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幻想入り展のこれまでの5年とこれから

2022年1月で全日本幻想入り展は5年目を迎えることが出来た。東方projectの二次創作写真展示会という形で2017年に東京開催を告知し、現在では「東京」「京都」を本展とし、「静岡」「新潟」「愛知」「大阪」の地方展を含め計8回の開催をしてきた。

実は全日本幻想入り展の構想は2015年頃からあり、イベントの大枠の設計部分については、今も全く変わらない形でやっている。

・参加費用はなし
・入場料は無料
・印刷代と額縁、レタッチ代で元を取る
・持ち込みは完全無償

今思えば、向かう先は同じだったが、この結論に至るまでの理由が大きく変わってきており、この5年の幻想入り展を振り返りつつ、今後の幻想入り展についても少し書いていきたい。

東方二次創作における写真の立ち位置

東方二次創作における創作は「小説」「イラスト漫画」「音楽」「グッズ」などがメインであり、「写真創作」というジャンルは非常に珍しいもので、一部の層にしか見向きもされないものだと思っていた。もちろんコスプレ写真というジャンルが大きいのも知ってはいたが、当時、高校生の自分が同人即売会で何か創作するにあたっては、どれも敷居が高いものであった。

「ああ、イラストや漫画、小説、音楽が作れないと創作活動が出来ないんだ」「自分は創作にお呼ばれじゃないんだ」と頭の中でモヤモヤとした面白い発想を我慢してゴミ箱に捨てるような日々を送っていた。そして、2011年の冬コミで創作欲が我慢できず、イラストが描ける人と小説が書ける人で同人サークルの設立をする。しかし、私が自分の作品として創作するのはもっと先の話である。

転機があったのは2014年。東方二次創作の中で「聖地巡礼」のジャンルを知り、旅先で撮った写真と簡単な文章で作品として仕上げられることに感動したもので、巡礼系の合同誌にも参加させて頂いた。ここで初めて、私は自分の力で創作したという瞬間を覚えることが出来た。しかし、聖地巡礼系の本は写真がメインというよりかは、評論系に近いことが多いこともあり、巡礼系メインでの活動を始めることはなかった。一方で、当時は創作活動とは別軸で写真展示活動も活発にやっており、自分の好きと好きがかけ合わさったら最高だなということで、東方写真展という構想が浮かんだのが2015年の頃である。


初期の幻想入り展の考え方

写真展を開催するにあたって問題点がいくつかあった。

・無名作家が出る写真展の来場者は基本来ない
・出展者は写真を印刷するという経験がない
・展示会という言葉がプロ向けというイメージに持たれがち
・展示会を見る文化があまり知られていないのでイメージが出来ない

写真展を開催するという話どころか、出展者側が参加する敷居が非常に高いことが最大の問題点であった。第一回の幻想入り展で写真展経験者は私含めて2人だけであった。それだけ、親しみのない展示会に誰が参加するだろうかという点から、敷居を下げるために「参加費用はなし」「データ提出しただけで展示会に参加出来る」という考えに至ったのだ。

来場者側においても、写真展という馴染みのないものにどこまでのコンテンツを提供出来るだろうかという点、過去に開催された某二次創作展示会で主催側と作家側でお金に関するトラブルになったという事例を受けて、無償にしている。結果的にこの判断は正解だったと、別軸(後ほど述べるコミュニティ)の面で確信をして今も継続している。

上記の課題を解決するに至るまで、同人サークルや展示会イベントのスタッフとして活動をしながら2年近く検討した上で、2017年12月に第一回全日本幻想入り展の開催を告知した。

第一回全日本幻想入り展のポストカード

当時のモチベーションは、好きと好き、つまりは東方と写真をかけ合わせて最高の空間を作ることが目的、つまりは自分が居続けられる創作の居場所を作ること、作品集大成の考えが強い、自己満足を原動力とした展示会である。そのため、全日本幻想入り展は1回限りのイベントとして幕を閉じる予定だった。

写真は「目的」から「手段」へ

ありがたいことに、文々。新聞友の会の水越先生からのご厚意とお誘いから2018年京都合同で全日本幻想入り展を開催する機会を頂いた。第一回の話題性から、第二回では普段サークル活動されていない方々が参加される、大規模な展示会となった。

「同人活動の最後に飾る良いイベントだ」

と、このイベントを最後に2011年の冬コミで設立した同人サークル「斜辺計画」の活動休止を告知していて、新卒2年目となり仕事も忙しくなったことから個人での同人活動からも身を引く予定だった…だったはずなのに、今もこうして続けられているのは、ある出展者からの言葉でハッとさせられたからである。

「イラストとか小説書けなくても、京都合同で出展者として創作活動が出来てめちゃくちゃ嬉しかったです」

正直、誰がこの話したのか覚えてないのだが、自分が高校生の時に感じた同じ境遇の人がいるのだと再認識をすることが出来たのだ。頭の中には溢れんばかりの創作意欲があるのに、可視化する手段を持ち合わせていない、可視化が中途半端だから伝わらない、理解もしてくれない。最もこれは自分の中でコンプレックスを抱いていたことと、写真にハマったキッカケも、当時高校の部室にあったCanonEOSkissX4を触って、こんなにもお手軽に自分の頭の中にあるイメージを作品として映し出すことが出来る感動からハマっていったのである。私が写真をやっているのは、自分の頭の中のイメージを可視化が出来る手段としてピッタリとハマったのが写真だったからであり、イラストが描けたらイラストに行ってたかもしれないし、文章能力に長けていたら小説に行ってたかもしれない。単純に環境が揃ってたから写真を選んだのである。あくまで自分の頭の中にある創作意欲を満たすことが目的のツール、つまり手段にしか過ぎない。特に写真は、他のイラストや小説より発表する場としての環境が揃っているケースが多い上に、敷居の低さも挙げられる。イラストや小説は創作に時間がかかったり、ソフトや編集などが必要な一方で、写真はスマホからすぐにSNSに流すことが出来る。写真作品を通して誰もが簡単に創作出来る手段として、東方二次創作と絡めていけば、創作出来る人が増えるのではないか、そんな気持ちで幻想入り展を続けていくこと決意した次第である。

京都合同 即売会開催

コモディティ化した幻想入り展

幻想入り展も2年目となり、イベントの中身の設計や運用面もだいぶ落ち着きを見せてきたところで、私はある課題にぶち当たっていた。

「写真作品が偏って、神社や廃墟の写真しか出ない」

それもそのはずで、幻想郷の世界観を写真で表現するわけなのだから、一般的にイメージしやすい「神社」や「廃墟」が多いのはごく当然なのである。作品単体は非常に素晴らしいものなのに、展示会という空間の中で、似たような作品が何十枚も並べられていると、受け手側は「ああ、いつもの幻想郷だね」って感じでパターン認識で作品を捉えられてしまうのである。その結果、作品を「幻想入りっぽい」という表面だけで全ての作品を捉え、作家自身がこの作品に至るプロセスの内面性=物語まで行き着くことなく、作品に対して感動や感想を抱かなくなる危機感を感じていた。特に第三回の幻想入り展では、第一回第二回とイベントごとの作品に大きな差異がなかったことから、イベントへの新たな発見や価値を感じられず、来場者をかなり減らしてしまった。幻想入り展がコモディティ化してしまい、出展者への作品を最大限引き出すことが難しくなってしまったのだ。表現のコモディティ化については下記の記事に詳しく書かれており、言語化の参考にさせて頂いた。

実はこの現象はTwitterのバズる写真の考え方に似ている。わかりやすい事例として、2013年頃から流行った宇宙加工文化(写真に宇宙空間をコラージュする画像)がなぜバズり、モノクロのスナップ写真がバズらないのかの話がある。

2014年 結綺ユキ RICOH GXR

宇宙加工は誰が見ても「綺麗」「美しい」などのパターン認識が一瞬で出来るため、受け手側が非常に飲み込みやすい作品となっている。そのため、共感を得やすく、「いいね」や「RT」がもらいやすいのだ。一方でスナップ写真は、一瞬見ただけで何が伝えたいのか分かりづらく、1秒〜2秒でパターン認識をして、自分のボキャブラリーに落とし込むことは難しい。私も初めてブレッソンや森山大道の作品を見て、何が伝えたいのか、またどういう気持ちを抱けばよいのか、理解するのに時間を要する。

2017年 結綺ユキ minoltaSR1

情報量が膨大に溢れるTwitterのタイムラインにおいて、人は一つのツイートに何秒の閲覧時間をかけているだろうか。大手広告代理店の博報堂の調査ではZ世代(1995年~2004年生まれ)のタイムライン上の興味ありなしの選別を行う時間は「1秒」とされており、またメディア欄をタップして、コンテンツに集中出来る持続時間は「8秒」とされている。1秒以内に受け手側が好む要素のパターン認識と8秒以内にその魅力を引き出すわかりやすさのコンテンツこそが、バズるための1つの要素なのだと考えている。宇宙加工は一般大衆が持ち合わせるボキャブラリーに沿ったコンテンツであり、タグやポエムをつけることで共感を得てバズる、Twitterならではの作品なのである。

宇宙加工はお手軽な加工な上、たくさんの人に共感を得やすいことから、2013年~2016年頃まで爆発的にタイムライン上で流れることが多くなった。しかし今となっては宇宙加工を始め、昨今流行った加工アプリなどは一時は栄えたものの、いつの間にか衰退の一途を辿ることが多い。

8年前にもなるが、当時のツイートはかなりイキリオタクのようなレベルで話すクソカメラオタクだったので、書き方はご愛嬌で見ていただきたいが、「中身(内面性)のない写真」という、パターン認識をする写真は「綺麗」「美しい」などの作品の視覚情報で捉えることが先行し、作家としては中身を意識して作っていても、受け手側が宇宙加工によって中身のない写真として捉えてしまうのだ。それらが、膨大に流れてきたらどうだろうか。受け手側は無個性な同じような写真を何十枚も見ることになり、感動すらも薄れてしまい、共感から無関心に変わってしまう。全日本幻想入り展はまさにこのようなことが起きていたのだった。

全日本幻想入り展の変革期

空間づくり

「写真展という空間はバーのようだ」と過去に何度か述べているが、何かを引き立てる要素として、情報量を減らすという行為は非常に重要な要素と考えている。そもそも、コンテンツを自分のボキャブラリーに落とし込むためには集中力を要する。しかしTwitterのような雑多な情報が溢れかえっている空間では、たったの8秒しか集中力が持続しない。作品の内面性を捉えるにはあまりに短く、理解まで難しい時間である。だからこそ、写真展示会という空間は集中力を伸ばすための空間づくりが重要なのである。

私はアイラウイスキーが好きで、バーに行ったときに必ずと言っていいほど注文をするお酒である。この美味しさを是非自宅でも飲みたいと思い、ボトルを購入した。早速丸氷を割り、いつものグラスに入れ、唇を濡らす。そしてアイラ特有の煙たいウィスキーの香りが堪らなく、バーで飲んだような高揚感を湧かせてくれる。しかしながら、その高揚感は一瞬だけで、次に嗜むときにはその高揚感は果ててしまい、美味しいウィスキーという認識で終わる。一方でバーで嗜むそのウィスキー、何十分かけて飲んでもその高揚感は湧かせてくれる。勿論、グラスの形状や氷、室温など味を左右させる要因はあるかろうが、ここで言いたいのは、空間という要素が大きいのではないだろうかと言いたいのである。バーという空間は、共通して暗く、意識高そうで、綺麗である。一方で自宅という空間は、見慣れた景色、やること思い出す、雑多であり、ある意味でお酒を集中して嗜むことが難しい空間だと思っている。バーというお酒を飲むことに特化した空間は、五感を研ぎ澄まされ、飲む人がそのウィスキーが持つ本来の味そのものの価値を高めてくれるのではないだろうか。勿論、この話はバーだけではない。本場で食べるものや喫茶店で食べるカレーやリンゴパイは高いのになぜ美味しいのかもその要素に含まれると考えられる。写真展とは写真を見ることに特化した空間であり、「キャプション」「額」「BGM」「匂い」「配置」「立地」、そして「来場者」すべての要素が絡み合った空間的複合作品である。作家凝らした写真を味わい、考え、また写真をキッカケに隣の人とコミュニケーションをしても良い。写真と空間に酔いながら、あなた自身の幻想郷を見出し、観測を頂きたい。

2020年静岡例大祭刊行 Boundary

集中力が持続出来る雰囲気とは、美術館のような静かな雰囲気をイメージしがちであるが、幻想入り展ではバーや喫茶店のような、集中したい時に集中出来る、話したいときに話せるような空間を心がけている。実はこれは幻想入り展のアンケートやヒアリングによってわかってきたことで、意外にも話しかけられるのが嫌で、自分が話したいと思ったときに話したい人が多いようだ。正直、私の場合は人見知りの性格もあり、話しかけて欲しい側の人間なのだが、これは認識が違ったようだ。

全日本幻想入り展 2020年調査

東方が好きという共通点で名前の知らない人と作家さんの写真の話をしたり、別の場所では自分のカメラを並べてカメラ談義をしたりと、それぞれリラックスして見れるスタイルを取っている。そのような雰囲気を意識して運営することで、ギャラリー開催では平均1時間以上も、幻想入り展の空間に来場者が居続けてくれるようになった。

「推しについて語りたい」

友人からメッチャキモいオタクやね、と言われて10年以上も経過した今となってもオタクであり続けている私にとって「推しについて語りたい」は本能であり、これは共感してくれる人も多いはずである。東方projectの創作文化では、自分の好きな同人誌を人に紹介したり、語ったりするのが活発的で、有志が「読書会」という形で全国各地にオフ会の空間を作ってくれているのだ。ここでは、様々な作品を通してコミュニケーションが発生し、これがキッカケで一緒に作品を作ったり、飲みに行く仲間になったりする。また、「発表会」という形で、東方に関わる世界観や作品の考察などを自分の考えを相手に伝える文化までも用意されている。

実はこの文化は展示会と非常に相性が良いとされている。作品を見て自分が何を感じ、何を考えるかを探り、相手に共有する鑑賞法がある。それがVisual Thinking Strategies(VTS)というニューヨーク近代美術館で提唱された方法である。一般的に有名絵画などの美術作品にはキャプションという解説書というものが備えられているため、一定の共通解釈で作品を見るケースが多い。一方で、その作家や作品の正解を知らないまま見て、あなたなりに感じた見方をする。これがVTSの考え方である。そこから生じたコミュニケーションを楽しむ鑑賞法である。

全日本幻想入り展では、キャプションの存在はしているが、美術館のような解説書というよりも抽象度の高い100文字程度の同人小説なのだ。また作家の名前も記載されるケース少なく、キャラクターの名前やオリジナルキャラクターを出すなど、良い意味で不可解な作品となっている。そこからコミュニケーションが発生しやすい環境を作っている。直近の成功例として2021年の大阪幻想入り展では、ある作家の作品がキッカケに写真に対しての考察大会が生まれるほどであった。

地方幻想入り展の開催

「東京」「京都」以外の地域で、私以外が主催する幻想入り展を俗に地方幻想入り展と呼んでいる。名称はかなり適当に作ったので、良い名前があれば募集している。

展示会は様々な要素が絡んだ空間作品とはいえ、主催の考え方が深く根付いてしまうのは当然であり、それが続くとコモディティ化した幻想入り展からの脱却は難しい。そこで考えられたのが、幻想入り展の「暖簾分け」制度である。当初はマズロー五段階欲求説にもある、自分の作品が一番という承認欲求をぶつけられる捌け口として作った要素が大きいが、全日本幻想入り展ではあえて避けていた「作品テーマ制度」を地方幻想入り展のみに設けたことが意外に幻想入り展全体に良い効果を与えた。全日本幻想入り展では、多くの出展者の敷居を下げるために「あなたが幻想郷と感じた場所をありのままの写真を展示して欲しい」という理念を軸に開催をしていたことから、テーマを設けることに抵抗感があった。しかし、本展である全日本幻想入り展の間に地方幻想入り展を入れることで、作品のイメージがガラッと変わり、主催する人によって層が変わることがわかった。

新潟幻想入り展 ポストカード

例えば、静岡幻想入り展では「神社の写真なし縛り」、新潟幻想入り展では「秘封写真展」がテーマである。今まで「神社」や「廃墟」の写真だった幻想入り展が新たに「路地」「喫茶店」「抽象写真」など、新たなジャンルが生まれる機会になった。また、キャプションでの小説をメインとした作品やギミックを持たせた作品など、写真作品を越えた多種多様な創作展示に広げることが出来た。これにより、大きな課題であったコモディティ化する幻想入り展の脱却が出来たと考えている。

新しい同人イベント運営

全日本幻想入り展には運営メンバーが何人かいるのだが、暖簾分け制度をしていることもあり、実質的な主催が誰かというのがはっきりわかっていないらしい。私として、これは非常に良いことだと思っていて、それぞれがイベント主催者としての気持ちを持ち、自分自身の価値観の中で幻想入り展を動かせていることだからだ。一般的な同人イベントは1人主催、あるいは共同主催という管理の中で、スタッフがいる、主催が旗振りをしてスタッフを招集する中央集権型イベントで、同じ価値観を持って動くケースが多いと考えている。一方で幻想入り展はそれぞれが考えた幻想入り展を理念軸の中で好きに動くことが出来る自律分散型イベントの考えを採用しており、軸さえブレなければ自分がやりたい時に主催することが可能である。運営メンバーでなくても、幻想入り展に一度参加された方なのであれば、誰もが手をあげて主催することが出来るようにしている。

出展者に公開しているポータルサイト(簡単に制作可能)

また、notionなどのツールを活用したイベントマニュアル管理やスプレッドシートによるGASの自動化などを実施している。誰もが出展出来る次として、誰もが主催出来るイベントとして、運営を心がけている。

コミュニティ論について下記を参考にさせて頂いた。

今後の幻想入り展について

以上が2021年の幻想入り展のお話だったが、2022年以降は何をしていくのか、またどこかで記事にはしていきたいとは思う。予告として、先にあげておくと、自分の中でまとめきれていないので箇条書きで、やるとは言っていないが、検討はしていきたいと思っている。

  • 「オフライン」を軸とした、オンラインコミュニティとの関わり方の検討

  • 「プロセスエコノミー」や「ナラティブ」の軸を用いた企画展の検討

  • イラストや小説などの写真以外の展示会や即売会などの検討

今年はコミュニティやかかわり合いについて検討する1年にしていきたい。コロナをキッカケに感じた、同人イベントはオンラインに代替出来るものではないと学ぶことが出来たからこそ、同人イベントでしか出来ない新しい写真展の考え方、そして新しい同人イベントについても今後「私の創作」として活動を続けていきたい。


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