夜もすがら もの思ふ頃は 明けやらで やねのひまさへ つれなかりけり

高校3年、国公立志望の私からすると古文単語はテストのために覚えるものであるのですが、勉強していて、面白いな、とか、好きだな、と思う場面はちょこちょこあります。
古典は文法を抜けば文学作品を深く嗜むことです。
だから特に楽しんで勉強出来ます。
文法は大変ですが、嗜むための必要不可欠な知識。
言葉を知らなければ小説を読めないのと一緒で、古文単語や文法を知らなければ源氏物語も徒然草も楽しめないのです。
だから今日も今日とて単語帳を開きます。つらい。

さて、タイトルは小倉百人一首の85番の歌。
一番ではないですが、気に入っている一句です。
と言っても現代語訳が好きで、というわけではなく、初めの五音「よもすがら」が好きだから。
よもすがら、とは現代語で言う一晩中のことです。ですから某有名ラジオ番組を古文訳するなら、よもすがら大和ですね。
はい、くだらないことを失礼しました。

一晩中、人のことを思って待つとはなかなかなものですよね。
知っての通りこの時代の女性は男性が来るのを待つことしか出来なかったために、思いの人が来ず、一晩中待っていた、という歌は多くあります。
有明の月、なんて語が出たらほとんどそんな歌です(嘘です、きっと違う歌もあります)
可哀想、と思いはしますが、男性側も「今日はちょっと仕事キツかったからなぁ、、パスで!」
ぐらいの日があってもおかしくないんじゃないでしょうか。連絡手段が文のみだったから連絡ができなかっただけで。
それでも待つ方はやはりだいぶショックでしょうね。落とすなら初めから期待させるなと。

切ないですがこの時代にはきっとよくあったことなのでしょう。
人を待つ時間は何よりも長く感じられますし。
直ぐに連絡が取れる今の時代の文明の利器には感謝しなければなりませんね。

和歌は美しい。
思いを三十一文字に込め、技法やらなんやらを使って読む人にうったえる。
私たちの知る解釈は本当にあっているのでしょうか。
平安時代の彼らの気持ちを少しも汲み取れてないんじゃないか、そんな風に思う時もあります。
だから良いというところもありますよね。

その歌を詠んだその一瞬にしか込められなかった思いがあるかもしれない。

和歌についてあまり深い造形は持っておりませんが、美しさや良さは何となく分かります。

この歌のここが良いと詳しく書くと途端に安っぽく感じるのは私だけなのか。

響きが好き。ただそれだけ。
それでもいい気がする。
そもそも表現から全ての感情を読み取って欲しいと思って文章を書く人がいるのか。甚だ疑問だ。


(去年書いて出してなかったやつ。もう大学生の私が加筆修正して出してみる。)

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