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それと貧しさについて、あるいはやさしさについて

 貧しいということは苦しいことだ。僕も長年食うや食わずの暮らしをしてきたから、とてもよくわかる。若いころもずっと金がなかったし、事業を始めて一時期の良かった頃を越え、借金を抱えて転落した後はずっと本当につましい暮らしをしてきた。生活保護に頼ろう、というラインまで行ったことも何度もある。僕が生活保護を取ったことがない理由は、「ギリギリ間に合ったから」という他ない。今月の家賃が遅れていると、何も考えられなくなる。管理会社から電話をもらって、支払いの遅れを謝る度に本当に生まれて来て申し訳ないという気持ちになる。

 最近も、正直言って僕の暮らしは大分不安定になっている。というのも、妻の収入がものすごく減ってしまったからだ。ある意味で、タイミングが良かったといえるところもある。僕が稼げていない時(人生のほとんどのタイミングだ)にこれがやってきていたら、僕らの生活は間違いなく破綻していただろう。とはいうものの、僕もコロナでかなりの仕事が飛んでしまったし収入の減少はかなりきつい、めこめこに収入は減った。イベント、講演といった収益がなくなってしまったし借金玉業以外の仕事もかなり飛んだ。こうしてnoteを更新していただくおひねりにはいつも感謝して暮らしている。

 しかし、僕の貧しさは究極的なものではない。もちろん、まともなサラリーマンを30過ぎてやっとやれるようになったとか、時々鬱で布団から出られなくなるとかそういう障害や疾病に由来する問題はあるけれど、それでも僕はその気になれば生活保護を受給することができる。これまで何人もの人間を受給申請に随行してきたし、僕自身は間違いなくそれをやれる。少なくとも現状、日本に住んでいて生活保護を申請出来るだけの能力を有していれば、「究極的な貧困」に陥ることはない。制度上はそういう仕組みになっている。この「制度上は」という含みについては、誰もがご存知の通り行政手続きを全くやれない、福祉にアクセスできない人というのは存在するからだ。

 「行政の扶助に自らアクセスできない」人は、究極的貧困の状態にある。この状態に容易に陥るのはまず「子ども」だ。日本には生活保護というシステムがあり、それを利用している限りは「子供の食事代すらない」という状況にはなり得ないはずだが、親が育児を放棄している、あるいは親に子どもを養育する能力がそもそも無い(残念ながら非常によくあることだ)という問題で、子供は究極的な貧困状態にしばしば陥る。この状態を打破するための社会運動としては「子ども食堂」というものがある。あれは、かなり合理性の高い施策であるだろうと僕も思う。親権という極めて強力な権利に守られた「家庭」という密室から子どもを引き出す方法は、それほど多くない。

 「親にお金を渡しても、子供の食事代にはならない」という圧倒的な事実があるのだ。育児放棄をしてパチンコや酒につぎ込む「悪い親」の典型像に限らず、子どもを養育する(適切な食事や衣類、必要物を与えて健康な生活環境を用意すること)ことがそもそも能力的に不可能な親というのはたくさん存在する。僕は貧困スラム(少々大げさな言い方かもしれない)出身なので、そういう状況をよく見て来た。

 親がいなくなったアパートに子どもだけが暮らしているので、あっという間に他の子供たちも吹き溜まり想像し得る限りの悪いことをするネバーランドが完成していくのを、僕は何度となく見てきた。親がいても、家に金があってもメシが食えない。究極的な貧困というのはそういう状態を指すのだ。「彼氏が来るから」という理由で家を追い出された友達と公園で煙草を吸った思い出が、僕にもある。親の彼氏が帰るまで寒空の下で時間を潰さなければいけない友人に、一本吸えよ以外にかけてやれる言葉は、中学生の僕にはなかった。

 あの頃、煙草は魔法のアイテムだった気がする。あれがあると、それは貧困や惨めさではなく、不良とかグレているとか社会的逸脱とかロックンロールとかパンクスとか、そういう包み紙で自分を取り巻く環境を覆うことができた。僕は18歳で家を出て、シェアハウスを作って暮らし始めたのだけれど、その時仲間が集まった理由は「親が生活保護を受給しているのでケースワーカーが来ると実家から逃げなければならない」とか「新聞奨学生をやっていたけれど、あまりの待遇に限界を迎えた」とか「妹が中学生なのでなんとか個室を用意してあげたい」とかそういうものだった。僕はそういう連中と、メシを食って来た。リサイクルショップを巡って生活資材を揃え、安売りの豚肉を分け合って暮らして来た。

 彼らと暮らしていると多くのものを学ぶことができた。「金がない」ということは、究極的な問題ではないのだ。貧困層の多くは、金があってもそれを適切な形で生活を構築することに使えないという理由で、貧困の底に沈んでいく。僕のシェアハウスが、一人6万円がいいところの三人(それに全員を思い出すくらいが難しいほどの居候)という収入でそれなりに暮らせる一方で、20万円程度も収入がある奴がどんどん借金を増やして破滅していくことが本当によくあった。そして、彼らは本当のどん詰まりにいたるまで、あるいは至っても、行政の福祉を受けることが出来なかった。

 僕に行政を利用する知恵を教えてくれたのは、高校生の頃夏休みのアルバイトでテキ屋で働いた時に、一緒に働いていたおばちゃんたちだった。彼女たちはみな生活保護を受給していた。反か順かといえば反というべき社会的な人達の経営するテキ屋からものすごい勢いでお金を引っこ抜いて懐にいれる、ハードでタフなスラムのおばちゃんたちだ。もっとも、彼女たちに言わせれば「私たちが生保を取ってるからって足元見過ぎなのよ、クソヤクザが」というところなので、これはなかなか難しい問題になる。とにかく、彼女たちが僕に「行政をきちんと頼る、書類を出せと要求する」といった知恵を教えてくれた。不動産屋とケンカする方法も彼女たちに教わった。本当に彼女たちに教わったことは僕の人生の原点の一つという気がする。今も彼女たちは元気にやっていると思うので、不正受給はちゃんと怒られて欲しい。

 子ども食堂の話に戻ろう。子どもにうまくて栄養のある食事をさせ、また「まともな大人」との接点を作る、あるいは虐待の発見なんかも期待できる子ども食堂にはそれなりに高い意義がある。あの施策は「金を撒いてもどうにもならない」という諦めから始まっているタフさがあり、僕は大変素晴らしいと思う。「政府が給付金を撒けば解決する」あるいは「金やモノを渡せば解決する」というお気楽な発想ではたどり着かない、たかがメシから子どもを少しでも助けようとする現実性がそこにはある。金では解決しない問題に自らコミットしていく姿勢があるのだ。

 一方で、「金がない、生活出来ない」と叫ぶ人にお金を貸してやること、あるいは食べ物を恵んでやることは、問題の解決には一切寄与しない。誰もが5万円貸してくれとお願いする奴に5万円を貸してやっても、何一つ問題は解決しなかったというあの経験はあると思うけれど、そもそも生活が破綻状態にあるのならば行政の扶助を頼るべきであり、それが出来ないまま返すアテもない借り入れという形で当座をしのごうとする人に、解決への道などあるわけがないのだ。これは、魚を釣れない人に魚を与えるのと同じことだ。

「くれと言ったら魚がもらえる」と学習した人は、同じ行動をひたすら繰り返し、周囲の信用を失い、孤立する。「5万円貸してやる」は地獄行きのスパイラルを加速させる効果しかもたない。友人知人から5万円を借りて暮らしている人間をあなたは絶対信用しないだろう。少額の貸借というのは、社会的信用を猛烈に毀損する効果を持っている。1000万を借りて返せないことより、5万円を借りて返せないことの方が人生を悪くするのだ。しかし、困っている人間にお金を貸さず「行政の扶助を受けよう、一緒に役所に行こう」という話をすると嫌われるし怒られる、ひどい奴だと言われる。だから、今日もこの最悪スパイラルはくるんくるんと回転を続けている。そこに救いはない。くるくる回るところまで回って、どんどん悪くなって、最後はボン。それで終わりだ。

 ツイッターを見ていても、全く曖昧に「金がない、生活が出来ない」と叫んでいる人はいっぱいいる。そういう人に、「大変ですね、本当に辛いですね、政府が悪いんですよ」と声をかけてやるのは、貧乏人にはシャブでも打っておけという態度に他ならない。昨日も、「政府の10万円の給付を貯蓄に回す余裕などあるわけがない」と主張する人に、「10万円の給付がなければ生活が出来ないことが確定的であれば、適切に行政の扶助を受けるべきだ」と主張していたら、「借金玉は障害者のくせに他人の弱さに厳しい」という誹謗が飛んで来た。

 しかし、これは逆なのだ。僕は、そこで安易に「大変ですね、辛いですね、政府が悪いですよ」と同意を送ることを拒否したいと考えている。それが「他人の弱さに厳しい」ことであるなら、それはそれで構わない。苦しんでいる人間にシャブを打ってやることを俺は正義と呼ばない。「そうか政府が悪いのか」とか「金持ちが悪いんだ」みたいな安易な昇華を与えてやれば、彼らは少し楽になるかもしれない。あるいは、政治的運動をしている人にとっては便利な兵隊が増えるのかもしれない。そんなもんは貧乏人にシャブを売りつけるプッシャーと同じ存在だ。クソでも食らいやがれ。

 究極的貧困はモノでもカネでも解決しない。道路にいつでも持っていける食い物が転がっていたところで、それは問題の解決を遠ざける手段にしかならない。究極的貧困にある人には、10万円の給付は事態を悪くしかしない。それ以前のもっと重要な、日本国民としての権利を正しく用いるという知恵こそが差し迫って必要になる。それこそが最も重要なのだ。

 もし、あなたが究極的な貧困を解決したいと思うなら、苦しんでいる人にメシを恵んでやる前に、小銭を恵んでやる前に、安倍政権と資本家が悪いと教育してやる前に、もちろんそれはとてもしんどくて根性のいることだけど、「生活が出来ない状態にあるのであれば、生活保護を取るべきだ。一緒に役所に行こう」と言ってあげて欲しい。あなたが書類が出来て、役場の担当者と問答が出来る人なら、是非そうしてあげて欲しい。もちろん、フタを開けてみたら実は収入があったとか、お金を隠していたとか、何故かあなたの財布から1万円札が消えて二度と連絡がつかなくなったとかそういうことは当たり前に起こるけれどね。

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