今日から使える文章技法覚書、リズムについて
つまりはそういうことなのだけれど、読点というのは文章においてリズムを調整する役目を担っている。この「リズム」という概念はわりと難しいものになってきて、文章の場合音楽におけるそれのような記号的整理があまりされていないから、結局のところ「リズムがいい」とか「悪い」みたいな表現をするしかないところがある。
…というのが「グルーヴ感が強めで一呼吸が長めの文章」というのが僕の定義で、この場合「書き出し」がリズムを強く規定している。「意味は無いに等しいけど、この書き出しは必要」と言えば伝わるんじゃないかと思う。
つまり、そういうこと。読点というものは、文章においてリズムを司っている。しかし、このリズムという概念は難しい。(以下略)
こっちが「グルーヴ感弱めで一呼吸が短い読みやすい文章」になってくる。これだけで多分、文章を書きなれた人には「感覚はわかった」という感じになると思うし、あるいは「知ってた」かもしれない。
要するに「書き出しが文章におけるビートの提示として重要で、そこトチると最後までリズムがおかしくなりますよ」という話から、「文章のリズムは仕上がりにものすごく大きい影響を及ぼしますよ」という僕はしたいわけですね。ここまでで全部わかった人はこの先読む必要ないです。
リズムが乱れた文章は読みにくい
いわゆる「あまり文章が上手くない」人にありがちなことなのだけれど、文章の最初と最後でリズムが全く別物になっているということがよくある。たとえば、音楽でいうと「走っている」状態になっている人もいるし、あるいは景気よく書き始めたけれど最後の方に力尽きてきたのか、息切れしたランナーが痙攣する足を引きずるみたいになってしまう人もいる。これは、どちらも大変読みにくい。
全体として単調なリズムに文章を整える方法というのは基本としてある。同じリズムでメトロノームが鳴り続けるような、やや無機質で読みやすい文章。「上手い文章を見せる」ではなく「自分が伝えたい内容をきちんと相手に伝える」というような訓練をしてきた人が習得していることの多い文体だ。これを僕は「教授体」と呼んでいる。
ちょっとこの文章を読んでみて欲しいのだけれど、これは非常に珍しいテキストだといえると思う。「フルボッコにされてる件」や「ヤバイ」など語彙は非常に若く今風なのにも関わらず、文体は長い訓練を経てきたとしか思えない完璧な「教授体」に仕上がっている。言うまでもないけれど、この「教授体」は「基本にして奥義」みたいなもので習得は決して容易ではない。一歩間違えると読点が無限増殖するあの文体に化けてしまう。僕は仕事柄意図して「教授体」を使うことはあまりないけど、一応練習していた時期はあって、かなり習得には手こずった。
>日本の大学、特に文系の学問に対する風当たりが厳しい昨今、文系の学者達は自分たちの存在意義を示そうと必死だ。
この書き出しを見て欲しい。これが「文章のリズムを定める」センテンスになるけれど、大変手馴れている。「この文章はキッチリあなたに意味をお伝えしますし、なにより読みやすいですよ」と示されているので、最初の二行で読者にはある種の安心感が醸成される。この時点で、この文章は勝利していると言っていい。内容的にも「とにかく理解してくれ」というものなのだから、飛んだり跳ねたりする必要は実は全く無いのだ。
>だが、それは本当か? 証拠はあるのか? 最先端の研究は専門家でさえ評価が難しい。たとえばアインシュタイン。一般・特殊相対性理論を作ったけど、時代の先を行き過ぎていて正当な評価がされなかったそうで、ノーベル賞は他の業績に対して与えられた。文系の研究も基本的には同じで、研究の良し悪しを判断できる人は極少数だ。だから、知らないうちにトンデモない研究がはびこっていて、それに社会的評価が伴っていても、ほとんどの人にはわからない。専門家が厳正に評価してくれていることを信じるしかない。
「リズム」という視点が追加された今なら普段は気づかない人でも直感的にわかると思うのだけれど、この文章はまずリズムキープが完璧ですよね。実際の「リズム」と「文章における読点の位置」はもちろんイコールではないのだけれど、視覚的にもリズムが乱れないようにかなり強い意識を払われている文章であると理解できるだろう。
>だが、それは本当か?証拠はあるのか?
タ、タンタンタン、タンタンタンタン。端正なリズムキープに惑わされて気づきにくいけれど、実はこの「書き出し」はさり気なくビートに乗せる技も使われている。一連目の書き出しは単なるリズムの提示だったことと比較すると、この「加速」は感覚的に十分感じ取れるだろう。「ここから面白いところに入るぞ!」と書き手が力を込めて来るのがわかる、ささやかだけれどとても重要なフレーズだ。文章におけるリズムとの噛みあいはフレーズとして表れるし、フレーズは更に意味と噛みあっているとベストだ。これは冒頭で僕が書いた「意味はないけどリズム取りのために必要」より一段位階が高い技法であるといえる。
この僅か20字足らずの文章にこれだけの技術が放り込まれている。これが認識出来るのと出来ないのでは、当然だけれど書きあがる文章は全く別物になる。ドライバーとネジの存在を知らない人にラジオは組み立てられない。たまに謎のカンの良さ(それを才能という)で組み立てる若者もいたりするが、いなくていい。
ビートメイキングとグルーヴ感
文章にはビートが必要だ。基調となるリズムのない文章は煮崩れた肉じゃがみたいなもので、誰にとっても読みにくいし美味しくない。ビートとは「基調となるリズム」のことなのかという議論は、僕は今文章の話をしているので却下する。これは音楽の用語を引用しながら文章の話をしているのであって、その逆ではない。音楽用語が微妙に間違っている可能性は「リズム」と「ビート」の使い分けの時点で既にハラハラしてはいるんだけど、まぁそういうのはあとで直せばいいという気持ちでやっている。ポモってない。
そういうわけで、文章にはビートが必要なのだ。「読ませる」という行為は「お客さんを踊らせる」こととほとんど同義だと言っていい。では、そのビートにはどういう種類があるかについて考えてみよう。それには、「何故ビートが必要なのか」という根源的な問いに答える必要があり、これは音楽同様「グルーヴ感を出す」というのが主目的になると思う。
これは何故僕が「教授体」を使わないのかということの答えにもなるんだけれど、教授体というのは「グルーヴを排し、端正さに特化した」文体と言える。実際を言えば、エリックサティの曲にすらグルーヴは無いとはいえないので決してグルーヴがゼロというわけではないのだけれど、要するに「ノリのいい」文体ではないのだ。そして、商業的に文章を書くということはとりもなおさず「大して面白くないことを面白く読ませなければいけない」という大問題と直面するということで。ノリで面白くするのは大事ですよ。
そこで「教授体」を使えないとすると、今度は別のリズムを考える必要がある。しかも、商業的に用いる以上「そう簡単に真似をされたら困る」という要素も出て来る。プログレをやりたいわけじゃないけれど、ある程度プログレっておかないとすぐ市場価値が暴落してしまう。
一呼吸の長さとミッドナイトゾンビガール
>つまりはそういうことなのだけれど、読点というのは文章においてリズムを調整する役目を担っている。この「リズム」という概念はわりと難しいものになってきて、文章の場合音楽におけるそれのような記号的整理があまりされていないから、結局のところ「リズムがいい」とか「悪い」みたいな表現をするしかないところがある。
この文章、一つ目の句点の次の一文は「長い」という感覚を多分多くの人が受けると思う。「教授体」が短くセンテンスを区切ってリズムキープしていく文体だと考えると、こういった文章はその対極にある。そして、文章のプロはこの「長い」文体をよく使う。なんで使うかと言えば、「上手さが見せやすい」からだ。
というのも、センテンスは長くなればなるほどリズムが崩れやすい。ラップも長文になってくるとグダってしまう人が多いのを想像すればわかりやすいと思うのだけれど、単純に難しいのだ。文章におけるリズムキープは読点が減って一文が伸びれば伸びるほど加速的に難しくなっていく。
しかし、簡単にする技はないでもない。というのも、文章におけるリズムキープは音楽のそれほどには厳密なものではないからだ。つまり、お客さんにとって「なんとなくリズムが整っているな」と感じさせらればそれでいいということになる。ここで「つまりはそういうことなのだけれど」を置いた意味が生まれて来る。
「つまりはそういうことなのだけれど」と口に出してもらいたいのだけれど、これは完璧な4拍子の文章なのだ。ワン、ツー、スリー、フォーのリズムで「つまりはそういうことなのだけれど」と口に出してみてもらいたい。ピッタリと収まることが確認できると思う。このリズムを最初に提示されると、お客さんは大きな乱れが無い限りはその文章で全体を読んでしまう。つまりはそういうことなのだ。
もちろん、本文中でリズムが乱れすぎてしまってはお客さんにバレるから当然限界はある。しかし、多くの場合「リズムの整った文章」というのはその書き出しでお客さんをリズムに乗せられるかで勝負が決まっている。ある作家が「最初の2~3行読めば文章が上手いか下手かはわかる」みたいなことを言って豪快に燃えた件があったような記憶があるけれど、僕はこっそりこれに同意する。文章の最初でビートを提示出来てない文章は、大体のところダメなのだ。少なくともお客さんを踊らせる文章としては。
感覚的にあまりピンと来ないという人はこの曲の冒頭が大変参考になると思う。「僕には大事なことなんだけれど、君には全然大事じゃないんだ」という言葉が4拍子のビートにビタっと嵌る気持ちよさが連続し、「気分がいいならベッドでスキューバダイビング」でフレーズと噛みあう。これが意図的に出来ると出来ないでは文章の仕上がりは全く別になる。「ミッドナイトゾンビガール」でうっかりアガってしまう文章はこのように書くのだ。ミッドナイトゾンビガールってなんなんだよ。
要するにこれは「俺は長いフレーズでもビタっと嵌められるぜ」というのを見せるベンジーなのですが、ここまで派手にやるとそれはそれで引いてしまう人も出るけれど、やはり出来るに越したことはないわけですね。練習すれば長い尺でビタっと嵌められるようになるし、実は嵌ってなくても誤魔化し技がいっぱいあることにも気づいて来る。今日から使えてとても便利ですよ。僕には大事なことだし、あなたにもとても大切です。技術というのはつまるところ「発見した感覚を再現する」ことなので、感覚的に見えれば大体大丈夫。後は練習するだけ。
ところで、長い訓練をしないと基本的には使えない教授体がものすごく巧い、おそらく普段から論文のような「意味をしっかり伝える」「文芸的評価を得る必要はない」文章を書いている素敵な先生がはてな匿名ダイアリーでリークをぶちかます時代、とてもいいですね。やっていきましょう。