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分解すれば分かる。

■「早くこんな先生と、出会いたかった…」


大学でとある福祉の専門課程の講義を受けた時の事です。
講師のA先生は障がい児教育のエキスパートで臨床現場の経験も豊富な先生でした。

そして何よりも興味深い事が

福祉や医療・教育現場で

サポートを受ける当事者だったら

「これって、あるあるあだよなぁ~」

と思う事をグループディスカッション形式で議論をする形式をとっていました。

当然、大勢いる生徒の中には特別な配慮が必要な当事者の方も在籍します。

先生は、臨床現場第一主義をモットーとしています。

そのため、
あえてこのような生徒を主役にして、当事者の意見を拾い上げ
定型発達の生徒もそうでない生徒も気づきを引き出す意図がありました。

それが、めちゃくちゃ気まずいムードでもなく
わきあいあいとしたムードで非常に居心地がよい授業でした。

■引きずる生きづらさの根源

ある意味私自身も、子どものころから入院して医療のお世話になっていた当事者でした。

私が義務教育を受けていた時代は1980年代です。
まだ、この時代には今のように合理的配慮という言葉もありませんし
ある種、学歴至上主義という空気が漂っていた時代です。
今よりも、もっと生きづらさは多い時代でもありました。
当然ですが先生の中にも理解のない先生もいました。

私の場合は

病気で入院して復帰したクラス担任が

まさに

その理解のない担任教師でした。

そのため

「何でできないんだ」

と嫌味を言われたり

「みんな出来て当たり前なんだよ…」

と言う言葉は日常茶飯事でした。
(多様化社会の今では、コンプライアンス上このセリフはタブーかもしれませんが…)

正直今でも思います。

「日本は既に戦後なのに、まだ戦時中の軍隊教育しているのかこの先生?」

(当時は嫌でも嫌でも義務教育でしたし、自分が通う学校を選べる学区選択制もなければフリースクールがない時代でした。そのため「嫌でも無理して行く」というのが「社会通念」のご時世でした。)

そのため、先生の影響で他の生徒から
「できない生徒」というレッテル
を貼られた時期も正直ない訳ではありません。

集団圧力のオーラ」

が全開のクラスでした。

とにかく、気分屋で・自分の思い通りにいかないと権力で押さえつけるやり方の先生でした。

いわゆる
「パターナリズム全開状態」
でした。
もちろん、言うまでもないですが

全部が全部そのような先生ではありません。
今を振り返えればその頃から日本の医療や福祉・教育に違和感を持ち
いまだにある生きづらさの根源はそこにあったのかもしれません。

そのため、A先生の授業は大変印象深いものでした。

■たかが指さし・されど指さし事件

少し話が前後してしまいまいましたが、A先生の授業の中では

私たちが今後多様化する社会では

「きっとこんな課題にぶちあたるのだろうな」

という話題が満載で実りのある授業でした。

特に私が大いに心に残ったエピソードとして次のものがあるのでご紹介したいと思います。

たまたま授業の流れで乳児検診のことが話題になりました。

最近の健診はチェック体制がしっかりしています。

なぜなのか?

というと理由はこちらです。

●子どもが成長していくにつれて予想できる困難を早期に発見。
(対処法を事前に知るのと知らないのでは今後の対処に違いが出てくるため)

●子どもの困難に対して家族や本人を含めて「心とからだ」・「その子ども(保護者も含めた)自身の生活環境」を多角的な視点で包括的なサポート体制がとられる・子どもが安心して過ごせるからです。


授業の流れで
「乳幼児健診で自分自身がチェックされて、別室で調べられた」
という経験を持つ生徒がいました。

健診項目の中では、医師や保健師などが子どもに

「これは何ですか?」

人形を指さして質問をします。

結論から言うと、これは何の意図があるのか?
と言うと、

「あれは○○です」

とか

「これは○○です」

と言われたものに対して

「指さし」
できているかできていないか?

というチェックが考えられます。

なぜ、そのようなことが起きたのか?

というと

「分解すれば分かる」

と答えたからです。

■発達診断では✖の解答・大喜利だと座布団10枚エクセレントな解答


実際に、いくつの時の事かは不明ですが
おそらく、話の内容から考えると

「1歳6か月健診」

ではないかと思われます。

結論から言うと、その生徒は発達に何も問題がなかったのですが
さぞかし、記憶に残る程だから心細かったのではないかと言うことが想像できます。

しかしこれが
『発達診断』

ではなくて

日曜の大喜利でしたら

座布団10枚のレベルです。

私もある意味

マジか?
おそらく、2歳にも満たない子どもがこの答を出すなんて

すごすぎじゃん!

とほめてあげたいぐらいな気持ちになりました。
(ある意味、私も臨床現場でこのように(良い意味で)ユニークな幼少期を過ごしてきただろう・又は過ごしてきたという利用者さんと関わっていたのであまり違和感はありませんし、どちらかと言うと私も発想や想像力だけはあるHSP傾向があるからです)

当然、先生も

「俺だったら、人形を差し出して ほーら だったらやってみようか」

と言ってしまうかもしれない

と言う発想でした。

正直なところ今まで出会った先生の中でこの先生は

めっちゃ少数派でした。

そして

子どもの頃にこのような先生だったら

「どんなに助かったことだろうか」

と思います。

そのため、このような先生は私は貴重な存在だと思いますし、そんな大人でありたいと思います。

■「指さし」にも色々と意味がある!

保育の臨床現場でも特に乳児クラスあたりは、この指さし行為も保育士が日々の保育で観察チェックをしている項目です。

大人にとっては

「たかが指さし」

と思う方もいるかと思います。

しかし

子どもの発達過程ではこれは

社会性を育む初期段階の大事な過程
です。

この指さしには様々な意味がありますが、ここでは話が長くなるので
かいつまんでお話したいと思います。

例えば、皆さんがどこかに買い物に行くとします。

あいにく、商品棚に買おうとしていた品物がないとします。

そうしたら、皆さんでしたら どうしますか?

中には、あきらめて帰る方や他の店に行くという方も入りかもしれませんが

店員さんを呼んできて

「あそこの棚にある○○が欲しいのですが、ありませんか?」

と聞くと思います。

そうです

その時に、無意識にやってませんか?

「あそこの棚」と言いながら

指をさす行為。

これって、自分の欲求を満たすためにやっている行為であったり

日常生活では、人に何かを質問されたこと聞いて理解をしたうえで相手の要求に答える。

という意味でも

社会性」

を意図とする行為でもあるのです。

しかし、まれに
生活環境や心身機能のからみで

「指さし」

ではなく

「腕をつかんでくる」

とか

「洋服を引っ張ってくる」

などというアクションを起こして
自身の欲求を満たす手段をとる子どもも中にはいます。

実際に子どもの様子を観察したり、保護者の方にお話しを伺う等をすると
実は何か理由があってのことということが潜んでいます。

例えば、兄弟が多いと
誰かが自分の意思を代弁してくれる環境にある。

だから、

指さしをしなくてすんでしまう

というパターンもありますし

もしかして、もしかしてですが

将来、

「アレクサ~、○○やって~」

とか

「アレクサ~、✖✖の音楽かけてー」

『音声だけで』

言葉を覚える発達過程にいる幼い子どもたちがメカに話かけるようになると

それはそれで

「指さし」

をしなくても良い環境になり
「発達過程にも何らかの異変が出てきてしまうのではないか?」
と私は思います。
何が便利な世の中かは難しい世の中ですね。

また、確かに集団検診の時に数多くの子どもの発達課題をいかに早く時間内で診ていくのかという難しさはあると思います。

さらに、医学や情報社会が日進月歩して様々な障がい知られるようになったこのご時世でもあります。

しかしそうなったがために

「障がい」という言葉が
情報社会に流されて独り歩きしているしているように思えてしかたがない

と思うようにもなりました。

それは私だけでしょうか?

例えば、ユーチューブを見ると最近は

発達障害やらHSPなどの動画は山ほどあります。

しかし、見ていくと

特性だけが説明されて

「それで」

「だから」

「一体何が言いたいのか?」

「解決策や解決のためのアイデアがない非常に残念なもの」

きちんとエビデンスが説明され

「なるほどー」

と府に散るものが玉石混交されているように私は思います。
これはでは

「定型発達」VS「障がい児(者)」

という「分断」を生んでしまうのではないかと危機感も感じられます。

そうならないためにも、やはり

正しい知識を身につける」

という意味で教育は大事だと思います。

そうならないために私自身も、実際に臨床現場でおきたエピソードを交えてわかりやすくお伝えしていき皆さんと情報共有していきたいと考えています。
























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