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てんかんの夜

職場の同僚といつものメールのやりとりを一通りしたあとに起こった。

寝かしつけた後、急に声を出して暴れだしたhana。最初は鼻が詰まったのかなと思ったけど、違った。泣かない。ドラマの最終回を見ていた奥さんも異変に気づき、これはやばいと動画を撮り、発作開始から時間の計測。2分を過ぎたあたりから「救急車呼ぼう」と。上肢は屈曲パターン、一定のリズムの痙攣呼吸。

奥さんが救急へ連絡。状況を伝えると今すぐいきますと。胸の動きを見て、止まったらCPRして下さいとアドバイスがあり、また連絡するので携帯をそばに置いて下さいと指示があった。

口から泡を吹いていたので、側臥位にして窒息しないようにして。奥さんは服を着替え準備、入れ替わるように僕も準備してバブアーのジャケットを羽織った。

救急車のサイレンが近づいてきて、全ての電気を消して奥さんは荷物を持った。僕は「鍵を閉め忘れないでね」と伝えて、hanaを毛布に包んで1階まで走った。

マンションのエントランスで待ち構えていた救急隊員に車内へ案内され、滑り込むように救急車へ乗り込んだ。状況を伝えている時に奥さんも降りてきて合流した。基礎疾患とA病院に受診している事を話すと、連絡をしてすぐに救急対応してくれる事になった。「今からA病院へ急いで向かいます」

意識レベル、右への共同偏視、血圧、spo2、呼吸数、一通りの状況を救急隊員が報告している最中に突然嘔吐した。吐瀉物にまみれたhanaを見て、最悪の事が頭をよぎり、膝の震えが止まらなかった。

「今、元山町です。もうすぐつきます」耳慣れた地名なのに、どこか違う遠い場所に来てるような不思議な感覚だった。hanaはまだ痙攣している。僕の震えも止まらない。奥さんは祈るように見守っている。

救急車が坂を登り、救急の入り口に到着するとドアが開いた。外には数人の看護師から声をかけられた。何を言われたのか全くわからなかったが、なんとなく返事をした。「こちらへどうぞ!」と救急救命室へストレッチャーと共に吸い込まれていった。

未だに痙攣しているhanaはモニター類をつけられ、ぼくたちはカーテンの外へ押し出させるように案内された。

カーテンの向こうでは、心拍数を告げる音が慌ただしく鳴っている。経過を医師から聞かれ、奥さんが中心に話し、時々ぼくが口を挟む。似たようなことを何度も聞かれ何度も話した。医師は何度もタイプミスをしていた。僕の頭は冷たく、冴えていてそんな細かいところまで鮮明に見えていた。

しばらくすると、小児科の医師が到着して病状を報告していた。救急隊員から吐瀉物で汚れた毛布をそっと渡された。

発作からもうすでに40分以上経過している。小児科の医師から同じようなことを聞かれ、何となく同じように答えた。保育園の事や最近夜泣きが酷かった事など、話しているうちに色々と繋がってる気がしてきた。出生後、脳に障害のある子は脳の成長と共に処理が難しくなって、てんかん発作になる事がある。と主治医からも言われていた。まさかなぁと思ってたけど、全部前兆だったんだな。

保育園で今日は乳母車に乗って、みんなに囲まれてタッチしてました。何回も園庭を回って、お声も出てご機嫌なhanaちゃんでした。という保育士さんのコメントを思いだした。3歳までは健常の子と一緒の保育園に通わせたい。という親の気持ちを受け入れてくれた保育園。刺激の多い環境。成長に伴う発作。良い事なんだけど、複雑な気持ちだ。

重積発作が50分続いた位から、カーテンの向こうでは恐らく投与された抗てんかん薬が効いてきたようでhanaは泣いたり、声を出したり少しずつ出来るようになってきた。それでも安心は出来なかった。

少し落ち着いた所で、医師からCTで検査をしてシャントや嚢胞が影響してないか確認しますと話をされた。

嚢胞は、入院中にシャント手術で感染した時に髄膜炎の影響で出来たものと思われるコンパートメント様のものだ。少しずつ嚢胞が大きくなり、1ヶ月前の検診ではこのまま半年様子を見て大きくなったら手術と言われていた。

入院中に9回もの手術を目の当たりにしている両親にとって手術は、またか。という特別ではない当たり前の行事のように感じていた。

そんな事をかんがえているうちに、CTの結果と血液データが送られてくる。医師がPCを操作する。僕は思わず息をのんだ。

血液データは大きな異常値はなく、二酸化炭素の量や白血球の量が多いだけだった。痙攣による呼吸困難で、うまく二酸化炭素を吐き出せていないと説明を受けた。

「あ、脳の画像が送られてきましたね。」僕は画像を食い入るように確認した。

「前回の画像と比較して、脳室の拡大、嚢胞の拡大はありません。」と医師から告げられた。

それを聞いてぼくは、鼻から大きく息を吸って口から少しだけ息を漏らした。唇は震えていたかもしれない。

あぁ、ひとまずは良かった…と心のなかで呟いた。でも、てんかん発作の顛末を間近でみたことはないのでまだ油断出来ないという気持ちは半分くらいあった。

検査から戻ってきたhanaは、泣いて怒っていた。医師からは概ねの病状として、基礎疾患からの「重積てんかん発作」という診断を受けた。元々、服薬しているフェノバールの量は体重に対して少なかったが、特にてんかん症状は無かったのでそのままだった。

これからは、身体や脳の成長も鑑みて少し量を増やして様子を見る事になりそうだ。

それから、ベッドサイドで怒るhanaを奥さんと交代で抱っこをした。伸展パターンが凄く、すぐに肩の三角筋と上腕二頭筋がパンパンになった。hanaはもう9キロもあるんだよな。そう思いながら、1時間以上も歌を歌いながら抱っこをする事になった。

徐々に落ち着きを取り戻した頃には、僕の肩周りは重い石が乗せられているような感覚になっていた。静かになったhanaをベッドに戻し、入院の手続きの話しを聞いた。準備が出来たので、9階に移動して下さいと。その頃にはhanaは深い眠りについていた。

9ヶ月の間お世話になった病棟にいくと、懐かしい匂いがした。エントランスは春のデコレーションがされ、いままでの気持ちを少し和らげてくれた。

処置室に案内され、入院の詳細説明を受けた。処置室には楕円形50センチ位のつぼ形のお風呂があって「あの頃は、あのつぼに入るサイズで可愛かったよね」と奥さんと話しをした。2人ともクスクス笑いあった。

準備が完了すると、牛の絵が描かれた個室へ案内された。お隣は亀。小児科病棟の各部屋の扉絵には、どうぶつが描かれている。

よく入院中に、hanaを抱っこして、カンガルーやリスさんに挨拶をしてたなぁと思い出した。もうあの時の重さではないhanaがここにいる。

奥さんは一度家に帰り、荷物を取りに行き翌朝来る事にした。新型コロナの関係で、付き添いは親1人が原則となっていた。ぼくはhanaとお泊まり。看護師が「添い寝して良いですよ」と。シャント手術した時も添い寝したが、だいぶスペースが小さい。すやすや眠るhanaを見てぼくも少し仮眠する事にした。

仕事のメールを作りながら、回らない頭を使っていると、奥さんから連絡が入った。「鍵忘れちゃった」と。

時計は深夜2:45
2人とも疲弊しきっていた。タクシーに乗った奥さんは、自宅直前で鍵がない事に気づきUターンして病院へ戻ってきた。

ナースコースし、事情を説明し鍵を病院の外まで持っていく。真夜中の院内を走った。最後の力を振り絞る。夜間出入り口から外に出て、大通りに停車しているタクシーを見つけた。暗闇の中で少しだけ開いた窓の向こうにはヘトヘトになった様子の奥さんがいる。

「気をつけてね」と声をかけ、鍵を渡した。僕はタクシーが出発するのを見届けずに急いで病室へ戻った。

病室では代わりに見てくれていた看護師が「急がせちゃいましたね」と言ってきたが、何だか恥ずかしいような変な気持ちだったので上手く答えられなかった。

看護師と交代して、hanaの様子を観察するとすやすや気持ちよさそうに眠ったままだ。蛍光色のベッドライトに照らされ、吹き流しのエアーを受けているhanaをみると何度も手術して添い寝した事を思い出す。

足からルートの入った点滴がゆっくりと落ちる様をみて、急激な眠気がやってきた。あぁ、足からのルートはhanaめちゃ怒ってたよな。起きたら絶対怒るよ。なんて事を朦朧としながら考えていると、いつの間にか眠りについた。

明け方まで何度か泣いて起こされ、抱っこをして寝かしつけた。てんかんの様子はなく、呼吸も落ち着いている。

少しずつ窓の外が明るくなり、椅子に腰掛けた。1時間位は眠れたと思う。

ブラインドから傾いた朝日が漏れて、部屋の色が変化していく。

そんな様をぼんやり見ていると、コンコンと部屋をノックする音。ガチャリと扉が開き、救急の医師が様子を見に来た。病棟に来てからの様子を伝えると、2-3質問とやりとりをして部屋を出て行った。まだ頭はぼんやりしている。

すると、hanaがごそごそと動きだした。目を見開いて辺りを見渡し、自分の点滴に繋がれた状況を把握した。ぼくと目が合うと、「やってくれたな」と言わんばかりのいつものへの字口。そして、大泣きが始まった。

急いで抱っこをしながら、「いやいや、お父ちゃんじゃないよ。これやったの。そりゃないよ〜!しょうがないやん。」と思わずツッコミを入れてしまった。と同時に、いつものhanaが戻ってきたと少しだけ安心した。

2021年3月


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