くら寿司

どうも、雑にノートを始めました。しゃもと申します。やること沢山あるのに現実逃避用のノートです。
 さて、初回の話題はくら寿司です。


 僕はいま、くら寿司不買運動をしている。何故か。
 ほんの数日前、くら寿司のある店舗の店長が、その店の駐車場で焼身自殺をした、というニュースがTwitterを眺めていたら目に入ってきた。
自殺は自殺でも、焼身自殺である。しかも、くら寿司の駐車場で。ものすごいメッセージ性だ。

 ところで(クソ雑な話題転換)、哲学者ジャンケレヴィッチは、死を三種類に分けた。
 それが1人称の死、2人称の死、3人称の死、という三パターンである。

 一人称、つまり「私」の死は、経験不可能である。

 二人称、「あなた」の死は、痛烈なものとなり、重くのしかかる。

 であれば、三人称の死はなんだろう。

 要は、名前も知らぬ、我々の人生に直接は関係しない人々の死、ということになる。
 ここでの記述は研究者としてあるまじきことだが、(スミマセン…)ちゃんとジャンケレヴィッチの本を読んでない耳学問での記述なので不正確かもしれない。ジャンケレヴィッチは、この死が数値化され、痛みすら感じさせずに我々に消費されていることを主張している(らしい)。
 そーいえば、小説版の『ぼくらの』の中に、「何故主人公が幸せならハッピーエンドなのか。周りにどれだけの被害が出て、どれだけ死人が出ても、彼らの生は慮られないのか?」という趣旨の問いかけがあったように思う。当時はジャンケレヴィッチのことなど知らなかったが、今思えば三人称の死の問題だ。

 閑話休題。

 人知れず富士の樹海で死んだり、自宅で自殺した人々は、大々的に報道されることはなく、ただその死は統計的な数字に埋没するだけだろう。

 どれだけ死に至るまでの道筋が過酷なものでも、それは三人称の死として、数字の中に埋没してしまうのだ。

 しかし、一方で人々は「死」を(善悪は置いておいて)物語として消費することもある。
 例えば、多くの偉人の物語が「死」によって完結することを考えてみればわかりやすい。要は、「死」は、人の生を物語へと変換させる装置だとも言えるのである。

 くら寿司店長の自殺は、パワハラ、過酷な労働環境による自殺、という悲劇として人々に消費され、そして一時的であれ怒りを生じさせた。
 彼の焼身自殺は、多少であれど、くそったれな社会に波紋を与えるきっかけになった。
 「焼身自殺」という死の形式によって、彼の人生は、3人称の死でありながら、統計的数値に埋没せずに、共感性を人々に与える物語と化したのだろう。
それは、”死の2.5人称化”ともいえるのかもしれない。
 (じっさい、「自死」は社会システムへの抵抗としての側面がある。伊藤計劃『ハーモニー』のなかで、徹底的な生政治に対して、そのシステムへの抵抗として、集団自殺を行う人々が描かれるように。そして、「自爆テロ」なんて言葉がこの世界にあるように。)

 だけれども、消費社会に生きる僕たちは、社会に抵抗した「2.5人称の死者」たちの物語を、インスタントに消費して、すぐ忘れてしまう。
 きっとすぐにこのくら寿司の炎上も忘れられるだろうし、びっくらぽんが大好きなくせにくら寿司不買運動を一人で勝手に謳っているぼくの運動は、何の意味もなさなくなるかもしれない。

 もちろん自殺を賛美するつもりはないけれど、それでもぼくは、「死」によって一つの石を投げ入れた彼の行動を、忘れないようにしたいと思う。

あ、学振書かなきゃだ…



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