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あなたは頑張ってるよ

障害の受容というお話。

自分が発達障害に限らず、なんらかの障害であると認めるのはありていに言って非常に苦痛を伴う。これが「自分は障害者だからなにもうまくいかないのだ」とでもいう程度の解像度であればそうではないかもしれない。でも、自分に出来ないことが明瞭にあり、それを踏まえても人生は続いていくと考えた時、そこには具体的に自分はどうしていくのか、これから先も続いていく人生というものが大きくのしかかって来る。

発達障害は、今のところ「どうすればよいか」があまり明瞭ではない。だから、発達障害の自己受容は「どう解決すればいいか未だによくわからない問題と一生をかけて格闘していく」という覚悟の問題に帰着する。そして、これはとても大きい努力を必要とする。そこにはリアリティが必要だし、リアリティを十分に高めて具体策を練るには、発達障害というものは個人差があり過ぎるし、未解明に過ぎる。

「障害は頑張らなくていい正当な理由になる」という話を先ほど読んで、僕は非常に腹を立てていたのだけれど、例えば足の不自由な人が100メートルを走れないのは、「頑張らなくていい正当な理由」なのか。それは違うだろう。100メートルを走れないという欠損といかに向き合っていくかという頑張りの要請そのものだ。

「頑張る」という言葉が非常に誤解されているフシがあると最近は思う。例えば、腕が不自由な人にみんなと同じように腕立て伏せをさせることが「頑張る」ことだろうか。違うだろう。腕の不自由という問題を抱えたまま、いかに―願わくば、幸福にー生きるかということが「頑張る」ということだろう。自分はこれが出来ない、という欠損を認めることは即ち「頑張り」なのだ。何かが出来ないとして、それを免罪してくれる世界ではないのだから。

自分に出来ないことを認めたあなたは頑張っている。

自分の欠損を認めたあなたは頑張っている。

それでも生きるあなたは頑張っている。

それだけは忘れないで欲しい。

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