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私もCODAだった 〜Children of Deaf Adult〜

 CODA (Children of Deaf of Adurl)という言葉を知ったのはつい最近。聞こえない親をもつ聞こえる子どものことそう呼ぶそうです。
それは私の娘の事であり、私もまたCODAだったのです。

https://marblemammy.wixsite.com/coda-and-parent


母のCODA・私

 時代はふた昔前、昭和から平成に変わる頃、長男の嫁として大家族の家事・育児・商いを切り盛りしていた母は、茶の間に座る時間もないほど忙しく働いていたので、自分の不調も口にしなかった。

 ある日の夕方、買い物袋をドンと床に置いた母が真っ青な顔で「あと1年しか生きられない。」と言い放った。
聞けば、母は半年ほど前から耳の調子が悪くて、近所の耳鼻科に行ったらしい。医師は「すぐに大学病院に行くように」と紹介状を書いたそうだが、母は延ばし延ばしにして大学病院には行かなかった。そして、私たち家族は母の抱えている苦しみにも気づかずに、一緒に過ごしていた。
 自分でも症状の悪化を意識したのだろう。MRIのある中規模の病院へ夕飯の買い物ついでに1人で行き、たった1人で難病の告知を受けて帰ってきたのだった。

 大学病院の医師は、「両耳の聴神経腫瘍は、確かにかなり大きい。1つずつ開頭手術で取るので命は助かります。かわりに聴力は失います。今からご家族で手話を勉強して下さい。」と私たちに告げた。

 2度の手術を経て母は聞こえなくなった。それから数年後、26歳の私のMRI画像に腫瘍が小さく現れた。遺伝していたのだ。この時、聞こえない母を親身に支えながら、将来の自分を覚悟した。母と娘が交互に脳神経外科で手術をするので病棟の常連になった。

 母が完全に聞こえなくなった時、既に私は社会人だったし母を苦しめてはいけないと、いつも元気を装っていた。極力分かりやすい手話や筆談をしたけれど、本当の辛さは分かっていなかった。
 電車で大きな声で話す母をキツく注意し、運転中に助手席から話しかけてきて、ハンドルを握りながら、片手で手話でケンカもした。
親戚の集まりでは、母は料理に集中して、みんなの会話にほとんど入れなかった。全ての通訳は無理で、「まあ、仕方ないか」と通訳をしなかった事もあった。近所付き合いはあるが立ち話に加われず、分かったふりの適当な会話だ。インターネットもスマホも便利なアプリもない。辛い日々だったと思う。

私のCODA ・娘 

 私が遺伝について悩みに悩んで出産したのは結婚して8年目。娘が小学1年になる頃から私の腫瘍の増大が進み聴力が落ち始め、やがて娘が5年生になった頃には全ての音が分からなくなった。徐々に音が失われていく過程は地獄だった。
周囲の何もかも、音も声も歪み耳鳴りがさらに大きくなるのだ。

 娘は、指文字をあっという間に覚えてくれて、夜は川の字で指文字しりとりをした。でも手話表現は苦手で、ほとんど助詞・助動詞の入った指文字会話である。
 小学生時代の娘は、外出先で私に手話通訳をすると周囲に褒められるので、自己肯定感が上がるように見えた。だから敢えて娘に通訳をさせようとしていた面もある。でも指文字では複雑な内容はスムーズに理解できない。
私のハンディと娘を切り離さなければと悟った。

 当時娘は反抗期真っただ中。1度で通じないと怒って「じゃあ、いい」と会話がストップする。というか、会話しない日も多かった。
娘と夫だけで話している時の疎外感や寂しさが、さらに私を追い詰めた。

 時々感じるのは、私がかつて必死に母をサポートしていたのは、いつか私が聞こえなくなった時に家族にしてもらいたい、私の身勝手な望みだった。亡き母が当時本当にそこまで望んでいたのかも分からない。
CODAという言葉を知って、”都合のよい理想の娘像”を捨てようと思う。
娘の個性、娘の得手不得手を認める。そこからスタートだ。

 成長するにつれ、私が娘の恋愛や結婚の足手まといになるのなら、私は1人で生きていく事もいつも考えている。




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