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清水晶子氏の学問レベルの低さの指摘&「学問の自由とキャンセル・カルチャー」講演を聞いて。

⭕️追加資料


2022.7.24 一般公開シンポジウム 「フェミ科研と学問の自由」https://youtu.be/FP8rL7KfisIのうち、清水晶子氏発言の「学問の自由とキャンセル・カルチャー」を文字起こししました。こちらPDFです。清水氏にあっても、正確に示されないと、間違った批判までも拡がってしまいご迷惑だと思われます。公開シンポで話されたそのものです。

⭕️本文


2022年7月31日

弁護士 滝 本 太 郎


 東京大学教授清水晶子氏の言説につき、書きます。


1 清水晶子氏は、東京大学の英語教授であり、社会学、フェミニズム学の専門家ではない。後記の『フェミニズムってなんですか?』の中で「フェミニズムは専門の「ほんの一部」としている。ただLGBTQの課題とくに「クイア理論」ということで著作を出している。

 氏の文章としては、2020年に『思想』1151号に掲載された「埋没した棘―現れないかもしれない複数性のクィア・ポリティクスのために」というのがもともと話題になっていますが、それはまだ読んでない。また、「クィア・スタディーズをひらく2:結婚、家族、労働」や「ポリティカル・コレクトネスからどこへ―清水 晶子, ハントンヒョン他 2022/8/30」が、近く出るとのことです。


2 私が接したのは、「多様性との対話―ダイバーシティ推進が見えなくするもの (青弓社) 2021/3/26岩渕功一著・ 編集」でした。その中の148頁が下記です。低レベルにすぎ衝撃的でした。それ以上は読む必要もないと思うものでした。

 「トランス女性は女性だ」が意味するのは、例えば外国籍の女性も日本国籍の女性も女性であるように、黒人の女性も白人の女性も女性であるように、あるいは貧困層の女性もいわゆる世界の1%に属する超富裕層の女性も女性であるように、女性にはトランス女性もそうでない女性(シスジェンダー女性)も含まれる、ということだ。言い換えれば、ここで主張されているのは、例えば国籍や人種、あるいは経済状況が異なっていても女性は女性であるように、生誕時に付与された性別が何であったとしても女性は女性だ、ということになるのだろう。だとすると、こういえるだろうか。つまり、トランス女性もシスジェンダー女性も同じ女性なのだ、と。

 なんなのか。「トランス女性は女性だ」がスローガンやイデオロギーではなく、論理的に真実だとして説得的に話するのかとも思っていたが、こんな幼稚園生さえも反論が成功する論理を言っている。

 しかもその先の150頁では、「『トランス女性は女性だ』と言うことは、トランス女性とシス女性とは同じ女性ではないと言うことでもある、と」。要するにマヤカシの文章を書きつられているという外ない。

 これ一つで、救いようがないでしょう。


3 『フェミニズムって何ですか?』2022/5/20、文集新書.清水晶子著はどうか。

 フェミニズムが「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」(第二の性、ボーボワール著―私は高校生の時だったかな読み感動した)から始まったこと、そのジェンダーが「社会的・言語的な性別」としての問題だとは分かっているようです(200頁)。

 しかし「ジェンダーにセックスは影響されるとある。」すなわち、その202頁「生物学も医学も社会や文化の中で生み出された学問であり、その体系のもとでヒトを雌雄に区分する以上、生物「学」的な性別区分は社会的な性別区分と無関係ではあり得ません」とある。

 なんなのか。生物学・医学ができる以前から、ヒトの雌雄はあるのに「学問の成立」をもって述べている。医学や生物学ができる前から、人間の雌雄はある、まずは事実を見るという社会を検討するときの基本中の基本ができていない。気のきいた中学生ならば反論が成功する論理です。

 その他、フェミニズムの考えは、私は門外漢ながら「個人的なことは政治的である」という言い方を聞いていて、なるほどと思ってきた。それすなわち「男女差別という政治的、制度的、思想的なことが、各家庭にも影響しているということを、逆から言ったもの」でしょう。

 ところが、清水晶子氏は、この本の中では、家庭内での子ども対応の男女差別の実態をもって、フェミニズムの出発点であることまで否定していて、驚きました。

 もはや、男女平等の運動を終焉させようとしている方だと思う外ありません。「フェミニズムの終焉」とか言われるが、清水氏は前提である「男女の不平等を見えなくなさせる論者」なのだろうと。


4 更に、清水教授において、「学問の自由」について7月24日話していることが分かったので、ききました。

 清水氏が「女性と自認する人は女性として遇せよ」という論者であり、そのことでは関弁連の2021.9.24の大会宣言では「性自認の権利に基づき性別変更も可能とする制度を」を定めようと言っており、オピニオンリーダーだと思われるので、注目したものです。

 私は、きっと、女子トイレ、女湯、女子スポーツ選手権、刑務所、いわゆる女性枠、統計、医療などなど議論されるべきことが一杯あり、それは右左の問題ではなく、そもそも各分野で議論されず、まだ知られていないので、意見を開陳されるのだと思っていた。

 まして今、米国の女子水泳界の混乱から始まった女子アスリートの公平性のための議論があり、イギリスではあまりの混乱から女子スポーツ選手権、女性スペース、刑務所などにつき、正常化に舵を切ったのに、なんら議論しようとしていないのだから、意見が初めて開陳されるのだと思っていた。

 だが違った。


5 清水氏講演「学問の自由とキャンセル・カルチャー」

 清水氏は、2022年7月24日、一般公開シンポジウム 「フェミ科研と学問の自由」という催しの中で、こう題して話した。「ポリティカルコレクトネス」「キャンセルカルチャー」についての話だった。

http://kaken.fem.jp/2022/07/12/%e4%b8%80%e8%88%ac%e5%85%ac%e9%96%8b%e3%82%b7%e3%83%b3%e3%83%9d%e3%82%b8%e3%82%a6%e3%83%a0-%e3%80%8c%e3%83%95%e3%82%a7%e3%83%9f%e7%a7%91%e7%a0%94%e3%81%a8%e5%ad%a6%e5%95%8f%e3%81%ae%e8%87%aa%e7%94%b1/
 岡野八代(同志社大学大学院教員)氏が、これを―とっても充実したシンポジウムになりました。同志社において開催された「フェミ科研と学問の自由」。後ほど、動画も公開される予定です。―として宣伝していたので知った。

https://twitter.com/yot07814/status/1551116846208020480?s=20&t=-IWe3U9VwxJYeFhn-SA3-Q
清水氏らの話の動画はこちらになる。 https://youtube.com/watch?v=FP8rL7KfisI

6 内容と、その折の感想の要旨は、下記の通り。

①  清水氏は、「ポリティカル・コレクトネス」批判は、学術的に確立された知見を否定するために使われていると言う。ブッシュ大統領の名など使い、右左の問題とし、保守派が確立された知見を否定するために「批判」していると。

★ 真実、左右の問題なのか、逆に働いたら大変なことになるのだと分かっていないと思った。


②  そして、清水晶子氏は、「キャンセル・カルチャー」の正当性を言う。それを批判する勢力は、決してキャンセルされていない保守派の力ある方々なのだ、と話している。

★ そうかなあ、どんな課題にしても、旧来の考え・保守派に対抗するならば、それこそ、具体的な事実と論理構成に基づいて、議論を徹底していかないとつまりは解決せず、「ポリティカル・コレクトネス」として黙らせても、しょせんは一時期のこと、結局は広く人に対して説得力を持たず、部分社会の考えにとどまってしまうと確信するのだがなあ。


③  そして氏は、なんと「学問の自由」もポリティカル・コレクトネス、キャンセル・カルチャーの正当性の観点から、制約されるべき、と言っている。

 いわく、地位ある人が自ら立場を守るために「学問の自由」を利用している。力あるものは、批判が集中されようとつまりはキャンセルされていない。トランスジェンダー、セックスワークの論議で、差別だとされて口を封じられたと言いつつ、更に侮辱的な言説を続けていくことを、むしろ保障している。抑圧側は「ポリティカルコレクトネス」「キャンセル・カルチャー」だと批判することにより、力を得ている。「学問の自由」や「言論の自由」の利用は、洗練された権力のメカニズムとしても使われるのだ。

 「学問の自由」を守ると同時に、今2022年時点の「学問の自由」は両刃の剣として使われることを忘れてはならない。アーメッドが言うとおり「抹消したがっている人とそこに対話など存在しようがない。「学問の自由」はそこでは濫用されるから警戒が必要、そのとき「討議や対話はそれ自体が抹消のテクニックになる。討議や対話を拒絶することこそが生き残る戦術になる」と。


④  ★いやあ、今ある考えが、普遍的に正しい訳はないから「学問の自由」がある。その重要性を分かっていないままではないか。

「討議や対話はそれ自体が抹消のテクニックになる。討議や対話を拒絶することこそが生き残る戦術になる」とするが、それでは自分の考えが拡がる筈もないではないか。対話と討論を重ねてこそ、自分の考えも洗練され・裏付けを得られるではないか。大宣伝だけをするというのは大衆蔑視に外なるまい。また、討議や対話によってこそ、自分の考えがより洗練され、人に説得力をもつ貴重な機会になるのではなかったか。

 このような氏の姿勢は、「自分の考えに説得力がないから拡がらないのではないか」という機会を逸し、第三者からも「自分の考えにこそ相応の弱点があって議論ができないことことの証明だよ」とも思われてしまうものだ、とは考えないのだろうか。

 いったい、清水氏は何を言っているのか。

 そも「絶対的に正しい」というのは宗教であれば格別、そうでないのであれば、民主主義国家において厳に慎むべき態度でしょうが。「主張の故に排斥されてはいけない」のです。「ポリティカル・コレクトネス」だという主張はご自由だが、それが絶対的なものだとし「キャンセル・カルチャー」して行くといういうのは主張の排斥そのものであり、「学問の自由」そして「言論の自由」に反するでしょう。

 どんな概念でも、思想でも、政策でも、普段の議論が必要です。そこに地位の高さ・低さ、保守・革新、右・左は関係のないことです。事実を把握しつつの、討議と論理の重さを忘れてしまうのは、ソクラテス以来になるのか人類の智慧を放棄することになるのですよ。

 それまったく理解していないか、あえて無視しているのが清水氏であった。


⑤  戦前、美濃部達吉教授の天皇機関説が排斥されたような愚は犯してはいけない。世に支配的な思想は変わり得る。これからも、世の政治情勢、権力のあり様、メディアやネット規制により変わり得る、だからこそは「政治的正しさ」なぞで排斥してはならないのではなかったか。それが、日本国憲法の智慧だったのに、氏はまるで分っていなかった。

 もちろん、戦前の、透視の超能力に幻惑された福来友吉東大教授の排斥のように、レベルの低さのそれ自体の故ならば排斥されることは分かるが、「主張の故に排斥されてはいけない」のです。

 1995年発覚のオウム事件では島田裕己教授が大学を追われました。私はそれを求めた一人ですが、それは「宗教は恐ろしいものである」という本質の一つを分かっておられないという基本的なレベルの低さ、かつオウム真理教に実にしっかりと利用されたという問題の重大さによります。彼が当時、宗教学者のレベルに達していなかったからです。


⑥  実は、平和主義にしても、民主主義にしても「確立されていて議論は終わり」ではない。

 アラブの春が貫けなかったこと、ロシア政治については、実に大変な状況となってきている。民主主義とは何なのか、平和主義とは何なのか。その内実、意義と条件など議論し続け、普及させなければ、力にならないのです。

 言い換えれば、例えば「民主主義」という日本では支配的な思想についてさえも、否定する言説につき「キャンセル・カルチャー」として排斥するのではなく、正面から反論していかなければならないものです。普段のその努力が必要なのではなかったのですか。


⑦  清水氏は「ポリティカル・コレクトネス」を学術的に確立したものにつきしているとし、そして「キャンセル・カルチャー」として論議と論者を排除するとしているが、つまりは力にならず、時に「自らが正しい」と説得力がないことを言いつらねるだけ、陥穽にはまるだけでしょうに。「討議や対話はそれ自体が抹消のテクニックになる。討議や対話を拒絶することこそが生き残る戦術になる」などと言いつつ、やがては誰にも相手にされなくなるだけでしょうに。

 討議や対話をシビアに重ねていき、自らの主張と裏付けを確立し続けていかなければ、拡げていかなければ、世の支配的思想がとんでもないところに行った時-今日のチュニジア憲法の改正、ロシア等のように民主主義を実質否定する、さらに焚書坑儒の事態になった時-には、闘いようがなくなるのですよ。


⑧  清水晶子氏は、分かっていない。様々な歴史にしっかりと学んでいないからではないか、と思える。

 部落解放問題での「朝田理論」の果たした役割、中国の文化大革命で紅衛兵らが果たした役割、それらが跳梁跋扈する時期の社会のあり様など、知らないのではないか、と思えて仕方がない。

 「清水晶子氏は、令和の福来友吉東大教授」だと思う。ああ、福来友吉氏は透視能力を信じてしまったにしても科学的に証明しようと努力してきた、地位を失う不安を持ちつつも公開でしっかりと実験、議論もしてきた。対して、清水晶子教授は、議論ができない、対話を拒絶する姿勢を公言して愧じない。清水教授を福来教授に譬えてしまうのは、むしろ故福来友吉氏に失礼かもしれない。

 「正しいから正しいんだ」「討議や対話を拒絶することこそが生き残る戦術になる」では、話にならないんです。もちろん、宗教であるならばご自由です。

以 上

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