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同カプ解釈違いとどう付き合うか

 解釈違い、それはオタクの二次創作ライフを脅かす危険なトラップだ。オタ活においてもSNSが全盛の今、二次創作を摂取する文化の中で完全に自分の嗜好に合わないものを排除するのは非常に難しい。同カプ(同じ作品の同じ2人の組み合わせを好む人々のカテゴリーのこと)ではなおのこと問題の根は深い。同じ作品の同じ二人をテーマに創作をしているがゆえに、否応なく視界に入ってくることに加えて、そこに創作者間の人間関係が発生すると問題は殊更複雑になる。
 同じものを見て同じものに萌えているはずなのに、どうしてこんなに違和感、不快感、オタクとしてのアイデンティティーを脅かされるような危機感を感じるのか。今回は自分の事例をもとに同カプ解釈違いとは何か、どう付き合っていくべきなのかを考えてみたい。

同カプ解釈違いと私

 個人的な話から始めたい。フェイクも含むが私には10年以上ハマっているカップリングがある。有名な作品のマイナーカップリングで、受けの登場回数が極端に少ないため文脈上は成立する根拠がある(と私は考えている)ものの、創作者はジャンルの他カプに比べると非常に少ない。アニメ放映時は注目されたカプであったが、ブームの終焉とともに華やかな絵描き、字書きは去り、今では固定メンバーが細々と創作を回している状態である。あまり交流をせずコツコツと描いていた私のアカウントは、月日を経ていつの間にかマイナーカプながらもいいねジャンル天井を取れるまでに成長した。私は正直その環境に満足していた。人が少なくても作品をあげれば誰かが認めてくれるという環境が最高に気持ちよかったのだと思う。
 そんな斜陽ジャンルに現れたのがAさんだった。当初随分長い漫画を描く人がいるなぁという認識だった。私は当時解釈ゴリゴリの漫画を描いており、Aさんが初めにアップした長編漫画はテーマやモチーフが偶然私とかぶっていた。(状況的に偶然でパクる、とかではないと思う)
 数少ない同カプ作品は必ずチェックする私は、Aさんの作品を読み、”言いたいことには共感できるのに表現方法が受け付けない”という症状を催した。このキャラはこんな表情はしない、メンヘラみたいな攻めが許せない、モノローグが冗長すぎる、等々…そんなもやもやしたどす黒い気持ちが読了後の心の中に渦巻いていた。
 これが当ジャンルにおける同カプ解釈違いとの長い長い確執の始まりだった。

嫌い と どうでもいい?

 よく言われるのが好きの反対は無関心、というやつである。Aさんの漫画を読んで以降、私はAさんの作品を徹底的に避けることを決意した。しかしAさんは活動を拡大する。ツイッターへの進出、オフ本の発行と精力的に矢継ぎ早に推しカプを生産した。彼女の作品はいわゆる”上手い””広くウケる”作品ではなかったが、推しカプを好きな層のなかに一定数存在するニーズを的確に捉えたものを描いていたと思う。キャラは多少崩壊していても2人の関係を至上とするストーリー、モノローグを多用する愛憎ドロドロの心理描写、そして誰もが好きな「エロいことをする2人」である。デッサンの崩れ、顔面崩壊、お世辞にもセンスが良いとは言い難いエアブラシ塗りのカラーと昭和のおばさん感満載のモチーフてんこ盛り…のスタイルを貫きAさんはひたすら我が道を進み続けた。無視するとは決めたものの、物量の多さと好奇心に負け、私は禁を破り吐き気を催すほどの18禁画像まで一応は見てしまうので、もはや地獄である。
 実はAさん以前にも、解釈違いではないものの違和感を感じる創作者もいたことがある。しかしそのような違和感は、相手との付き合いが発生し人柄を知ったり技術を教えてもらったりするかかわりを通じ、自分の中ではうまく消化できていたと思う。「自分にはできないこと」をする相手に対して、私は接近し自分の懐に入れ相手を自分の一部にすることで乗り越えてきたのだと思う。しかし今回は違った。Aさんは他の同カプ作品を読まないと宣言して憚らなかったのである。

解釈違いと嫉妬

 正直なところ、同カプにおいて人気があるのは圧倒的に私の作品である。年齢、背景、そのキャラらしさ、下品過ぎない絡み、そして18禁は完全に希望者のみの閲覧に絞る、と技術面でも倫理面でも私はAさんよりも気を遣って活動していると自負している。しかし私はAさんに対する嫌悪感から逃れることが出来ない。どんなに長文の素晴らしい感想をいただいても、イラストや漫画がバズっても、有名な絵師に作品が認められても、である。冷静に考えると随分非対称的な関係である。おそらくAさんは私の作品を見てすらいないのだから。
 では私は何にそんなにこだわっているのだろうか。不快感を催すほどの解釈違いをつい眺めて文句を言いたくなる心理とはいったい何なのだろうか。それはおそらく彼女と私が「似ている」のに「絶対に相いれない」こと。そして彼女はその作品の出来の良し悪しに関わらず「絶対に私に描けないものを描く」からなのだと思う。これを嫉妬と呼ぶのなら、私は彼女に嫉妬しているのだろう。心の中ではおそらく、彼女の根性、情熱、露悪的なものを堂々と描く力を認めているのではないだろうか。

同カプ解釈違いとどのように付き合うか
 アンチや炎上が存在するのと同時に、SNSには”嫌いなものに時間を費やすのは間違っている、嫌いな物より好きなものを語れ”という類の言説が溢れている。関係性が発生する場面で嫌いなものを語ることはタブーである。それは裏返せば、嫌いなものにこだわってしまう人間の逃れられない性を示しているのではないだろうか。相手を直接傷つけないのであれば、嫌いな作品の嫌いな部分をとことん、舐めるように鑑賞することで自分の「解釈」がはっきりとする。解釈違いは自分の解釈をより鮮明に浮かび上がらせるために存在しているといっても過言ではない。
 私は今後もきっと彼女の存在にこだわり続け、ミュートとブロックを駆使しながらも時々はその生存を確認してもやもやするのだろう。彼女が解釈違いを生産し続ける限り、私はこのカプから離れることはできないのかもしれない。解釈に満ち溢れた長編漫画を描くのはこのジャンルには彼女と私しかいないのだから。私がずっと描き続けている解釈の煮詰まった漫画が完成した時、私は彼女に今まで彼女の作品をすべて読み、吐き気を催すほど嫌いだったこと、そして本当は我が道を行く彼女に自分の作品を読んでほしいことを伝えられるのかもしれない。

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