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自己決定の行き詰まり

『ソーシャルワーク研究』vol.44,№3,2018

ソーシャルワークの価値と原理をめぐる今日的課題―批判はどこまで到達しているのか―
衣笠一茂 氏

最初に

自己決定…私たちは日々様々な決定をしながら生きています。

小さいところでは、今日の夕食から、大きいところでは、仕事やパートナー人生最期の迎え方等々。

医療や介護の現場においても自己決定、自己選択は大事と言われますが、そもそもこの価値観はどこから来て、何故この社会で大事にしなければいけないのでしょうか?そして本当に価値があるのでしょうか?衣笠先生の論文を読んで学ぶところが多かったのでまとめてみたいと思います。

ソーシャルワークの主要な「価値」

論文中では、ソーシャルワークの主要な価値として自己決定の保障が存在するとあります。

ソーシャルワークにおける主要な「価値」は、価値研究において顕著な業績を残したHorneによると、理念的価値としての「諸個人の尊厳の尊重」と、手段的価値(原理)としての「自己決定の保障」の二者に大別される。

「諸個人の尊厳の尊重」は「価値基盤」

「自己決定」は「行為原理」というわけです。

医療における自己決定

医療・保健の分野ではますます意思決定のあり方が大きく問われるようになってきています。ACP、通称「人生会議」の事を聞いた事がある方は多いと思います。

人生会議

これは本人の「自己決定」を最大限に尊重し、家族や医療職、その他かかわりのある皆でその決定を尊重し共有しようというプロセスのことです。

論文の中でも医療分野ソーシャルワーカーの役割が記載されています。

Galambos(1998)
個人の尊厳や人権を守るために、興味や関心、ライフスタイル、文化的背景などに応じ、治療や死のあり方が多様に保障されるべきだとして、患者の意思を「代弁」することにより「自己決定」を保障することがソーシャルワーカーの果たすべき「鍵となる役割」であると主張する。

分野が違っても「個人の尊厳を守るため」に「自己決定」が保障される必要があるという基本は変わらないわけです。

ソーシャルワークの根源的な「価値」として「個人」や「自己」の尊厳・尊重・保障が謳われる中で、その具象化に向けたソーシャルワーク実践の役割や機能を規定する「原理」としての位置づけを「自己決定」という概念が担ってきた

つまり、「諸個人の尊厳の尊重」を具体的にするものが「自己決定」ということになります。

なぜ自己決定が個人の尊厳の実現になるか?

ことに近代ソーシャルワークはKantが示す「近代的合理性」のあり方に大きく影響を受けてきた事が指摘されている。

どうゆう意味か?

解説のために、諸個人の尊厳の尊重と自己決定を結びつける媒介から明らかにしていく。

諸個人の尊厳の尊重 ⇔ ? ⇔ 自己決定

この?部分、何かというと「自由」の概念である。

諸個人の尊厳の尊重 ⇔ 自由 ⇔ 自己決定

Kantにおいては自由の概念とは「意志の自律」を意味し、選択意思の自由、すなわち自己決定は、この「意志の自律」があって初めて道徳的意義を獲得するとされる

「意志の自律」とは何か?

意志の自律の説明の前に自己規制の説明から

封建制の後に構築された近代市民社会に登場した「個人」なるものが、生きるための「知識」すなわち理性と、生けるものの「情念」すなわち欲望のバランスを取るために自己規制が必要とされるならば、自己規制とはすなわち「道徳的意志」を意味する。

自己規制の根源→道徳的意志

道徳的意志を持つ人=「理性的存在者」

理性的存在者の尊厳は尊重される。

何故か?

理性的存在者は無条件の命令や義務である「定言命法(~しなさい、~すべき)」によって行動すると考えられる。

理性的存在者は自分に対して「規範」を与える「自己立法」ができる故に自由であるといえる。

何故か?

自分が自分に従うのであればそれは自己判断であり「自己決定」という事になる。

からである。

それは誰かに服従しているわけではないという意味で「他律(代表的には身分制度)」を否定するものであり、自由であるといえる。

自己決定しそれに従う努力をする者が「真に理性的な存在」として自由を獲得し近代社会で尊厳を持つ主体として尊重される。

自分自身の内に「定言命法」である道徳的意義を見いだし、それに従う事を自己決定し、実現に向けて努力する事。これが「意志の自律」である(と思う)。

自己決定できる個人に尊厳があるという概念の基礎には

近代市民社会における「個人」のあり方、すなわち「自由」を謳歌する個人に課せられた道徳的「責任」を果たすことができる「理性的意志」を持った「望ましい個人像」が前提とされている

のである。

自己決定のアポリア

いきなりですが、アポリアってなんでしょう?私もわからないので調べたらギリシャ語で「行き詰まり」「困惑」だそうです。

というわけで、近代では道徳的人格に基づき、自分で自分に対する法を守れるものが自由と平等の主体となり、尊厳が認められるとしてきた。

この流れで言うと、ソーシャルワーカーの価値とは

何らかの理由で「判断し決定する」能力が減じられたり、それを奪われたりしている人(クライアント)に対して、「自己決定」する機会や能力を与え、その開発と発露を援助関係の中で展開していく事により、「近代市民社会における主体」という「尊厳ある個人」の位置へと彼らを「押し上げる」点にある

多くの人がここで疑問をもつと思います。

・実際の現場ではクライアントの利益を守るためにあえて「自己決定」とは反する「決定」を行う事を強いられる

自ら命を絶とうとしている方、セルフネグレクト状態の方の決定を尊重する事が果たして尊厳を守る事になるのでしょうか?

・認知障害や脳外傷、精神疾患や嗜癖を持つ人、あるいは何らかの「生物学的な障害」を持つ人々~に「自己決定」だけを強調することは、我々の社会において善きものとされている「社会の価値」を押し付ける「社会の代理人」としてのみ機能することになりはしないか

自己決定の能力を欠いている人に尊厳はないのか?

自己決定のアポリアとはこの「決定の受容」と「決定の不在」の2つの命題の事を指していると考える。

・受け入れがたい自己決定に対してどのように対応すればいいのか?

・自己決定の能力を欠いている人に対してどのように対応すればいいのか?

行き詰りました。

何故、行き詰ったか…それは近代市民社会の価値観では、自己決定と人間の尊厳が結びついてしまっているからに他ならない。

まさにそれが「能力」を持たざる「弱い個人」を「自己決定」できる「強い個人」へ陶冶してゆく機能を持つが故に、逆説的に「強い個人」になれない「持たざる人々」を「管理」し「排除」する機能=「社会管理の装置」としての役割を果たすのではないか

近代市民社会的価値観の限界

尊厳を認めてもらうために自己決定能力が必要とされる近代の価値観では、個人の尊厳に価値をおくソーシャルワーカーが個人の尊厳を貶めるパラドクスを生んでしまう。

「近代市民社会」という政治的には自由主義、経済的には資本主義という形態を取る社会構造の中にある「新たな価値が存在する可能性」を見出す必要があると考える。

自己決定も大事なのは言うまでもない。先に記載したACPも本当の意味で本人の自己決定を守り尊重するという大事なプロセスを現すものである。

ただ自己決定を根拠にして人間の尊厳を判断するのは現実にそぐわない場面が多いということなのです。

では新しい「価値」とは何か?

他領域の論理や他国の文献から演繹的に措定するのではなく、葛藤に満ちた実践の暗黙知・経験知の蓄積を分析・考察することの中から帰納的に論理化する。すなわち「実践を科学する」ことにより、ソーシャルワークの「新たな可能性」を探求する知的営為が今まさに必要なのではないか。

最後に

新しい価値は誰からの押し付けではなく、私たちの日々の活動によって作られる。

今、まさに近代市民社会的価値観が行き詰まりを迎えている事を意識しつつ実践を積み上げる事が、現代に必要とされる価値を生んでいくのだろう。

日々日々、悩みながら、手探りで。

また、現代ではその日々の実践を多くの専門職が共有する機会も多い。それは会場に集う勉強会だけでなく、WebだったりSNSだったりウェビナーだったりする。

そのような知的営為の共有機会が増えている事に私は可能性を感じています。


参考論文

ソーシャルワークの価値と原理をめぐる今日的課題 : 批判はどこまで到達しているのか (特集 再考 : ソーシャルワークの価値・倫理の構造)
Current Issues on Values and Principles of Social Work : Where does the Criticism Reach to?


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