『悲華経』を読んで その4

5. 無量清浄

宝蔵如来の御前で誓願を述べ終った無諍念王(過去世の阿弥陀如来)。その誓願を宝蔵如来は「善き哉、善き哉」と讃嘆し、聖王の名前を改められる。

悉くすでに無量無辺の調伏せる衆生を摂取し、今、汝の字を改め無量清浄となさむ(国訳経五53頁)

無量清浄。以前拝読した異訳大経の一つ、『平等覚経』の正式名称は、『仏説無量清浄平等覚経』。そしてその中では以下のような言葉で説き示されている。

その法宝蔵菩薩(法蔵菩薩)その然して後に至りて自ら致して作仏するを得て、無量清浄覚と名く。(浄聖全一207頁)

すなわち、『平等覚経』では阿弥陀如来のことを「無量清浄」という言葉をもって示しているのである(ちなみに、『平等覚経』では「阿弥陀仏」と示されている箇所もある。浄聖全一238頁等参照)

「如来の十号」があるように、仏さまの御名からは様々な御徳を味わわせて頂くことができる。阿弥陀とは、無量寿、無量光の意。そしてこの度の無量清浄。
「清浄」といえば、私はまず「至心」が思い当たる。親鸞聖人は至心を、「清浄心」と「真実心」の二面からその御心を窺がっておられる。『本典』「信巻」の至心釈には、以下のようにある。

仏意測りがたし。しかりといへども、ひそかにこの心を推するに、一切の群生海、無始よりこのかた乃至今日今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心なし、虚仮諂偽にして真実の心なし。ここをもつて如来、一切苦悩の衆生海を悲憫して、不可思議兆載永劫において、菩薩の行を行じたまひし時、三業の所修、一念一刹那も清浄ならざることなし、真心ならざることなし。如来、清浄の真心をもつて、円融無礙不可思議不可称不可説の至徳を成就したまへり。如来の至心をもつて、諸有の一切煩悩悪業邪智の群生海に回施したまへり。すなはちこれ利他の真心を彰す。ゆゑに疑蓋雑はることなし。この至心はすなはちこれ至徳の尊号をその体とせるなり。(『註釈版』231-232頁)

「清浄の真心」、そして「利他の真心」。この私が賜る他力信心の中身、至徳の尊号(南無阿弥陀仏)に「無量清浄」の御心が溢れている。


また「正信偈」に、

清浄・歓喜・智慧光(『註釈版』203頁)

とある。私はよく、仏壇のお荘厳の三具足をここに配当して味わっている。御蠟燭の灯火は「智慧」。暗闇の中、蠟燭の明かりがポッとつくと、辺りに何があるか見えるようになる。お浄土は、智慧の光に照らされて、物事の本当の相が見える世界。
御仏花は「歓喜」、よろこびを表しておられる。私たちが普段感じるよろこびには限りがあったり、必ず苦しみが表裏になっている。しかしお浄土は極楽とも呼ばれるように、限りない深いよろこびに満たされている。
そして御香は「清浄」、きよらかさを表しておられる。お浄土は、嘘や偽り、汚れなどが全くない、静かできよらかな美しい世界。
 

以前、御仏壇の御蠟燭と御仏花で、阿弥陀さま(南無阿弥陀仏)の無量光(智慧)と無量寿(慈悲)の御心をお取次ぎくださる御法話を聞かせてもらったことがあり、今でもとても印象に残っている。そして今、そこに「無量清浄」の御心を合わさせてもらうならば、御香の御心も重ねて頂くことができると気づいた。無量寿無量光、そして無量清浄。阿弥陀如来の御徳を示される御名に、改めて味わい深いものを感じる。

南無阿弥陀仏

つづく


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