実家が出ていった

実家が出ていった。

季節の節目をとうに過ぎ、人間を傷つけようという魂胆に満ちた風が冷たく肌を傷つける中。横浜からの帰りにぼくを待っていたのは、何物でもなく冬風よりも冷たい、全てが違和感と悪意に溢れた我が家に似た何かだった。

齢、21。進学もせず、仕事も手につかなかったぼくを待ち受けていたのは、実家だった建物に置いていかれるという、一種の死刑宣告だった。
元よりここはぼくらの家ではない。離婚した父親が所有する、街の外れの方にある一軒家。「二人の弟が進学するまでの間」と伝え聞かされていた居住の猶予は大幅に縮められてしまったようだ。ぼくだけが何も知らない内に。

残り数本の中身がカサカサと揺れる紙箱をつつき、先端に暖かさを灯した。紙箱に印刷された銘柄は、今日もどこかの誰かに頼られているのだろう。
全く笑える話だ。患った病気による頭痛の避難先として選んだその銘柄は、
低く落ち込んだ気持ちと事態の重さを嘲笑っているようにさえ思えた。

母親にも、兄弟たちにも連絡はつかない。元よりぼくは、この家の中でさえ孤立していたのだから、それも仕方ない。しかしここまで血も涙もないと、もはや自分にだけ血の繋がりがないのではないか、なんて勘繰ってしまう。

別段すぐに野垂れ死ぬ事はなかった。回線は抜かれたし、食事すらまともに出ない家庭で唯一頼りにしていた電子レンジさえ持ち去られていたけれど、ライフラインはまだ止まっていない。それだけが今の頼みの綱だ。
七年熟成させた汚部屋を片付け、掘り出した物は全て売りに出した。流石に精神の拠り処になっているトイガン一挺と、長年かけて組み上げたパソコンは手放せなかったけど、しかし構成する部品の幾つかは今や他人の手の中。段々と自分を失っているように感じて、その度に涙で煙草をダメにした。

ぼくはどこで間違えたんだろう。……後ろを振り返ればキリがない。

「君なら絶対県の三本指に入る高校に入れる!」と持て囃されていた中で、単にダルいからという理由で誰でも入れる通信制高校を選んだ事だろうか。
「大学行け」という皆の声に耳を塞ぎ、終電ギリギリのフルタイムパートを精神を壊すまで続けた事だろうか。
ぼくには夢があった。「小説家になりたい」という、霞むほどに遠い夢が。それを周囲に、家族に話さなかった事だろうか。

ぼくには分からない。一体何が間違っていたのか。

誰も教えてくれなかった。誰も引き止めなかった。少しでも間違えば両親に殴られて育ってきた自分を、誰も、間違える前に殴ってはくれなかった。

自己責任? 果たしてそうだろうか。道路には標識がある。信号機もあって、ガードレールも警察も、オービスだってある。誰かが間違わない為に。
「敷かれたレールを歩く人生」だなんて人は他人を揶揄するけど、だったらどうしてぼくの歩く道には、それら一切が見当たらないのだろう。

生活保護を申請しに、フラフラの両足で役所へ向かった。自律神経失調症、鬱病、家庭事情、それら諸々を打ち明ければ、助けてくれると信じていた。
ぼくの事情よりも定時が気になるらしい老いぼれの職員は、「家族と和解をしてみては」なんて抜かしやがった。連絡も取れないと伝えたはずなのに。まだしもロボットの方がマシに思える。
暖かさの欠片もない住処への家路の間は、条例に背いて歩き煙草を続けた。市民を助けてくれない市のルールに、守る価値は微塵もない。そう思った。元よりレールから外れた行き先の途中に、標識はどこにも見当たらない。

その晩、好きなラッパーの曲を、意識が途絶えるまで聴き続けた。
『タバコの火にすら温もりを感じる夜』
『このまま死ぬとしたらただ無様な負け犬だな』
まさか貧しい過去の境遇を歌うラッパーの歌詞に共感する日が来ようとは。ぼくはそこでようやく、自分がどん底にいるのだと気付いた。

せめて。何かを遂げてから死にたい。無様な負け犬のまま終わりたくない。何でもいい……爪痕を残したい。しかしぼくには何もなかった。大量殺人を犯すほどの憎悪も、行動を起こす勇気も、もう一度引き返す体力さえも。
「ただこのまま終わりたくない」という気持ちだけを抱えて、怨霊のように街を彷徨った。その時書店に立ち寄った時に目にしたラノベのコーナーが、えらく印象的に脳裏に焼き付いている。

見渡す限りの異世界転生。同じ作品の続編が並んでいるのは稀で、隣同士で全く似ているようで間違い探しのように僅かに違う長ったらしいタイトルの巻が、下卑た単語を此方に向け本棚に挿し込まれている。そんな歳でもないだろうに、ぼくはジェネレーションギャップの片鱗を感じていた。
続編のない物語。続く事のない登場人物の行く末。それがどうも今のぼくに重なるような気がして、そういえばと自分のかつての夢を思い出した。

ぼくは小説家になりたかった。初めて小説を読んだ小学生の時から、ずっと自由帳の片隅に考えたお話を書き綴っていた。小学校では嗤われ、中学ではオタクの友達に酷評され、高校では見向きもされなくて。その度何度も筆を折っては、恥ずかしい昔の事だと記憶を片隅に追いやっていた。
しかしそんな恥ずかしさ以上に、何よりも……その場限りで消費されていく登場人物たちが、可哀想に思えて仕方がなかった。

2022年の冬、ぼくはもう一度筆を取った。小学校、中学校、高校と、何度も折ってきた筆はボロボロだったけど、不思議とすらすら紙を染めていく。
書きたい事がある。描きたい物語がある。巷に蔓延る、自己投影の為だけに量産されていくポルノ紛いの駄作ではない。一緒くたにすらさせない。
きっと今の流行りとは大きく逸れているのだろう。こんな情勢では書く事を咎められる事もありそうだ。けど……それが一体、何だというのだ。
標識は依然として見当たらない。信号機も、標識も、オービスだってない。斜に逸れたぼくの道が指す先は、金脈か、或いは崖か。麻畑かもしれないしもしかしたらぼくの知らない実家なのかもしれない。

ぼくは今日も遺し続ける。描いた物語を、歩いた道を、そして生きた証を。元の道には戻れそうもない。戻るつもりもない。〝斜に構え〟〝自己中に〟ぼくはボロボロの足を動かし続ける。ぼくの進んだ道は間違っていないと、死ぬ時の答え合わせ……最初で最後の受験に、合格する為に。

新しく開けた一本目のハイライトは、少しだけ希望の味がした。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?