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一万円札を破ってみる

2020年の夏に破いた一万円札

突然だが、一万円札を破ってみた。といっても2020年 夏の話。
2年近く前のことでちょっとうろ覚えなのだが、お金に対する捉え方、考え方を変えてみるという流れのなかでの行動。

本来ならば生活している国で使っているスウェーデンクローナで一番高い1,000クローナ札を使うのがよかったのかもしれないが、このお札がなかなか流通していない。ATMで現金を引き出してもこのお札が出てくることはまずない。という訳で、諦めて愛着のある諭吉さんで。

お金に絶対的な価値があるという幻想から自分を解放する。
お札はそのものはただの紙切れ。お金には価値があると世界の大半の人の合意がある前提で物やサービスなどと交換することができている。
そのため多くの人はこのお金を必死になって求める。

そうした行動に出てしまうのは、きっとこれまで植え付けられてきた恐怖心や不安からなのかもしれない。
子どもによい教育を受けさせるための貯えを。病気になって働けなくなった時や不慮の事故に遭った時のための貯えを。親の介護が必要になったら今のように働けなくなるかもしれないので貯えを。老後にはまとまったお金がないと生きていくのは難しいのでできるだけ多くの貯えを、などなど。

それに加えて、日々物欲を刺激するように仕向けられた環境に身を置いていると、お金はどれだけあっても足りない気すらしてくる。
お金さえあればとりあえずの物は入手できるし、快適な生活も送れるという半ば幻想のなかで生きていると、溢れる物や情報のなかでその物やサービス自体の価値を見極める目も鈍ってくる。結果、価格の高いものが良いもの(のはず)、大手ブランドの商品だからいいもの(のはず)といような価値基準になってしまうのかもしれない。

こうして自分で何かの価値を判断して選択するということをしなくなると、考える機会が少なくなり思考力も鈍ってくる。自分ではない何か、もしくは大多数の人たちに価値の判断を任せてしまうと、のちのち取り返しのつかないことにもなりかねない。

1万円札を破ったからといって何が劇的な変化が起こったわけではない。けれど、ただお金に自分の生き方をコントロールされるのではなく、お金をうまく循環させながら自分の価値観を大切に生きたいように生きていこうというちょっとした覚悟がうまれた気がする。
このお金という紙切れに価値がなくなってしまった時、自分はどうやって生きていきたいのかを考えながら日々を過ごしている。


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