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昔の手紙が出ています。

天袋から昔の手紙が詰まったダンボールが出てきた。
勝手に出てきたんじゃなくて、私が出したんだけど。

去年の冬に雛人形を20年ぶりくらいに出した時に見つけて気になっていて、先日ついに天袋から出してしまった。

「昔の手紙」と書かれた箱の中身がいつ頃の昔のものなのかすらわからないので、手紙の内容なんかはきっとすっかり忘れている、
と思って恐る恐る(怖いもの見たさに?)1通2通抜き出して見てみたら、

そこにはもう何というか、感謝感激の気持ちしか湧かない感動もののお便りがあって、
たちまち自己陶酔の極みまで到達しそうになった。
半泣き。
号泣まで至らず半泣きで留まったのには多分、
「私も、お礼やお返事をちゃんと書いたのかよぅ?!!」
という自責の思いというか疑いがあるからだとおもう。

そしてまた、
私から出した手紙が万が一まだ何処かで残っていたならば、それはそれでオソロシイ。
きっともう何処にも無いとは思うけど、もし、私みたいに色々とっておくタイプの人がいたらと思うと…

私、何書いてました?
全然覚えてないんですけど。
いや、それ捨てていいですからね。笑

具体的な内容はもうほとんど忘れているけれど、昔はもうばかみたいに呆れるほど手紙を書いて、貰った方はいい加減飽き飽きししてたんじゃ?と今なら思うのに、
当時はそんなことお構いなしに、何気に自分の気持ちをどんどん伝えていたかもしれない。
(色恋沙汰は特にありませんでした。)
手紙しかかけないのかしらんと自分で思うくらい、喋るのが苦手な分、水を得たサカナのようにここぞとばかり色んなくだらないことを書きまくってた。伝えたいことがたくさんあって。
日々の生活の端々で、感じたことや考えたことや、大好きな音楽のことや、みつけた素敵なものや人のことなんか。とにかく出逢った感動のタネや自分の思いを親しい人たちに伝えたかった。

これ、ツイッター案件か?
今も全然変わってないかも。

そんな自分勝手なお便りに対して、友達やそして先生までみんなとても律儀でそして楽しい往信をして下すっていて、すごく有難いと思った。
だのに、私はちゃんとありがとうって伝えていたのか、すごくあやしい。
これを「若気のいたり」で片付けてよいわけがない…

と何十年も前のことを反省をしてしまった。

それらの中には、もうすでに向う河岸に行ってしまわれた方々が、まだお元気だった頃に下すったお手紙が何通かあって、それらには胸がぎゅーとなった。


こんな感じで「昔の手紙」の箱が出ている間は、
昔の私って何を考えて何に悩んで?何を思っていたんだろーかしらん??と、少し自分に探りを入れながら、読んでみようかな。
自分が書いたことを妄想するとこっぱずかしいけど、
頂いた手紙の文章を読むことには、とても新鮮に感動したりしています。