見出し画像

文章を職業にしたい人のために

 最近は、「借金玉は才能があっていいよな」みたいなことを言われて、もんにゃりとした気持ちになることが増えた。もちろん、才能があると言っていただけるのはうれしいことなのだけれど、「おう!俺の才能に任せろ!」と胸を張るに僕の経歴は些かに情けないところがある。

 なにしろ、デビューは32歳である。物書きを目指したのがいつだったのか正確には覚えていないけれど、中学生の頃にはもう書き始めていたから遅くても15歳頃だ。わざわざ2年遅れて大学に入りなおしたのも「文章をきちんと勉強したいから」だった。大学時代はずっと文章を書き、勉強を続けていたけれど、これはもう本当に清々しいほどだめだった。就職したのはある意味で「筆で食う」夢と決別するつもりだった。でも、結局やめることは出来なかった。それはそれとしてその先では「就職してもだめ」「起業してもだめ」の僕のだめ人生が続いていったわけだけれど。

 そんなわけで、ちょっと開き直るためのアプローチをやってみようと思い立ってこの文章を書いている。「俺は文章が書けるぞ、俺は才能があったぞ」という気持ちを持ってみる努力は必要かもしれない、自己肯定感はあったほうがいいし、必要以上の卑下はむしろ傲慢だ。自分につきまとっている、「俺はだめだ、今はたまたまだ。そもそも売れ方も絡め手だ、そのうちまた食えなくなる」みたいなモニョモニョを振り払ってみる努力は必要だろう。まぁ、「そのうち食えなくなる」はどう考えても確度の高い予想なのだけれど、そういう話はともかくとして。

 文章を職業にしたい方、良い文章を書きたいと思っている方の何かの手助けになればとてもうれしい。

まずは「読んでまとめる」こと

 「筆でメシを食いたい」人が最初に思いつくのはいわゆるエンターティメント小説みたいなジャンルかもしれない。実際、僕の実弟はそのジャンルでメシを食っており、クソ売れている。兄より優れた弟など存在してはいけないという気持ちが満ちてくるけれど、こういう方向性で才能を開花させられた人は素晴らしいし、悔しいけど弟の小説は面白い。

 しかし、文章の世界は広い。こういった物語小説というのはあくまで一つのジャンルにすぎない。最近は動画文化も隆盛しているけれど、相変わらずインターネットにおいてもあるいは活字書籍においても「文章」は主要な伝達手段だ。「なにか」について「伝わる」「確かな」文章を書ける人には仕事がたくさんある。その中で自分の書きたいもの、表現したいことをやるチャンスも当然に多くなる。

 つまりこれはどういうことかというと、「調べてまとめる」ことがまずは重要だということになる。検索を汚染する粗悪な「調べてみた」とは一線を画する、しっかりと他者の専門ジャンルに踏み込んで、あるいはジャンルを横断して読み手に伝わる文章をまとめられる能力。それは極めて大きい商業的価値を持つ。極論すれば、「書く」能力より「読んでまとめる」能力の方がむしろ大切なのだ。そして「読んでまとめる」ためには資料を探す能力が必要になる。

 僕は大学から離れて長いのだけれど、論文は一定読めるようにしているし(なんか大学の卒業者に特典があると聞いたのだけどよくわからないからお金を払っている…)、必要とあれば国会図書館に出向くこともある。資料は山のように取り寄せるし、部屋は本で埋まっている。僕の書籍は「なるべく読みやすく、身近に感じられるように」をモットーにしているので、こういった元ネタが完全に見えなくなるまで徹底して噛み砕くけれど、発達障害みたいな医療の領域に食い込む文章を書く以上、「ヘタをこいたら」えらいことになるのは間違いない。そういうわけで、たくさんの資料に当たることはどうしても必要になってくる。

 たとえばなのだけれど、「2010年以降の発達障害における薬物治療の動向について三日でまとめて」と言われて、ササっと論文やら書籍やらを読んでA4数枚くらいのレポートを出せる人は、めちゃくちゃ文章が書ける人だ。僕自身も最近は生産量が増えて、こういった業務を外注することが増えてきたけれど(一人でやれる限界は本当に小さい…)、「出来る人の奪い合い」が発生しておりギャランティーは高い。専業の友人(良き外注先でもある!いつもありがとうございます!)もおり、なかなかの稼ぎになっている。なにしろ、雑誌社と外注先の奪いあいになってしまうのだから。そして、かくいう僕もこういった外注ライター業務の出身である。大学時代も、あるいは社会人の食い詰め期も合間合間で仕事をさせていただいて口に糊してきた。この経験は間違いなく書籍執筆に生きたと思う。というよりは、大学時代の僕がデビューできなかった大きな理由の一つは、この業務の経験値が足りなかったからだと言ってしまっていいかもしれない。

 たくさんの資料を横断的に精査し、クライアントの読みやすい形にまとめる。こういった経験を多く積んでいくと、長い文章を構造化できるようになる。たくさんの要素を盛り込みながら、同時に「読みやすい」文章を書くにはこの能力が必要だ。僕の1冊目の本は私小説としての色が多分にあるのだけれど、あの分量をきっちりまとめあげることは、25歳(一度物書きに挫折した歳だ)の僕には出来なかった。

 物書きを目指す人は是非一度、なにかを「調べてまとめて」みよう。例えば、この10年間のファストファッション市場はどんな変遷を経て来たんだろう?ドイツ車の世界市場における人気はどう推移してきたんだろう?日本には一体何種類のポン酢が存在して、風味や売り方のトレンドはどうなってきたんだろう?どれも一筋縄ではいかない「お題」だけれど、書き上げれば間違いなく一冊の本として、あるいは一本のコラムとして大きな魅力を持つことが出来ると思う。

 書くというのは「調べて読んでまとめる」作業だ。この土台がしっかりと形成された上でこそ、創造性は輝いてくる。少なくとも、僕のような創造性だけで突き抜けることが出来なかった人間にとってはそうだった。物書きを目指すかたは是非、「調べて読んでまとめる」をやってみて欲しい。あなたが自分で調べて自分でまとめた面白い文章を、僕は読んでみたい。

造語は「装飾」と「根幹的ターム」を必ず分ける

 僕は造語が多い作家だといわれている。実際その通りだと思うし、もちろんレトリックには大きなこだわりがある。「茶番センサー」「部族の掟」「見えない通貨」「ポリコレ棒」…思い返すとうっとうしいくらいたくさん言葉を作ってきた。これは僕が「いかに表現するか」が重要な詩文学を長年好んできた、というか恥ずかしながら詩人を目指していた人間だからだと思う。

 詩の技術を実用的文章に応用している人は多くないので、これは僕にとって大きなアドバンテージになった。もちろんこのあたりの技術は商売道具なのであまり詳らかにはしないけれど、「違うジャンルの技術を応用する」みたいなやり方は普遍的な方法論だし、音楽、演劇、絵画…あらゆる表現は文章への応用性があると僕は考えている。だから、日頃からなるべく多くのカルチャーに触れる努力を僕はしている(努力というのはちょっと見栄を張り過ぎかもしれない、それはなにより楽しいことなのだし)。

 その一方で、こういった技法は文章の「正確さ」みたいな部分を大きく毀損する可能性がある。むかし、理系の言葉を援用して批評を書いていた人たちが「使い方がめちゃくちゃだ」「定義がどんどん変化している」みたいな感じで大変に怒られた事件があったけれど、自分で作った言葉の定義をコロコロ変えながら(多くの場合それは無自覚に行われている)使うと、文章はどんどんわけがわからなくなる。みなさんも「やたら高尚そうな単語がいっぱい出てくるけど、何を言ってるかぜんぜんわからん」みたいな文章を読んだことが一度はあるのではないだろうか。

 権威のある人は「適当に書いても読者が褒めてくれる」みたいな状況になりやすいので、何の定義もされない造語を次から次へと乱発して誰にも意味が読み取れない文章を書いていることがままある…とシベリア帰りの祖父が言っていた。僕はわからないけれど、そういうこともあるかもしれない。少なくとも、辞書的に定義された言葉を使うことに比べて、自分で作った用語を使うことはリスキーだ。僕自身も、「自分で作ったタームの意味が文章の最初と最後で変わっている」みたいな事態に気づいて原稿の掲載をストップしていただいたお恥ずかしい経験がある。

 レトリックを武器にしている物書きとしては些か認めにくいことなのだけれど、装飾的なレトリックは「より伝わりやすくより面白く」するためのものであって、文章のコアではない。しっかりとタームを定義してブレずに使い論旨を組み立てることが、少なくとも詩以外の文章ではコアになる。僕の文章も、突飛な比喩や造語が目立つものではあるのだけれど、それはやはり僕の文章におけるコアではないと認めるしかない。

 僕は最近、一度「ベタ書き」した文章をお客様に見せる形に「デコレーション」する方法で文章を書いている場合が多い。まず文章の骨をしっかりと作り、それから飾りをつける。当たり前なのだけれど、僕自身忘れがちになってしまう基本だ。しかし、僕は今これを一番大事にしている。文章にとって最も重要なのは「骨」であり「構築」だということ。もちろん、その上に生クリームやフルーツを盛りつけて蝋燭に火をつけるのはとてもとても心躍る作業なのだけれど。

長期的合理性で書こう、信用を積み上げよう

 僕はインターネットに救われた物書きだ。ツイッターに放り出してていた文章が出版社の目に留まって、出版の機会を与えていただいた。実際、「デビューしたいならインターネットに発表しろ」というのは一面的真実ではあると思う。なにしろ、編集者というのは「売れる人間」を見つけてナンボの人々なのだ。彼らはいつも目を皿にしてインターネットを巡回している。「借金玉をインターネットから捕まえて文章を書かせて売る」なんてイカれた商売をしている人々なのだ。イノシシを捕まえて鍋にして売る方が、誰が考えても正気の商売だよね。

 しかし、その一方でインターネットは大きな弊害をもたらした。「バズる」ことを優先するあまり、とにかくその場で話題になればそれでいいといった粗悪な文章が溢れかえった。碌に原典に当たりもしない、報道ソースすら確認していない批評や時事考察、あるいは扇情的なテーマで対立や怒りを煽るような文章。みなさんもうんざりしているところはあるのではないだろうか。もちろん、だからといって僕は「インターネットはだめだ」なんていう気はない。なにしろ、僕自身がインターネットに救われた人間なのだから。しかし、こういった「短期的合理性」みたいなもので書かれた文章、「バズればいい、話題になればいい」で放り出された文章は、書き手のキャリアを大きく毀損する。平たく言ってしまえば、長期的に見ると大損する。

 考えても見て欲しい、あなたが出版社の人間だとして、いかに大きなバズを起こしているとはいえ、いい加減なことを言って世論を煽って燃え上がっている人を信用するだろうか。もちろん、「とりあえず部数がでればいい」も商業出版の一面的真理だ。しかし、こんな近視眼的な戦略がそれほど長続きするだろうか? 結果はみなさん自身で調べてみて欲しい。僕が見る限り、こういった戦略はほとんどうまくいっていない。「燃える」ことは簡単だけれど、「燃え続ける」ことは難しい。人は単なる流行りものにはすぐに飽きる。最終的にものをいうのは著者として積み上げた信用だと、少なくとも僕は信じている。だから僕は「バズればいい」みたいな文章を書かないし、対立を扇動したりはしない。インターネットの燃え殻になるのは死んでもごめんだ。僕は自分が納得できないもの、不当なるものに対しては苛烈に怒るけれど、話題を浚うため、インターネットの需要に応えるために文章を書きたくなんかない。

 もちろん、インターネットの仕事は基本的に「バズらせてください」というものが多い、これは発注者の立場になれば当たり前だ。ここに現代において文章を書くことの最大の難しさがあると僕は考えている。作家としての長期的信用を積み上げながら、同時にクライアントの要望にも応えること。多くの仕事につきまとうある種のジレンマだ。

 しかし、自分自身の長期的キャリアを考えていけば、ある種の線を引くことは可能だ。自分がどんな物書きになりたくて、どんな形で読者様から信用を得たいか。そこにはもちろん一貫性の問題も大きく表れてくる。僕は、プロとして書く「からこそ」ここは大切にするべきだと考えている。少なくとも、僕は「書き捨て」の文章を書きたくない、そんな不誠実なものをお客様には提示したくないと心から思っている。これは僕の信仰にすぎないのだけれど、物書きの売りものは究極的には「文章」ではないと思う。それは、意地であり信念だ。商業的要請や生活の現実にもみくちゃにされながらも、絶対に譲れないものがあるからこそ、僕の文章には貴重な読者様の時間やお金を頂戴する価値が宿ると信じている。

それでも、あなたは読者を信じるべきだ

 文章を書いて読んでいただく。そういうことを仕事にしていると、クソみたいなことが山ほど起きる。書いていないことを批判されたり、信じられないような曲解もされる。名前が売れれば誹謗中傷にさらされることもほとんど避けがたい。古くからの読者さまはうんざりするほど(うんざりさせて本当に申し訳ない)ご存じの通り、僕自身そういったものにぐちゃぐちゃにされてきた。僕は「納得がいかないものには抗弁する」を信念にしているけれど、どう対処していくかは一人一人やり方を見つけなければいけない。柳に風と受け流すというのも、一つの賢いやり方だ。これもまた現代の物書きには頭の痛い問題だと思う。

 しかし、それでも伝えたいことがある。

 書く人間は読者を信じるべきだ。精いっぱい自分が正しいと信じることを出来る限りの技量を尽くして書けば、読者はそれを理解してくれると書く者が信じないで、どうしてよい文章が書けるだろう? 多くの「バズればいい」「煽れればいい、話題になればいい」文章の根幹には、拭い難い読者への不信があるのではないかと僕は思う。つまり「一生懸命真面目に書いてもどうせ報われないのだから、流行りと需要に乗って読者が喜びそうなことを書き散らしてやればいい」といった態度だ。その気持ちがまったくわからないかといえば、そんなことはない。「なんでそんな曲解が生じるんだ?」「なんでこの人は悪意があるとしか思えない読み方をするんだ?」「なんで僕の書いた覚えのないことが、僕の主張だとデマが巻き散らかされているんだ?」みたいなことは本当にたくさんあった。それでも。それでも。それでも。

 どうしてもバズりたいなら野良猫を捕まえて鍋にした話でも書けばいい。その文章は間違いなくバズるだろう。しかし、猫を捕まえて鍋にして食うような文章で、長期的信用を獲得することは出来るだろうか。本当にそんなことをして儲かるだろうか。僕だって、「とにかくバズりたい」と思うなら「健常者どもはクソだ!俺たちはあいつらによって不幸にされている!」と騒ぎ立てればいいだろう。あるいは逆張りで、「発達障害者なんてクソどもだ、あいつらは甘えている」とでも叫べば間違いなくとんでもないバズが起きるだろう。そんなものに本質的価値が存在するわけがない。僕は自分が正しいと信じる、価値があると信じる文章を書いて、あなたに喜んでもらいたい。

 僕はあなたに喜んでもらいたくてこの文章を書いている。しかし、あなたが喜べばそれでいいとは思わない。「こういう文章を書けばおまえは喜ぶだろう?」みたいなことをやるくらいなら、筆を折って非正規雇用のサラリーマンに戻ればいいと思っているし、僕はこの文章を読んでくれるあなたを心から信じている。この言葉は伝わると信じている。

 もう、これ以外全部忘れてしまってもいいので、たった一つ覚えておいて欲しい。僕は文章を読んでくれる人のことを信じるし、あなたのことを信じている。だから、文章を書こうと思っているあなたも読者を信じるところから書き始めて欲しい。読者にあなたの正しいと信じることを技量を尽くして伝えようとしてほしい。そういった姿勢で書かれた文章は、その商業的評価に関わらず「素晴らしい」ものだと僕は小さく信じている。

 僕はあなたを信じます。
 ほかの何物も信じないとしても。

 

 

 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?