「再発見」されたレイプ神話、そして「都合がよければそれでいいのか?」


「女は暴力的な男が好きだ、何故なら女はレイプされたがっているから」

こんな言葉を聴けば、誰だって眉を顰めるだろう。僕だって、こんなことを言い出した人間と友人であり続けることは難しい。

これは実のところを言うと、古くからあった(おおよその場合男に都合のいい)誤認だった。「イヤよイヤよも好きのうち」なんて言い回しもあるけれど、これに対して「NOはNOだ、嫌なものは嫌だ」ということを証明する研究は遥か昔から行われていた。

重要な点を引用する。

「レイプ神話」から「ノーはノー」へ

(M8)女性はレイプされたいという隠された願望をもっており、女性の「ノー」はその願望の表明である。

(F8)レイプや強引なセックスに関するエロティックな空想を好む女性は
存在するものの、現実にそれがおこなわれることを欲求することはない
(MacKellar 1975)。

極めて当たり前のことだと全ての人に認識されることだろう。ある人が性的な空想の中で、過激な、現実ではとても耐えられないようなファンタジーを弄ぶことはあったとしても(それはなんら問題のあることではない)、それを実際に、誰彼かまわずやられたいという人はいない。

空想的なファンタジーと現実的な行動の間には大きな隔たりがある。これは、過激な性表現を好むものが暴行を行うわけではないし、めんどくさいからざっくり言うけど、クジラックス読んでる奴が女児を暴行したりするわけではない。とても当たり前すぎて書くまでもないことだけれど、この「当たり前」が決壊しているという事実があるのだ。

引用

画像1

重要点を切り出した。これはまさしく「レイプ神話」の復活である。女性が性的な空想においてレイプを夢想していることと、実際に暴力性を求めていることを完全に混同している。常識で考えれば受け入れられるはずのない発言であることは、この部分だけを見れば明らかだろう。女性にめちゃくちゃにされるエロ漫画が好きな奴が、その辺の女性たちに本当にめちゃくちゃにされたいと思っているわけがない。

人間の性的な空想と実行動というのは大いに隔たっている。というよりは、この隔たりを無いものー性的な空想は性的な行動と一致するーとした場合、いわゆるアダルトコンテンツというのはただちに撤廃しなければ危険なものになってしまう。残るのは「やさしいセックス教本集」みたいなものだけになる。

モテる

しかし、こんな話に乗っかったのがこの二名だ。いずれも名の知られた(白饅頭氏は単著も出版している)書き手である。「暴力的な人間はモテる」という結論が、上記のようなとうの昔に駆逐されたはずの「レイプ神話」から導かれている。「暴力的な男はモテる」という結論はひとまず置いておくとして、その結論を出す過程に先ほど引用した通りの「女は暴力を望んでいる」という話が入っていることに、彼らはまさか気づいていないのだろうか。白饅頭氏は二次元表現の自由について知られた論者であり、「アダルトコンテンツと実行動の間に関連はない」という主張をかなり強硬に行っていたように記憶するが、この変遷には驚きを禁じ得ない。

保存

白饅頭氏はその後このように否定しているが、先だってのツイートを見ると、rei氏の「女はレイプファンタジーを持ち暴力性に惹かれている」というべき内容の論考について、「こういった現象の『答え合わせ』をしていくような”学問”」と呼んでいる。(学問?僕にはrei氏のあの論考は単なる、遥か昔に否定された「レイプ神話」の焼き直しにしか見えないのだが…。)

しかし、当たり前のことを言えばNOはNOだ。レイプや強引な性交渉といった空想を弄ぶことを好む人が、実際にレイプされたいわけがない。

この僕自身もここしばらく批判的ポジションで参加している「女は暴力性に惹かれる」議論には、実際のところ中身がない。火つけになった論考はこの通りのものだ。一体白饅頭氏や小山氏が何に賛同しているのか、僕には全く理解が出来ない。この論考に賛同するというのは、少なくとも一般的に考えて論者として致命的と呼ぶに値するだろう。性的な空想と実行動は別である。当たり前のことだ。

そして、もう一つ。

「暴力的な男はモテる」論には、「暴力」という単語の拡大解釈という面もあった。(これは冒頭の論考から全く外れた、自然発生的なものであると考えられる、いわゆる「善意の読み」の結果かもしれない)

キャプチャ

暴力性

暴力性3

実際、白饅頭氏は「暴力」についてこのような解釈をしていた。(何度も繰り返すが、rei氏の論考からこの解釈が出て来る理由がまったく理解できないが…)この場合、暴力というのは「積極性」とか「頼りがい」といったポジティブな概念も包括して「暴力」と呼んでいるにすぎないだろう。

いわゆる「なんでも暴力」だ。

これもまた醜悪極まる論旨である。積極性も、頼りがいも、力強さも、人間の「善き点」でもある。それらを一括して「暴力」と呼ぶのは、確かにそれら(積極性、頼りがい、力強さ)を持ち合わせない人間の耳には心地よいかもしれないが、実際は何ら悪しき要素を持たない概念に「暴力」のレッテルを貼って「モテる男は悪い」という印象付けを行っているだけである。

言わせていただきたい。

結論が自分に都合よければそれでいいのか、あなたたちは。

「女は暴力性を求めている」という、とうの昔に否定されたレイプ神話を蘇らせ、それを「こういった現象の『答え合わせ』をしていくような”学問”」と持ち上げる。暴力的な男はモテるのだ、女は暴力性を求めているのだという結論だけを振り回す。それは確かに、群れをつくるのには都合がいいのかもしれない。人間というのは「結論を同じくする人」と一緒に動きたがるし、その結論は自分に都合のいいものであればそれでいいという人も多い。

しかし、論じ語る者がそれでいいのか。白饅頭氏や小山氏が根拠としているrei氏の論考は単なるレイプ神話の再発見に過ぎない。それはとっくの昔に否定されていることだ。NOはNOだ。

白饅頭氏は「進化心理学や心理統計によりその事実を支持するエビデンスはどんどん出て来る」と主張しており、僕も「エビデンスを提示して欲しい、レイプ神話を肯定するようなエビデンスが存在するのか?」と尋ねているのだが、現在は回答を拒否された状態にある。


以上

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