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アイスコーヒーの美味しい話

 あまり感じの良い人間とはいえなかったけれど、彼の淹れるコーヒーは美味だった。そういえば、二十歳を少し過ぎた僕が彼の下で働いていた時、彼の年齢は四十を少し回ったくらいだった気がする、気づけば僕もかつての雇い主に近い年齢に達してしまった。でも彼は立派なお店を構え、三人の子どもを立派に育て上げていたから、あと四年でこの差を埋めるのは物理的に不可能なことと言えてしまって。まぁ、暗い話はやめよう。とにかく彼のおかげで僕は美味しいアイスコーヒーを淹れることができる。

 特段変わった豆は使っていなかった。業務用卸屋さんから入ってくるごくふつうのコーヒー豆(もちろん卸屋さんにもいろいろあって、彼は適切な選択をしていたけれど)を使って、彼はお店を繁盛させていた。

 今になってやっとわかるけれど、素晴らしく経営の上手なご店主だった。業務用のスパゲティ・ソースを使ってオペレーションコストを減らしメニューバリエーションを出す一方で、ナポリタン・スパゲティのソースだけは頑なに自店仕込みを徹底していたし、パンは一定ラインをより古くなったものを絶対に使わなかった。「サンドイッチのパンは焼きたてであるべき」という彼の哲学は、理不尽な負荷をアルバイトに強いてはいたけれど(焼きたてフカフカのパンでサンドイッチを作るあの難しさ!!)、彼の作る玉子サンドイッチを食べればその正当性は認めざるを得ないものであったし、廃棄されるパンは僕の食生活を支えてくれた。おかげで僕は「古いパンを美味しく食べる方法」にとても詳しい。それはそれとして、経営のどこに力を入れて、どこを省略するべきか、店主の下していた判断のすごみに「今になって」気づくようだから、僕の人生は借金玉になってしまったんだろうけれど。暗い話はやめよう、二回目だ。

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