得難いものとして感じてしまうからな。そうしたら、時間を戻すのは一年半前からにしてくれ、あるいは一年前からにしてくれ、半年前にからにしてくれ、そうして遂には戻さないでくれ、になるに違いないんだ。私はこんな状況だからこそ、人間がどれだけ思い出を大切にしてしまうか分かっている」
 正直に言おう。続原はこの真実に辿り着いたことを後悔している。いっそのこと全部無かったことにして、何も知らずに消されたかった。辛うじてそれを願わないでいられるのは、続原がまだ名探偵だからだ。自分の解き明かした真実に負けてはいけない立場にあるからだ。
「だから約束してくれ。私は何度目か分からないが、この真実に到達したんだ。なら、然るべき時がきたら、躊躇うことなく時間を戻してくれ。三年分消してくれて構わない。次代の続原常連が託されよう」
 その時、薄い笑みを湛えながら続原の話を聞いていたハツが、少しだけ不自然な動きをした。いきなり両手でティーカップを持ち、何かに捧げるようにそれを掲げる。ややあって、ハツは言った。
「何だろう。びっくりしたのか悲しくなったのか分かんないけど、カップ割っちゃった」
 当然ながら、ハツの手にあるカップは割れてなんかいなかった。
「シームレスに時間を戻すんじゃない」
「好きに戻していいって言ったのは続原さんでしょ」
「そうだったな。訂正する。謝罪はしない」
「……続原さんは本当に良い探偵だよ。真実を前にしても揺るがない。世界が滅亡しても諦めない。そりゃ、人間だから疲れちゃう時もあるだろうけど、名探偵であるところの続原常連はいつだって一番恐ろしい決断を平気で下す」
「俺は今までも同じことを言ったのか? お前が時間を戻すことを肯定していた?」
「いやあ、続原さん。俺も結構世間に名の知られた怪盗だから、結局のところ俺は元から続原さんあら大切なものを奪っていたわけだよ!」
「それは何だ」
「『続原さんの時間』」
 この間と同じ回答を繰り出しながら、ハツは華麗に笑った。
「というやり取りを続けて、とうとう八百七十三年も過ぎましたが、続原さんはいかがお過ごしでしょうか」
 ハツは少しも表情を変えずに言った。八百七十三年分の重みなんか少しも感じられない顔だった。だからこそ逆に、それが真実であることが窺えてしまってたまらない。
 そうじゃないかと思っていた、と続原は思う。負け惜しみではなく、単なる事実だ。続原常連は年季の入った名探偵である。人間が息の仕方を忘れないように、続原は推理のやり方を忘れない。証拠さえ揃ってしまえば、自分の意思とは関係なく真実に辿り着いてしまう場合があるのだ。それも頻繁に。
「私が発狂したのは何回目だ?」
「まだ続原さんは発狂してないよ。発狂した時はもっと酷かった」
 なるほど、と続原は思う。発狂寸前の自覚はあったが、その未来を知っている相手を前にすると流石に気恥ずかしかった。それだけ長い時間を共に過ごしているのなら、大抵の醜態を晒し尽くしているのだろう。続原は自分が人を殺した自覚も無いまま犯人に仕立て上げられてしまった男のことを思い出した。これだけ事件を潜り抜けていると、そういうパターンにも明るくなってくる。
「俺達はね、二人で出来ることは何でもやったし、二人では出来ないことの全てを切り捨ててきた。でももう、俺も全部を覚えているわけじゃないんだ」
 そこで続原は、さっきの違和感を思い出した。ハツがまるで他人事のように続原の出会いを回想した理由。あれは本当に『そう』なのだ。何度も繰り返している内に、ハツは自分がどうして続原を助けたのかも分からなくなってしまったのだ。それは続原だって知りたかった謎の一つだというのに。世界滅亡の日、ハツは予定を変更してまで続原をおびき出し、一緒にシェルターに閉じ込めたのだ。けれど、それをやったのはあくまでその瞬間のハツであって、数百年も経った後のハツとはもう違う人間なのかもしれない。
 連続性、と続原は唱える。シェルターという箱の中で、自分達は更に一回り小さな箱の中に閉じ込められている。何処にも開かず、何も解決できないまま、犯人不在の事件が続いている。
「とある村で起きた殺人事件の話をしていいか?」
「うん。いいよ」
「その事件の犯人は、村人に無残に殺されてしまった祖父を持つ青年だった。彼は脈々と復讐の正当性を説かれ、復讐を果たすまで自分の人生を取り戻すことは出来ないのだと思い込むようになった。だが、祖父が何故殺されたのかは知らなかった。村人たちは箝口令を敷き、当時の事件を隠蔽したからだ」
「あ、分かった! その青年が復讐を果たしに来た時には事情を覚えてる人間がいなかったんだな!」
「先に言うな」
 ハツの言う通りだった。あれだけ鮮烈な事件であったのに、四十年以上も前の事件を詳細に覚えている人間なんていなかったのだ。その後、続原が自分で調査し、推理した動機はありふれたものだった。村の畑に無断で立ち入ったとか立ち入っていないとかそういうものだった。
「続原さんが言いたいことも分かるよ。ごめんね、迷宮入りさせちゃって。でも、俺は俺を信じていないわけじゃないんだ。続原さんを助けようとしたのなら、そこにはきっと何かしらの意味と期待があったはずなんだよ」
「それは何だ。俺にこんな状況で何が出来る」
「あるいは、怪盗には探偵が付きものだからかも。警察が続原さんに協力依頼をしたって聞いて、多分俺は喜んだと思うよ。だってロマンだしね」
 ついででいいからさ、とハツは続けた。
「続原さんが解き明かしてよ。どうして俺が続原さんを助けようとしたのか。俺は何を諦めて何を諦めなかったのか。動機まで推理出来ての探偵なんでしょ? なら俺は、それを託したいよ」
 いつもの口上がすぐには出てこなかった。ハツが真面目な顔で囁くその依頼すら、何度目なのか分からない。村の事件だって何十回と聞かせてしまっているかもしれないのだ。今日も変わらず滅亡し続ける世界と、誰も応答することが無いのが分かっている件の旗のことを思う。
 その時、ふと魔が差した。残りの紅茶を飲み干すと、そのまま取っ手から手を離す。重力に従ってカップが落下して転がり、テーブルから床へとバウンドして割れた。大振りな破片が散らばった。もうあのカップは使えないだろう。
 ハツはいつもの笑みを浮かべて、続原のことを見ていた。
「続原さんって悪い人だね」
「そうだな」
 続原はそれだけ言うと、割れたままのカップを拾う為に立ち上がった。


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