それが写心だ
写心に極意があるとすれば、「伝える」だろうか。
シャッターを切る前に、何を伝えるために撮るのかを明確に絵コンテを描く。
ではこの写心は何を伝えたかったのか。
91年生きた人生。そして伴侶に旅立たれて23年。春彼岸の日に何を想うのか。何を語りかけているのか。
だから、どうしてもそっと閉じた目が欲しかった。
時節柄のマスク、眼鏡が邪魔をする。
しかし、何を伝えたいかがしっかり絵コンテされていれば、脳が指令を出す。
「ここにポジションしろ」と。
何故なら、この一点しか目が見えないからだ。
もしこの写心に目がなかったら。ただの皺くちゃな手しか伝わらない。
「どうせ写真は声や香り、風、心などは写らないのだから」
という人がいる。
いや、写るのである。
写らないものを写すために、心の準備をするのである。シャッターを切る前にとことんもがくのだ。
例えば下の写心を眺めて、耳を澄ませてみる。
「ひさびさやの。元気やった?」
「見ての通りやわの」
「もう少しまからんのか」
「目一杯安したるでの。勘弁してや」
「どうやって食べると美味いや?」
「獲れたてやでな。このまま食べてや」
そんな活気あるやり取りが聞こえてきそうだ。
新装オープンで新しい船出にふさわしく、至る所から威勢の良い声が飛び交って賑わう朝市を伝えたかったのだ。
そう、声を写したかったのだ。
それが写心なのだ。