障害者はやさしくなければならないのか

ツイッターをやっているといろんなことがある。今日は「現金支給をしても、生活に余裕がない人は貯蓄に回してしまうから、時間の経過とともに価値が低下していく政府紙幣を発行するのはどうだろうか」みたいな雑談をしていたら、こんな人が突っ込んで来た。

この人についてはこんな感じで散々に誹謗を繰り返した挙句、

深謝

このような苦笑いするしかない結果になり、なんか曖昧にワビを入れて去ってったのだけれど。

深くお詫びするのはいいけど、拡散されたツイート消してくれないとアンタの発言が一人歩きして結局僕は誹謗されるんだけど、まぁこの手の人にそんなことを言っても始まらないので、ため息でもついて終わるしかない。本当に、なんでこんなことが起きるのかわからないけど、とにかくそういうことは起きる。しょうがないと思うしかない。

そういうところに突っ込んで来たのが森哲平さんという人で

これは本当に厳しい言われようだと思った。

僕が僕自身の障害(ハンディキャップ)を認めるくせに、「他人の弱さには厳しい」という話なのだけれど、このエントリの冒頭に書いたような明らかな誤解に基づく誹謗に「やさしく」する義務が、僕が障害を自認する以上はあるらしい。森哲平さんの考え方によると。僕は先ほどの「借金玉は貧困者の声が聞こえないところにいる」という話に対して、「やさしく」すべきなんだそうだ。

僕にとって僕の障害は、正直言って「認めたくない」ものだ。そりゃそうだ、誰だって自分が障害者であることを好き好んで認めたいなんてことがあるわけがない。それでも、認めて対策を打っていくしか生きる方策がないから、仕方なく僕は自分の障害を認めている。

認めたところで、特に何か社会からの援助があったり、誰かが助けてくれるということは無い。自分が自分の人生を生きるために、「自分は障害者であり、普通の人が普通にやれることが出来ない」と認めて、「それではどうするか」という方法を考えていくしかないのが現実のところだ。

「借金玉は自分のハンディキャップは認めるくせに、他人の弱さに厳しい」

というのは、障害者であるならやさしくあれというのと同義だ。
明らかな誤解に基づく誹謗にすら、僕は「やさしく」なければ健常者たる森哲平さんに叱られてしまうのだ。本当にクソみたいな話だと思った。僕は好き好んで障害者をやっているわけではないし、僕が僕のハンディキャップを認めるのに、なんでこんな対価を要求されねばならないのか。

森哲平さんに自覚はないのだろうけれど、これは明瞭な差別である

「障害者なら障害者らしく振舞え」

そういう健常者様からの暖かな声が、この森哲平さんの発言そのものだ。やさしく無力で、健常者様の意見にははぁと平服する、そういう障害者でないと彼は気に入らないのだ。

自分のハンディキャップを認めるのに、対価が必要なはずがないと僕は思う。いや、僕が思うだけでなく、そうでなければおかしい。自分自身の問題を問題と認めるのに、他者に対してやさしくする(しかも明らかな誤解の下に誹謗をしてくる他者に対して!)なんて対価が必要なはずがない。そもそも、僕が僕のハンディキャップを認めるのは僕の極めてプライベートな問題だ。僕が僕の障害を認めたところで、社会は別に何か配慮をしてくれたりはしない。

障害者が自分のハンディキャップを認めるのに対価はいらない。
我々は別に、誰かにやさしくする代わりに障害者であることを「認めていただく」人生を生きているわけではない。
障害者なんだから、誰かにやさしくしなければいけないなんてことはない。もちろん、その場その場で適応的にふるまわなければいけないことはあるにしても。「正しい障害者」であることを健常者にアピールする必要は、少なくとも根源的には一切存在しない。我々は、別にやさしくなくていい。

「借金玉は障害者のくせに他人にやさしくない」という森哲平氏の極めて差別的な言辞に、強く抗議する。障害を認めることで、誰かにやさしくする義務など、ない。


余談

森哲平氏は、徳島でこういった活動をしているようなのだけれど。

原発事故をきっかけに家族で徳島に移住し、子どものいる家庭を持ち、慈善活動に勤しめる彼の生活の余裕を、豊かで恵まれた人生を僕は心から羨ましく思う。このコロナの買い占めが問題になるご時世に、保存食品をツイッターで募って貧乏人用エサ小屋と表現するほかない設備に半ば野ざらしで放置する活動の社会的意義は、何一つないと思うけれど。

僕は貧困者に「やさしくない」と言われることがよくある。お金を貸してくれとやってきた人に、「一緒に行政の扶助を取りに行こう」という話をすると、大体はすごく面倒なことになる。森哲平さんみたいに、食い物を適当にツイッターで集めてその辺に放置しておくとか、小銭を貸してやるとか、安倍政権が全部悪いと教えてやるみたいな活動をすれば楽なのはわかっているけれど、それは一切解決には寄与しないと僕は長年の貧困生活で学んで来た。子ども食堂は自力で扶助にリーチできない子どもに食事をさせるという意義があると思うけれど、エサ小屋に適当に保存食を放置しても何の意味もない。まぁ、子どもの情操教育には役立つかもしれないし、森哲平さんの精神衛生には寄与するかもしれないけどね。

僕が活動を営利にこだわる理由もそれだ。僕自身が収益を上げていく手段と一致させなければ、当事者の慈善活動というのは持続しない。善意と共倒れにならず、かつ断絶せず続けられる活動として、僕は営利の執筆であるとかそういうものを選んでいる。食い物やカネを適当に配って事足れりとする発想は、僕にはない。

目先の食い物や金で解決する貧困というのは、実際のところほとんどない。困っている人間と一緒に役所に出向き、書類をああでもないこうでもないと書き直し、お金を隠していたとか行政手続きを放置していたとかそういう問題を一緒に解決していくことしか、具体的な活動というものは無いと僕は思っている。

とはいえ、お子さんと一緒に週末は趣味の慈善活動を楽しみ、暖かな家庭に生活し、その合間には障害者の正しいありようを障害者に説く。そんな森哲平氏の豊かな人生には心から羨望を送りたい。

僕も、それ欲しかったよ。

追記

画像2

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 フードストレージを名乗るアレに対して、学校側に協力を要請し拒否された際の森氏の発言録です。民間の、それも24時間誰でも触れる形態の食べ物置き場を、学校が生徒に対して利用を呼び掛けることが出来るか。そんなことは出来ないと余程の世間知らずでもなければ予想がつきそうなものですが、「よほどの世間知らず」未満の人間が迷惑行為を無限に繰り返している。流石に笑えない。

 この徹底的に行政も障害者も貧困者も見下して自己満足の「慈善」を振りかざす森哲平さんの態度は実に一貫したものと言えるでしょう。というか、このリスク感覚で「子ども食堂」やってるそうだけど、飲食って下手したら人が死ぬ業態だとわかってんのかね、この人。

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