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ふさわしく失われるべきだった、あの万能感のこと―あるいは障害受容について

 「障害受容」という言葉がある。要するに「自分には障害がある」と認めること、なのだけれど。これが考え始めると、本当に難しい。
 医師の上田敏氏は、論文「『障害の受容』再論-誤解を解き、将来を考える-」の中で「障害受容」の概念をこのように定義した。

「障害の受容とはあきらめでもなく居直りでもなく、障害に対する価値観(感)の転換であり障害をもつことが自己の全体としての人間的価値を低下させるものではないことの認識と体得を通じて、恥の意識や劣等感を克服し、積極的な生活態度に転ずることである」。

 言わんとしていることはよくわかる。僕はこの主張を批判する気はない。むしろ、総論としては「賛同」に近い立場にある。しかし、それでもどこか引っかかるところがあるのは拭えない。「障害に対する価値観の転換」についてだ。僕は発達障害という問題を抱えて生きて、いろいろ面倒なことがたくさんあった。それはもう、たくさん。

 もちろん、僕の人生における問題のどこまでが発達障害によるもので、どこからが僕自身の怠慢や不足によるものだったのか切り分けることは不可能だ。しかし、そういった点を加味したとしても、障害当事者である僕に「障害に対する価値観の転換」が可能かと言えば、「申し訳ないけど、それは無理だ」と言わざるを得ない。僕は発達障害に双極性障害という問題をダブルで抱えている人間なのだけれど、「せめて一つでも減ってくれれば本当にありがたい」という本音は変えられない。実際として、障害は「すごく困る現実的な問題」なのだから。なので、この主張に対する僕の意見は「言わんとすることはよくわかるし、総論としては賛同の立場ですらある。ただ、やはりそれは無茶な話だ」ということになる。

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