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きっとまた、会いに行くからね。


今朝、散歩が終わったあと、私の帰国を惜しむかのように雨が降った。

その後、授業が終わる少し前、窓から光が差し込み始め、私の最後を彩ろうと言うかのようにいつのまにか晴れていた。



明日 23日の朝8:30、寮に送迎タクシーが来てシャルル・ド・ゴール空港へ向かう。12時間のフライトで香港を経て、24日に成田へ帰る。



"憧れたちのほんもの"に心躍らせて、誰もが知る有名な場所を毎日歩き回った1週目。

憧れの街が私の"日常"になって、私だけのお気に入りを追求した2週目。

大切な人たちに"私の街"を物知り顔で案内した3週目。

"Au revoir(さようなら)"を告げるために大切な場所を訪れつつ、"こんなこと今しかできないんだから"と予定を詰め込んだ4週目。


労働も時間もしがらみも卒論もぜんぶ、日本に置いてきた。これまでの人生で一番幸せな1ヶ月間だった。これから先も、死ぬまで更新されないかもしれない。それくらい、幸せだった。



自分の常識が通じない空間で、違う常識を受け入れて過ごすうちに他人に寛容になれるのだろう。

それは「世界はこんなに広い」ということを肌で実感し、「嫌だったら狭い日本にいる必要はない、海を渡れば自分を受け入れてくれる人がいる」と思える繋がりを作れたことで生まれる余裕からもくるのだろう。

原田マハさんに魅せられて


昨年書いた記事の中でちょうど1年前くらいの私が感じていた直感はどうやら正しかったらしい。

パリ市庁舎の観光案内所のスタッフ・警備員の方々、レストランやお店の人たち、迷っているときに助けてくれたパリの人、寮長、ラストの1週間だけだったけれど一緒に過ごしたルームメイト、同じ寮の子、語学学校で出会った仲間たち。

英語もフランス語も拙い私のことを、みんな優しく受け入れてくれた。今は、もし日本がダメでも、私にはパリがあるんだな、と思える。その分だけきっと、私はこれからより強く、寛容になれる。


これが1週間や2週間の話なら、私は笑顔でパリとお別れできただろう。だけど、この1ヶ月でパリは私の一部になってしまった。日本に帰りたくないわけではないけれど、もはや私の第二の故郷であるこの土地と離れるのは、涙なしにできやしない。

昨日の昼、私は泣いていた。

パリを離れたくなくて、カフェオレのミルクを自分で注ぐことができるカフェがあると教えてくれたシャンゼリゼ通りにあるパリ一番のカフェで、シードルと牛肉のタルタルを食べながら、そのあまりのおいしさに涙が溢れて止まらなかった。

月曜に出会って大好物になった
ビーフタルタル


この、GeorgeⅤ(ジョルジュ・サンク)というカフェを私は3回訪れた。

1度目は父とランチで、2度目は彼とデザートで、そして最終日にひとりで最後の晩餐に。

シャンゼリゼ通りを歩いていると見えてくる赤いテント。その名の通り、メトロ1番線のGeorge V駅からはすぐ目の前という最高のロケーション。いつ行っても明るく元気であたたかな接客。初めて訪れたとき、すぐにファンになった。お値段はかわいくないけれど、彼らのためになら喜んで払おうと思った。パリはチップをわざわざ払う必要がない中で、さらにチップを贈ったお店はここだけだった。

昨日も「デザートいる?」と聞きにきて「大丈夫。でも名刺がほしいな。ここのお店、お気に入りなの。」と言ったその声が泣いているとわかって、ティッシュ代わりにペーパーナフキンと通常お金がいるはずなのにサービスでお水を持ってきてくれた。私は感謝を伝えたくて、ペーパーナフキンにメッセージを残してきた。便箋に認めようと思ったけれど、困るかもしれないと思っていつ捨ててくれてもいいように、あえてナフキンに書いた。

帰り際、スタッフ全員がそれぞれ「Merci !(ありがとう!)」「Au revoir !(さようなら!)」と言ってくれた。そういうところが、大好きだったんだ。


テラス席



歩くだけで幸せだった、セーヌ川。
アレクサンドル3世橋だけじゃない、セーヌにかかる橋はどの橋も美しかったね。

本当にどこからも見える、エッフェル塔。
シャン=ド=マルス公園からの定番の景色も最高だけど、私はトロカデロ広場から見る君が1番好きだったな。昼の顔も素敵だけど、夜の君は格別だったね。

訪れるたびに恋に落ちた、モンマルトル。
サクレ・クール寺院も、もちろん美しいけれど、私はサクレ・クールに行くまでの街並みやパリを一望できる広場が好きだった。

シャンゼリゼからその一部が顔を覗かせるたび
に心躍った、凱旋門。17日のシャンゼリゼ歩行者天国と、文化遺産の日の無料入場が圧巻だった。

思っていたよりもずっと距離の長かった、シャンゼリゼ通り。RueではなくてAvenueで、コンコルド広場から全部シャンゼリゼなんだね。1番線の Franklin D. Roosevelt駅 や George V駅 から行くと短縮できるけど、遠くても私はやっぱりプティ・パレやグラン・パレ、シャルル・ド・ゴール将軍の像があって、コンコルドに近い、Champs-Élysées Clemenceauから歩くシャンゼリゼが1番好きだったな。

間違いなく一番利用したメトロ1番線&13番線のChamps-Élysées Clemenceauと13番線の最寄駅 Brochant。乗り換えるたびに1番線と13番線の混み具合とホームのクオリティの違いに圧倒されていたけれど、どちらも思い出深い駅。

最初のうちはほぼ毎日のように通った、パリ市庁舎・観光案内所。本当にお世話になりました。市庁舎の建物は行くたびにちょっとずつ装飾が変わっていて、何度訪ねても飽きなかった。

ルーブルからパレ=ロワイヤルに向かう道、エシェル通り。私が思い描いていたような”パリのカフェ”がたくさんあって、いつも通るだけで幸せだった。メトロ1番線のLouvre-Rivoli駅は「我こそルーブルの最寄り駅」と言わんばかりに、ホームがすでに美術館で素敵だった。

初めて訪れたとき、大好きな絵がたくさんあってどこからまわろうかと心だけでなく足まで踊ったオルセー美術館。1階・5階は名作揃いで何度訪ねても飽きないね。

目を開いている限り、何かしらの作品が目に飛び込んでくる、ルーブル美術館。いつもどこかしらのブースが閉まっていて、1〜2回の訪問ではとてもコレクション全部を観られやしない。さすが世界一だね。

上2つよりは小さいけれど、コレクションの豪華さでは引けを取らない、オランジュリー美術館。モネの睡蓮部屋はもちろんだけど、その他の印象派を中心としてコレクション、私は好きだったよ。

それら全てが見える、贅沢なチュイルリー公園。住民として、あそこでのんびり過ごせたら気持ちいいだろうな。

全然petitじゃなかった、プティ・パレ。
結局すべてのコレクションを見ることはできてない気がするけれど、すべてが美しかったよ。

次に行くときは絶対に1泊したい、モン・サン・ミシェルとヴェルサイユ。モン・サン・ミシェル、君は隠し道をたくさん持っているね。通る場所によって違う顔が見られて楽しかったよ。ヴェルサイユ、君は広すぎるんだよ。次は庭も別荘も行くからね。


思い出の地がたくさんありすぎて、その全てには「さようなら」を伝えられなかったけれど、いいんだ。

美しいものを美しいと感じたときに、その永遠を願って形に残したくなってしまうのは、きっと人間のサガで。手元に残った思い出のかけらを大切にしてしまうことを仕方のないことだけれど、写真よりもお土産よりも大切な思い出は、いつだって心の中にある。


パリ。君の、1本隣の道を歩くだけで全然違う顔を見せてくれるところも、朝と昼と夕方と夜でそれぞれの美しさを持っているところも、大好きだったよ。

私がいたこの1ヶ月の間にも、RWC2023や来年のパリ五輪に向かって、パリは大きく変わっていった。初日には柵が張られていたところが帰る頃には取れていたり、少しずつ見かけるホームレスの数が減っていたりして、その成長を肌で感じられて嬉しかった。

グラン・パレやオペラ・ガルニエ、ノートルダム寺院が改修中だったり、シャンゼリゼをはじめとするいろんな道に工事の柵が張られていたり、オルセーのゴッホ作品が貸出と企画展準備であまりいなかったりしたのは少し残念だったけれど、それは次回も楽しめるということ。それよりも、RWCがあってオリンピックを控えていて、変わって行こうとしているパリを見ることができたから。このタイミングで来られて、ほんとうによかった。


Merci, Au revoir, Paris.

きっとまた、会いに行くからね。






p.s.

たくさんの人に読んでいただき、ありがとうございます。今でも通知が鳴り、その度に喜びを噛み締めています。

この記事を書き終えた後、私はこれを書くために生まれてきたのだと思いました。それくらい、思い入れのある記事です。

日本に帰ったら、たくさんパリの話をしますね。







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