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娘の為の人付き合い。

自分以外の為に誰かと人付き合いをしなければいけないと強く思ったのは、1号が生まれて半年経った頃だった。

私は親が高齢な事もあり大人ばかりの環境で育った為、5歳の1年保育の幼稚園に行くまでほぼ同世代と触れ合う事がなかった。その為同世代と遊ぶ際にいじめられまくって泣きまくってた過去がある。出来れば子供にはそういう所でつまづいて欲しくなく、ふれあい広場のような所へ赴く事をした。

元々あまり場所見知りも人見知りもなかった1号は、同世代の赤ちゃんと泣きもせずおもちゃを取って楽しそうに遊んでる。どっこい私はと言えば『お母さん達と喋らなければいかん』という焦燥感に駆られつつ、頑張って元からいるお母さん達に話しかけ、その広場の母親コミュニティを把握して地雷を踏まない足場作りをし、なんとなく目をつけられない程度に溶け込んでいく努力をしていた。結果ランチ会に呼ばれたり、お家遊びに呼ばれるようにもなったし、母親同士のグループルールやゴシップネタ、悪口も耳に入れては対応するようになった。


『自分の興味のないコミュニティに混じることの面倒くささよ』

率直に言ってコレに尽きるが、当時そのままその地域で進学も考えていたのでつまづく訳にもいかず、1号が保育園に入りその広場へ行かなくなるまで胃が痛い想いは続いた。

その後の保育園の親同士の付き合いは驚くほどライトだった。送迎で挨拶してちょろっと話し、行事で会えばちょろっと話し、卒園すればお疲れさんでしたってなもん。なんと気軽。これぐらいの干渉せずふわっと話せるのがいい。胃の痛さは消えていた。


思う事はふれあい広場も保育園も話す話題は『自分の子供』の事であったはずである。そこに重さの違いが生じるのは、『子供に過ごす時間の長さ』ではないかと思う。

ふれあい広場にいる専業お母さんや育休お母さん達は子供との時間がほぼを締めていて話題もそこから生まれる時間が圧倒的に多い。なのでそこにしか世間との繋がりのないお母さん達は子供を通して自分の事を見られてるという気持ちになってしまうのではないかと思う。故に少しでもマウントが発生しようなら頑張っている自分を踏みつけられたような気持ちになっていざこざも起こるのだろう。

一方保育園はどうか。それはあくまで仕事の時間に利用する間柄というだけで、保育園以外で関わりを持たなくとも子供も親も痛くもかゆくもない。なのでたまに子供の話をしたとしても余裕をもって聞き話しが出来る。それで私は気楽だったのだろう。


この事で『子供の為に』の比重が多い親同士の付き合いは『私がしくじると子供が孤立する』という枷が大きい程面倒くさくなるので、『うちは子供は子供のお付き合いと認識してて、私はそこまで干渉しないよー』とソフトに前に出すことで厄介事を回避できると1号の際に学んだ気がした。その学びは1号が幼稚園に進学した際も感じたし、年長の今は小学校になれば縁のなくなる厄介なお母さん達との関わりをのらりくらりかわす際も役立っている。

勿論1号が大好きな友達の親とはそれなりに仲良くはする。『それなり』でいいのだ。子供が仲良しだからって親もべったり仲良しである必要はない。

そして、これからは2号のコミュニティが増える。一番怖いのは1号の友達の親か2号の友達の親かどっちがどっちか覚えきれなくなるのではという事である。だいたい元から人の顔と名前元々覚えるの苦手だし。

自分以外のためのお付き合い、まだまだ勉強中。







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