放課後シャングリラと何者を聞いたオタクのnote

FOCUS ON 卯月コウに収録されている
「放課後シャングリラ」と「何者」を聞きました。

私自身については最低限だけ自己紹介しますと、
2018年末頃からずっと卯月コウを見続けて、
でも彼が私の人生の中心になったことは一度もなく、
お便り企画に投稿するほどの挫折もドラマチックな経験もありませんが、ただ少しずつ人生を送っている人です。
音楽についてはあまり詳しくなく、理論などは語れません。

卯月コウの歌はとても貴重だと思っていて(実はライバー全体で比較すると少なくない数の歌ってみたやライブ出演・CD媒体がありますが・・・)、この機会は逃せないと思って購入しました。

予約は7月にしており、9月に到着しました。
通勤のために使っている車の中で聞いています。

放課後シャングリラ

タイトルを聞いた時から予想してましたが
やっぱり明るい曲調でしたね
(まあ視聴動画でそれはわかってたんですが)

くっさマインドをくっさぁ♡と受け流すポジティブさ

放課後シャングリラは、「これまでの卯月コウの振りかえり」みたいな曲だと思いました。
クリアしたゲームの二次創作の良MADを見ているかのような印象です。
【教室の隅】【モラトリアム】【俺が俺でいられる場所】など、卯月コウがこれまでずっとアピールしてきた、いわばライバーとしてのセールスポイントをグッと押し出してきましたね。

陰キャの王として持ち上げられてきた側面もある彼ですが、
たびたび「チャンスで頑張る人を冷笑しない」スタンスをはっきりとさせていたからこそ、3D配信(2020年)やFANTASIA(2022年)という大舞台での輝きは、ファンに受け入れられていたように思います。
この曲もFANTASIAと同じで、輝ける場ではしっかり輝きたいよな!という、彼のポジティブな面が強く押し出された曲でしたね

ポジティブからエモは生まれない・・・みたいなことを言ってたかつての彼は確かにもういないのかもしれませんが、経験によって人は変わるもので、変わらないのはむしろ非現実的で、場合によっては不誠実でさえあります。
そして、変わってしまった人を元に戻そうとするのは、少なくともリスナーという立場の私がすべきことではないと思っています。

――えっ、2人分!?

【一緒に連れてくよ】【一緒に言ってみない?】【必ず連れてくよ】
各サビの終わりにある、「君」に話しかけてくるところについて、
Xのフォロワーに「ってなんで俺くんも!?」「めっちゃ距離詰めてくるじゃん」と驚いている人がいました。

ここは明確に聞き手によって解釈の違いが出るところだと思います。
私は卯月コウの隣に(つまりここでいうシャングリラという舞台上に)連れて行ってもらえるわけではないと思っています。
FANTASIAの前後で彼が語ったことと同じで、「シャングリラに立ち輝く俺が、君を照らすよ」ということなんじゃないかなと。

というか、そもそもここでいう「君」って本当に俺のことなんでしょうか

「君」

放課後シャングリラで何度も出てきた
 陽の当たる場所に連れていかれる君
 モノクロのセカイに一緒に色彩をつける君
 一緒に遠回りしていたい
CDを買って新曲を聞いた高揚感に酔ってしまい、これが私たちリスナーのことだと思っていたけど、リスナーってここまで言ってもらえるもんなのか?
この「君」はいったい、何者なのか?

何者

タイトルを聞いたときは、こっちの方が期待が高かったですね。
2曲目ということでどうしても放課後シャングリラとの比較や対比を多く考えてしまいます。

ウヅコウワードの比較

どうしても放課後シャングリラとの比較で語ってしまうんですが、
放課後シャングリラに比べて卯月コウっぽいワードが少ない曲ですね。

一人称の比較

放課後シャングリラとの比較という話をするなら、一番わかりやすい違いは歌詞に出てくる一人称ですよね
 放課後シャングリラは「俺」
 何者は「僕」

時間帯の比較

そもそも放課後シャングリラはそのタイトルから夕方ですし、
【制服】【後ろに回すプリント】、眺めているだけですが【群青色の群像】など、シャングリラにまだ至ってないところの描写でさえも昼間です

対して何者は
【よすがを探す星空】【わずかな夜明け】【朝日が照らす】
夜から朝にかけての描写で統一されています。

描写されている時間帯もふくめ、何もかも裏と表のような「俺」と「僕」であることがわかります。

ほぼ唯一のウヅコウワード

ラスサビの最後、「景色」のことです。
タイトル通りずっと何者かわからなかったこの「僕」が、
やっと姿を見せた瞬間だと思います。

何者の「僕」=放課後シャングリラの「君」

何者の歌詞を聞いていると、
輝くために傷つきながら頑張る人。
未来にも不安と不満だらけだが、それでも進み続ける人。

それって今までの卯月コウが絶賛する人であり、
目指してきたスタンスでもあるんじゃないでしょうか。
くっさマインドに縛られてそういう人を冷笑しないことを彼が心掛けているというのは前述したとおりです。

そういう「僕」みたいな人は、放課後シャングリラの「俺」がシャングリラの輝きをみせてあげたい相手
つまり放課後シャングリラに出てくる「君」なんじゃないでしょうか。

何者の「君」=放課後シャングリラの「俺」

当然この発想にも繋がりますよね。
『何者』の歌詞中にも「君」が出てきます。

「俺」は【失敗した?わかった笑い話にして懐へ】など、器用に自分の退屈や失敗を隠して生きています。
「僕」の視点からは【選ばれた人とそうじゃない人】の、選ばれた人側に見えたんじゃないでしょうか
間違い探しの間違いじゃない方のように。

この二人はこれまでの卯月コウとこれからの卯月コウなのか?

前述したとおり、「君」がリスナーだとは思えないのが僕の考え方です。
彼がリスナーとともに作り上げる配信を重視しているのはわかるんですが、
あくまで客体を上手に扱う主体という関係の線引きがあると思うんですよね
スパナ雑談にしてもお便り企画にしても。

ということは、時間帯の比較という要素もあったし、時間が経過した後の卯月コウの違いを描いたのがこの2曲なのか?と思いました。
青春を退屈と表現するほど傲慢な器用さも、卑屈になってしまうまでの不器用さも持ち合わせているのが彼なのか?
対比されるような二者でありながら同一人物でもあるから、憧れたり愛おしくもなるのか。

しっくりくる部分も、なんか違うよなと思う部分もあります。
これはまあ正解なんてないんでしょう。
あったとしても発表しないと思いますし、
発表されたとしてもコウが勝手に言ってるだけだと思います。

対極から双方を歌った2曲

上手に傷や退屈を隠し、器用に生きて成功した人がシャングリラを見せてあげたいと思うほど大事にする「君」
傷だらけで鬱屈して、漠然と厭世観を口にしてしまう人が嫉妬しつつも求めている「君」
なんか良い関係ですよね

それ(カップリング曲)ってそういう意味なん!?ちゅーりちゅらら~


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