生きてる理由がほしいから、近くの他人の愛がほしい

わたしはすぐ被害者みたいな顔をする。おそろしいほど人間ができてなくて、メンタルコントロールもてんでだめで、有機物無機物関わらず依存先はそれなりにあるのに、結局は人から愛されることばかり求めている。

自分でもびっくりするくらい、彼氏はすんなりできる。大学生の時からそうだけど、前の彼氏と別れた後、3ヶ月以内には次の彼氏ができていた。

もてていたわけじゃなかった。きっとわたしは、つけこまれていた。あなたたちは全員、わたしが人から愛されたいのを知ってて、だからこそ人が離れていった時のわたしの心の穴に入り込むようにして、巧妙に好きだと言ってみせていた。

もはや、好きだと言われてなかった時もあったかもしれない。でもそれでもよかった。どんな形でも、わたしを必要としてくれているならそれでよかった。どうせ人間なんて理性の皮をかぶっただけで、本当は欲望のカタマリなんでしょなんて大人ぶって、知ったような顔をして、逆にわたしの欲望を満たすことに利用していた。愛されたいという欲望に。

自己肯定感が低いくせに、自己愛が強すぎる。こんな自分なんて誰も好きになってくれないと卑下しながら、誰かこんなひどいわたしを愛してよ、といちばん醜い姿を好きな人に晒したくなる。どこまで好きでいてもらえるか試したくなる。暴力的でありえない。わかっている、自分さえも受け入れられない自分を、たったひとりの他人が受け入れられるわけがないだろ。だけど自分なんて嫌い、と言いながら、結局そのままのわたしを愛してくれる人を求めているから、変わろうとしない。そんなくだらない自己愛なんて捨ててしまえばいいのに、何歳になったら捨てられるの?

めぐまれた家に生まれた「から」、こんなことに悩める余裕がある。能天気な自分がいや。遠くの血縁がわたしのことを愛してるのなんて当たり前だし、とか思ってしまう。世の中では当たり前じゃないのに。でも、わたしは、わたしのことをずっと近くで見て、それでいてわたしのことを好きな人がいてほしい。その人のことをずっと大事にしたい。こう思うのはおかしいこと?

違うわたしは、おかしくないって、言ってほしいだけ。いろいろ孝行しなくちゃいけないのは知っている。だけどもしも遠くの血縁がいなくなったとして、さまざまな感情と時間と思い出を共有してきた、ただの「他人」と別れるのとどっちが楽だろう。別れたから他人になってしまった、だけど別れなかったら他人になるはずもなかった、それほど近くにいた存在を失うのと、同じくらいの痛みを味わうの?いつだって、大きくなったわたしを通して小さい頃の思い出話をしていた遠くの血縁たちは、わたしと同じ時を感じていたのか疑問に思う。

「ゼミ長は、近くにいてゼミ長のことを大切にしてくれる人のことを好きにならないよね」いつか副ゼミ長が言っていた。そんなことを言われるくらいわたしは馬鹿で、なにかを見てなくて、勝手につらくなっている。ぜんぶ身から出た錆だ。もう間違えない、あってると思っても、また新たに間違えて、しかも間違えたポイントはどこかわからないまま、わたしの人生は勝手に進んでゆく。

終わりにしたい。何もかもちゃんと終わりにしたい。身が錆びすぎて動けなくなる前に、馬鹿もあほも間抜けも、ぜんぶやめたい。もとは他人だった人に、生きていてって言われたい。わたしは、生きてる理由がほしい。

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