陰影表現と構造表現
写生の面白さは風景、光景を写しとるところかもしれないけれど、
写しとり方はいろいろ。
いわゆる印象派の基本は、風景を光の陰影、光景として捉えていて、それを点描だったり、筆使いだったりで捉え方を競い合って制作されてたと思う。
その方法、試み自体の新しさ、新鮮さに大きな驚きや美的感覚があったりするんだと思う。
一方で同じ印象派でもゴッホのように見た風景(=発見された普遍性)自体に意味がある絵ももちろんあって、これは画法、技法、新視座の発見のようなものとはまた別のものに焦点が当てられている。
例えば文人画が描く花鳥画はゴッホのように描く風景によって次節や日常の出来事に潜む普遍性を主張する。
文人画は風景を光景としては見ない代わりに、戯画化する傾向があって、これは日本人と西欧人のものの見方の違いでもあると思うけど、
要するに、印象派(西欧人)は世界を光景(光の陰影として見る)を見ており、文人画(日本人)は世界を構造として見ているんだと思う。
西欧人はだからいわゆる(光の陰影的に)リアルな描写を良しとするけど、日本人はそうとも限らず、むしろ戯画的なデフォルメされた描写を好む傾向がある。
印象派は光をデフォルメするけど、文人画は構造をデフォルメする。
私も日本人だから、というわけでもないけど、構造をデフォルメするような絵が描いていて楽しい。
それはデザイン作業に近いと思う。
風景を構造的に理解し、画面上に再構成する作業。
(そういう意識が持てるようになったのは毎日とにかく試行錯誤した結果ではあるけど。)
紋様やテキスタイル、そういうものにも日本人は風景=時節や日常の普遍的な出来事をモチーフにしてしまうのが得意な気がする。
それを「風景(世界)の構造的再構成」だと捉えると、方向性によってはその再構成を単純化していけるはずで、つまりミニマル化。
陰影表現ももちろんミニマル化できてロスコーなどだろうけど、ジョージア・オキーフなどは同じ西欧人でも陰影的ミニマルというより構造的なそれだと思う。
ある意味、ディック・ブルーナの描くミッフィも構造的ミニマルだ。
ただ、元々油彩絵の具は陰影表現に適する道具で、構造的表現には一工夫がいるんだと思う。それが自分にはわからない。
ピカソも岡本太郎も構造的表現だけど、どういう工夫がされているのかわからない。
そこで実際十年くらい自分は停止しているのかもしれない。
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