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河内十人斬りのモチーフ「告白」を社会不適合者が読むと共感の嵐だった

休業期間中に静岡のHiBARI BOOKS & COFFEE ひばりブックスという本屋に立ち寄ったら面白そうな本を発見した。

HiBARI BOOKS & COFFEE ひばりブックス

その表紙には荒々しい書体でこう記されてあった。

町田康「告白」に出会った新入社員より
むさぼるようにージをめくり、
頭を殴られたような衝撃

はじめまして、中央公論新社新入社員の岡田です。絶望的な厚さに、はじめはたじろぎました。しかしご安心ください。軽妙な河内弁で語られる幼少期の主人公・熊太郎にすぐに引き込まれました。不器用で上手に生きることができない熊太郎は、のちに世紀の大犯罪者と成り果てることとなります。それにもかかわらず彼のことを思わず涙を必死にこらえて見守ってしまうのは、きっと私だけじゃないはずです。とにかく手に取ってみてください。
人生の一冊となることをお約束します。

ここまで新卒が言うのであれば読んでみようと思い。
早速購入。1143円+税ということもあり、少し腹が傷んだが、人生の一冊ということであれば、安いくらいだ。

自分自身と重ね合わう主人公の熊太郎

まず、読んでいて引き込まれたのが、主人公の熊太郎の性格である、今で言うところのASD・ADHDに近いのではないかという気質を持つ熊太郎はとにかく、思考が散乱している、本人は思弁的といっているが。ようは繊細で気にし過ぎなのである。時代背景は明治の終盤、わんぱく少年が跋扈する中、熊太郎は考え過ぎる性分から周りの支持は得られない。一つの行動をするにあたっても、自分自身のこだわりや思い込み、余計な考えにより、周囲からは「愚鈍、阿呆」と疎外される。本人としては、他者が持ち得ない、感受性の高さから、思考と行動が直結している村人を馬鹿と蔑みより孤立していく。

自分自身も幼少の頃から、こだわりや思い込みが強く、これと決めたらとことんやってしまうタイプなので、熊太郎の気持ちは痛いほど分かる。
思考が深くなればなるほど、余計なことまで考えてしまう為、その分傷つきやすく、行動が人よりも遅れてしまい、結果マイペースなのである。
これは本当に学校生活や社会人では地獄のような欠点だった。

俺の思考と言動が合一する時俺は死ぬる(「告白」より)

熊太郎はある闇を抱えている、これは償うことが出来ない罪であり、熊太郎を長年苦しめることにもなる。後から思うと、この罪を早々に告白していれば、また結末も変わったかもしれない。
罪が発覚されず、裁かれもされず生き続けることは地獄だ。
発覚されなければ「それでラッキー」と思うほど、この手の人間は愚鈍ではないのである。

熊太郎はその過去の罪を抱えて生きている為、自身の行動原理がすべてその「罪」に直結している。
「何故、そんな極端な発想なんだ」と聞かれても答えるわけにはいかない、思考の過程を言えばそれは罪の自白、つまり滅びへとつながってしまうからである。
このことにより、熊太郎は長年自分の本心を誰にも打ち明けることが出来ない状態になり、本音を言わない奴に誰も本音を言わない為、熊太郎の心の世界にはいつまでたっても他者が存在しない。
このことにより常に考えることは自己保身であり。
最後の最後に舎弟の谷弥五郎に打ち明けるまで本心を言わなかった。

私自身も考えることは自己保身が多く、この過程を他人に打ち明けた場合「ずるい、卑怯者」「そんなカワウソみたいな顔して裏ではそんなことを考えていたのか」など言われて立ち所に火刑に処されてしまう。
ただ、これは私自身の思い込みであり、これを周りに勇気をもって伝えると「まぁ、普通そう考えるよね」と案外、みんなケロッと不正を働いていて笑ってしまう。世の中、皆当然の如く自己保身である。

熊太郎は清らかな感性の持ち主なのか

熊太郎は村民に疎外され、村の名主に自分がどんな不当な扱いを受けているか告げ口をする、ただそれを聞き入れられるどころか、馬鹿にされてしまうのである。
その時、初めて熊太郎は「社会」は「学校」ではなく公正な正義が運用されていないことに初めて気づくのであった。この時熊太郎35歳である。

どうしてこんなことが起きるのか、それは熊太郎が社会、すなわち人間を知らない為である。
思考のスピード差異により、孤立し、自らも他者を嘲り笑い孤立。
いざ、自分でどうにもならない事情が起きたら他者を頼らざ負えなくなる。所詮、人は一人で生きていけないのである。その時初めて、社会に触れても自分の思い通りにならないことは必然である。
世の中には公正で公平な正義はなく、一人一人が掲げる。裁量と判断基準があるだけである。それを自身の嘘偽りのない、正論をかましても。漬け込まれるだけであり、ようは阿呆なのである。

熊太郎は公正高名に自分は不当な状態であることを必死に伝えようとした。
ただ、誰も聞き入れなかった。
それは自身から他者を拒み、社会の役割から逸脱した為である。
子供の頃からの「嘘をついたら針千本飲ます」の価値観からアップデートがされてない熊太郎にとっては(子どもの頃は強制的に学校という社会に要られたためそこまでの知見がある)大人の「狡い嘘」に免疫がなかった。

子どものままの清らかな感性を持っているが、社会に溶け込むことが出来ず、生活は荒れ果て、酒に女に賭博と身を崩す、社会的信用度の低い熊太郎の話を誰も信じてくれなかったのはある意味現代社会にも通じることがありゾッとする。

私もASD・ADHDの為、優先順位や他者への共感の低さ、自身のこだわりが強い為、結果現在休業中である。これでもしも無職になってでもしたら私の社会信用度は今よりは落ちてしまうだろう。(笑えない)

自分が熊太郎にならないためには

周りの人間と同じレールをわたり、百姓になっていれば、熊太郎も幸せだったのかもしれない、だが出来なかった。
他者との溝を埋めることが出来ず、ようやく見えた思考の果が破滅であった熊太郎、とても共感が出来る。
私も昔は「35歳くらいで死にたい」と思っていた時期もあったが、今はその考えはない。何故かと言うと友人や支えてくれる周りの手助けがあるからだ。自分は今休業中といこともあり、この後の社会との繋がりをどう作っていくか考えているが、その時思うのが仮にサラリーマンを辞めたとしてそれは熊太郎と同様に自ら社会との断絶を早めてしまうのではないか?といった不安である。このままでは、熊太郎と同様社会を逆恨みして強行に打ってしまうのではないのか。

恐らくそれはないと思う。
熊太郎と私の決定な違いはこの状況を正直に周りに話そうと決心をしたことだ。熊太郎は自分のつまらぬ意地とプライドで周囲とどんどん距離を置かれてしまい、言動・行動も勘違いされてしまう。
私自身も(そういう意味で言ったわけではないのにな)とあらぬ誤解をされてしまうことが多いので常に自分のことを周りに話し、適切なフィードバックを貰おうと思った。
月並みにいえば謙虚であり続けるのが大事ということである。

人の思考は川に似ていると私は思っている。川の流れを堰き止めると川は次第に腐り始める。勇気が必要だが、自分の考えを放流し、他者の意見を取り入れ、いつも自身の思考をクリアにすれば、淀むことはないのである。

大丈夫、皆そんなあなたのことを気にしていない。

人はなぜ人を殺すのか――。河内音頭のスタンダードナンバーにうたいつがれる、実際に起きた大量殺人事件「河内十人斬り」をモチーフに、永遠のテーマに迫る著者渾身の長編小説。第四十一回谷崎潤一郎賞受賞作。

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