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支え合う「できる」「できない」

支援とかサポートとかケアとかなんかイヤ。

職員とか利用者とか社会包摂とか共生社会もなんかイヤ。

分断する感じがするから、どことなくフェアな感じがしないからイヤイヤ。

こうして終わらないイヤイヤ期を死ぬまで続ける所存であったが、このコロナ禍に際し、【利用者/職員】の暮らし方、そして働き方は大きく、パックリと二分化してしまった。

新型コロナウィルス感染拡大防止のため、4月中旬より利用者のほとんどが在宅ワークに移行した一方で、職員は「コロ休」(スウィングが設けた有給休暇制度)を代わる代わる取りつつ、基本的には通常どおりの出勤を続けている。利用者の中にはコロナ禍による変化・変更がどうにも受け入れ難い人、スウィングに来れなくなっちゃうことでかえって外出しまくっちゃう人らがいるからだ。もちろん組織を運営してゆく以上、止められない仕事も少なからずある。

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そんな中、職員が渋々来ているのかというとそうでもないようだ。職員にとっても(全員がそうとは言い切れないが)自宅で何日も何日も過ごし続けることは当たり前に辛く、スウィングへ出て来ることがかなりの「息抜き」になっている様子が見て取れる。

そうして息抜きをしつつ、在宅ワークをする利用者と連絡を取り合い、話をし、記録を書き留め、送迎の車を運転し、何より刻一刻と変わる未知の仕事をし続けている。

皆、ほとんど残業もしないし帰るのは早いが、1日が過ぎるのは本当にあっと言う間だ。

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しかしながら連絡を取り、励まし合い、個々の状況を把握するのは「職員」でなければならないのだろうか。 

必ずしもそうではないだろう。

しかし適切に聴き取り、適切に記録をし、適切に共有するというハードルをもうけている今、それを(多くは知的障害のある)利用者に委ねることは正直難しい。

人としての信頼とか優劣とかそういうのではないと思う。

けれど僕たちは、これまでの「できなくたっていいよね!」が通用しない、「現実的に、適切にできなければいけないよね……」という世界を瞬く間に作り上げてしまったか、あるいはそうした世界の中に有無を言わさず放り込まれてしまったのかもしれない…………本当にそうなのだろうか?

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じゃあ「適切」ってなんだ? どういうことだ? 

この状況下ゆえの標準ラインを定め、マニュアル化し、修正をし続けるのは主に「長」たる僕の役目だとしても、実際、職員個々の能力、【できる/できない】はまちまちだ。つまり「適切」の均一化なんていつまで経ってもできっこない。

イヤイヤ、かく言う僕の能力なんてものが高々しれていて、答えは簡単、できない人よりはできるし、できる人よりはできない。これは全人類適用可能、そして自分と誰かを比較し続ける限り永遠に終わらない蟻地獄みたいなものだろう。いきなりだが、かの手塚治虫でさえ「自分は絵が下手だ」という劣等感と終生戦い続けたと聞く。

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それに「この状況下ゆえの標準ラインを定め、マニュアル化し、修正をし続ける」のは、また「適切に聴き取り、適切に記録をし、適切に共有する」のは、なんてったって制度に則ってお金を得るためだ。もちろん在宅ワークを続ける皆が少しでも日々を健康的に安心して過ごせるように何らかの働きかけはし続けるにしても、お金がもらえなければ標準化もマニュアル化もたぶんしないし、記録なんて書かない気がする。じゃあ、僕たちが今求めている「できる」はお金のためなのだろうか? 

そうだと思う。

う〜ん、やっぱりそうか。

お金から逃れられない生活をしている以上卑屈になる必要もないと思うが、だからと言って威張るようなことでも全然ない。なんなら人としてちょっと恥ずかしい気さえしてきました。

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たとえばお金じゃなくって「お花」が最もモノ言う世界なら、お金基準の【できる/できない】は通用せず、新たに花基準の【できる/できない】が生まれるのだろうし、歴史を遡れば狩猟採集時代にも【できる/できない】はやはりあったはずだ。でも大活躍した腕利きのハンターがお金儲けや花の育成に長けていたとは限らない。

裏と表、陰と陽、弱さと強さ、月と太陽、ぐりとぐら。

同じように「できない」があるからこそ「できる」があり、「できる」があるからこそ「できない」もあるのだろう。

上辺だけ見れどうしたって「できる」が目立ってしまいがちだが、その状況を少し冷静に俯瞰して見れば【できる/できない】は、いつも相互に支え合っていることに気づく。

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点数とか評価とか、現実として【できる/できない】によって「差」が生じることはもちろん知っている。

けれどその差によって人間の優劣まで決めてしまわないこと。たまたまその状況に即した「できる」が多いからといって、自分より「できない」人を下に見たり食い物にしたりしないこと。

これはきっと、こんな綺麗ごとはきっと、人間だからこそ「できる」ことに違いない。

その人間性を捨ててしまうならば、そこに広がるのはできる力が圧倒的にモノ言う(「北斗の拳」みたいな)弱肉強食の世界であり、多様性とは真逆の殺伐とした世界だろう。

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